※一部、R-15に相当する描写や残酷な描写(流血表現)があります。
その男は鏡の横に立ち、マーガレットのことを見下ろしている。女は幼い頃の自分と父親の姿が映る鏡からゆっくりと視線を上げた。
「クィレル先生。……あの、わたし、その、先生と——」
「マノック、どうして君がここにいる!」
石造りの部屋にクィレルの声が響く。その震える声は怒っているというよりも焦っているようであった。彼はマーガレットの肩にのるネモのことをキッと睨む。
「私の邪魔をしないでくれとも、これで会うことももうないとも言ったはずだ! なのに、どうして!」
マーガレットは彼の言葉を聞き、あの夢が現実であったことを悟る。
「ごめんなさい。ただ、どうしても先生にもう一度だけでもお会いしたくて……。だって、先生は今夜、このホグワーツを去るおつもりですよね?」
クィレルは表情をこわばらせ、自身の体の後ろに右手を隠した。そして、マーガレットからは見えない位置でいつでも呪文をかけられるように杖を握る。
「……君はどこまで知っている?」
「四階の右側の廊下に先生がいらっしゃるのをネモが待っていたこと。先へ進もうとする先生のことをネモが止めようとしていたこと。それから、先生がネモに失神呪文をかけたこと。……その、今夜あの場所で先生とネモの間にあったことはすべて知っています」
まるで実際に見てきたかのように語るマーガレットにクィレルは驚きを隠せなかった。
「どうしてそこまで。君はあの場にはいなかったはずでしょう?」
「はい。あの、信じていただけないかもしれないのですが、また夢を見たんです」
「夢?」
マーガレットは小さく頷く。
「おかしな夢ですよ。わたしが禁じられた廊下にいて、そこに先生がいらっしゃったんです。夢の中だけど、先生にお会いできて嬉しいなと思ったのに、声が出ないせいでお話しすることができなくて。やっと声を出せたと思ったら、それは『カーカー』という鴉の鳴き声。気がついたら自分の体がネモに変わって……」
マーガレットは「みぞの鏡」を見つめ、わずかに口元をゆがめた。それは笑っているようにも、苦悶しているようにも見える表情だった。
「本当におかしな夢ですよね。でも、そうですね。えっと、あの夢のおかげでわたしはもう一度、こうして先生にお会いすることができました。……怖かったんです。先生
虚像の少女とその父親から目をそらし、マーガレットはおもむろに立ち上がる。そして、彼女は今の自分自身の姿が映り込む灰色の瞳を見た。
「わたし、先生とお話ししたいことがまだまだあるんです。それが先生にとってはご迷惑でしかないということもわかっています。でも、もう少しだけわたしに時間をくださいませんか? もう一度だけでいいんです。昔みたいに暖かい紅茶でも飲みながら、一緒にいさせてくれませんか? 先生、だから——」
——マグル学教室に戻ってきてくれませんか。
その一言を言うためにマーガレットは仕掛けられた罠をいくつも乗り越えてきた。しかし、彼女のその言葉は同じく仕掛けられた罠をいくつも掻い潜り、ここまでたどり着いた少年の声によってかき消された。
「あなた
ハリー・ポッターは黒い炎を背に、目を見開いていた。
「ミスター・ポッター? どうしてあなたがここに?」
「先生たちこそ! マノック先生、あなたも『石』を狙っていたんですか!」
「『いし』? それはなんですか?」
マーガレットはハリーがなぜここにいるのかも、そうして彼の言う「いし」のこともわからない。ただ、クィレルのあとを追いかけていただけである。
しかし、彼女の隣に立つもう一人の教授は、その「石」を求めてこの禁じられた廊下の最奥までやって来ていた。だからこそ、彼はハリーの言う「石」のこともよくわかっていた。
「ポッター、君も『賢者の石』のことを知っているのか」
その声はとても落ち着き払っていた。ハリーはいつも——彼自身が知る限りのいつも——とは違う、どもってもいない、痙攣もしていないクィレルを前に警戒心を強める。
「ネモにばかり気を取られていましたが、まさか生徒が知っていたとは。それも、『生き残った男の子』である君が……」
「先生、どういうことですか?」
「マノック、賢者の石は君も知っているでしょう? 金を作る石、『命の水』の源、私にはどうしてもその石が必要なのです」
「賢者の石」のことはマーガレットも本で読んだことがあった。卑金属を黄金に変え、人間を不老不死にするという深紅の石。数多の錬金術師が追い求め、手にすることがなかった伝説。
その「賢者の石」が実在するということをマーガレットは初めて知った。だが、ここは魔法界だ。ユニコーンやトロールと同じように、かつては架空の存在だと思っていたものが実在する世界。だからか、あの「賢者の石」が現実に存在ということにはそこまでの驚きを感じなかった。
いや、それよりもその錬金術の秘宝をなぜか恩師が探しているということに彼女は驚きを隠せなかった。
「そういえば、二人とも僕の誕生日にダイアゴン横丁にいたじゃないか! グリンゴッツの強盗もあなたたちだったなんて!」
ハリーは信じられなかった。マーガレットとクィレル、この二人は彼が初めて出会ったホグワーツの教師である。片や神経質ではあるものの真面目そうな男、片や鴉を連れた人当たりのよい魔女。けっして、第一印象は悪くなかった。だからこそ、彼は裏切られたような気分だったのだ。
「僕は……スネイプが犯人だと思ってたのに……」
「セブルスですか?」
「スネイプは僕を殺そうとした!」
ハリーの言葉を聞き、クィレルは笑い声を上げる。それは冷たく、鋭い笑いだった。
「たしかに、セブルスはまさにそんなタイプに見える。君の父親と彼はホグワーツの同窓で互いに毛嫌いしていたからか、君のことも憎んでいるようでしたから。しかし——」
クィレルは真剣な表情でハリーのことを見つめる。
「ポッター、君はいくつか大きな勘違いしています。一つは君のことを殺そうとしていたのは私であり、反対にセブルスは君を救おうとしていたこと。それから——」
その時、マーガレットはクィレルに腕を引っ張られ、バランスを保てず後ろによろめいた。ネモも驚いてしまい、思わず彼女の肩から飛び立つ。クィレルは倒れかかったマーガレットを羽交い締め、彼女が身動きできないようにした。
あまりにも突然の出来事であったためにマーガレットも抵抗することはできなかった。
「先生? どうしたんですか?」
マーガレットが問いかけるが、クィレルはなにも答えない。ハリーもこの急展開にはついていけていないようで、口をぽかんと開けていた。しかし、ネモは飼い主の身に起きていることを理解したようで、「ガアガア」と威嚇の声を上げる。
「静かに! ネモ、今度こそ私の邪魔をするな。また邪魔をしようものなら、私は君の飼い主を殺す」
ネモは鳴くのを止め、地面に降り立った。クィレルはネモがこれ以上抵抗しないことを確認し、再びハリーの方を向く。
「ポッター、君のもう一つの勘違いはミス・マノックも私の仲間だと思い込んだことです。彼女は私の計画とはなんの関係もない。ただ、私のことを探して不運にもここまでたどり着いてしまっただけなのですよ」
「でも、あなたたちはよく一緒にいたじゃないですか! それに、これは僕を油断させるために仲間割れのふりをしているだけかもしれない」
ハリーの疑念はもっともであった。マーガレットとクィレルが
「たしかに君の言うとおり、これは人を油断させるための罠かもしれない。その可能性を見落とさないということは、君は私が思っていたよりも賢い生徒のようですね」
その感心しているような言葉とは裏腹に、クィレルは大きくため息をついた。
「……しかし、それも君の思い違いです。私と彼女はその昔、教師と生徒の関係だっただけ。今は仲間でもなんでもない。これがその証明です。——
マーガレットの右肩に鋭い痛みが走った。彼女は短い悲鳴を上げ、力の抜けた右腕をだらりとたらす。ローブの肩口の部分が裂けていて、その下の白いネグリジェに赤い血が滲んでいた。
ネモは飼い主が危害を加えられたというだけあり、すごい剣幕でがなり立てる。
「ネモ、大丈夫だよ……。これくらい、大したことないから」
マーガレットは「大したことない」と言ったが、右手に思うように力が入らないことから彼女自身これがかなり深い傷であることは気がついていた。とはいえ、深い傷ではあるが魔法薬を飲み、医務室で二、三日休んでいれば完治しそうなものではある。
ネモは飼い主の意を汲み、そのくちばしを閉じた。だが、ハリーはマーガレットの指先から滴り落ちる血を見てしまったがために、すっかり顔を青くしている。
「どうして、そんなことを……」
「彼女がここに姿を現した時、私はどうしたものかと思いましたがまさか人質として使えるとは……」
クィレルはマーガレットの首筋に杖を突きつけた。
「ポッター、この鏡の前に立て。君が『賢者の石』を見つけ出し、私に渡すんだ。それができないのなら、今度は彼女の首を切る」
「逃げて! 早く逃げて! 先生! どうして彼を、ミスター・ポッターを巻き込むんですか!」
マーガレットは叫ぶ。しかし、彼女はクィレルに口を塞がれた。
「こうするしかないんだ。『賢者の石』はきっとこの鏡に隠されている。しかし、『わたしはあなたの顔ではなく、あなたの心の望みを映す』。この鏡をのぞいたところで、私も君も『石』を見つけることはなかった。だから……ポッター、ここへ来い!」
マーガレットはハリーに逃げてほしかった。しかし、彼はその場から一歩も動かない。
ハリーもここから逃げるべきだということはわかっていた。相手は大人の魔法使いだ。まず立ち向かうことなんてできない。
だが、彼は勇気のグリフィンドールに選ばれた少年である。ハロウィーンの日だって、トロールに襲われていたハーマイオニーを助けようとした。だから、彼はマーガレットを見捨てて逃げることはできなかった。
「ここへ来るんだ」
「僕が『石』を見つけたら、僕もマノック先生も解放してくれますか?」
ハリーの問いかけにクィレルは黙って頷く。それを見て、ハリーはクィレルの方に歩いていった。
クィレルはマーガレットを抱えたまま横にずれる。鏡の前が空き、そこにハリーが立った。
ハリーはじっと鏡を見つめている。彼になにが見えているのかはマーガレットにも、クィレルにもわからない。だが、そう時間もかからないうちにハリーはズボンのポケットから血のように赤い石を取り出した。
「ありました」
ハリーの手の中で輝く真っ赤な石を見て、クィレルはほっとしたような顔をする。
「ポッター君、それを早く私に」
クィレルはマーガレットの口を塞いでいた手をハリーに向けて伸ばした。ハリーもクィレルに『賢者の石』を渡そうとするが、あと少しのところでその手を止める。
「ちゃんと『石』は見つけました。だから、先にマノック先生を離してください」
「……わかりました。もちろんですよ」
クィレルはマーガレットの拘束を解こうとする。だが、彼のその行動を止める者がいた。
「待て」
突然、クィレルでも、ハリーでも、もちろんマーガレットのものでもない声が響いた。
「クィレル、なぜおまえは勝手にこいつらを逃がそうとしている?」
「ご主人様、『賢者の石』はもう見つかりました。ですから、彼女たちは必要ないのではないでしょうか?」
マーガレットはその声を夢で聞いたことを思い出す。彼女をこの場所まで導いたあの夢の中であの聞こえた声。声の主の姿まで見えないところも夢と同じだ。
「愚か者め」
謎の声は怒りに満ちていた。クィレルはこの声を恐れているようで、彼が怯えきっていることが手の震えを通してマーガレットにも伝わってきていた。
「ですが——」
「おまえ、わかっているのか? そこにいるのはハリー・ポッターだ。十年前、この俺様の身体を滅ぼし、ただの影と霞にすぎない惨めな存在にしたあの赤ん坊だ。あの日の借りを今こそ返してやろうではないか」
マーガレットの知識と謎の声が言ったことが徐々に結びついていく。1981年10月31日、ハリー・ポッターが「生き残った男の子」と呼ばれ、英雄視されるようになった出来事。もしや、この声の正体はかつて魔法界を恐怖と憎悪に陥れた張本人ではないだろうか。
しかし、そんなはずはない。「例のあの人」はあの日、ハリー・ポッターによって滅ぼされたはずだ。だから、生きているはずなんてない。だが、それでも今のマーガレットは謎の声の正体が彼なのだとしか思えなかった。
「クィレル先生、どうして先生が『例のあの人』——ヴォルデモートと手を組んでいるんですか?」
「小娘、おまえもずいぶんと命知らずなようだな」
クィレルの震えが一段と大きくなった。
「彼女は——ミス・マノックは魔法界での生活があまり長くないので、ご主人様の偉大さをよく理解していないのです」
「クィレル、なにを恐れている? あぁ、そうか。おまえはこの小娘への情をまだ捨てきれないのか。しかし、“マグル育ち”だったか。ふん、穢らわしい。俺様が『命の水』で新たな身体を創造した暁にはこの小娘を真っ先に殺してやろう。俺様の復活を祝して流される最初の血だ。光栄に思え」
ヴォルデモートは愉快そうに言う。
「さて、クィレル。俺様は英雄などと呼ばれている小僧が死ぬ姿をもっとよく見たい。わかったな」
「……かしこまりました」
クィレルはハリーに背を向けると片手で頭に巻いたターバンをほどき始めた。マーガレットはまだ拘束されたままだったが、その様子が鏡に映り込んでいたために一部始終を見ることができた。
ターバンがすべて地面に落ちた時、ハリーは悲鳴を上げた。マーガレットも鏡に映った横顔しか見られなかったが、彼女も悲鳴を上げそうになる。クィレルの頭の後ろに、もう一つの顔があったのだ。
「ハリー・ポッター……」
ヴォルデモートはすっかり怯えてしまったハリーの姿を見て口元をゆがめる。ハリーはギラギラと血走った目で見つめられ、身動き一つできない。彼の心はヴォルデモートへの恐怖で支配されていた。
そして、マーガレットも絶望していた。死んだと思われていたヴォルデモートが生きていたことも、クィレルが彼の手下となり自身の頭に匿っていたことも信じたくなかった。それに、自分はともかくヴォルデモートはハリーまで殺そうとしている。
なんとかあの少年だけでも助けてあげたい。しかし、この拘束を振り切ったところで、満足には動かせない右手で杖が握れるのかもわからない。どこまで逃げ切れるのかもわからない。
だが、それでも彼女は賭けに出ることを選んだ。自分の大切なものを守りたいという願いのために。
「ネモ!」
飼い主の呼びかけを聞き、ネモはクィレルの後頭部に襲いかかる。と同時に、マーガレットはクィレルの右足を思い切り踏みつけた。予想していなかった彼女たちの反撃に拘束も緩み、マーガレットはクィレルの腕から抜け出した。
彼女はハリーに駆け寄り、左手で彼の腕を引く。彼がまだ成長途中の一年生だったということもあり、多少引きずるようではあったが、それでもクィレルたちから離れることができていた。
「捕まえろ! 捕まえるのだ!」
「頑張って! 走って! あと少しでこの部屋から——」
その時、マーガレットはハリーの背に赤い閃光が迫るのを見た。杖を構えようとするが、やはり右手は動かなかない。万事は休したかにように思われた。
だが、マーガレットは諦めなかった。杖腕は動かない。しかし、足は動く、体も動く。頭だって動いている。彼女はくるりと方向転換をすると、ハリーを守るように立ちふさがった。自分が代わりに呪文をうけるつもりなのだ。
「これで、わたしも——」
彼女は知っていた。かつてその身一つで娘の命を守ろうとした父親のことを。自分はそうして助けられた命、ならば今度は自分が助ける番なのだ。
マーガレットの胸に赤い閃光が命中した。薄れゆく意識の中、彼女は何度も「これでいい、これでいい」と自分に言い聞かせる。しかし、左の頬を伝う一筋の涙を止めることはできなかった。
そして、マーガレットは冷たい石の床に倒れ込んだ。
「先生! マノック先生!」
マーガレットの瞼は固く閉じられていた。ハリーがどんなに体を揺すっても彼女は目を覚まさない。ネモも飼い主の傍らに降り立ち、耳元で呼びかけるがそれでも彼女の目が開くことはなかった。
「クィレル、おまえも死の呪いの使い方はわかっているであろう?」
「……はい」
クィレルは地面に膝をつき、頭を押さえた。
「申し訳ありません。ご主人様、お許しください」
「さっさと殺してしまえばいいものを。まあいい」
鏡越しにハリーとヴォルデモートの目が合った。
「小僧、あとはお前だけだ。もうおまえを守ってくれる先生はいないぞ。さあ、『賢者の石』を俺様に渡せ」
ハリーは手の中の賢者の石を見た。燃える炎のように赤い石。
だから、ハリーは勇気を振り絞った。
「やるもんか!」
「捕まえろ!」
ハリーは杖を握る。しかし、クィレルの放った武装解除呪文によってヒイラギの杖は彼の手を離れた。
「賢者の石」を奪い取ろうとクィレルが手を伸ばす。ハリーはそれを押し返そうと必死に抵抗した。鋭い痛みが額の傷跡を貫こうと彼は抵抗を続ける。
散々もみ合った結果、先に手を離したのはクィレルだった。彼は痛々しい悲鳴を上げてハリーから遠ざかると、火傷を負った左手を見つめていた。
「手が……私の手が!」
ハリーの目にも真っ赤に焼けただれ、皮がベロリとむけたクィレルの左手が見えていた。そして、ハリーはクィレルが自分に触れることができないのだと気づく。それがどうしてなのかはわからない。けれど、この力があれば敵を退けることができると彼は思った。
呆然としているクィレルのもとにハリーが忍び寄る。
「殺せ! 今度こそ死の呪文を唱えるのだ」
だが、クィレルは混乱しているようでヴォルデモートの言葉など聞こえていなかった。
ハリーは今が好機だと思った。目の前の敵は自分のことを殺そうとしている。自分のことを助けようとしてくれたマグル学教授も気を失っていて動かない。このままでは殺されてしまう。
しかし、彼にはそれに対抗するだけの力がある。ならば。殺されるまえに殺してしまえばいい。だから、ハリーは手を伸ばし、火傷を負った手を見つめ続けているクィレルに一歩、また一歩と近づく。
「ハリーくん、ここはわたしに任せて」
誰かがハリーの肩に触れた。少年が驚いて振り返ると、そこには“青い瞳の魔女”が立っていた。
「マノック先生?」
彼女はハリーと目が合うと、にっこりと微笑む。その表情は戦いの真っただ中だというのにとても穏やかだった。
「もう大丈夫です。ほら、その手も下ろして」
「先生! でも、僕ならあいつらを倒すことができます! みんなのことも、ホグワーツのことも守ることができます!」
ハリーがそう言うと、彼女は少し悲しそうな顔をした。
「あいつ
ハリーもその言い方がよくなかったことはすぐに気づいた。ヴォルデモートはともかく、そのヴォルデモートに憑りつかれているクィレルとこの女性の関係が特別であることは彼もわかっている。
しかし、ヴォルデモートをこの場から退かせるためには、その宿主も倒さなければならない。彼らを引き離す手段を知らない以上、ハリーは自分が生き残るためにはこれしかないと思っていた。
「僕にはそうするしか……。それに、マノック先生も今度こそ殺されちゃうかもしれない!」
「わたしはまだ死なないよ」
“青い瞳の魔女”はまっすぐ前を見つめていた。彼女の肩にのる
「わたしには守らなくちゃいけないものがある。だから、まだ死ねない。それに……」
彼女はハリーと目線の高さを合わせると、彼の手を包み込むように握った。
「ハリーくん。相手が誰であれ、人を殺すのはとても辛くて、苦しいことだよ。それこそ、
ハリーは思った。どうしてこの人は
ハリーはゆっくりと腕を下ろし、“青い瞳の魔女”から視線をそらす。なぜだか、今は彼女に対して恐怖のようなものを感じていた。
「……だから、わたしはハリーくんにも
“青い瞳の魔女”が左手で杖を振ると、ハリーは自分の体がひんやりとしたような気がした。あの薬品を飲んだ時と同じような感覚だ。
「スネイプ先生の薬の効果もまだ残っているから、これでもう一度あの炎の中を歩けるはず。ハリーくん、ここはわたし一人で大丈夫。ハリーくんは『賢者の石』を持ってここから逃げて」
“青い瞳の魔女”はハリーの頭を優しく撫で、鴉に拾ってこさせたヒイラギの杖を彼に返した。そして、ゆっくりと振り返ると、杖を握りしめた左手をまっすぐクィレルに向ける。
「ハリーくん、わたしもあのヴォルデモートが許せない。人の命をなんとも思わず、誰かの大切なものを奪おうとする。だから、わたしはあの男が許せない」
そして、彼女は左の頬を拭った。
「それから、
彼女に対しての恐怖が消えたわけではない。それでも、ハリーは今の彼女の言葉を信じてもいいように感じた。
ハリーは頷き、炎の燃え盛る扉に向かって駆け出す。
「逃がすな!」
ヴォルデモートが叫んだ。呆然と“青い瞳の魔女”のことを見つめていたクィレルも我に返り、ハリー目がけて失神呪文を放つ。しかし、その赤い閃光は盾の呪文によって阻まれた。
「こうして杖を握るのは久しぶりだけど、やればできるものですね」
黒い炎の中を突き進むハリーの後ろ姿を見送りながら、“青い瞳の魔女”は呟く。
「小娘、よくも俺様の邪魔をしてくれたな」
「あなた
そう言って、“青い瞳の魔女”は白い歯をのぞかせて笑った。
「……クィレル、あの女を殺せ」
「しかし、賢者の石を取り戻さなければ」
「それよりも、だ。俺様を愚弄したことを後悔させてやる」
クィレルの青白い顔がさらに青ざめた。
「しかし——」
「クィレル、これはあの小娘が自ら選んだ道だ。ならば、それに応えてやろう。お前がためらう必要はない。さあ、嬲り殺せ」
ゴクリと唾を飲み込み、クィレルは杖先をかつての教え子に向ける。“青い瞳の魔女”はそんな彼のことをじっと見つめていた。
「クィレル先生、大丈夫ですよ。わたしは絶対に先生に殺されません。それに、
「このクィレルを助けるだと? 笑わせるな、小娘。この男がなにをしたのかもう忘れたのか」
ハンノキの杖の先から赤い閃光が放たれる。しかし、それはマツの杖から伸びる紅い光線によって打ち消された。
クィレルはもう一度杖を振る。今度は白い光弾が迫ってくるが、“青い瞳の魔女”は冷静に盾の呪文で弾き返した。
「……忘れるわけはないですよ。馬車の中で
“青い瞳の魔女”は右肩をさすっていた。
「それでも、わたしはクィレル先生のことを許します。先生が『許してほしい』と言わなくたって許しますよ。だって、
クィレルが放つ呪文をかわしながら、なおも彼女は語りかける。
「クィレル先生、
「でも、私にはもう戻れる場所など……」
「ありますよ。だって、
“青い瞳の魔女”は一歩、また一歩とクィレルに近づいていく。切断呪文が頬を掠め、濡羽色の髪の毛がパラパラと地面に落ちた時ですら彼女は歩みを止めなかった。
「クィレル、なぜ止められない!」
ヴォルデモートが腹立たしそうに叫ぶ。だが、今のクィレルには謝っている余裕などなかった。彼の頭の中は別のことでいっぱいだったのだ。
彼は呪文をかわしたり、反対呪文を唱えたりしながら近づいてくる“青い瞳の魔女”に向かって叫んだ。
「君は、いえ、あなたは誰だ!」
ふいに”青い瞳の魔女”がその場に立ち止まった。そして、クィレルのことをじっと見つめる。
「……さすがはクィレル先生。
そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべた。それは彼が
「もちろん、
海のように深く、空のように澄んだ青い瞳がきらりと輝く。そして、クィレルはすべてを悟った。
「マノック、あなたはマ——」
“青い瞳の魔女”はクィレルに駆け寄り、彼の口元に指を当てる。
「その名前はもうわたしのものではないです。わたしは“誰でもない”。クィレル先生、それならいつものように“
青ざめた唇からそっと手を離し、“
「クィレル先生、あの子には先生が必要です。だって、
だが、突然ヴォルデモートが邪悪な笑い声を上げた。
「そうか。そういうことか! おまえ
突然、クィレルの体から黒い靄のようなものが出てきた。力を失い、床に崩れ落ちそうになったクィレルを抱き支えながら、“青い瞳の魔女”はその靄が人も顔を作り出していく様子を見つめていた。
「まさか、すべて気づかれていたのか? だから、おまえのこともホグワーツに、自分の手元に置いたのか?」
「なにを言っている!」
「哀れだな。自分が駒であることも気づけないとは。だが、おまえには礼を言わねばならん。おまえのおかげで、
ヴォルデモートの顔が霧散していく。クィレルの後頭部からもう一つの人面も消えている。これはきっと彼をヴォルデモートの支配から解放できたということだ。
だが、まだすべてが終わったようには思えない。
「小娘、今回は見逃してやろう。だが、おまえもおまえが大切にしているものもいずれすべて滅ぼしてくれる」
「そんなことはさせない。わたしは守ってみせる!」
そして、ヴォルデモートは姿を消した。あとに残されたのは“青い瞳の魔女”と弱りきったクィレルだけである。
「クィレル先生、しっかりしてください。目を開けてください」
必死に呼びかけるが、クィレルの体温を徐々に下がっていく。彼女にも覚えがあった。これは人が死ぬ時の感覚である。
「先生、逝かないでください! 先生までいなくなったら、あの子は……」
彼女はもう駄目かもしれないと思った。また自分はマーガレットの心を傷つけてしまうのかと思った。
——だが、奇跡が起きた。
「先生! クィレル先生!」
「……夢を見ていました」
クィレルは未だ微睡の中にいて、その口調はとてもゆったりとしていた。
「あれは、きっとマーガレットと私が初めて会った日のことです。鮮やかな夕日に照らされた彼女が多くの夢を語っていました。……彼女はいいペットを飼っていますね」
“
「そうですか……。あぁ、そうだ。できればあなたの口から彼女に伝えてほしいことがあります」
「先生、わたしがあの子に話しかけることはできないです。だから、クィレル先生が直接伝えてくれないと」
「それが、できたらいいのですが」
「できますよ。だって——」
「マーガレット、それを決めるためにも彼をわしに預けてくれないかな」
振り返ると、そこにはいつの間にかダンブルドアが立っていた。
「いや、今の君のことをマーガレットと呼ぶのはふさわしくないのかのう?」
普段なら好々爺然としているダンブルドアだが、この時ばかりは雰囲気が違った。氷のように冷たいブルーの瞳が彼女のことを射抜くように見つめている。
「ダンブルドア先生、クィレル先生は悪くないです!」
「じゃが、彼は生徒に危害を加え、『賢者の石』を盗み出そうとし、そして君たちの心も体も傷つけた。じゃから、正しく裁かれるべきではないかのう?」
ダンブルドアの主張はもっともである。それが正義というもので、彼女も自分が間違ってことをしようしているのもわかっている。
だが、その正しさに従った結果、あの子がさらに傷つくことになったら? あの子の願いを守ってあげられなかったら?
彼女はその炎のように熱を帯びた青い瞳でダンブルドアを見つめ返す。彼の明るいブルーの目を直視していると、なにかが頭が入り込んでくるような感覚があって気持ち悪かった。しかし、それでも彼女は決して目をそらさなかった。
「それでも! わたしはクィレル先生にあの子のそばにいてほしいです。その願いのためなら、わたしはダンブルドア先生とだって戦います。前に『どんなに大切なものでも、そのすべてを守りきれるわけではない』と先生は言いました。でも、わたしはマーガレットの大切なものをなんだって守りたい。だって、そうじゃなければわたしが今、こうして
ダンブルドアは小さくため息をついた。そして、目の前の“青い瞳の魔女”に今度は慈しみにあふれたまなざしを向ける。
「……そうか、君はそのために生きているのじゃな。ならば、わかった。ここは君の意思を尊重しよう。それから、たしかにマーガレットには彼も必要じゃからな」
「本当、ですか?」
ダンブルドアは首を縦に振った。それを見て安心したのか、“青い瞳の魔女”は声を上げて笑う。そうして笑っているうちに、徐々に体の力が抜けていた。
「慣れないことをしていたのじゃから、君も疲れたじゃろう。あとはわしに任せて、ゆっくりと休むがよい」
「ありがとうございます。本当、ありがとう。これで、あの子も……」
そう言い残し、“青い瞳の魔女”はクィレルに折り重なるようにして意識を失った。
「マイケル、君はずいぶんとつらく、悲しい選択をしたようじゃな」
ホグワーツ城の地下、見えない天を仰ぎながら今世紀もっとも偉大なる魔法使いは呟いた。
これが書きたかった!!!(Part1)
※主人公が誰かさんに憑かれている際、「“青い瞳の魔女”」や「彼女」と表記していますが、これはどうしようか散々悩んだあげく見た目(身体の性別)に合わせることにしました。