年が明けた。実家に帰省していた生徒たちも帰ってきたことでホグワーツもまた賑やかさを取り戻す。積んでいた小説を読んだり、ネモと雪遊びをしたりと冬休みを満喫していたマーガレットも授業の用意やレポートの採点に追われ、空いた時間に論文——トロールの事件があったことから、今回はマグルに伝わる魔法生物の伝承とその実像の違いについて書くことにした——を書くという教授の日常に戻っていた。それに、開催が近づくペットパーティーの準備までしなければならないのだから、やらねばならないことは多い。
とはいえ、マーガレットもずっと教授の仕事をしているわけでもない。準備を週末になれば菓子を買いにホグズミードに足を運んだり、こうしてクィディッチを観戦したりと、ホグワーツで過ごす日々ももちろん楽しんでいた。
「もうすぐ始まりますね……」
クリスマスプレゼントのマフラーを首に巻いたマーガレットはグリフィンドール対ハッフルパフの試合が始まるのを今か今かと待っている。彼女の膝にのるネモもお揃いのマフラーを巻いていた。
「今日をずっと楽しみにしていました。やっと最年少シーカーの活躍をこの目に焼きつけることができます」
「それは……よ、よかった」
「でも、こんな試合もあるんですね。マダム・フーチではなく、スネイプ教授が審判をすると聞いた時は驚きました」
マーガレットはグラウンドに立つスネイプを見る。赤と黄色の旗や垂れ幕で彩られた競技場の中でその黒づくめの恰好はどこか異様な雰囲気を放っていた。
「てっきり、マダム・フーチになにかご用事があるのかと思っていましたが、そうではないんですね」
マーガレットとクィレルのいる場所からコートをはさんだ向かい側の観客席にマダム・フーチとマクゴナガル教授、それからダンブルドア校長が座っていた。クィディッチのファン同士、会話も弾んでいるようだ。
「どうしてスネイプ教授が審判をすることになったのか、先生はなにかご存知ですか?」
マーガレットは自分の疑問の答えを知っているのではないかと、クィレルに期待のまなざしを向けた。
しかし、彼は自分の手をじっと見て、わずかに口元を歪めていた。
「先生?」
「は、は、はい。ど、どうかしましたか?」
マーガレットが軽く肩をつつくと、クィレルの肩が大きく跳ねた。集中していたのか、マーガレットの声は届いていなかったらしい。
「大丈夫ですか? 先生、最近はお疲れの様子といいますか、なんだか難しそうな顔をしていらっしゃることが多いですから」
「す、す、少し考え事をしていました。さ、最近は考えねばならないことがお、多くて……」
「そうでしたか」
青白い顔のクィレルはぎこちなくなく笑った。少し前までは今にも倒れてしまいそうなほど疲れた顔をしていた彼だが、現在は今にも死んでしまいそうなほど疲れた顔をしている。
そんな恩師の癒しに少しにでもなればいいと、マーガレットはポケットからいくつかチョコレートを取り出した。
「先生、よければどうぞ。考え事をするときに甘いものはぴったりですから」
「あ、ありがとう」
クィレルは青い包み紙のダークチョコレートを手に取り、マーガレットは赤い包み紙のミルクチョコレートを口の中に放り込んだ。その様子をネモは羨ましそうに見上げている。
「か、考え事の一つといいますか……。ミス・マノック、君に聞きたいことがありました」
「はい、なんでしょうか?」
「一年の旅を終え、ホグワーツに戻ってきたら君に聞こうと思っていました。もっとも、今更聞かなくともわかりきったことではありますが」
クィレルは冷たいグレーの瞳でマーガレットのことを見た。それは彼女を見極めるような視線であり、マーガレットは心臓を掴まれるような感覚を覚えた。
「……そう緊張しなくとも。ただ、私がここにいない間、君がなにを思って
いったいなにを聞かれるのだろうと身構えていたマーガレットはその質問に少し安堵した。いつかマクゴナガル教授からもされたような他愛のない質問だ。
「その、人に教えることはこんなに楽しいことだったのかと思いました。それこそ、わたしは人に教えてもらってばかりでしたから」
「……き、君らしいですね。で、ですが、大変だと思ったことは? 辞めたいと思ったことは?」
大変だと思わなかったわけがない。それこそ、マグル学教授の助手として教壇に立っていたあの一年間は授業の準備に追われ、レポートの採点に苦しみ、論文に頭を悩ませて眠れない夜もあった。
それに、ホグワーツで働くことの大変さを知るたび、ほぼ毎日のように研究室に顔を出していても決して自分のことを邪険には扱わなかった恩師の偉大さも知った。その恩師と比べてしまえば、マーガレットは自分が教師には向いていないように思うこともあった。
しかし、それでもホグワーツで働くことにはマーガレットなりの意義があった。
「辞めたいとは絶対に思いませんでした。もちろん大変なこともありましたけど、それ以上にこのホグワーツに残れることが嬉しくて……。それに——」
マーガレットは目を閉じた。これは考え事をする時の彼女の昔からの癖だ。
「それに、こうして…………、わたしにとってもなによりも重要なんです。だって、…………はわたしの——わたし……」
その時、試合開始のホイッスルが鳴った。観客席からわっと歓声が上がり、そのせいでクィレルはマーガレットの言葉を一部聞き逃してしまった。しかし、彼はなんとなく聞き返す気にはなれなかった。
「そ、そうでしたか。き、き、君の気持がわかってよかった。……し、試合も始まりましたし、この話はこれくらいにしましょうか」
「はい」
マーガレットは顔を正面に向ける。試合開始早々にハッフルパフにペナルティ・スロー——マーガレットもどのような反則行為があったのかはわからなかった——が与えられ、波乱の展開となっていた。
ニンバス2000にまたがり、空高くをぐるぐると旋回していた
指を十字に組んだマーガレットは息をすることすらも忘れ、グリフィンドールのシーカーが急降下していくのを見つめていた
ハリーの箒がスネイプのまたがる箒の脇をかすめていった。次の瞬間にはハリーは急降下をやめ、頭上高くにスニッチを握った手を掲げた。
観衆は再び大歓声を上げた。マーガレットは興奮で震える手で懐中時計を取り出す。
「これは……。新記録ですよ! こんなに早くスニッチを捕まえるなんて!」
「ハリー・ポッターがやりました! 前代未聞の新記録です! マクゴナガル先生も今年一番の笑顔です!」
「ジョーダン!」
その歴史的な快挙に観客も選手たちも大盛り上がりだった。校長のダンブルドアもグラウンドに降り、グリフィンドールの勇士たちをたたえている。負けたハッフルパフの選手たちも相手チームの健闘に拍手を送っていた。
その熱狂は試合が終わってからも続いた。競技場から城へと戻る誰もが「ハリー・ポッターがすごい」だとか「今年のクィディッチ杯はグリフィンドールで決まりだ」と口にしている。
マーガレットも記録に残るような名試合を見ることができて大満足だった。前回のグリフィンドール対スリザリン戦は見逃してしまったが、今回の試合だけでもグリフィンドールの新シーカーがいかに将来有望な選手なのかを知ることができた。
「もっと先の話ではありますが、これはレイブンクロー対グリフィンドールの試合も楽しみですね。もっとも、どちらのチームを応援するのか悩んでしまいますが」
マーガレットはそう言って横を向いた。しかし、今はクィレルがいないことを思い出し、独り言を言っていた恥ずかしさから顔を赤らめた。
試合終了後、マーガレットは恩師とともに城に帰るつもりでいたのだが、クィレルは用事があるとのことで先に行ったのであった。だから、今はマーガレット一人しかいない。
「そうだ、先生はご用事があるんだった。最近はとくにお忙しいみたいだし、来週のペットパーティーも先生は来られないかもしれないね。ネモ、少し寂しいね」
マーガレットはそう言って左肩のネモの頭を撫でようとした。しかし、彼女はその時にようやく気がついた。いつも自分と一緒にいるはずのネモもなぜかいないことに。
まさかの出来事に不安を感じないわけでもないが、マーガレットとネモはもう十年以上の付き合いである。マーガレットはネモが一人でどこかへ飛んで行くことがあることも、絶対に一人で帰ってこられることも知っている。だから、もうしばらくしても帰って来なかった探しに行き、それまではネモのことを信じて帰りを待つことにした。
その結果、マーガレットが大広間で夕食を食べている際にマフラーを巻いた青い目の鴉は帰ってきたのであった。
そして一週間が過ぎた。この日、マーガレットとネモは訓練場にいた。別に先週のクィディッチの試合に影響されて、箒飛行の練習に来たというわけではない。マーガレットはマグル学教室から運んできた蓄音機を台の上に置き、カエルの聖歌隊のレコードを流し始めた。
普段は飛行術の授業が行われる訓練場だが、箒の代わりに料理や菓子をのせたテーブルや色とりどりの風船が並べられている。そう、今日はペットパーティーなのだ。
「フィルチさん、助かりました。わたし一人だけでしたら、時間どおりに準備が終わらなかったと思います」
「マクゴナガル先生が私に手伝えと言ったから手を貸しただけだ」
アーガス・フィルチはつっけんどんに答える。しかし、いつもに比べれば彼の機嫌が良いことにマーガレットはなんとなく気がついた。
「今年もフィルチさんが来てくださって嬉しいです。このパーティーは
「ミセス・ノリスがこのパーティーを気に入っているからな」
フィルチは腕の中の飼い猫に視線を向けた。ミセス・ノリスとマーガレットの左肩にのるネモはテーブルの上のローストビーフをじっと見て、喉を鳴らしている。きっと彼女たちはすぐにパーティーが始まってほしいと思っているのだろう。
「そろそろ生徒たちが来る時間ですね」
「騒がしくなるな」
「それは否定できませんね。でも、今年もきっと楽しいですよ。フィルチさんとミセス・ノリスもどうか楽しい一日を」
フィルチはふんと鼻を鳴らしたが、ミセス・ノリスの毛並みがいつもよりも整えられているところを見るにパーティーが嫌で嫌でたまらないというわけではないようだった。
12時に近づくにつれ、訓練場には徐々に生徒たちが集まり始めた。一年前に見た顔もあれば、ハリー・ポッターのような一年生たちの姿もある。今年は人が来なかったらどうしようかと実は不安に思っていたマーガレットであったが、その心配も杞憂に終わった。
それに、ペットや魔法生物が好きな生徒たちが集まっているからか自然と会話も生まれているようだ。そこかしこから「君のペットは?」とか「可愛いね!」という言葉が聞こえてくる。ケトルバーン教授がパフスケインを引き連れてきた時には誰もが黄色い声を上げていた。
11時59分にハグリッドがファングを連れて会場入りした。そして、懐中時計の針が12を指したことを確認し、マーガレットは開幕の挨拶を始める。
「ペットパーティーへようこそ! こうして多くの人が集まってくれたこと、とても嬉しく思います。さて、このペットパーティーは七年前にファングとミセス・ノリス、このホグワーツで活躍する二匹のために始まりました。きっかけは一匹の犬と一匹の猫が仲良くなるためでしたが、そこからホグワーツにいるペット同士、その飼い主同士、そして生き物を愛する者同士の交流の場として発展してきました」
マーガレットが左肩にのるネモを撫でると、ネモは「カア!」と鳴いた。マーガレットと同じく、ネモもペットパーティーの歴史を見てきた
「生き物を愛する者同士、ともに語り合いましょう。ペットの飼い主同士、ともに悩みを分かち合いましょう。それから、ペット同士、種類や育ちが違ってもそこにはわたしたちと同じような友情が存在するのでしょう。ですから、ペットパーティーはそんな人と生き物とのつながりを大切にする場であってほしいと思います。みなさん、ぜひ今日という一日を楽しんで!」
こうしてパーティーが始まった。マーガレットが一仕事を終えてほっとしていると、ハグリッドが話しかけてきた。
「よお、マーガレット。おまえさんのおかげで今年もいいパーティーになりそうだな。ハリーたちも今日をずいぶんと楽しみにしとったぞ」
ハグリッドが指さす方を向くと、ハロウィーンの時に出会ったグリフィンドールのあの三人組がいた。
「あれは俺がプレゼントしたフクロウだ。ハリーは『ヘドウィグ』と名前をつけた」
「雪のように真っ白な羽。とても美しい子ですね」
マーガレットがヘドウィグのことを褒めると、ネモが頭をつついてきた。どうやらネモはヘドウィグに嫉妬したらしい。
「おまえさんのネモもやっぱり賢いな。いくら
「そうですかね。言葉がわかってくれるなら、もう少しわたしの言うことも守ってほしいのですが……。ネモ、わかってるよ。この世界で一番美しくて、一番可愛らしいのはあなたなんだから」
マーガレットが黒檀のように黒い羽を撫でてやると、ネモは嬉しそうに顔を摺り寄せる。
「マーガレット、せっかくだからあいつらとも話してきてやってくれ。それに、もしかしたらネモもヘドウィグと仲良くなれるかもしれねえ」
「それもいいですね。チューリップとデニス*1、それからタルボット*2も卒業してしまいましたから、ネモにもまた新たな友達を作ってあげたいですし」
マーガレットはハグリッドと別れ、ハリーたちのもとに向かった。ハリーはヘドウィグにハムを与え、ロンはスキャバーズがチーズをかじるところを観察している。そして、ハーマイオニーはケトルバーン教授のパフスケインをずっと撫でていた。
「こんにちは」
「マノック先生、こんにちは」
「三人ともおひさしぶりですね。まだ始まったばかりですが、パーティーは楽しんでいますか?」
マーガレットが問いかけるとハリーとロンは大きく頷いた。一方、ハーマイオニーはマーガレットの肩にのるネモのことをじっと見つめていた。
「そうだわ。マノック先生がいつも連れていらっしゃる鴉は先生のペットなんですか?」
「はい。名前をネモといいます。ネモ、ミス・グレンジャーにご挨拶を」
ネモが頭を上下に振るとハーマイオニーは目を輝かせた。
「賢い鴉がペット。それなら、先生はレイブンクローのご出身でしたか?」
「はい、そうですよ。まあ、ネモはわたしがホグワーツに来る前から飼っていましたから……。わたしがレイブンクローに組分けられたことと、ペットが
マーガレットは懐かしむように笑った。
「わたしは組分けの時、レイブンクローかグリフィンドールかを組分け帽子にずいぶん悩まれたんです。だから、わたしのペットがネモだったことと、わたしがレイブンクロー生だったことは本当にただの偶然だと思います」
「でも、寮を象徴するような生き物を連れているのってとってもいいと思います。ハリーもロンもペットを飼っているし、私も飼ってみたいと思うようになったんです。それで、なにがいいのかずっと考えてて……。このペットパーティーでなにかいい案が見つからないかなと思ったんです」
ハーマイオニーはマーガレットにメモを見せた。その一行一行にどのペットがなにを食べるかだとか、飼うためになにを用意しなくてはならないかだとかが細かく書いてある。ハーマイオニー・グレンジャーが勉強熱心な生徒だということは風の噂で知っていたが、マーガレットはこのメモからもその片鱗を垣間見たような気がした。
「それなら、ハーマイオニーはグリフィンを飼えばいいんじゃない?」
「それとも紋章のライオンとか? ライオンを飼える場所なんて、動物園くらいしか知らないけど」
「どっちも飼えないわ。だって休みの間、家に連れて帰れないもの」
「たしかに、もう少し飼いやすい生き物でないとですね」
マーガレットたちが和やかに話していると、一人の少年が現れた。
「僕のヒキガエルを見かけなかった?」
「ネビル、またトレバーがいなくなったのか?」
「うん。僕から逃げてばっかりだよ……」
丸顔の少年——ネビル・ロングボトムはすっかりしょげていた。
「トレバーと一緒にあっちでカエルの聖歌隊のレコードを聴いていたんだ。それで、僕がお菓子を取りに少し目を離したらトレバーがいなくなって……」
ネビルは目に涙を浮かべ、今にも泣きだしそうだった。ハリーたちはすぐ見つかるよと励ますが、それでも彼はずっと悲しそうな顔をしている。
マーガレットはちらりと左肩にのるネモのことを見た。ネモも時々、勝手にどこかに行ってしまうことがある。そんな時、マーガレットはネモが帰って来るのか心配になる。きっと、ネビルも同じ不安を感じているのだろう。
「わかりました。きっと、トレバーもそう遠くには行ってないはずです。ですから、わたしもあなたと一緒に探します。必ずトレバーを見つけてあげましょう」
マーガレットがそう声をかけると、ネビルはほんの少し元気を取り戻したようだった。
「おーやおや。お菓子が大好きな
マーガレットが振り返ると、そこにはホグワーツ城のポルターガイストがいた。ピーブズは
「ピーブズ。そうだ、一応聞きますが……彼のカエルのトレバーを知りませんか?」
「
ピーブズはマーガレットの質問には答えず、ケラケラ笑っている。しかし、マーガレットはわかっていた。こういう時は決まってピーブズがかかわっているのだと。
「わたしはマーガレット。それに、あなたがこうもタイミングよく現れたということは、あなたがトレバーを隠したということでしょう」
「チッ、チッ、チッ、隠したんじゃないさ。飼い主に置いてかれた可哀そうなカエルとパーティーにも出られず、暗い部屋に閉じ込められたままの可哀そうな犬を友達にしてやろうとしたのさ」
ピーブズはゲラゲラと笑い声をあげた。その様子を見て、ハリーたちは顔をしかめている。ポルターガイストに振り回される大変さを彼らはすでに知っているようだ。
「僕、トレバーのことを置いていったんじゃないよ。それに、トレバーは今、犬と一緒にいるの! トレバーが踏みつけられたり、食べられたりしちゃったらどうしよう!」
「ピーブズ、これ以上あなたがふざけるようなら『血みどろ男爵』をお呼びします。それが嫌なら、わたしをトレバーの元まで案内して」
マーガレットは青ざめた顔のネビルの肩をさすりながら毅然と言い放つ。
「怖い怖い、それなら案内してやるよ。
マーガレットがふと足元を見ると、いつの間にかカップケーキが置かれていた。点々と並べられたカップケーキの道しるべは城の中まで続いている。
「少し待っていてくださいね。トレバーは必ず連れて帰りますから」
「先生、僕も……。僕も、一緒に行きます。早く、トレバーを助けに行かないと」
「わかりました、一緒に行きましょう。ネモ、先導をお願い。すぐに戻りますから、皆さんはパーティーの続きを楽しんで」
ネモを先頭に、マーガレットとネビルはトレバーの救出へと向かった。
童話とは違い、カップケーキの道しるべは途切れることなく続いていた。マーガレットたちは一応カップケーキを回収しながら向かっていたが、四階にたどり着いた頃には二人ともすっかり両手が塞がっていた。
薄暗い廊下を歩き、ある扉の前にたどり着く。先を行っていたネモとトレバー誘拐事件の犯人であるピーブズが二人の到着を待っていた。
「遅かったねえ。
「だから、わたしはマーガレット。マーガレット・マノック。それより、トレバーはどこですか?」
「この扉の先だよ。ほーら、あそこにいるだろう?」
ピーブズが軽く押すと、扉は音を立てて開いた。扉の先はマーガレットたちのいる廊下よりも暗く、なにがあるのかははっきりとはわからない。しかし、それでも一匹のヒキガエルがいることだけはわかった。
「トレバー!」
「ハハハ、あとは楽しんで! ハッハのハー」
ネビルは嬉しそうな顔でトレバーに駆け寄る。その様子を見て、ピーブズはヒューという音とともに姿を消した。
マーガレットもネビルたちのもとに行こうと一歩足を踏み出す。しかし、後ろからなにかに引っ張られるような感覚を覚えた。思わず振り返ると、ネモがローブの裾を引っ張り、飼い主が扉の向こう側に行かないように引き留めている。
「ネモ? どうしたの?」
その時、ネビルの悲鳴が聞こえた。彼は腕に抱えていたカップケーキをすべて放り投げ、腰を抜かして床にへたり込んでいる。
マーガレットはなにがあったのか確かめようと目をこらした。そして、ネビルに一歩、また一歩と近づいていく巨大な犬の姿を見た。
「あれは!」
その犬はただ大きいだけではなかった。怪獣のようなぎょろりとした目玉が六つ、ヒクヒクと動く鼻が三つ、よだれの垂れ下がった大きな口が三つ。大きな顔が三つあるが、胴体は一つ。神話や物語に出てくるような三頭犬の姿がそこにはあった。
ピーブズが「暗い部屋に閉じ込められたままの可哀そうな犬を友達に」と言っていたのだから、トレバーのいる場所に他の生物がいることはわかりきっていた。それに、よくよく考えればこの場所は9月にダンブルドアが今年いっぱいは入っていけないと言っていた四階の右側の廊下だ。自分がもっと慎重だったならば、とマーガレットは悔やむ。しかし、今は反省よりも生徒の救出の方が先だ。
「ネモ! 前のトロールの時みたいになるかもしれない。急いで先生を、クィレル先生を呼んできて!」
しかし、ネモは飼い主のことが心配なのか、咥えたローブをなかなか離さない。
「ネモ、わたしは大丈夫。だから、わたしの言うとおりにして」
ネモはマーガレットの顔をじっと見つめていたが、「カア」と小さく返事をするとその場から飛び去った。マーガレットはネモが少しでも早く戻って来ることを祈りながら、三頭犬を刺激しないよう慎重に「禁じられた廊下」へと足を踏み入れる。
三頭犬はマーガレットには目もくれず、ずっとネビルのいる方向を見ていた。一歩近づいては喉を鳴らし、また一歩近づいては他の頭が喉を鳴らしている。
マーガレットが隣に来るとネビルは彼女のローブに裾をぎゅっと掴んだ。
「先生、僕たち食べられちゃう」
ネビルの心配はもっともだった。いざ近寄ってみると三頭犬はとんでもなく大きかった。それこそ、まだ体の小さなネビルだけでなく、マーガレットも一口で食いちぎられてしまいそうなほどの大きさだ。
「あの時、トレバーを助けようなんて思わなければよかった。やっぱり僕にそんな勇気なんてなかったんだ……」
「そんなことありませんよ。だって、あなたは今もトレバーのことを守ろうとしているじゃないですか」
ネビルはなにかに気づき、手元を見た。彼は左の手のひらにのったガマガエルを右の手で大切そうに包み込んでいる。
「あなたはトレバーのことを助けたいと、守りたいと思って行動した。それに、上手くいかなかったとしても、それは絶対にあなたに勇気がないということにはなりません」
マーガレットは両手に抱えていたカップケーキを宙に放り投げた。そして、右手で杖を構え、左腕は恐怖で震えるネビルの肩に回す。
「でも、愛と勇気の物語はハッピーエンドの方がいいですし、わたしはそうであってほしいと思う」
三頭犬の真ん中の頭が大きく口を開けた。マーガレットは
どういうわけか三頭犬はマーガレットたちではなく、彼女たちの周りに散らばったカップケーキを食べ始めた。三つの頭それぞれが小さなカップケーキを舌の上で転がし、その甘味をよく味わってから飲み込んでいる。
三頭犬はマーガレットたちには目もくれず、ただただカップケーキを食べ続けていた。てっきり自分たちが狙われているとばかり思っていたマーガレットとネビルは目を白黒させている。
「犬って、カップケーキが好きなんですか?」
「それよりも肉の方が好きだとは思いますが……。そんな冥界の番犬ではないですし……。あ、『
マーガレットはギリシャ神話に出てくる「ケルベロス」のことを思い出した。冥界の番犬として冥界から逃げようとする亡者や反対に冥界に入ろうとする生者を貪り食う恐ろしい生き物とされているが、ケルベロスには弱点がある。
一つ目は音楽。エウリュディケを追って冥界に訪れたオルフェウスの美しい竪琴の音でケルベロスは眠ってしまったとされている。
そして、もう一つの弱点がお菓子といわれている。ケルベロスは甘いものが大好きであり、菓子を食べている間はその目の前を通ることができるとされている。まだ人の身であったプシュケもその方法で冥府の門をくぐったのだ。
つまり、神話に出てくる三頭犬と同じように、この「禁じられた廊下」の三頭犬もお菓子が好きで、それを食べている間は他のことなど気にならなくなってしまうらしい。
「このこともぜひ論文で取り上げたいですね」
論文で紹介するいい事例が見つかったとマーガレットは独り言ちた。研究のためにもうしばらく観察していたいが、神話と同じならば三頭犬が大人しくなるのは音楽を聴いている間か、お菓子を食べている間だけだ。マーガレットはゆっくりと腰を上げ、この場から離れる用意をし始める。
「立ち上がれますか? それから、トレバーはちゃんといますか?」
「もう大丈夫。トレバーもここに……」
ネビルもゆっくりと立ち上がった。まだ足が少し震えているが、それでもあの扉くらいまでなら歩けそうだった。
「ゆっくりとで大丈夫ですから、行きましょうか」
「うん」
マーガレットに支えられ、ネビルは一歩足を踏み出した。しかし、なにかが足に引っかかり、彼は顔から転んでしまった。幸い、三頭犬は食事に夢中でマーガレットたちにはいまだ気づいていない。
「ごめんなさい」
「いいえ、謝る必要なんてありません。これに足が引っかかってしまったんですね。これは……」
マーガレットが見たところそれは仕掛け扉のようであった。ネビルはその取っ手に足を引っかけてしまったようだ。もう一度ネビルを立ち上がらせ、二人はさらに慎重に禁じられた廊下の外へと向かう。その間、マーガレットはあることを思い出していた。
——フラッフィーなら四階の右側の廊下におりますだ。なんでも
9月1日にハグリッドから聞いたあの話。自分たちのいる場所がその四階の右側の廊下なのだから、あの三頭犬こそが「フラッフィー」なのだろう。そして、フラッフィーは守るために必要な存在。ということは、あの仕掛け扉の先にはその守らなければいけないものがあるのではないだろうか。
マーガレットは扉をくぐる直前にもう一度だけ振り返った。三頭犬はあいかわずカップケーキを食べている。その姿はどこか愛らしいが、大きく開いた口からのぞく牙は鋭く、三頭犬がいかに番犬として優れているのかを物語っている。
それに、マーガレットはその凶暴性をよく知っていた。大きな顔が迫ってくる恐怖、腕を振り上げた時の絶望感。本で読んだのではなく、実際にこの目で見たことがあるような気がしていた。
ネビルとともに扉をくぐり、魔法で鍵をかける。これでもう三頭犬に襲われる心配もなくなった。
「よく頑張りましたね。もう大丈夫ですよ」
マーガレットはローブの内ポケットからチョコレートを取り出し、にっこりと微笑んだ。
「甘いものを食べると元気がでますよ。これを食べて、みんなのところに帰りましょう」
マーガレットとネビルが訓練場に戻るとハリーたちが駆け寄ってきた。彼らはネビルが無事にトレバーを連れ帰ったことを確認すると、「やったね」とか「よかったわ」と声をかけていた。
そして、マーガレットたちの帰りを待っていたのは生徒だけではなかった。
「ミス・マノック。君は……無事でしたか」
マーガレットは声の聞こえた方向に視線を動かす。そして、クィレルの姿を見つけると白い歯をのぞかせて笑った。
「先生! 来てくださったんですね!」
「来たといいますか、
クィレルの視線の先にはネモがいた。マーガレットが指で招いてやると、ネモは彼女の左肩にとまる。
マーガレットはいつものようにネモの頭を撫でるが、ネモはいつものようには目を閉じなかった。その代わりに、クィレルのことをじっと睨みつけている。
「しかし、わたしを呼ぶ必要などなかったのでは? 君一人でどうにかなったようですし」
「それは——」
「ネビル! またあの廊下に行ったのかい!」
ハリーが突然声を張り上げた。そのせいでマーガレットもクィレルも思わず子供たちの方を向いてしまう。
「ハリー、声が大きいわ」
「ごめん……。でも、どうやってあの怪物犬がいる廊下からトレバーを連れて帰ってきたんだ?」
「それは……。最初は僕たちも食べられちゃいそうだったんでけど、あのでっかい犬がカップケーキを食べ始めて……。その間にトレバーを捕まえて逃げてきたんだ」
「おったまげー。あの馬鹿でかい怪物がお菓子を食べる間はおとなしかったって?」
「うん。たしか、マノック先生が『ケルベロス』って言ってた」
ハリーたちはマーガレットのことを見た。皆、説明してほしそうな顔をしている。
「ケルベロスというのは、古代ギリシャやローマの神話で語られる冥府、つまり死後の世界にいる頭が三つもある大きな犬のことです。ケルベロスは冥府から逃げようとする亡者を食う恐ろしい存在とされていますが、実は弱点があります。その一つが——」
「音楽を聴かせる。竪琴の名手オルフェウスはケルベロスに美しい音楽を聴かせ、眠らせることで冥界下りを成功させたのよ。それに、ケルベロスは甘いものも好きだったわ! 『ケルベロスにパンを与える』ってことわざもあるくらい!」
ハーマイオニーは顔を真っ青にさせていた。
「そうよ。あの三頭犬をどうにかする方法なんて、とっても簡単じゃない! こんなの誰でも知っているわ!」
「どうしよう。これが——」
「待ってください。ミス・グレンジャー、あなたたちもあの部屋に入ったことがあるのですか?」
マーガレットからの質問に、ハリーたちは気まずそうに顔を見合わせている。
「叱るつもりだとか、減点するつもりだというわけではありませんよ。あなたたちはまだ一年生ですし、きっと道に迷ってあの廊下に迷い込んでしまったのでしょう」
ハーマイオニーは咄嗟に頷いた。正確には道に迷ったわけではないのだが、目の前の教師がそう勘違いしてくれるならば、それに越したことはない。
「わかりました。あなたたちが前に入ってしまったことは、ここだけの秘密にしましょう。だから、フラッフィー——あの三頭犬のこともあなたたちの胸の内にとどめておいてくださいね。とくにミスター・ウィーズリー、あなたの双子のお兄さんたちにはくれぐれも教えないように。彼らがもし、そのことを知ったらなにをしてくれるかわかりませんから」
ハリーたちは揃って首を縦に振った。
「ありがとう。では、この話はここまで。パーティーはもうしばらく続きますから、どうぞ楽しんで」
グリフィンドールの一年生たちを見送り、マーガレットは安堵のため息を漏らす。しかし、ほっとしていられるのも束の間だった。彼女の肩に死人のように冷たい手が置かれたのだ。
「なるほど。だから、君は禁じられた廊下の三頭犬から無傷で逃れることができたのですか。あの怪物とマグルの神話に出てくる架空の生き物の類似性に気がつくとは……さすがマグル学教授」
「いえ、今日のことは偶然といいますか——」
マーガレットは言葉に詰まってしまった。今、自分に話しかけているのは彼女が尊敬してやまない恩師であるはずなのに、その声も、表情も、仕草も、なぜだかすべてが別人のように感じる。光の加減のせいか、彼の薄い灰色の瞳も今は緑色に見えていた。
「先生?」
「君は私にはできなかったことも成し遂げてみせる。あぁ、また君はそうやって、そうやって私を……」
クィレルは無意識のうちにマーガレットの右肩を掴む力を強めていた。マーガレットは思わず小さく悲鳴を上げる。
「先生、少し痛いです」
クィレルは慌ててマーガレットから手を離した。そして、ふらふらと後退ると、また
「す、す、すみません。よ、用事があることをお、思い出しました。わ、私はこれでし、失礼します」
クィレルは逃げるようにその場を去っていった。マーガレットはじんわりと痛む右肩を押さえながら、その後ろ姿を見送ることしかできない。
今の彼女には、かつての恩師にどう話しかければいいのかがわからなかったのだ。