6月4日——ついに試験が終わり、生徒たちはみな浮足立っていた。勉強漬けの日々から解放された彼らは友人とのおしゃべりに興じたり、さんさんと日の射す校庭で遊んでいたりと思い思いの時間を過ごしている。
マーガレットも二年前まではそんな生徒たちの一人であった。研究室のソファーに寝転がって読書に勤しんだり、仕事を終えてひと息ついているマグル学教授とお茶をしたりとそれはそれは楽しい時間を過ごしていた。
しかし、それも遠い日の出来事のように思える。マーガレットにとって、あの頃は毎日が充実していた。マグル学の教室やクィレルの研究室で見るもの、聞くもののすべてがマーガレットの胸を躍らせた。だからこそ、彼女はこの場所で過ごす時間が大好きであった。
だが、彼女の恩師にとってはどうだったのだろうか? あの森での一件があってから、彼女はそんなことを考える機会が増えていた。
マーガレットとクィレルがマグル学教室で最後に会ってから一週間以上が過ぎている。クィレルの「もう会うことがない」という言葉のとおり、あの日からマーガレットは一度も恩師の姿を見ていなかった。
昨年の6月にクィレルがホグワーツに戻ってきてからはお互いに多忙だったこともあり、顔を合わせる機会はかなり減っていた。しかし、それでも食事の席などで挨拶を交わすことくらいはできていたはずなのだが、最近はその機会すらもない。
クィレルがマーガレットを避けている事実は誰の目から見ても明らかで、マーガレット自身も自分は恩師に嫌われていたのだと思うようになっていた。
「だって、嫌われて当然だったもの……」
採点の手を止め、マーガレットは頭を抱えた。ネモは飼い主のことを心配そうに見上げている。
クィレルに嫌われてしまっていたことも、もちろんマーガレットにとってはショックであった。しかし、自身が教師となった今ならば、かつての自分が嫌われても仕方がない生徒だったことはわかる。授業の準備に試験の採点、それから自身の研究と教授の仕事はとにかく忙しい。なのに、あの頃の自分は相手のことをよく考えずに研究室に顔を出しては勉強を教わったり、遊び相手になったりしてもらっていた。
クィレルはそんなマーガレットのことも一度も邪険には扱わなかった。でも、それはきっと彼が優しい人だったからなのだ。マーガレットは思う。ずっと恩師の優しさに甘え続けていた自分など嫌われて当然だ、と。
「わたし、どうすればいいの……」
嫌われているのならばこのまま顔も見せず、話しかけもせずに過ごせばいい。でも、かつてのような関係に戻れないからこそ、マーガレットとクィレルには話し合わなければならないことがあった。それはずばり、マグル学教授の席についてだ。
二年前、マーガレットはクィレルの助手としてこのホグワーツで働き始めた。クィレルが長期の研究休暇を取っていたため、あの一年授業を受け持っていたのはマーガレットだったがマグル学教授はクィレルである。
そして一年前、クィレルは闇の魔術に対する防衛術の教授になり、マーガレットはマグル学の教授になった。問題はクィレルがなった闇の魔術に対する防衛術だ。防衛術は教師がみな一年以内に辞めていくといういわくつきの教科。マーガレットの在学中も何人もの教師が時には不慮の事故で、時には事件を引き起こして一年もしないうちにホグワーツを去っていった。クィレルもきっとそのジンクスどおりに職を辞するのだろう。
だが、闇の魔術に対する防衛術の教授を辞めたあと、彼はどうするつもりなのだろうか?
「先生、この教室に戻ってきてくれませんか……」
マーガレットは独り言を呟いた。でも、それは彼女の心からの願いであった。クィレルから一年間の別れを告げられたあの日、マーガレットはクィレルに言った。わたしはここで待っている、だから必ず帰って来てください、と。わがままを言ってしまえば、その約束を守ってほしいのだ。
でも、今のままではクィレルが帰ってこられないこともわかっている。マーガレットはペンをスタンドに立て、部屋をぐるりと見渡した。
ずらりと本棚に並べられた小説、戸棚にしまったクッキー缶、デスクに置かれたオルゴール——どれもこれもがマーガレットの私物で、この部屋の主が彼女であることを主張している。
マーガレットはオルゴールに手を伸ばし、そのネジを巻いた。そっと蓋を開け、「トロイメライ」の調べに耳を傾ける。瞼を閉じると、この部屋の在りし日の情景が胸をよぎった。
本棚に並んだ写真の動く図鑑や文字が浮き出る百科事典、棚に飾られた異国の花で作った押し花の額縁、デスクに置かれたくるくると回り続ける地球儀——どれもこれもがクィレルの私物で、今はこの部屋に一つとして残っていない。
マーガレットはオルゴールを閉じ、歪な笑みを浮かべた。こんなに変わってしまった部屋で帰りを待っているなど傲慢な考えだったように思う。
「わたしがここを去れば、先生も戻ってきてくださるのかな?」
マーガレット自身、それが一番丸く収まる方法だと思った。これなら、クィレルが教師を続けることもでき、元教え子を助手として手元におく必要もなくなる。それに、あの禁じられた森での出来事もマーガレットが口を噤んでさえいればクィレルが犯人だと露見することはない。わたしがホグワーツを去ればいい、マーガレットはそう自分に言い聞かせていた。
「ネモ、いい考えだと思わない?」
マーガレットはネモに語りかける。しかし、ネモはマーガレットをじっと見つめたまま、なんの反応もしめさなかった。
「あはは、難しいね。でも難しいからこそ、ちゃんとこのことはクィレル先生と話さないとだね。……先生、もう一度だけでもわたしと会ってくださるかな」
マーガレットはネモの頭を撫でながら、明日のことを考えていた。試験も終わった明日ならばクィレルとも会えるかもしれない。彼の研究室の前で待ち続けていたら姿を見せてくれるかもしれない。
もし尊敬する恩師ともう一度だけ話せるのなら、その時は今までのことをすべて謝り、今までの感謝をすべて伝え、そしてお別れすればいい。
でも、それは今日じゃなくて明日。できることなら、その日がもっと先ならばいいのに。そんなことを考えながらマーガレットは一日を過ごし、明日を迎えるため眠りについた。
——マーガレットは夢を見ていた。
目の前には大きな扉。彼女はその扉には見覚えがあった。
彼女は扉にもたれかかり、全身を使って押してみる。しかし、ピクリとも動かない。以前この場所を訪れた時とは違い、扉には鍵がかけられている。
夢の中の彼女はそれ以上先に進もうとはしなかった。固く閉ざされた扉に背を向け、暗く冷たい夜の廊下をじっと見つめる。その身じろぎひとつしない姿は近衛兵に似ていて、誰もここを通さないために見張っているようでもあった。
扉を開けるのでもなく、ここから立ち去るのでもなく、どうしてこの場所に残ろうと思ったのかは彼女にもわからない。ただ、この選択が正しかったことを彼女はすぐに知った。コツ、コツという足音が近づいてくる。そして、闇の中からある人物が姿を現した。
——クィレル先生。
クィレルもこちらに気がついたのか一瞬だけ足を止めた。そして、重々しい足取りでこちらに向かってきながら、消え入りそうな声で「またか……」と呟く。
夢の中とはいえ、彼女にとってはずっと会いたかった、話したかった人との再会である。
——わたし、先生とお話ししたいことがあるんです。
彼女はクィレルに話しかけようとした。しかし、なぜか声が出ない。口は動くのだが、言葉に出せないのだ。
「今度はなんのつもりですか?」
クィレルは深いため息をついた。彼はずっと俯いていて、目の前にいるはずの彼女と目を合わせようともしない。
——どうして? なんで声が出ないの?
どんなに話しかけたいと、どんなに自分の思いを聞いてほしいと願っても声は出せないままだった。
「いや、聞いたところで答えられないか」
彼女がどんな状況にあるのかをクィレルはわかっているかのようだった。彼はじっと足元を見つめ、わずかに口元を歪ませる。
「君が言葉を話せたら、最後に一つ伝言でも頼めましたが……。あぁ、これで君と会うことももうないでしょう」
クィレルは彼女の脇を通り過ぎ、扉に手をかけた。彼の唱えた解錠呪文で鍵は簡単に開いてしまう。
——先生、行かないで……。
これが夢だということはわかっている。けれど、今この人のことを止めなければ、もう二度と会えなくなってしまうような気がする。会えなくなって、顔も声もいつかは忘れ、思い出も憧れもいずれ思い出せなくなってしまうように彼女は思った。
——もうあんな思いはしたくないのに。わたしは
クィレルは軋む扉の向こうに一歩足を踏み入れる。そして、ゆっくりと振り返るとまた視線を下に向けた。なにかを名残惜しそうに見つめながら、彼は静かに口を開く。
「さようなら、——」
「——
その時、ようやく彼女の喉が震えた。大きく口を開け、声を立てる。しかし、彼女が発したそれは人の言葉ではなかった。
わけもわからず、もう一度声を出そうとする。だが、口から漏れるのは「カア」とか「ガー」という鴉の鳴き声だけであった。
「誰を呼ぶつもりですか? 君のご主人様も今頃は夢の中でしょう?」
呆れと憐憫の入り混じったような声が上から降ってきた。彼女はゆっくりと顔を上げる。青い瞳と灰色の瞳、二つの視線がようやく交わった。
「——ネモ」
クィレルは自分のことを見上げる青い目の鴉に杖を向ける。
「私の邪魔をしないでくれ。今更だということはわかっている。でも、もう君たちのことを傷つけたくはない」
この鴉が静かに自分のことを見送ってくれるのならそれでいい、彼はそう思っていた。飼い主の元に戻り、また何事もなかったかのように次の朝を迎えればよい、と。
しかし、鴉はクィレルの顔をまじまじと見つめ、再び大きな声で「カーカー」と鳴いた。
「クィレル、とっとと片づけろ」
「……はい」
その声に抗うだけの力などクィレルからはとっくに失われていた。無理に抵抗したところで今度は身体の主導権を握られ、操り人形と化すだけである。ならば、まだ自分の意識があるうちに……。
「許してほしいとは言いません」
クィレルの杖から放たれた赤い閃光が青い目の鴉に迫る。しかし、鴉はそれをひらりとかわし、三度「カーカー」と鳴いた。
それが正しいのかはわからない。けれど、クィレルにはその鳴き声が自分に対して「行くな」と言っているように聞こえていた。
「私にはもう戻れる場所など……」
青い目の鴉はクィレルのローブの裾を咥えるとその場にぺたんと座り込んだ。そして、灰色の瞳をじっとのぞき込む。
「愚か者め、たかが鴉になにをぐずぐずしている。早くしろ」
「申し訳ございません、ご主人様。すぐに」
クィレルは自分のことを見上げる青い目の鴉にもう一度杖を向けた。鴉はそれでもクィレルのローブを離さない。
「——
マーガレットは目を覚ました。
「……ネモ?」
鴉の名前を呼ぶが返事はない。体を起こし部屋の中を見回すがネモはどこにもいなかった。
「ネモはどこ……」
マーガレットはふと窓の外を見た。空は暗く、まだ深い闇に包まれている。
その光景が夢の中のあの廊下の景色と重なった。
「あの夢、もしかして……」
サイドテーブルに置いてある金の懐中時計に手を伸ばす。時計の針も今が真夜中であることをしめしていた。日が昇り、次の朝が始まるまではまだ十分に時間がある。
「きっと、間に合うよね」
マーガレットはベッドから飛び起き、白いネグリジェの上にいつものローブを羽織った。それから、長い黒髪を後ろで一つに結え、白い杖と金の懐中時計をそれぞれローブの内ポケットにしまう。
「フラッフィー、ケルベロス……。それなら——」
デスクに置いたオルゴールを手に取ると、マーガレットは急いで研究室をあとにした。そして、禁じられた廊下へとまっしぐらに駆けていく。
誰とも出会うことなくマーガレットは四階までたどり着いた。すっかり呼吸も荒くなり、息をするのも苦しいが立ち止まるわけにはいかない。肩を上下させながらも禁じられた廊下に向かって歩み続ける。
「ネモ!」
一羽の鴉が大きな扉の前で力なく横たわっていた。マーガレットはネモに駆け寄り、その体を抱き上げる。トクトクという心臓の動きが指先に伝わり、マーガレットは安堵の笑みをこぼす。
「よかった……。——
呪文を唱えると、ネモはゆっくりと目を開けた。始めは青い瞳をキョロキョロと動かしていたが、飼い主の顔を見つけると瞳孔を広げて彼女のことだけを食い入るように見つめていた。
マーガレットはそんなネモのことを強く抱きしめる。彼女は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「あのね、不思議な夢を見ちゃったの……。ネモがクィレル先生を引き留めようと、たった独りで頑張っている夢。……でも、夢じゃなかったんだね」
マーガレットはあの夢が
しかし、夢から覚め、ネモが部屋にいないと気がついた時、あの夢のとおりのことが起きようと、いや、
そして、その直感は正しかった。ネモは禁じられた廊下の前にいたし、失神呪文で意識を失っていた。つまり、この扉の向こうには——。
「ネモ、クィレル先生はこの先にいるんだね」
飼い主の腕の中でネモは小さく頷いた。マーガレットはローブの袖で目元を拭い、いつものようにネモを左肩にのせる。
「わたし、どうしても先生にお話ししたいことがあるの。だから……。ネモ、一緒に来てくれるよね?」
ネモは飼い主のことを見つめ、「カアカア!」と元気に鳴いた。それを聞き、マーガレットも安心したように笑う。
「ネモ、ありがとう。ネモがいてくれるなら、きっと大丈夫」
マーガレットはゆっくりと扉を開けた。扉の軋む音とグルルルという唸り声が聞こえてくる。
「待っていてください、先生」
杖を抜き、大きく深呼吸をする。そして、マーガレットとネモは禁じられた廊下に再び足を踏み入れた。
三頭犬も侵入者の存在に気づいたようで三つの頭を持ち上げ、低い唸り声を発した。足がすくんでしまいそうになるほどの威圧感だが、マーガレットは冷静にオルゴールの蓋を開けた。小さな宝石箱から心地の良い音楽が流れ始める。
三頭犬の六つの目すべてがすぐにとろんとし始めた。だんだんと唸り声が消え、足取りもおぼつかなくなる。やがて膝をついて座り込むとそのまま深い眠りについてしまった。
「神話のとおりにこれで寝ちゃうんだ……」
マーガレットは床に倒れていたハープの隣にまだ音楽の流れ続けているオルゴールを置く。そして、犬とぶつからないよう慎重に仕掛け扉のもとまで移動し、その引手を思いっきり引っ張った。仕掛け扉が跳ね上がり、足元に広がる真っ暗闇が姿を現す。
「——
底が見えない。マーガレットはこの暗闇が永遠と続いていて、地の底まで落ちてしまいそうに感じた。
「『この門をくぐる者はすべての望みをすてよ』*1」
マーガレットはずいぶんと昔に祖父から読み聞かされた叙情詩の一節を諳んじた。
この仕掛け扉はまるで地獄の門だ。禁じられた廊下は守るための場所。三頭犬の試練を乗り越えてこの扉をくぐっても、底にはまた新たな試練が待っている。多くの苦難に直面し、奥までたどり着いたところで絶望しかないのかもしれない。しかし、それでも——
「けど、この門をくぐらなければなにも始まらない。それに……。ほら、『おまえの行く地獄は、わたしにとっては天国だ』*2だったかな。先生がこの先にいるのなら、落ちていくのなんてちっとも怖くない。むしろ、それよりも怖いのは——」
その時、フラッフィーの唸り声が聞こえた。耳を澄ませば、オルゴールのメロディーもずいぶんとゆっくりになっている。あれが止まれば、三頭犬も目を覚ますのだろう。ならば、やるべきことはもう一つしかない。
「ネモ、行こう!」
返事の代わりに、ネモは飼い主の肩を力強く掴んだ。マーガレットは左手でネモの頭を撫で、右手では絶対に落としてしまわないように杖をぎゅっと握りしめる。そして、彼女は先の見えない暗闇にその身を投じた。
かなり投稿があいてしまい申し訳ありません。ですが、その間もお気に入り登録をしてくださる方や感想をくださる方がいてくださり、とても励みになりました。ありがとうございます。
さて、前回のあとがきで「このあとのお話はなるべくまとめて投稿したい」と書いたのですが、書き溜めができなかったのであいかわらずの不定期更新になってしまうかと思います。卒論の息抜きに書き進められるかな、と思いましたが私にはできませんでした。とはいえ、卒論の方は無事に片がついたので、まずは第1章「賢者の石」編の完結を目指していきます。