ティフィについて。
ひとつだけ、思い出したことがある。
月下。月明かりすら届かない、どこか暗い場所。相手はわからないけれど。それは多分、ティフィとの、大切な約束。
『なら、リルには騎士になってもらわないと〜』
夢だろうか。妄想だろうか。
記憶は失われたはずだ。どれだけ探しても、彼女の記憶はどこにもなかったはずなのに。
今この時になって出てくるなんて。
「そんなのズルいよ。ティフィ」
久しぶりに見た彼女は、顔も見えないのに。何故か、笑っているような気がして。
騎士。騎士。
そうだ。騎士なら。例えば、この少女を。
「───守らなきゃ」
それだけは。
それだけが。
きっと、真実だと信じて。
その行動は、ほとんど無意識に繰り出されたものだった。
フィアラ自身ですら、何が起こったのか、起こしたのかの理解にコンマ数秒を要するほどだ。
故に。敵意すら感じられなかったその状態で、フィアラからの投擲をほぼ完全に避け切ったサクラの反射神経は賞賛に値する代物だったろう。
『フィアラ』の裏切り。自らの才能に理解がなければ、一点でも驕りがあれば。計算に入れないその可能性をサクラは思考に組み込み、予測していた。
結果としてそれは、間一髪でサクラの命を救った。まさに神がかり。超人の勘と言ってもいい。
───調子に乗って!
一瞬の焦り。それを乗り越えたサクラに待っていたのは、安堵と、怒りだった。
完璧に潰したと考えていたフィアラの反抗心が、再び芽生えた。それだけで、サクラのプライドには耐え難い傷がついたというのに。あろうことか、一歩間違えれば殺されていたのだ。
一年以上、血に塗れず、泥に溺れず。平和な世界で生きていたはずのフィアラに、だ。当然、その憤怒はサクラの心を瞬時に焼き焦がした。
サクラは、自分が避けたものが何なのか、これっぽっちも理解していなかった。
だが、サクラとて素人ではない。相手の観察をする際に、何が武器になるかなど真っ先に確認する。
この環境で、自分に向かって飛んでくるもの。予測を立てるのは簡単だった。投石。もしくは、フィアラがいつも携帯しているナイフの投擲。
故にこそ。サクラは続く行動に、迎撃を選んだ。相手は子供。ナイフを投げたにしろ石を投げたにしろ、武装は失っているだろう。隠し持っていたとて、大した脅威足りえない。
非武装の子供相手に警戒して距離を取る、或いは時間を与えるという選択を、『蟲使い』は許さなかった。
虫を充てがうまでのほんの数秒。
その激昂と傲慢の隙を、『レプリカ』の秘めた刃は逃さない。
「…………づァ!?」
それは、蛇が獲物を仕留めるかの如く。
人の気配がなかったはずの背後から迫った糸状の
思考領域外からの攻撃で、戦闘に身構えたサクラの頭に疑問と混乱が混じる。
──何者かに背後を取られた?
ありえない。気配などなかった。消していたとしても、虫がその質量を暴くはずだ。第三者の介入はない。
そんなことはわかっていた。わかっていた、のに。
突然の事態に動揺したサクラは、反射的に背後を振り返った。
それが、『レプリカ』お得意のハニートラップであると気がついたのは、当然の如く何もない無機質な扉を見てからのことだった。
サクラは視界の端に、鈍く光るピアノ線のようなものを映す。よくよく見れば、フィアラから伝うそれが自分に繋がっていて。
「まさか…………鞭剣!?」
ガリアンソード、蛇腹剣などと呼ばれる架空武器。殺傷力も無ければ、そもそも技術力が無くては存在すらしない代物。
当然、フィアラのそれも実戦で使い物になるレベルには達していない。ガラクタを適当に組み合わせ、バネ式の巻き取りを利用しただけの模造品も模造品。ある程度伸び、相手に絡まるだけの機能だけを搭載した紛い物だ。
作りが雑なら素材も粗雑。使いきりのジョークグッズ。拘束力も大したことはない。動揺と混乱を誘うだけの殺傷力すらない玩具。
しかしその玩具は、サクラという相手をしてまごうことなき停滞を生んだ。一瞬の拘束。思考停止。あまりにも短いその時間。拳を振るうも蹴りを見舞うも、物理的な行動を取れるかすら怪しいその時間。
周囲から力を吸い上げるのは、生まれてからたった一度しか出てこなかった、美しい3本の角だった。
意思とは無関係。ただ、戦闘に体を突き動かす激情と成熟した肉体が、自らが生まれた種族の本能を呼び覚ました。
「…………ぅ、ぐ」
溢れ出る力の奔流。美しい紫紺の角は、一年ぶりの活動に錆びつくどころか、今までの貸しを取り立てるかの如く大きく脈打った。
主人の体すら壊しかねない膨大なマナが、形を得ようと紡ぐ言の葉を待ちかねる。
「───アル」
そのありったけが込められたのは、酷くちっぽけで、覇気のない二文字。鬱屈で淡白な声音が、呟くように、言祝ぐように。底冷えするような冷たさで以て、闇より深い黒の禁忌を作り上げていく。
「〜〜〜ッ!!」
身に迫る危機をいち早く察したサクラは、声にならない悲鳴をあげながら蟲に命令を放つ。フィアラの生命などその意に介されてはいない。ただ我が身可愛さで繰り出された指令により、蟲は冷徹に、命を刈り取ろうと殺到する。
それに対するは、本来どれほど時間をかけようと完成し得ない喪われたはずの秘術。
禁忌とまで称された、その属性に特化した大精霊をして数十秒の
だが。周囲から徴収された膨大なマナは、問答無用とばかりの力技でそのタメを消しとばした。
努力、研究、才能、研鑽。それらを嘲笑う破滅的な物量で、時間の扉を崩壊させ──
「──シャマク」
大量の蟲と、虫に魅入られた一人の女を巻き込み。
深い、深い闇の顎門を開いて、解いて。
「ふ、ふふ、ふふふふ……!」
闇の中で、掠れた声が漏れた。
「化け物…………」
紫紺の角を掲げたその威容。三本から感じる、目眩すら覚えそうな絶大なマナ量。
人の。亜人の、万物の頂点に君臨する存在。当然のように存在の上位に鎮座する、傲慢なる、傲岸たる生物。
その姿は、まさしく──
「鬼の、化け物……!」
その罵倒をも、母なる闇は優しく包み込み。
閉じて、消えた。
暗い部屋に、一人の子供が膝をついていた。つい数瞬までの喧騒が嘘のように失われ、しんと静まり返った密室。狂気に塗れた女も、悍ましいまでの虫も。何も、何かもが、存在しない。
「…………は、はは……」
乾いた声が、自分から漏れているのに
脱力感。先ほどまで満ち溢れていた力は何処へやら。遠く、遠く、空気に溶けるように消えていく。
「殺した…………殺したよ……」
心の声に従った。意思など介在しない。そこにあったのはただ、壮絶な義務感。…………何を思っていたのか。その記憶も、もうない。
どうしてか理性が擦り切れて。サクラを排除しなければと。
フェルトを、守らなければと。そう、思ってしまった。
殺した。殺した──から。
「これで、もう……戻れなくなっちゃった……」
サクラ・エレメントは死んだ。蟲使いは、『色欲』の子供は。闇に呑まれて消えてしまった。
───つまり。『色欲』のアジトへの手がかりは、これで完全に潰えたのだ。
もう一度同じ手段を使おうが、サクラが殺されている以上カペラは罠を警戒するだろう。皮肉にも、この土地には最強の『剣聖』もいる。大挙して押しかけてくることもない。
………さて。困った。どうしたものか。
次の作戦を考えなくてはならない。どうやって、記憶を取り戻そうか。
そうだ。もうしばらく貧民街で暮らして、大人しく待てばどうだろう。ナツキ・スバルの物語さえ始まれば、王都にはエルザが来るはずだ。
エミリアの徽章の受取人として来るエルザは、偶然にもフェルトに依頼をすることになる。
その時に連れ去って貰えば。
ああ、そうそう。『死者の書』という手もある。聖域を超え、水門都市の戦いを経た後には。死者の生前の記憶を追体験できる、『タイゲタの書架』を見つけることになる。
そこで、ソアラの。ティフィの記憶を調べれば。それで。
それで。
───何年後の話だ。
何年。何年?
時間は文字ではない。時間は言葉ではない。一秒は、一分は、一日は、一月は、一年は。長い。その文字の軽さに比べて。言葉の短さに比べて。感じる一瞬は、果てしなく、長い。
短く見積もった一年すら待てなかった。この悠久にすら思える時間を、あと何年続ければいい。
五年? 七年? 十年?
…………無理だ。耐えきれない。
この体は勿論。それ以上に、心が。
罪に苛まれ、自らをも認められないあの時間を。あの焦燥だけが胸を焦がす日々を、あとどれほど。
この孤独を、どれだけ。
どれだけ、過ごせと言うのか。
「────もう、いい」
ふと。そんな言葉が溢れた。
そうだ。うん。ティフィの言葉を信じて。それを証明するために走ってきたけれど。
もう、いいんじゃないだろうか。諦めても。逃げても、いいんじゃないか。
だって。もう、疲れてしまった。
「…………疲れたなぁ」
終わってしまっても、いいのかもしれない。
「………………ほんとうに、疲れた」
そして一人。
この結末を予測し、引き起こした張本人は、ゆっくりと腰を上げた。
全ての顛末を傍観した少女がいた。
この結末を知りながら、望んで導いた少女がいた。力も無いくせに。頭も足りないくせに。全てを終わらせた少女がいた。
そうだ。
サクラさえ消えれば。『色欲』の手がかりさえ無くなってしまえば。フィアラは一生、ここにいることしかできないのではないか、と。フェルトの手の届く場所に、ずっといてくれるのではないかと。
思った。思ってしまった。
そして招いた結果が、これだ。
フィアラにとっては。『色欲』こそが、最後の希望で。他に居場所なんて、何処にもなくて。居場所だなんて、思ってなんていなくて。その希望すら、絶たれてしまった。
いや。その言い方も卑怯だ。
きっとフェルトは、貧民街をフィアラが何とも思っていないことに、薄々勘づいていた。フィアラが自らを保つことができなければ、自分と共に生きることは夢物語だと知っていた。
それでも。フェルトは、フィアラを諦められなかった。
もう、フィアラへの呼びかけは届かない。
フェルトは願ってしまったから。サクラを殺めて、自分を助けるように願ったから。
フィアラの希望を、絶ってしまったから。
たった今。フェルトはその権利を捨てた。フィアラを真っ当に救う権利を。フェルトは、己が欲望のために投げ捨てたのだ。
この状況も。この心ですら。
フェルトの罪だ。フェルトの咎だ。
「…………お前の帰る場所は、アタシが奪った」
だから、フェルトが一生背負う。フィアラに頼ってしまったことの後悔も、罪も。何もかもを、背負っていく。
ゆっくりと口を開いて。罪に塗れた目で、フィアラを見た。
「それでも、改めて誘わせてくれ。
あの時から、ずっとなあなあにしてきた。仲間にするとも、家族になるとも。一言も言わずに、けれどずっと一緒に過ごしてきた。
だからそんな誤魔化しも、もうやめる。
「アタシのところに、来てくれ」
フェルトはフィアラに、手を伸ばす。フィアラを手に入れるために。今度こそ、自分の意思でフィアラを掴むために。
差し伸ばした手は、決して枷から解き放つ救いなどではない。これは呪いだ。欲望とエゴで作り上げられた、わがままの呪い。
「お前が真実を欲しいってんなら、アタシがお前に本当を教えてやる。お前が自分がわからないってんなら、アタシがお前を見つけてやる」
この手を取らなければ、フィアラはきっと死ぬ。自らを失い、呆気なく死んでしまうだろう。それ以外の選択肢は、他ならないフェルトが奪ったから。
だから、これはイカサマだ。フェルトが目の前の
「お前の今まで生きてきた人生が。貧民街で過ごしたこの一年が。お前にとって虚飾だけのハリボテでも。空いた孤独はきっと埋めてみせる」
それでも、気持ちだけは一層込めて。選択肢など無いも同然の問いを、本心からの綺麗事で飾り立てて振り翳す。
手を取れと、口が裂けても命令だけはしない。ただ、取ってくれと懇願するように、フェルトは祈って、言葉を紡いだ。
「だから、アタシと生きてくれ。フィアラ。アタシはお前と一緒にいたい。お前と二人で生きていたい」
フェルトは、フィアラが嫌いだ。
上っ面の笑顔も、甘ったるい声も、綺麗な顔も、猫のような気ままさも、犬のような忠実さも、大人ぶった仕草も。…………そのハリボテに隠された、無垢な弱さも。作り上げられた何もかもが嫌いで。
嫌いで、嫌いで。
「お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
愛おしくて、たまらなかった。
伸ばした手を、取ろうとして。つかみあぐねて。握りしめて。迷って。
泣きそうな目をしたフィアラは、潤んだ瞳でこちらを測る。全ての愛を
何度も、何度も。止まらない涙が、ずっと。擦っても、拭っても、フィアラの頬を濡らし続ける。
この誘いが。生き続けろと願う傲慢が。どれだけ残酷かを。フィアラは知っているから。
だからこれは、きっと悲しみの涙なのだ。
誰が何と言おうと。これは。
フィアラの苦しみと、フェルトへの、罰だった。
そして、フィアラは。
フィアラは。泣いて。泣いて。
泣いた。
泣いた、まま。
「─────考えとく」
「あーあ、畜生。フラれちまった」
これにて、フェルト√は完結とさせていただきます。
というわけでもなく。もうしばらくだけ続くんじゃ。
フィアラちゃんのイロモノ武器、鞭剣に決定。