では、どうぞ。
火向に来訪して数日。九峪は相変わらず忙しい日々を過ごしていた。滞在日数が少なくなる火向ではどうしても予定が厳しくなってしまう。九峪もそれは了承済みだし、志野たちも心得ているので厳選はしているのだが、それでも時間は足りないと言っていい。
耶麻台国の復興を果たしてから何年も経ったが、今なお九峪の威光、存在は絶対的で、元々のこの世界の人間ではないからこその着眼点や発想は耶麻台国の更なる発展に欠かせないのだ。そのため、どうしても九峪案件は出てしまうことになる。
それでも時間は止まることなく流れ続ける。が、ここ数日でようやく先の見える状況になってきていた。
(七・八割方は片付いたかな…)
当初の予定とこれまで片付けてきた案件の内容を頭の中で比較し、概算だがそう考えられる状況まで終了したことで九峪がふぅ…と一息ついた。そして馬上で片手で手綱を握りながら、もう片方の手でトントン、トントンと器用に己の肩を叩く。と、
「あらあら…」
隣で馬首を並べながらその様子を見ることになった志野がクスクスと笑った。
「ん?」
不意の含み笑いに、どうしたのだろうかと九峪が志野に振り返る。
「お疲れですか? 九峪様」
「ああ、まあね」
志野の質問に正直に九峪が頷いた。もう長年の付き合いである志野に、今更格好つけても仕方がない。
「寄る年波には勝てないのかねえ」
「あら…」
その九峪の表情に志野の表情が笑顔のまま凍り付いた。そして、周囲からわからないように脇腹を小突かれる。
「痛…っ!」
予想外の攻撃にビックリした九峪が志野に振り返ると、
「九峪様…私たちも九峪様と同じだけ齢を重ねているってこと、忘れてません?」
いつの間にか笑みを収めていた志野が底冷えのする声でそう言ってきた。
「え?」
「九峪様と同じだけ私たちも加齢しているのです。女性に対して年齢を話題にすることがどれほど配慮のないものか、おわかりになりませんか?」
「いや、別にそんな意図は…」
ないんだけどと続けようとした九峪に、
「わかってます」
志野が先に制した。
「え?」
「九峪様がそんなつもりがないのはわかってます。もう何年の付き合いになると思ってるんですか。でも、九峪様がそういった方だとは知らない者も当然まだたくさんおりますし、今言いましたけど女性はそういった話題に特に敏感なのは九峪様も御存じでしょう?」
「ああ、まあ」
九峪が頷く。
「ですから、妙な誤解を受けることがないように発言には気をつけてくださいな。神の遣いである九峪様に狼藉を働く者がいるとは思えませんが、万一刃傷沙汰になっても知りませんよ?」
「こ、怖いこと言うなって」
志野の忠告を聞いて表情を引きつらせた九峪に、志野がまたニッコリと微笑んだ。
「ふふ、すみません。でも、忠告ですよ」
志野はそう言ったが、実際には少し違う。忠告なのは間違いないのだが、やっぱり先ほどの発言に少しムッと来たのもあって釘を刺す兼、意地悪といった気持ちがなかったわけでもないのだ。とはいえ、こんな話ができるのも心許せる間柄というのもあるが。と、
「痛ッ!」
九峪は今度は志野とは逆方向の脇腹を小突かれる。
「え?」
表情を歪めてそんなことを言った九峪に驚いて志野が向こうを見た。と、
「鼻の下、伸ばしすぎ」
九峪の向こうにいたのは珠洲だった。
「珠洲!」
「おいおい、勘弁してくれ…」
九峪が苦笑して振り返った。先ほどの話でもないが九峪たちと同じだけ齢を重ねた珠洲は昔ほど九峪に敵愾心を抱いているわけではない。普通の対応ぐらいはできるようになったがそれはあくまでも平常時のこと。志野が絡むと未だにこういったことになることもあるのだ。
「近づきすぎ」
「そうか? そんなつもりなかったんだけど…」
「自覚なしでやってるとしたら、性質が悪い。ちょっとは弁えて」
「珠洲ったら、もう…。九峪様、すみません」
志野が頭を下げた。
「あー、いいっていいって。さっき志野も言ってたけど、もう付き合いも長いしな。わかってるって」
「そう。だから志野は黙ってて」
「珠洲!」
志野がもう一度珠洲を窘めるが、珠洲は一向に意に介する様子はない。
「九峪様、奥方様がたくさんいるでしょ?」
「ああ、まあ」
「まだ足りないの? 本当にスケベなんだから…」
「……」
珠洲のその発言に志野がとうとう声も出せなくなっていた。大分成長したはずだが、この物言いはまるで昔の珠洲のようだった。一連の珠洲の態度に頭を痛めながらもどうしたのだろうと訝しむ志野だったが、九峪は意に介した様子はない。
「おいおい、人を何だと思ってるんだよ?」
「神の遣い」
「だろ? だったら「と同時にただのスケベ」おい…」
意に介した様子もなかった九峪だったが、大分鋭くなっていた久しぶりの珠洲の毒舌に流石に絶句してしまった。が、珠洲は全く気にする様子はない。と、
「九峪様、そろそろ次の目的地に着きやすぜ」
先方隊の重然が伝えに戻ってきた。
「ご準備を」
「あ、ああ、そうか。わかった」
「? どうかしやしたか?」
九峪の様子が微妙におかしいことに気付いた重然が首を傾げた。
「いや、ちょっと強行軍が続いたから肩が凝ったみたいでさ」
「左様で。では、夕食の後にでもお揉みしましょう」
「ああ。頼む」
「では」
一礼して先方隊に戻っていった重然の姿を見て毒気が抜かれたのか、九峪が大きくふーっと息を吐く。
「…まあなんだな。とにかく日程も後少しだ。もう少し同行よろしくな」
「は、はい」
「ふん…」
頭を下げる志野とそっぽを向く珠洲の対照的な二人に、九峪は苦笑するしかなかった。
(全く、珠洲は…)
とある場所にて、一人志野は考え込んでいた。今は行軍中の小休止で、めいめい好きなように束の間の休憩を楽しんでいる。その中で志野は一人、先ほどの珠洲のことを思い出していたのだ。
(昔ほどではないにせよ、未だに九峪様にあんな態度をとるの、どうにかならないかしら…)
珠洲も誰彼構わずあんな態度をとるわけではない。それに、最初の頃と比べてもこれでも大分マシになったのだ。とは言え、これまで珠洲の首と胴が繋がっているのは相手が九峪だったからで、これが他の人間…例えば天目あたりだったらとっくの昔に珠洲の首と胴はオサラバしていただろう。無論、あれも珠洲のコミュニケーションの一つかもしれないが、方法が方法なだけに傍から見ている立場としては心臓に悪い。
(九峪様が今更珠洲の態度一つで手心を加えたり態度を翻すとは思わないけど、それに甘んじてていいって話でもないのよね。とにかく、一度諭す必要があるかしら…)
そう結論付けた志野は珠洲と話し合おうと決め、小休止を終えて集合場所に戻ろうとした。と、
(…ん?)
何かを感じ取った志野が静止する。それは気配だった。それも動物のものではなく、明らかに人の気配が二つ、山の奥へと向かっていく。
(地元の猟師とか山人かしら…)
恐らく九分九厘そうだろうと志野は判断する。耶麻台国を復興させてもう何年も経つため、今更九洲に刺客がいるとは考えにくい。だが万が一にも九峪の生命を狙う刺客である可能性がないわけでもない。そう判断すると、志野は己の気配を悟られないように注意しながら、その気配が何なのかを確認するために歩き出したのだった。
(何だ…)
二つの気配に気取られることのないように注意してその後を追った志野が、ようやくその姿を確認して肩を落とした。何故ならそこにいたのは九峪と清瑞だったからだ。ガックリしたのだがそれと同時に、刺客ではないことにホッとしていた。
(それにしても…)
遠目ながら二人の様子を確認できた志野は、その二人の様子にどうしたのだろうと思っていた。何故なら清瑞が厳しい目で九峪を睨み、九峪は木を背にして縮こまっていたからだ。木を背にする…というよりは追い詰められているといった表現の方が正しいかもしれない。そんな状況、雰囲気に見えた。
(まあだからこそ、未だに清瑞さんに気取られずに済んでいるとも言えるけど…)
しかしそれは護衛としてどうなんだろうと思わないでもない志野だった。とにかく気配の元が誰なのか確認はできたので戻ろうとした志野。が、位置関係でいえばそれほど離れていない距離のため、二人の会話が耳に入ってくることになった。
「九峪様」
「な、何だよ」
「先ほどは随分、志野様と仲良くされていましたねぇ?」
「お前には、あれがそう見えたのか…?」
「ええ。とっても」
自分の名前が話題に上ったことで思わず志野は足を止めてしまう。そして、悪いとは思いながらもその会話を聞いていた。
「志野と珠洲に釘を刺されただけなんだが…」
「へぇ、そうですか」
「…なあ清瑞、どうしたんだよ?」
「何がです?」
「なんか、火向に来てから当たりが強くなっている気がするんだけど…」
「それはそうですよ」
「え?」
九峪が不思議に思って顔を上げた直後、清瑞は九峪に迫って口づけをしていた。
「んっ!」
(!!!)
九峪と、不可抗力ではあるが他人の逢瀬を覗き見ることになってしまった志野が驚いて硬直してしまう。九峪は何とか清瑞を押し戻そうとするが、力で九峪が清瑞に勝てるわけもなく、結局、清瑞の気が済むまで口内を蹂躙されることになった。救いなのは、その時間が短かったことだろうか。
「ふー…」
少ししてから清瑞が九峪から離れる。そして、二人の間にかかった唾液の橋を拭った。
「清瑞?」
「臣下としてはこの言葉は不適切なのは重々承知しています。ですが言わせてください」
「うん」
「…せっかく今は火魅子様も伊万里様も香蘭様もいらっしゃらないのに、志野様と仲睦まじい様子を見せられて、私、とても悲しいです」
「いや、別に仲睦まじいわけじゃ「言い訳はいいんです」はい…」
ピシャリと指摘され、九峪はそれ以上何も言えなくなる。そして、
(……)
志野は何故か九峪が今言った、『仲睦まじいわけじゃ』という一言に、何故か言いようのない寂しさを感じていた。そんな間でも、九峪と清瑞の甘い? 会話は続く。
「わかってますよ、九峪様と志野様の間にそういった感情はないのは」
「うん」
「だから、今ここでは私が九峪様を独占できると思ったのに…」
「いや、独占してるじゃん」
「そうですけど! …それでも、志野様ほどの方との親密な関係を見せられたらいい気分はしません」
「そうは言われてもなぁ…」
九峪が頭を掻く。仕事である以上はどうしても知事職の人間と密接にかかわるのは仕方のないことだ。清瑞もそれはわかっているし、これまでもこんな感じだったのである。今更改めてそんなことを言われても…というのが九峪の正直な感想だった。そんな中、
(……)
志野もまた、二人の言動を見て良くわからない感情に支配されつつある自分に戸惑っている。が、当然そんな志野を置き去りにして清瑞の愚痴とも嫉妬ともつかない暴走は続く。
「だから、これはその代償だと思ってください。そして、九峪様が悪いと思っているのでしたら、甘んじて受け入れてください」
「え」
直後にまた清瑞に口づけされる九峪。小さな水音が辺りに響くことで気分が高揚してしまったのか清瑞の鼻息が荒くなっていく。
「ぷはっ!」
少し後、ようやく九峪が再度清瑞から解放された。
「ふふふ、九峪様ぁ」
「お、おい清瑞、いくら何でもこれ以上は…」
「わかってますよ」
表情をとろんとさせながらも九峪が何を言いたいのか分かったのか、清瑞が頷く。
「え?」
「これ以上になっちゃうと身体に火が点いちゃいますし、そうなっちゃうと休憩時間だけじゃ済みませんから、今はこれで我慢します」
「そ、そうか」
ホッとする九峪。が、
「でも、最後にもう一回♪」
直後に清瑞に三度口づけをされることになったのだった。
「……」
もう好きにしてくれとばかりに諦め、受け入れた九峪を蹂躙しながら清瑞が九峪の首に手を回す。そうしながら、一瞬だけ視線を外した。
(!)
その視線が自分を捉えたように感じた志野が硬直する。だがあくまでもそれは本当にほんの一瞬だった。が、清瑞のその視線を受けたかもしれない志野は言いようのない不安とざわめき、モヤモヤに駆られ、九峪たちに気付かれないように今度こそゆっくりとその場から離れたのだった。
数日後。
「それじゃあな」
城外に見送りに来た志野たち一行に声をかける九峪。
「はい、お疲れ様でした」
志野がいつものように柔和な笑みを浮かべながら九峪にペコリと頭を下げる。無事今年の火向での視察を終え、九峪一行はこれから旅立つところであった。次に向かうは九洲の最南端、薩摩の地である。
「ああ」
頷くと、九峪は志野の後ろに目を向ける。そこには珠洲や織部たちといったいつもの馴染みの連中が当然のようにいた。
「志野のこと、頼むな」
「わかってますって、九峪様」
「お任せを」
「でも、どっちかって言うと志野様が私らを頼るより、私らが志野様を頼ると思いますけど」
「はは、違いない」
そこで皆で笑う。が、そんな中で一人、珠洲だけは表情を崩さずジッと九峪を見ていた。
「どうしたんだよ、珠洲」
無論、それに気づいている九峪が珠洲に声をかける。
「なんか今年は例年以上に俺への当たりがキツくないか?」
「へえ、自覚あるんだ」
「え?」
「す、珠洲!」
まさかの一言を口走った珠洲にギョッとする火向の幹部たち。志野が慌てて窘めるが、珠洲は気にする様子もなく九峪に近づくと、
「耳貸して」
と、一言言った。
「え?」
「だから、耳貸してってば」
「……」
何だろうと不審に思いながらも九峪が馬から降りて珠洲に耳を寄せる。すると、珠洲は九峪に何やら耳打ちした。
「! おい…」
「わかった?」
「…ああ」
九峪は頷くと再び馬上に跨る。そして、
「考えておく」
と、一言眼下の珠洲に伝えたのだった。
「わかった。ちゃんと考えてよね」
「ああ」
「よし」
九峪の言質を取った形になった珠洲が満足したのか、グッと拳を握ると引っ込んだ。
「あの…九峪様?」
が、置き去りにされた形の他の面々には何のことやらさっぱりわからず、不思議な顔をして首を傾げている。もっとも半分は珠洲の、見方によっては無礼な振る舞いに九峪が機嫌を損ねなかったようでホッとしたという安堵もあるのだろうが。
「いや、何でもないよ」
「はぁ…」
九峪の回答に納得していない返答を返す志野だが仕方ない。この一連のやり取りを目の前で見せられ、それで『何でもない』と説明されてもまるで説得力はないのだから。だが九峪がそう言う以上、それで納得するしかない。神の遣い相手に詰め寄るなど、普通は誰もできやしないのだから。
「んじゃ、またな」
「はい、お気をつけて」
「ああ、互いにな」
そう声を掛けられて叩頭した火向の幹部衆に背を向けると、九峪は馬を進ませて遠ざかっていった。志野たちが顔を上げると、九峪が護衛の乱破衆たちと合流して清瑞と馬首を並べているところを見ることになり、それがまた何故か志野の心をざわつかせた。
(どうしたのかしら…)
湧き上がってきた妙な感情に戸惑う志野の後ろで、織部たちがほうっと大きく息を吐く。
「やれやれ、今年も何とか無事に終わったな」
「全くで」
「なんすか二人とも、まるで九峪様が迷惑みたいじゃないですか」
「ば、バカ野郎! そんなわけあるか!」
「そうだぜ。ただ、九峪様に何かあったりしたら一大事だろうが。そんな事態にならなかったことに安心してるんだよ」
「心配し過ぎっすよ。もう耶麻台国が復興して何年経ってると思ってるんすか」
「まあ、そっちの線もあるけどよ。不慮の事故とかに巻き込まれる可能性もないわけじゃないだろ?」
「そんなの、そう簡単に起きないっすよ」
「そういう気の緩みが、取り返しのつかない事態を招くんだぜ? なあ、重然」
「へい、お嬢。全くその通りで。愛宕、おめえももういい年なんだ。ちっとはその辺り考えろ」
「ぶ~」
不満げに頬を膨らます愛宕に、織部と重然は顔を見合わせると仕方ないヤツだと言わんばかりに苦笑した。
「さて、戻るか」
「ですな。今日はもう目ぼしい仕事はありやせんが」
「まあ、ここ数日働き詰めだったんだ。今日ぐらいはのんびりしてもいいんじゃねえか? いいだろ、座長?」
「…え?」
志野が呼ばれたことに気付いて織部たちに振り返ったのは、少し間を置いたタイミングだった。普段から打てばすぐに響くような反応を返す志野だけに、織部たちは珍しいものを見たといった表情で志野を見る。
「座長、どうかしたのか?」
「いえ、別に」
「ホントっすか?」
「ええ。…で、仕事のことだったわね。今日はもうのんびりしてくれていいわ。疲れたでしょ」
「さすが志野様」
「それじゃ、お言葉に甘えてそうさせてもらうよ」
「先、帰ってていいっすか?」
「ええ、そうしてくださいな」
「んじゃ座長、お先」
「失礼しやす」
「しま~す!」
「ええ」
織部、重然、愛宕が軽く頭を下げてその場から去っていく。志野は手を振ってその後ろ姿を見送った。と、
「志野」
今まで一言も喋らなかった珠洲が志野の許にやってくる。
「珠洲、どうしたの?」
「聞きたいことがある」
「? 何かしら?」
いつもの珠洲とは少し違う雰囲気に、志野が心中で構える。と、
「志野は婿を取らないの?」
珠洲が、まさかのことを聞いてきたのだった。
「…え?」
(今、なんて…?)
一瞬、珠洲の言葉の意味がわからなかった志野だが、言葉を反芻していき、志野は徐々に今珠洲が言ったことを理解した。
「な、な、何を…」
そして戸惑う。何を言われるか構えてはいたものの、全く予想しなかった方向からの攻撃に口をパクパクさせるしかなかった。と同時に、ある人物の顔が頭に浮かんできて、そしてそれを自覚して顔が赤くなってしまう。
(や、やだ…)
その変化に気付いたのか気づいてないのかはわからないが、珠洲が言葉を続ける。
「九洲のことはハッキリ言って私にはどうでもいい。けど、志野ももういい年。同年代の知事は家庭を持って子を成しているから、志野がそこについて考えていて興味があるなら…」
「ちょっと、珠洲…」
『いい年』という表現に引っかかった志野が少し顔をヒク付かせて注意しようとしたが、珠洲は素知らぬ顔で続ける。
「前座長の…志都呂のことがまだ心の中にあるの?」
「!」
懐かしい名前に志野が身じろぎする。だが、その名前を言われるまでここ暫く、その存在も思い出さなかったのもまた事実だった。それだけ、志野は今忙しいとも充実しているとも言える。昔のことを思い出す暇もないほどに。
「私は個人的には志野が結婚することは反対。いやらしい男たちに志野を渡したくはない」
「珠洲…」
「…でも、志野の気持ちは別。志野がその気があるなら、仕方ないとも思っている」
「うん」
「それで、どうせそうなるんだったら、私の知らないいやらしい男よりも、良く知ってるスケベな男の方がまだマシ。それだけ」
「! それって!」
その一言に、志野が先ほど珠洲が九峪に耳打ちしていた光景を思い出していた。
「まさか、珠洲!」
「私は何も言ってない。全て、決めるのは志野だから。よく考えて」
「あっ、珠洲!」
自分の言いたいことだけ言うと、珠洲はその場を走り去った。その後を追おうと思えば追える志野だったが、何故かその足を進めることはできなかった。
(そんなこと言われたって…)
取り残された志野は一人そう思いながら佇む。と同時に、今回の訪問で九峪と過ごした際に九峪に対して、折に触れて今まで感じることのなかった表現できない感情を抱いたのもまた事実だった。
(……)
何なのだろう、この感情は。いや、わかっていたのかもしれない。ただ今まで、それを直視することをしていなかっただけ…。いやいや、そんなことはなくてただの気の迷い…。でもでも、清瑞さんとのあの山中でのやり取りを見ていて心がざわめいたのは確かだし…。
「……」
志野が自問自答しながら考える。しかし、その回答が出るまでにはまだ暫くの時間を要することになる。そして結局、あのときに珠洲が九峪に何を耳打ちしたのかは、ついぞ当事者の二人以外の誰も知ることはなかったのだった。