マーガレットが目を覚ましたのはその二日後だった。彼女が真っ先に目にしたものは真っ白な天井——ではなく、青い目をした目をした鴉。ネモは飼い主が瞼を開けるとベッドの上で飛び跳ね、くちばしを何度も打ち鳴らしていた。
「目を覚ましましたね、ミス・マノック」
「マダム・ポンフリー……。ここは……」
マーガレットは自分が医務室にいることに気がついた。
「あなたは禁じられた森の中で倒れていたのですよ。ハグリッドがここに連れてきた時にはすでに意識もなく、こうして二日も眠り続けていました」
二日も眠っていたと聞き、マーガレットは慌てた。少しでも早くあのマグル学教室に戻らなければいけないのに体が思うように動かない。
「ミス・マノック、あなたには休息が必要です。ですから、まだこの医務室を出る許可は出せません」
「でも、わたしには授業が……」
「ミス・マノック、あなたが教授であったとしても、ここではわたしの指示に従っていただきます。それから、もう今日の授業は終わりましたよ」
マダム・ポンフリーの言うとおり、窓からは赤い西日が差し込んでいた。もうそろそろで夕食の時間だろうかと考えていると、マーガレットのお腹はグーと音を立てた。二日も寝ていただけあり、彼女の胃袋は空っぽだったのだ。
「お腹を空かせる元気があるのならば、明日にもここを出られるでしょう。わたしは一度ここを離れますが、しばらくは横になっていてください。あなたが目を覚ましたら呼ぶようにと、ダンブルドア校長から承っておりますので」
マダム・ポンフリーが去り、医務室にはマーガレットとネモだけが残された。マーガレットはゆっくりと目を閉じ、どうして自分がここに運び込まれることになったのかを考える。しかし、いくら考えても研究室で論文の仕上げを行っていたことまでしか思い出せない。
「わたし、
そう呟いたマーガレットの手は小さく震えていた。ネモはそんな飼い主の表情を心配そうにのぞき込む。
しばらくすると、マダム・ポンフリーがダンブルドアを連れて戻ってきた。マダム・ポンフリーはいつまでに面会を終わらせるようにとダンブルドアに伝えると、再び医務室を出ていった。
「マーガレット、君と少し話をしたいのじゃ」
マーガレットは小さく頷く。ダンブルドアは微笑み、ベッドサイドに置かれた椅子に腰を下ろした。
「寝たままでよい……。マダム・ポンフリーからあまり長居はしないように言われていてな。じゃが、どうしても君から聞かなければならないことがあるのじゃ。マーガレット、君が禁じられた森の中で倒れていたのは知っておるか?」
「はい、マダム・ポンフリーから聞きました」
「そうか。では、どうして禁じられた森にいたのかは憶えておるか? なにかを追いかけて森まで行ったのか。それとも、誰かに呼ばれたのか行ったのか。わしに教えてくれぬか」
「それは……、それは……」
マーガレットの体が急にガタガタと震え出した。
「ごめんなさい。あの……、あの、その夜のことをわたし……えっと、その、なにも憶えていなくて……。本当に……ごめんなさい」
「マーガレット、思い出せないことに罪悪感を覚える必要はない。落ち着いて、落ち着いて」
眼鏡の奥の明るいブルーの瞳と目が合う。その透き通るような目を見つめていると、なぜか思い出せなかったはずの論文を書き終えたあとの出来事がぽつぽつと頭の中に浮かんでくる。
「あの夜、わたしは……。わたしは、ネモを探しに行きました。もう寝る時間だったのに、ネモがどこにもいなかったんです。二階の女子トイレも中庭も探して、最後に防衛術の——クィレル先生の部屋にも向かってみたら、ネモの羽根が落ちていました。だから、それに追跡魔法をかけて……」
「では、君はネモのことを追いかけていたのじゃな」
ダンブルドアは驚いたのか、マーガレットとネモを交互に見て、「そうじゃったのか……」と呟く。
「あの、ダンブルドア校長……。ごめんなさい。わたしは、その、ここまでしか……思い出せませんでした」
「いや、これで十分じゃ。それに、この先の記憶はきっと君にとっては辛いものじゃろう。無理に思い出す必要はない」
ダンブルドアはマーガレットの震える左手を包み込むように握った。老魔法使いの手は温かく、マーガレットはほんの少し気持ちが楽になった。
「君があの夜の出来事を思い出せないのは、きっと忘却術が原因じゃ。ハグリッドが君を森で見つけた時、君の左手にはベッタリと銀色の——ユニコーンの血がついていた。あとでハグリッドやケトルバーン先生が調べたところ、足に包帯を巻いたユニコーンも見つけたそうじゃ。そこから推測するに……あの夜、あの森にはユニコーンを殺そうとしていた者がいた。そして、森に迷い込んだ君は瀕死のユニコーンとその不届き者を見つけてしまったのじゃろう。君のことじゃ、きっとユニコーンを助けようとした。しかし、反対に君が襲われ、記憶を消されたのじゃ」
ダンブルドアはマーガレットの手をそっと離し、ベッドの中にしまった。
「そういうことがあったものじゃから、他の先生方にも協力していただいてな、禁じられた森の警備を少し強めることにした。それと君の勇気ある行動のおかげでユニコーンはまだ一匹も殺されていない」
「それは……よかったです」
でも、マーガレットには一つ気になることがあった。あの夜、わたしが誰かに襲われたということまでわかっているのならば、この老魔法使いはそれが誰なのかを聞くためにここに来たのではないか、と。
「ですが……、ダンブルドア校長。ユニコーンを襲い、わたしの記憶を奪った犯人は誰なのでしょうか? その、わたし自身はなにも、なにも思い出せないからお答えできないのですが、校長先生はそれを聞くために、ここにいらっしゃったのではないかと思いまして……」
ダンブルドアは一瞬だけ厳しい表情になった。
「……それがじゃな、わしらもさっぱりわからないのじゃ。じゃから、マーガレットから話を聞けるのが一番よいのかもしれないが……それは、君があの夜のことを思い出したということ。つまり、また君が危険に晒されるかもしれぬ」
その時、マダム・ポンフリーが夕食を持ってマーガレットのベッドに近づいてきた。
「おや、もうこんな時間か。では、わしも戻るとするか。じゃが、最後にもう一つだけ。マーガレット、どんなに大切なものでも、そのすべてを守りきれるわけではないのじゃ」
そう言い残し、今世紀で最も偉大な魔法使いは医務室をあとにした。
「すべては守りきれない……」
マダム・ポンフリーが運んできたおいしそうな夕食をぼんやりと見つめながら、マーガレットは今しがた聞いた言葉を反芻していた。
——その夜、マーガレットは夢を見ていた。
彼女は夜の森の中にいた。森は真っ暗でシーンとしていて、ときおり吹く風が彼女の黒髪を撫でる。
彼女は自分の視線の先に純白に光輝くものを見つけた。
——あれはなんだろう?
暗い森の中でその白い光は一際目を引いていた。好奇心に駆られ、彼女は一歩足を踏み出す。そして、月明かりに照らされた落ち葉を踏みしめながら、森の奥へ向かっていた。
一歩前に進むごとに光は強くなっていく。しかし、それと比例するかのように周囲の温度は下がっていた。それに、なにかが腐ったようなにおいも漂っている。彼女は自分の足が微かに震えていることに気がついた。これ以上進むべきではない、と理性ではわかっていた。
しかし、それでも彼女は前に進み続けた。そして、銀色の血を流し、地面をのたうち回る哀れなユニコーンの姿を見てしまった。
彼女は知っていた。ユニコーンは強い魔力を持った生き物で、そのユニコーンが怪我することなどそうそうない。ということは、このユニコーンは何者かに襲われたのだろう。そして、このユニコーンは
「ここでなにをしている?」
つまり、ユニコーンは襲った犯人は
真夜中に目を覚ましたマーガレットはまず真っ先にネモを抱きしめた。ネモも目を覚まし、飼い主の耳元で優しく「カア、カア」と鳴く。
「ごめんね、ネモ。起こしちゃったよね。あのね、怖い夢を見ちゃったの……」
マーガレットが再び口を開くには、ずいぶんと時間がかかった。その間、ネモはずっと飼い主のことを見つめていた。
「ユニコーンが襲われている夢。それでね、そのユニコーンを襲った犯人が……先生だったの」
マーガレットはもう一度ネモのことを抱きしめた。
「姿を見たわけじゃない。けど、あの声は、あの杖は確かに先生だった。でも、こんな夢を見てしまうなんて、わたしが先生を疑っているみたいで……」
マーガレットは震えていた。もちろん夢が怖かったせいでもある。しかし、一番彼女が怖かったのは、自分が恩師に対して不信感を抱きかけていることだった。
「ネモ、きっとただの夢だよね。未来の予言でも過去の再現でもない、ただの夢だよね?」
マーガレットの質問に対し、ネモは「カーカー」と答える。しかし、マーガレットにとってはネモの返答などどうでもよかった。あれはネモに問いかけているようで、実は自分に言い聞かせるためのものでしかなかったのだから。
その後、あの夢の続きを見てしまうことが怖くてマーガレットは一睡もできなかった。
結局、マーガレットがマグル学教室に戻れたのは翌日の昼過ぎだった。顔色の悪さ——睡眠不足が原因だろう——をマダム・ポンフリーに指摘され、それが改善するまでは医務室から出してもらえなかったのだ。
マーガレットは明日からの授業再開に向けて教室の掃除をしていた。たった数日帰ってこなかっただけなのに、いつも使っているOHPには薄っすらと埃が積もっている。実家でも使っている毛ばたきをパタパタ動かすが、その動きはどこか精彩を欠いていた。
マグル学教室に戻ってきてから、マーガレットはずっと考え事をしていた。いったい、いつクィレルに会いに行こうか、と。きっと今までだったならば、まず真っ先に恩師のもとに顔を出しに行っていたことだろう。
しかし、あの夢を見てしまったからか、どうしても闇の魔術に対する防衛術の教室に足を運ぶ気になれなかった。このマグル学の教室を出ようとすると、なぜか足がすくんでしまうのだ。
あれほどいつも会えることを楽しみにしていたのに、今は顔を合わせてしまうことが怖い。マーガレットは苦しい胸のうちを誰にも明かすことができずに一人苦しんでいた。
だが、再会の時はすぐに訪れてしまった。教室の扉をノックする音を聞き、マーガレットは体をこわばらせた。彼女がなかなか返事をしなかったからか、もう一度——今度はより力強く——扉がノックされた。
「開いています。その、どうぞお入りください」
マーガレットはそれを言うだけでもやっとだった。
「は、は、入りますよ」
扉の向こうには頭に大きなターバンを巻き、手にハンノキの杖を握る男の姿があった。彼の姿を見て、ネモは「ガアガア」と威嚇の声を上げる。しかし、彼はネモにかまうことなく、後ろ手で扉を閉めるとゆらゆらとマーガレットに近づいてきた。
「き、き、君が倒れたと聞いたときはお、驚きました。た、体調はいかがですか? ま、まだ顔色がよくないようですね。それに、そんなに震えて……。ミス・マノック、どうかしましたか?」
クィレルに言われて、マーガレットは自分の体が震えていることに気がついた。少しでも震えを押さえようと、自分で自分の体を強く抱きしめる。だが、あまり効果はなかった。かえって、内に秘めたクィレルへの恐怖心を自覚してしまうだけだった。
「君はあの夜のことをなにも憶えていないと聞きましたが……。もしかして、なにか思い出しましたか?」
マーガレットの体が一際大きく震えた。手にしていた毛ばたきも床に落としてしまう。
「ミス・マノック、正直に教えてくれませんか。あの夜、なにがあったのか憶えているのでしょう?」
マーガレットは首を横に振った。あの夜のことは憶えてない、それは本当のことだ。だって、彼女が見たものは夢でしかないのだから。
クィレルはマーガレットに杖を向けた。それを見て、ネモはクィレルに飛びかかる。また、あの夜の出来事が再演されようとしていた。しかし——
「——
突然、ネモがグルグルと回転し、ゴブレットへと姿を変えた。床に落ちた黒いゴブレットはクィレルの足元を転がる。クィレルが視線を上げると、マーガレットがいつの間にか杖を構えていた。
「あの、ごめんなさい。わたしが倒れてから、えっと、少しネモも気が立っているみたいで……。ごめんなさい、先生に不快な思いをさせてしまいました」
マーガレットはゆっくりと杖を下ろした。自分に戦う意思がないことをしめすために。
しかし、彼女ももうわかっていた。きっとあの夢は自分が失った記憶の一部なのだと。だから、ユニコーンを傷つけたのも、自分を襲ったのも目の前にいるかつての恩師なのだということにも気づいていた。
だからこそ、本当はここから逃げるべきなのだ。ネモも自分を逃すため、彼に立ち向かおうとした。なのに、マーガレットはネモの思いを裏切った。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……」
その謝罪はクィレルに向けてでもあったし、ネモに向けてでもあった。
「先生、正直にお話しします。あの夜、あの森の中であったことは本当に、本当になにも憶えていないんです。でも、昨晩、夢を見ました。その、森の中で傷ついたユニコーンと……先生の姿を見てしまう夢を」
マーガレットはもう立っていられなかった。床に崩れ落ち、目から大粒の涙を流す。
「ごめんなさい。夢だって、わかってはいるんです。でも、なぜだか先生にお会いするのが怖くなってしまって……。でも、わたしが一番怖かったのは、自分が先生に疑いや恐怖を少しでも抱いてしまったことで……。本当に、本当にごめんなさい」
逃げなければいけないと、誰かに真実を伝えなければいけないとマーガレットも頭ではわかっていた。けれど、そうしてしまったらクィレルがどこか遠くにいってしまうような、もう二度と会えなくなってしまうような気がしたのだ。
何度も何度も謝るマーガレットの肩にクィレルは手を置いた。マーガレットはふと顔を上げるが、視界が滲んでいるせいで彼の表情はよくわからない。
「ミス・マノック、それは……それは悪い夢ですよ」
マーガレットはクィレルの言葉をただ黙って聞いていた。もちろん、それが嘘だということはわかっている。でも、今はただその言葉を信じたかった。それが本当であったらいいのにと思っていた。
「——
床に転がったままになっていたゴブレットを元の姿に戻し、クィレルはマーガレットに手を差し出した。ネモはもう大人しくなっていて、飼い主たちの様子をじっと観察している。
マーガレットは彼の手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。しかし、まだ足が震えているせいで、彼女は前に倒れそうになる。しかし、クィレルに抱きとめられたことで、マーガレットが転ぶことはなかった。
「あの、助かりました。
クィレルの胸にもたれ掛かり、心地良さそうに目を閉じながらマーガレットは呟いた。
「だから、これからも
「それは……」
クィレルは言葉を詰まらせた。
「できない約束です。もう、私と君は会うことがないのですから」
「先生、それはどういうことですか?」
マーガレットは目を開けた。そして、クィレルの顔を見ようとする。しかし、彼の顔よりも先に自分たちのことを見ている三つの小さな顔を見つけてしまった。
「ねえ、やっぱりあの二人——」
「ロン、あなたにデリカシーってものはないの?」
「でも、フレッドもジョージも、それからパーシーまで言ってたう——」
「ロン!」
顔を真っ赤にしたハーマイオニーがロンの口を塞ぐ。一方、彼らがなにを話しているのかよくわかっていないハリーはマーガレットと目が合うと「マノック先生、クィレル先生、こんにちは」と挨拶した。
「その……。あなたたち、どうかしましたか?」
「私たち、マノック先生にお聞きしたいことがあって来たんです。でも、お取り込み中でしたか?」
「い、い、いえ。わ、私ももう帰るところでした。で、では……。さようなら、ミス・マノック」
クィレルはハリーたちのことを一瞥し、マグル学教室から出て行った。
「……あぁ。あの、ミス・グレンジャー、どのような質問ですか?」
「マノック先生、あの三頭犬のことを誰かから聞かれませんでしたか?」
「三頭犬のこと、ですか」
マーガレットは記憶をたどるが、とくに思い当たるようなことはなかった。
「そのようなことは……なかったはずです」
「それは……、先生が禁じられた森で襲われた時もですか?」
「あなたたちも知っていましたか。やはりホグワーツではすぐに噂が広まりますね」
「僕たちはハグリッドから聞きました。それから、ユニコーンのことも……。ひどい奴がいたもんだって」
ハーマイオニーの代わりにハリーが答えた。
「実は、あの夜のことはあまりよく憶えていないんです。だから、なにがあったかということは、わたしにもわからなくて……」
「あの森に誰がいたのかもわかりませんか? 例えば、このホグワーツにいる誰かだったかもしれないとか」
マーガレットの瞳孔が開いた。それはほんのわずかな変化であったが、ハーマイオニーは見逃さなかった。
「……その、ごめんなさい。誰に会ったのかも憶えていないの。それに、わたしが襲われたのは多分偶然ですよ。えっと、ネモを探して森に迷い込んだら、たまたまユニコーンを見つけてしまったみたいですから」
「わかりました。マノック先生、お忙しいところ失礼しました」
ハーマイオニーは男子二人を連れてマグル学教室を出た。急ぎ足で階段を降り、踊り場で立ち止まる。
「ハーマイオニー、なにかわかった?」
「わかったわよ。マノック先生は禁じられた森でこのホグワーツにいる誰かと会っているわ。だって、憶えていないとは言っていたけれど、私が質問したら動揺していたもの」
「ということは——」
「きっとフラッフィーのことを聞き出すために襲われたんだわ!」
彼らは賢者の石の守りがそう長くはもたないことを悟った。
一方、賢者の石のことも、それをめぐる陰謀のこともまだ知らないマーガレットは恩師から言われた「さようなら」の意味をずっと一人で考えていた。
第1章「賢者の石」編もいよいよクライマックスです。
このあとのお話はなるべくまとめて投稿したいと考えているので執筆に少々お時間をいただきます。
次の投稿はしばらく先となってしまいそうですが、どうぞよろしくお願いします。では、また。