冷たい湿った空気を切って、マーガレットは下へ、下へと落ちていく。行く手を見極めようと下を見下ろすがなにも見えない。白うさぎを追って不思議の国へと迷い込んだアリスが落ちたうさぎ穴もきっとこんな場所だったのだろう。
「——
マーガレットは杖を自分の胸に当て、呪文を唱えた。クッション呪文をかけた途端、落下のスピードが緩まる。
上を見上げると、入口の穴は切手ぐらいの小ささに見えた。かなり高い所から落ちていたようだ。
マーガレットはゆっくりと着地する。その瞬間、体が沈み込むような感覚を覚えた。どうやら地面が柔らかいらしく、クッション呪文を唱えなかったとしても、それなりに安全にここまで落ちてくることができるようだ。
まだ暗闇に目が慣れないため、次はどこに向かえばいいのかがわからない。しかし、今はじっとしている時間が惜しい。
「どこかに扉とか通路はないかな」
マーガレットは前に進むため、右足を上げようとした。しかし、なぜか足が持ち上がらない。
よく目を凝らして足元を見れば、両足にツルが絡みついている。振りほどこうとすれば、ツルはよけいに足を締め上げる。
「これは……悪魔の罠!」
マーガレットは何年か前の薬草学の授業でこの悪魔の罠について学んだ。その時、悪魔の罠には動くものを締めつける習性があるので正しい撃退方法を知り、冷静に対処できるようにとスプラウト教授から言われた覚えがある。
「悪魔の罠は暗闇と湿気を好む。それなら——
部屋の中が真昼のように明るく、そして暖かくなった。悪魔の罠は強い光にひるんだようでその拘束を緩める。
さらに、部屋が明るくなったことでマーガレットは奥に進むための通路を見つけることができた。
「あそこを進めばいいんだ。ネモ、しっかり掴まってね」
マーガレットは悪魔の罠のツルの上を駆け抜け、細い通路に体を滑り込ませた。ツルもここまでは伸びていない。気を抜くことはできないが、いくらかは安全な場所のように思える。
マーガレットとネモは一本道を進んでいた。その道は下り坂になっていて、彼女たちをこのホグワーツ城のさらに奥深くへと誘う。
しばらく歩いていると、前の方からなにかが擦れるような音や金属のぶつかり合う音が聞こえてきた。
「この音、鳥が飛んでいる音みたいだけど……。あ、ネモも見て! 出口の先、あそこでなにか動いてる」
マーガレットたちは通路の出口を目指す。彼女たちが前に進めば進むほど、鳥の羽音らしき音は大きくなっていった。
出口を出ると、そこはまばゆく輝く部屋だった。暗い場所からいきなり明るい場所へと出てきてしまったものだから、マーガレットが思わず目を細くする。
部屋の向こう側には分厚い木の扉。あれがきっとさらに奥に進むための扉なのだろう。そして、高いアーチ形の天井の下を宝石のようにキラキラとした無数の小鳥が——。
「鳥じゃなくて……。あれは……
金の鍵や銀の鍵、大きな鍵に小さな鍵。その一つ一つに羽が生えていて、部屋の中を縦横無尽に飛び回っている。
「もしかして、あの群れの中に先に進むための鍵が?」
マーガレットは扉に駆け寄り、銀製の取っ手を引いた。だが、やはりと言うべきか扉には鍵がかかっている。開錠呪文も唱えてみるが、それでも扉は開かない。
マーガレットは錠をよく調べた。
「おじいさまからピッキングのやり方を教わっておけばよかった……。錠がこれなら、鍵は古いもので……それから大きくて、取っ手と同じ銀製かな」
探すべき鍵はわかった。しかし、マーガレットは頭上を仰ぎ、うーんと唸る。
魔法にかけられた鍵は何百羽もいる。しかも、それが絶えず動き回っているのだから、その中から正解の鍵を見つけ出すのはかなり大変だ。さらに、見つけたところで今度はそれを捕まえなければならない。
マーガレットは部屋に箒が置いてあることに気づいた。きっとこれで鍵を捕まえろということなのだろう。しかし、マーガレットはどちらかといえば飛行訓練の授業は苦手であったし、クィディッチの選手たちのように箒を意のままに操る技術など持ち合わせていない。
「どうすれば……」
マーガレットはぽつりと呟いた。思考を巡らし、自分でも鍵を取ることができそうな方法を考える。
追いかける、動きを止める、引き寄せる。箒や魔法を用いるそれらの方法は、きっとそのどれもがこの試練における正攻法なのだろう。しかし、マーガレットはそれらとは異なる
「ネモ、あの扉の鍵を見つけて。ネモなら、できるよね?」
マーガレットが視線を向けるとネモは力強く頷き、飼い主の肩から飛び立った。鍵の群れの真っただ中を突っ切り、高々と舞い上がる。そして、すべての鍵を追い越すと天井ぎりぎりをぐるぐると旋回し、目当ての鍵を探し始めた。その姿は金のスニッチを探すシーカーだ。
ネモはきっとやってくれる、マーガレットはそう確信していた。しかし、ネモは鍵をなかなか見つけることができない。というのも、他の鍵がブラッジャーのようにネモ目がけて飛んでくるからだ。すべてかわしてはいるものの、避けることに集中してしまっていればおちおち捜索もできない。
「わたしも、わたしのできることをしないと」
マーガレットは杖を頭上に構えた。片目をつむり、狙いをよく定める。
「——
マツの杖の先から白い光の弾が放たれる。それは一直線に飛び、天井近く飛んでいた鍵に当たると弾けた。呪文をうけた鍵は真っ逆さまに床に落ちる。それはもちろん探している鍵ではなかったが、邪魔が減ったからかネモは嬉しそうに「カア!」と鳴いた。
「——
ビーターが棍棒を振るうように、マーガレットは虹色の羽の渦に向かって杖を振り続ける。そのおかげで部屋の中を飛んでいる鍵も少しずつ減っていた。そんななか、マーガレットはすばしっこく動き回る大きな銀色の鍵を見つける。
「あれは——。ネモ!」
マーガレットは明るいブルーの羽が生えた鍵のことを指さした。ネモもそれに気づいたらしく、鍵を目で追いながら捕まえるタイミングを見計らっている。そして、自分のちょうど真下をその鍵が通ろうとした瞬間、ネモは頭を下げて降下の準備に入った。
それからの出来事はあっという間だった。ネモはお目当ての鍵に向かって急降下しながら大きく口を開けた。鍵の方も黒い大きな影が迫っていることに気づいたようだったが、飛行の名人である
鍵を咥えたまま、ネモは床すれすれを滑空する。そして、翼を大きく羽ばたかせて減速すると扉の前に着地した。
マーガレットはネモに駆け寄り、その頭を撫でる。
「いい子いい子。ネモ、さすがだね」
マーガレットはネモが咥えていた鍵を受け取った。ネモに捕まった時に折れたのだろうか、片方の羽が曲がってしまっている。その姿が痛ましくてマーガレットは直したいと思うが、元気になったことでまた逃げられてしまってはたまらない。先を急ぐためにも、マーガレットはしっかりと掴んだ鍵を鍵穴に突っ込んで回す。
カチャリと鍵の開いた音がした。開いたと思ったのも束の間、件の鍵は飛び去ってしまった。羽が曲がっているために弱々しい飛び方ではあるが、もうずいぶんと高くまで飛んでいった。
「あの鍵も直してあげたいけど、でも……。ネモ、先に進もう」
マーガレットが「おいで」と合図するとネモは彼女の左肩にのった。マーガレットは銀の取っ手に手をかけ、ぐっと引っ張る。扉の先にはまた暗闇が広がっていた。
「次の試練はなんだろう」
マーガレットは真っ暗な部屋に足を踏み入れる。が、一歩中に入ると光が部屋中を満たした。
「これは——」
マーガレットは目の前の光景に驚き、言葉を失った。ネモも飼い主と同じように口をぽかんと開けている。
白と黒の正方形を交互に並べた床の上に石の彫刻が並んでいた。その彫刻の中には王冠を身につけているものもあれば、剣を持っているもの、馬に乗っているものもある。
「もしかして、ここはチェス盤の上?」
手前側には黒い駒、向かい側には白い駒。そして、その白駒の奥にまた新たな扉がある。ならば、先に進むためにはこの盤上で勝利をおさめなければならないということだろう。
「チェスをしなきゃ、奥には行けないってことかな」
それは独り言のつもりだった。だが、黒のクイーンがマーガレットの方を向き、首を縦に振った。マーガレットが目を白黒させていると黒のクイーンはチェス盤を下り、彼女に持ち場を譲る。
「あなたの代わりにわたしが盤に上がればいいの?」
黒のクイーンは再び頷いた。
「こういうチェスは初めてだけど……。でも、先に進むためには頑張らないと」
マーガレットは黒のクイーンがいたマスの上に立った。そして、先攻の白駒が動き出すのを待つ。しかし、なかなかゲームが始まらない。なぜだろうと部屋の中を見回すと、いつの間にか黒のビショップが盤から下りていた。
「ビショップ、元の場所に戻って! あなたの代わりはいないの!」
しかし、黒のビショップは一向に戻る気配がない。これではいつまで経っても始められない、とマーガレットは頭を悩ませる。しかし、そんな時だった。
不意に左肩が軽くなった。なにごとか思って視線をやれば、ネモが黒のビショップが元いたマスに向かって飛んでいる。
「待って、ネモ! これが魔法使いのチェスと同じなら、ネモが怪我をするかもしれない!」
マーガレットが声をかけても、ネモは振り返らなかった。なんの躊躇いもなく空いたマスの上に降り立つ。
「ネモ?」
ネモは飼い主のことを見て、元気に「カアカア!」と鳴いた。そして、その鳴き声をきっかけに白のポーンが前進する。ようやく試合が始まったのだ。
「
マーガレットの指示どおりに駒が動く。
「大丈夫。わたしだって、絶対に守ってみせるから」
自分を勇気づけるため、マーガレットはそう呟いた。
「ビショップをC5へ。これで——」
マーガレットはもう一度よく盤面を見渡してから口を開いた。
「——チェックメイト!」
白のキングは脱いだ王冠をマーガレットの足元に放り投げた。黒の勝利で試合が終わったのだ。マーガレットはまず真っ先にネモのもとへと駆け寄る。
「やったよ! わたしたち、勝ったんだよ!」
胸に飛び込んできたネモを抱きしめ、マーガレットは嬉しそうに笑う。彼女はこのゲームで黒のキングはもちろん、
駒もマーガレットたちの勝利を認めているようで、左右に分かれて扉への道を開けている。前を通ると駒は礼儀正しくお辞儀をして彼女たちのことを見送った。
マーガレットはネモを抱きかかえたまま扉を開け、次の通路を進む。
「フラッフィーはハグリッドが用意したんだよね。ということは、悪魔の罠はスプラウト教授、さっきのチェスはマクゴナガル教授。それから、あの翼の生えた鍵は……箒があったからマダム・フーチ? いえ、ああいう遊び心のある魔法はフリットウィック教授かな」
ネモの頭をマーガレットはそっと撫でる。
「この場所には多くの先生方がかかわっている。ということは……。ネモ、クィレル先生もなのかな」
マーガレットはふと足を止めた。
「先生の試練か……。ちゃんと超えられるかな……」
マーガレットはハッとした様子で顔を上げると、ネモを安心させようと小さく笑った。
「あぁ、ごめんね。前に進まないといけないのに、弱気になんかなっちゃいけないね」
ネモを左肩にのせ、マーガレットは再び歩き出す。そして、次の扉の前までで再び足を止めた。
「この声……」
マーガレットは耳をすませる。扉の向こうからはブァーブァーという低い唸り声が聞こえていた。その音だけで、マーガレットはこの先になにがいるのかを理解する。
「……クィレル先生らしい試練です。ネモ、絶対にわたしのそばから離れないでね」
マーガレットは扉を押し開けた。むかつくような悪臭が辺りに漂う。マーガレットはローブの袖で鼻を覆い、唸り声を上げながら棍棒を振り回している山トロールのことを観察していた。
トロールの奥に扉が見える。あれが奥に向かうための扉であることはまず間違いないが、その前でハロウィーンの時に見たものよりも一回りほど大きなトロールが棍棒をぶん回しているのだから迂闊には近寄れない。
幸い、トロールはまだこちらに気づいてはいないようだ。そのため、落ち着いて突破口を探すだけの時間はあった。
「ハロウィーンの時と同じ山トロール……。きっと、あのトロールにも太陽の光は効かない。それなら、あの時の先生と同じ方法でやってみよう」
マーガレットはローブのポケットに手を突っ込んだ。そして、ボール型のチョコレートを三つ取り出し、床に向かって投げる。
「——
三つのチョコレートが三つの巨石に変身し、ゴロゴロと床に転がる。あのハロウィーンの夜にクィレルが棍棒を弾き飛ばしてトロールを倒したように、マーガレットも大きな石をトロールの頭にぶつけようと考えたのだ。
「まずはこっちを向いてもらわないと。——
白い光が部屋中を包み込む。その光があまりにも眩しかったものだから、マーガレットは少し目を細めた。
トロールも部屋が突然明るくなったことに驚いたのか、ほんの数秒間動きを止めていた。しかし、
マーガレットは顔の前に杖を構えた。青い瞳はしっかりと前を見つめている。
「どうか、どうか今だけは先生のことを超えさせてください」
そして、杖をまっすぐ前に突き出す。
「——
一つ目の石が勢いよく吹き飛び、トロールの顔に迫る。上手くいった、とマーガレットは思った。
しかし、現在はそう上手くいかない。石はたしかにトロールの巨体目がけて飛んでいたが、振り回されていた棍棒に打ち返される。マーガレットには当たらなかったものの、彼女の背後の壁にぶつかって石は砕けた。
「嘘……。今のは?」
マーガレットは冷たい汗が頬を伝う感覚を覚えた。鼓動が早くなり、指先が震えそうになる。
「えっと、今度こそ。——
もう一度呪文を唱えた。しかし、石は明後日の方向に転がっていく。打ち返された時の動揺が杖さばきにも出てしまったのだ。
「それなら、その、——
今度は呪文を少し変えてみる。マーガレットの期待どおり、三つ目の石は大きな放物線を描き、トロールのもとへと向かう。
しかし、正確な位置に飛ばすことを意識し過ぎたばかりに今度は速度が足りていなかった。そのため、トロールは飛んできた石を悠々とキャッチすると、そのまま片手で握りつぶしてしまった。
石がなくなり、マーガレットは再びポケットに手を突っ込んだ。そして、最後のチョコレートを取り出す。
「これが最後の一つ……」
普段ならばもっと多くにお菓子を持ち歩いているのだが、そういった準備は毎朝の起きてからの日課だった。それに、頭を使う試験の採点をしていたということもあり、ポケットの中の備えはかなり少なくなっていたのだ。
「——
先ほどと同じようにチョコレートを石に変える。そして、杖腕に左手を添え、狙いを定める。
「——
四つ目の石はトロールの眉間を目がけて真っ直ぐに飛んでいく。コントロールもスピードも十分だ。
しかし、あと少しのところでまたもや棍棒に阻まれる。石はトロールが振り下ろした棍棒に打ち返され、今度はマーガレットに迫る。
「——
ドンッと重い音がした。石は盾の呪文にぶつかり、粉々に砕け散る。自分の身を守ることはできたが、それと同時に貴重な攻撃手段を失った。
「どうしよう……」
投石作戦が失敗した以上、次の方法を考えなければならない。マーガレットはからのポケットに手を入れるが、もちろんそこにはなにもない。念のために反対のポケットや内ポケットも調べるが菓子
「もしかして、これなら……」
マーガレットは内ポケットから金の懐中時計を取り出した。その懐中時計には首からも下げられるように金のチェーンが繋がっている。
「
マーガレットはかつて教会の聖書で読んだ物語を思い出す。のちにイスラエルの王となる羊飼いの少年ダビデが投石具と石だけで2メートル超もある巨人ゴリアテを倒したという伝説。
マーガレットは手のひらにのせた懐中時計をじっと見つめていた。古代から語り継がれる英雄と自分を比べてしまうなどおこがましい。だが、ダビデがゴリアテを倒したのと同じように、自分も目の前のトロールを倒せそうな気がしていた。
しかし、マーガレットは大きく頭を振る。
「ううん。でも、この時計は大切なものだから…」
クィレルから入学祝いとしてもらった時計。長年使っているだけのことはあって蓋に多少の傷はついているが、それでもまだ新品と遜色のない輝きを放っている。それをトロールに投げつけるなど、時計を壊そうとしているようなものだ。
だが、扉の前に立ちふさがるあのトロールを倒さなければ奥へは進めない。奥に進めなければ、その先にいるはずのクィレルとも会うことはできない。だからこそ、ここで立ち止まったり、諦めたりするわけにはいかない。
そんな時、マーガレットはふと祖父の言葉を思い出した。
——これはマイケルが修理したオルゴール。いや、本当に見事だった。
そういうことだったのか、とマーガレットは納得する。あのオルゴールの修理に父は本当に魔法を使っていたのだろう。だって、割れた皿も欠けたティーカップも魔法でなら傷一つ残さずに元に戻すことができるのだから。
しかし、万能な魔法にも元に戻せないものはある。人の命、過去の記憶、それから友情や信頼。どんなに魔術を学んだところで、これらを元どおりにすることなんてまずできない。
マーガレットは懐中時計を握りしめた。もし時計は壊れたとしても直すことができる。また以前と同じ時間を刻むことができる。
でも、もしここで立ち止まっていたせいでクィレルと会うことができなかったら? もう一度話す機会を失ってしまったら、それを取り戻すことはできるのだろうか?
マーガレットは心を決めた。
「ネモ、わたしはこれからとっても愚かで、とっても馬鹿なことをする。だから、応援してね」
マーガレットは金のチェーンを右手で強く握りしめ、体の横で振り回し始めた。次第に速度がつき、ぶんぶんと風を切る音が聞こえる。
トロールはこちらを直接襲うつもりがないようで、扉の前から一歩も動かない。そのため、マーガレットも狙いがつけやすかった。
「わたしは英雄でもないし、偉大な魔法使いでもない。でも!」
マーガレットは想像する。自分の投げた懐中時計がトロールの眉間に命中するところを。
「『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる』! だから、わたしにだってあなたは倒せる!」
マーガレットはチェーンから手を離す。それからのことは彼女にはスローモーションのように見えていた。
金の懐中時計はマーガレットの手を離れ、トロールの顔を目がけて飛んでいく。金のチェーンが尾のように伸びていて、マーガレットはまるで流れ星みたいだと思った。
トロールはあいかわらず棍棒を振り回している。先ほどはあの棍棒に何度も攻撃を阻まれた。しかし、金の流星はその無骨な棍棒と太い腕の隙間を通り抜け、トロールの顔に迫る。マーガレットの中で期待が確信に変わった。
トロールの眉間をマーガレットの懐中時計が射た。ゴツンという鈍い音が耳に届き、トロールが後ろによろめく。
「本当に、倒せた?」
トロールは壁に頭をぶつけ、その反動で今度は床に顔から倒れ込もうとしている。視線も定まっておらず、あきらかに気を失っている。
マーガレットは片手を握りしめ、思わずガッツポーズをしそうになる。しかし、その気持ちもすぐに消えてしまった。トロールが倒れ込もうとしている床に懐中時計も落ちていることに気がついた。このままでは時計はトロールの下敷きになってしまう。
「——
マーガレットが呪文を唱えるよりも先にネモが動いた。ネモは力強く翼を羽ばたかせ、懐中時計のもとへ向かう。そして、飛行したまま懐中時計を足で掴むと急旋回してマーガレットのもとまで帰ってきた。
あまりの早業に言葉を失っているマーガレットのことを、ネモはつぶらな瞳で見上げている。
「……。あぁ。ごめんね。ネモがあんまりにもすごくて驚いちゃったの。いい子いい子。ネモのおかげで助かったよ」
マーガレットはネモから懐中時計を受け取った。ぶんぶん振り回してから投げたのだからもっと傷がついたり、故障してしまったりするものだと思ったが、蓋が一か所凹んでいるだけであとは何の問題もなかった。
「動作も異常なし。……少し蓋が凹んじゃったけど、これはここであったことの記録になるから、直さなくてもいいのかもね」
マーガレットの言葉にネモは「カアカア」と答えた。ネモも彼女の意見に賛成しているようだ。
トロールはすっかり床で伸びていた。これなら、しばらくの間は動かないだろう。
「ついておいで、ネモ」
マーガレットはトロールの脇を通り、扉に手をかける。
「ネモ、ゴールはきっともうすぐだよ。だから、もう少しわたしと一緒にいてね」
扉の先では新たな試練が彼女たちを待ち構えていた。
「あれは薬瓶? なら、今度はスネイプ教授かな」
部屋の中心にテーブルが置かれていて、その上に形や大きさの違う七つの瓶が一列に並べられている。
マーガレットは扉の敷居をまたぐと、通ったばかりの入口でたちまち紫の炎が上がった。と同時に、前方のドアの入口にも黒い炎が上がる。ネモは少し驚いたのか、飼い主の肩の上でぴょんと跳ねた。
マーガレットは瓶の横に置かれていた巻紙を手に取って読み上げた。一通り読み終わると、「あぁ、なるほど!」と声を上げる。
「これは論理の問題。なんだ、とっても簡単!」
学生時代、寮の談話室に入るためにこの手の問題は何度も解いてきた。だからこそ、少し考える時間があれば絶対に答えを導き出せるという自信があった。
マーガレットは何度も巻紙と机に並んだ瓶を見比べ、時折うーんと唸る。その間も彼女はしきりに手を動かしていたが、一つの瓶を指さすと「これが先へ進むための薬だね」と言った。
一番小さな瓶を手に取り、マーガレットはそれを炎にかざした。中身はさらさらとした青い液体で、瓶を軽くゆするだけでもちゃぷんという音がする。
「量は少ないけど、わたしたちの分はちゃんとありそう」
マーガレットは薬を一口飲み、身震いした。ネモが心配そうに彼女の顔をのぞき込む。
「大丈夫だよ、ネモ。急に体が寒くなっちゃっただけ。さすがスネイプ教授だね。この薬、とてもよく効くみたい。ほら、ネモも口を開けて」
マーガレットはネモの口の中に防火薬を三滴ほど落とした。瓶の中にはあと一人分、ほんの一口の量の薬が残っている。ネモも一度体をぶるりと震わせるとマーガレットの肩にしっかりと掴まった。
「急ごう!」
マーガレットは黒い炎の中を駆け抜ける。そして、最後の部屋へとたどり着いた。
その部屋の中央には大きな鏡が置かれていた。
「先生? クィレル先生? 先生、どこにいらっしゃいますか?」
マーガレットは何度も声を上げるが、返事は返ってこない。それに、クィレルの姿もない。
「わたし、間に合わなかったのかな……」
悪魔の罠、空飛ぶ鍵、魔法使いのチェスにトロールとの戦いと、この場所にたどり着くまで彼女は必死に走り続けていた。しかし、その努力もあと一歩足りなかったのかもしれない。そう思ってしまうと、どっと疲れが出てきた。
マーガレットは部屋の真ん中でへたり込み、目の前の鏡をのぞき込む。いったい、自分は今どんなにひどい顔をしているのか、と。
しかし、鏡には彼女の想像とは大きく違うものが映っていた。
きらきらと輝いている青い大きな目、血色のいい赤い唇とそこからのぞく白い歯、少しウェーブがかった黒い髪。七歳くらいだろうか、あどけない顔の少女が鏡の中でニコニコと笑っている。
マーガレットもその少女のことを知っていた。父のことを調べるうちに何度も彼女の写真は目にしてきた。あれは
「どうして……。どうしてあなたがいるの……」
鏡の中の少女はなにも答えない。だが、その代わりに腕を大きく伸ばして手を振っている。それは誰かを呼んでいるような仕草だった。
マーガレットは鏡に見入ってしまっていた。だから、少女の後ろからなにかが近づいてくることにもすぐに気がついた。
履き古した革靴、すらっとした茶色のズボン、腕まくりをした白いシャツ。それから少し癖のある茶色い髪に少女と同じ海のように深く、空のように澄んだ青い瞳。鏡の中の青年は少女の肩に手を置き、優しく微笑んだ。
「お父さん? お父さんなの……」
マーガレットは初めてだった。写真以外でこうして父の姿を見るのは。それに、彼が動いている姿も見るのも初めてだった。
鏡の中の少女と青年はお互いに見つめ合い、幸せそうに笑う。きっとこの光景こそ、マーガレットが記憶を失うまでは当たり前のようにあったはずの日常なのだ。
「お父さん……。お父さん……」
マーガレットは何度もそう呼びかける。しかし、鏡の中の父が今の娘の姿を見ることはなかった。
「『わたしはあなたの顔ではなく、あなたの心の望みを映す』。そういえば、君の夢はずっと前から変わっていませんでしたね」
その言葉とともに、鏡の裏から一人の男が姿を現した。