マグル学教室へようこそ   作:BellE

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幕間2 マグル学教室へようこそ【後編】

 それからというもの、マーガレットは来る日も来る日もマグル学教室の扉を叩いた。そして、クィレルが姿を見せると「先生、こんにちは!」と言って、にっと笑う。

 

 ある日——マーガレットは一冊の本を抱えていた。

 

「先生、今日はこの呪文のことを知りたいんです。その、クィレル先生は防衛術もお得意だと聞いたので……」

 

 マーガレットは図書館から借りてきたというその本を開いた。彼女が指さすページには「盾の呪文」の理論がびっしりと書き記されている。

 

「『盾の呪文』がとても難しい呪文ということもわかっています。でも、どうしてもこの魔法を使えるようになりたい。その、わたしも父や先生のように誰かを守れる魔法使いになりたいんです! だから、先生? わたしにもをこの呪文を教えてくださいませんか?」

 

 マーガレットはクィレルのことをじっと見上げていた。期待に満ちた視線を向けられ、クィレルはまんざらでもないといった表情をする。

 

「もちろん。君ができるようになるまで、一から教えてあげますとも」

 

 クィレルはまた一つ称賛を得た。そして、マーガレットもまた一つ知識を得た。

 

 

 

 またある日——マーガレットは研究室に飾られた額縁を眺めていた。

 

「クィレル先生、あの押し花は先生がお作りになったんですか?」

 

 クィレルが頷くとマーガレットは感嘆の声をあげる。

 

「いつもとっても素敵だなと思っていたんです。先生はこういうこともお得意なんですね。すごいです!」

 

 マーガレットはクィレルに尊敬のまなざしを向けていた。

 

「それほどすごいことでもないですよ。コツさえ掴めば、君にだって作れます」

 

 マーガレットはますます目を輝かせる。こうなった彼女が口にする言葉はいつも決まって——。

 

「クィレル先生、わたしにも教えてくださいませんか? わたしも先生のように、素敵な押し花を作ってみたいんです!」

 

 そして、クィレルが返す言葉もいつも決まっていた。

 

「もちろん。君ができるようになるまで、何度だって教えますとも」

 

 クィレルはまた一つ称賛を得た。そして、マーガレットもまた一つ知識を得た。

 

 

 

 そして、またある日——マーガレットはいつもの紅茶(アールグレイ)を飲みながらクィレルの土産話を聞いていた。机に並べられた写真はどれもクィレルが夏の間に旅をしていた北欧で撮ったものだ。

 

「トロールにバレエを教えただなんてすごいです!」

 

 マーガレットは一枚の写真を見つめていた。少女の身長の数倍はありそうな大きなトロールがつま先立ちで立っている動く写真だ。

 写真の中のトロールが見事な旋回(ピルエット)を見せると、マーガレットは「ブラボー!」と大きな拍手を送った。

 

「私はトロールについては特別な才能がありますから」

「さすがはクィレル先生! 先生は本当に色んなことを知ってらっしゃいますね」

 

 相も変わらず、マーガレットはきらきらとした瞳をクィレルに向けている。

 

「先生から聞いたトロールのお話も、わたしには知らないことばかりでした。わたしにとってトロールは物語の中の生き物でしたし、防衛術や魔法生物飼育学の教科書でも挿絵でしか見たことがありませんでした。だから、こうして写真があるとなんだか不思議な感じです。それに、わたしが初めて本で読んだトロールとは全然違うんですね。あのキャラクターは本物よりももっと小さくて、丸くて……。そう、カバみたいだったんです!」

「カバ? あの動物園にいるカバですか?」

 

 人に近い形をしているトロールの姿と四足でのしのしと歩くカバの姿が結びつかず、クィレルは首を傾げた。

 

「はい。顔の形がそっくりなんです。でも、そんな姿でも妖精(トロール)だから、カバに間違われると怒るんですよ。そのキャラクターはとっても人気があって、小説やコミックがたくさん出版されています。わたしも小さい頃は、よくお母さんに読んでもらいました。トロールだけど、とっても可愛いんですよ!」

 

 本の虫というだけあり、こうして物語について語っているときのマーガレットは生き生きとしている。

 

「先生にお話していたら、わたしも久しぶりにあの本が読みたくなってしまいました。そうだ! 今度、ふくろう便で家から何冊か送ってもらうことにします」

「そのようなトロールがいるとは……。マグルの考えることは面白いですね。ミス・マノック、もしよければその本を私にも貸してくれませんか?」

「もちろんです! 先生にも読んでいただけるだなんて、なんだかとっても楽しみです!」

 

 マーガレットは満面の笑みを浮かべた。自分の好きなものの話を聞いてもらい、それに興味を持ってもらえることは誰だって嬉しいのだ。

 

「ありがとう。君が貸してくれたり、クリスマスに贈ってくれたりするおかげで、マグルの本を読む機会もずいぶんと増えました。……ミス・マノック、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そうすれば、私もさらに知識を増やすことができますから」

「そう、ですか?」

 

 クィレルにとっては何気ない言葉だったのかもしれない。しかし、その言葉はしっかりとマーガレットの胸に焼き付いた。

 

「その、少しでも先生に恩返しができているのならよかったです。だって、わたしもいつも先生に教えていただいてばかりですから……」

「教えるのは教師()の役目です。だから、これからも君が学びたいことや知りたいことはなんだって教えましょう」

「ありがとうございます、クィレル先生!」

 

この約束のとおり、マーガレットはクィレルから多くの知識を、その引き換えにクィレルはマーガレットから多くの感謝と称賛を得た。

 

 

 

 そして、時は流れ——マグル学教室で過ごす日々の中でマーガレットは着実に知識と力を身につけていた。

 それは、彼女の尽きることのない好奇心のおかげでもあったし、それを満たしてやれるクィレルの親切な——それでいて打算的な——な指導のおかげでもあった。それに、かつてこのホグワーツで優秀な成績を修めた祖父と父の血を受け継ぐ者としての実力というのも、もしかしたらあったのかもしれない。

 

 だが、その真相はどうであれマーガレット・マノックという少女が学年でも一、二を争うほどの秀才であることに変わりはない。

 クィレルも初めのうちは彼女の成長を喜んだ。だって、彼女が筆記試験で満点を取った理論も実技試験で加点をもらった呪文をすべて彼が教えたのだから。彼女の優秀さがしめされるほど、その師である自分自身も偉大になれたような気がした。

 

 ただ、マーガレットの成長はクィレルが考えているよりもうんと早かった。

 

 

 

 1987年9月1日——式典を夜に控え、クィレルは独りマグル学の教室にいた。組分けの儀式が始まるまではまだ時間がある。時間潰しにでもと本を開くが、なぜだか内容が頭に入ってこない。

 クィレルは大きなため息をついた。新しい監督生の発表を聞いてからどうにも心が休まらない。それはきっと良い知らせであったはずなのに、彼はどうしてか素直に喜べなかった。

 

 外の空気でも吸ってくれば、少しでも気が晴れるだろうか。クィレルは重い腰を上げ、扉の前に立つ。

 だが、彼が取手に触れるよりも先に扉が開いた。開かれた扉の先には青い目の鴉を連れた青い瞳の少女(胸騒ぎの元凶)が立っている。

 

「先生、こんにちは!」

 

 クィレルの姿を見つけ、マーガレットは目を細めた。彼女の左肩にのる鴉もクィレルの顔を見ながら「こんにちは(Hello)」と頭を下げる。

 

「ミス・マノック、どうして君がここに?」

「一刻も早く、先生にお伝えしたいことがありまして。その、わたしも監督生になれたんです!」

 

 マーガレットはローブにつけた銀色のバッジを指さした。

 

「……あぁ、聞きましたよ。おめでとう」

「ありがとうございます!」

 

 マーガレットは()()()()()()()愛想のよい笑みを浮かべる。

 だが、クィレルにはその笑顔の意味をいつもと同じように受け取ることができなかった。マーガレットの屈託のない笑みが、彼の目にはかつての自分に向けられた嘲りの笑みのように映る。

 

——この時だった。クィレルに焦りが生まれてしまったのは。

 

 監督生には学業成績や素行、生徒や教師からの評判が良い生徒たちが選ばれる。つまるところ、監督生の地位はその生徒がいかに秀でた魔法使いであるかの証明といっても他ならない。

 クィレルもかつてはその栄光を手にすることを夢見た一人だった。しかし、彼のおどおどとした態度は本来の恵まれた才能を覆い隠し、神経質な性格は彼と他人との間に溝を生む。

 どれほど願おうと、どれほど努力しようとクィレルが監督生バッジを手にする機会はついぞ訪れなかった。

 

 だが、目の前にいる女学生はその銀のバッジをつけている。数年前は魔法界のことや呪文の一つも知らなかったはずの少女が、今では知識の塔を代表する生徒の一人となった。

 かつて落ちこぼれとからかわれた自分といつの間にか誰もが認める優等生にまでなってしまった一番の教え子。歯車の狂いはどんどんと大きくなる。

 

「このことを先生にまっさきにご報告したかったんです。だって、これはクィレル先生がわたしに色々なことを教えてくださったおかげですから! 今まで本当にありがとうございます。それから、——」

「み、み、ミス・マノック! ……話はそれだけですか?」

 

 クィレルは思わずマーガレットの話を遮った。彼女の前でどもってしまったのは、いったいいつ以来だろうか。

 

「その、ご報告とお礼ができたらと思いまして……。だから、えっと、これだけです」

「そ、そうですか。それなら、君はもう大広間に向かった方がいい。さっそくか、か、監督生の仕事があることでしょう」

 

 クィレルは努めて冷静を装っていた。だが、どうしても言葉が詰まってしまう。そんな彼のことをマーガレットは心配そうに見つめている。

 

「クィレル先生、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。私もまだ支度が終わっていないもので、す、少し焦っているだけです。……もういいですか?」

「その、お忙しいところをお邪魔してしまい、申し訳ありませんでした。先生、また来ますね」

 

 去っていくマーガレットの後ろ姿を見送ることなく、クィレルは扉を閉めた。遠ざかる足音を聞きながら、彼はずっと顔を覆っている。そういえば、マーガレットを教室に迎え入れずに帰してしまったのはこれが初めてであった。

 

 青い目を細め、白い歯をのぞかせて笑うマーガレットの表情がクィレルの頭から離れない。かつて自分のことを嘲笑った同級生たちと今日の彼女の笑顔はよく似ていた。

 いや、それがただの思い込みであることは彼自身もわかっている。だが、自分のうんと後ろを歩いていたはずの少女が、気づけばあと数歩のところまで迫ってきていたことに焦りと恐怖を感じてしまっていた。

 でも、クィレルは教師であり、マーガレットは()()生徒である。教える者と教えられる者、導く者と導かれる者。マーガレットがホグワーツから去るその日までその関係が逆転することはない。

 

 だから、まだ自分は彼女の先生でいられる。まだ自分は彼女の憧れのままでいられる。クィレルはそう願っていた。

 

 

 

 だが、少女の成長(歩み)が止まることはなかった。

 

 五年生の終わり——マーガレットはふくろう(OWL)試験で12科目すべてをパスした。父と同じ12ふくろうの称号をいただき、彼女の名声はさらに高まる。

 クィレルはマーガレットに己の影を踏まれたような気がした。だが、彼女は()()生徒である。まだ追いつかれはしないはずだ。

 

 

 

 六年生のある日——マーガレットは数日ぶりにクィレルのもとを訪れた。日々の勉強と監督生の仕事が忙しく、彼女がマグル学教室に顔を出す機会はずいぶんと減っている。

 

「ミス・マノック、最近はあまり顔を合わせることがありませんが、どうかしましたか?」

「すみません、最近はどうにも忙しくて……」

 

 12ふくろうのため、一日に何コマも授業を受けていた去年までの方がよほど忙しかったのではないか? クィレルは浮かんできた疑問を冷めた紅茶とともに飲み込んだ。

 

「そ、そうですか。それは仕方ありませんね」

「もっと先生に教えていただきたいこともあるのですが。ただ、今は前のように()()()()()ことができなくて……」

 

 なにか後ろめたいことでもあるのか、マーガレットは曖昧に笑う。

 そして、その表情がよけにクィレルに疑念を抱かせた。自分はもう、彼女には必要のない人間なのか、と。だが、彼女は()()生徒である。まだ教師である自分の背中を見ているはずだ。

 

 

 

 ついに始まった最後の一年——周囲の予想どおり、マーガレットは首席に選ばれた。今のホグワーツでもっとも賢い生徒が彼女であることを疑う者は誰もいない。

 それはクィレルとて同じであった。マーガレット・マノックという少女をここまで導いてきたのは彼である。少女のため、そして自分のためにありとあらゆることを教えてきた。そして、自分が与えてきた知識をマーガレットがすべてものにしていることは彼自身が一番よくわかっている。

 クィレルはそう遠くないうちにマーガレットに追いつかれるような気がした。彼女はもうすぐ生徒ではなくなろうとしている。

 

 

 

 そして、いもり(NEWT)試験を控えたある日——クィレルが職員室で仕事を片付けていると、不意にフリットウィック教授が声をかけてきた。

 

「クィリナス、ちょうどよいところに」

 

 職員室に帰ってきたばかりのフリットウィックはたくさんの資料を抱きかかえていた。そのうちの一つ、「あなたはマグル関係の仕事を考えていますね?」という小冊子はクィレルにも見覚えがある。あれはたしか将来の職業選びにあたって読むようなものだ

 

「フリットウィック教授、いかがなさいましたか?」

「君に聞きたいことがあるのです。クィリナス、ミス・マノックから進路の相談をうけたことはありませんか?」

「ミス・マノックの進路ですか?」

 

 フリットウィックは頷き、ため息をついた。

 

「先ほどまで彼女と面談をしていたのですが、少々困ったことがありましてね。ミス・マノックは以前、将来は実家(マグル)の仕事の手伝いを考えていると言っていました。しかし、気が変わったようで今日の面談ではもう少し魔法界(こちら)で頑張ってみたいというのですが、肝心のどこで働くのかは決められていないようで……」

「なぜ気が変わったのでしょうか?」

「なんでも、もうしばらくは諦めずに魔法界で記憶を戻すための方法を探してみたいというのです。ですから、私も忘却術師や癒者の仕事などを紹介してみたのですが、あまりぴんとこなかったようで。君ならなにか話を聞いたこともあるのではと思ったのだが……」

 

 クィレルは首を横に振る。父のことを知りたいというマーガレットの夢についてならばよく知っているが、彼女の将来のことなど聞いたこともなければ、聞こうとしたこともなかった。

 

「夢のことは何度も聞きましたが、将来のことはなにも。ミス・マノックも最近はその記憶を思い出すための方法探しのため、よく図書館に行っているようで、あまり私のところにも来ていなかったので」

 

 彼女がマグル学の教室にあまり顔を出さなくなったのが先か、自分が忙しいからと嘘をつくようになったのが先か。今ではよく憶えていないが、彼らがあまり顔を合わせなくなっていることは確かだった。

 マーガレットの意思を知らない以上は自分が役に立てることもないと思い、クィレルはその場から立ち去ろうとする。だが、フリットウィックにすぐ呼び止められた。

 

「もしかすると、このホグワーツでならばミス・マノックも満足のいく研究ができるかもしれません。教師になれば禁書の棚の本もいくらでも読めますし、彼女も事情を知っている君が近くにいた方が安心できるでしょう。クィリナス、ミス・マノックをマグル学の助手にしてみるというのはどうですか?」

 

 フリットウィックに背を向けて立ち止まったまま、クィレルはなにも答えない。

 

「ミス・マノックなら成績も申し分ないですし、彼女以上にマグル学が好きな生徒は今のホグワーツにはいないでしょう」

「……」

「君との付き合いも長いのですから、いい助手になると思いますよ」

「……」

「それに、君と一緒に働けるとなればミス・マノックも喜ぶことでしょう!」

「……そ、そうでしょうか?」

 

 そう口にしたクィレルは引きつった笑みを浮かべていた。だが、フリットウィックにはその表情が見えていない。

 

「首席までなったミス・マノックに助手を任せるなど役不足のように思えます。それに、もう彼女にはあまり私から教えられるようなことはありません。ですから、彼女の期待にどこまで応えられるか……」

「クィリナス、それは考えすぎというものですよ。ミス・マノックは君と一緒にいられるだけで嬉しいでしょうから。それに、クィリナスだっていつでも彼女と会える方が楽しいでしょう?」

 

 たしかに、昔はあの少女のコロコロ変わる表情を見ていたり、時間をかけて勉強や知識を教えたりすることが楽しかった。いや、きっとそれは今でも楽しいことのはずなのだ。だが、教えれば教えただけ、彼女はありとあらゆるものを吸収し賢くなる。

 それがクィレルには怖かった。彼女に与えられる知識がなくなってしまったら? 彼女からの称賛が得られなくなってしまったら? マーガレット・マノックという魔女に追い越され、いずれ見向きもされなくなるのではという恐怖が彼の心を蝕んでいた。

 

「フリットウィック教授、な、なにはともあれ、まずはミス・マノックにも聞いてみなければ。わ、私たちが勝手に彼女の将来を決めるわけにはいかないですから」

「それもそうですね。では、すぐにミス・マノックに伝えてきましょう。クィリナス、よい返事だといいですね」

 

 それから一時間もしないうちに、マーガレットが自ら()()()()を伝えに来たのは言うまでもない。

 

 

 

 こうしてマーガレット・マノックがマグル学の、クィレル教授の助手となることが決まった。その肩書は助手ではあるが、教授と同じくホグワーツの教員であることに変わりはない。

 

——ついにこの時が来てしまった。

 

 クィレルはそう思った。ついにあの少女が自分に追いついてしまったのだと。

 彼の隣に立ち、マーガレットは「先生、これからもよろしくお願いします」と微笑む。彼女の青い瞳は未だに憧れの先生(クィレル)の姿を映していた。

 

 まだあの少女の憧れであり続けたい。まだあの少女には追い越されたくない。けれど、彼女に教えられることも、誇れることももうずいぶんと減ってきた。どうすればよいのだろうかと独り頭を抱える。

 

 そして、ふと思ってしまった。そうだ、前任のマグル学教授のように自分も知識を深める旅に出ればよいのでは、と。

 マグルの世界では冷戦の終結が宣言されたばかりで、彼らの歴史というものはまた新たな段階に差し掛かろうとしている。マグル学者として、そして幼い頃から世界を見て回っていた者として、それには純粋な興味があった。

 ベルリンの街を西と東に分断していた大きな壁が崩壊したことも、ルーマニアやアルバニアといった東欧の国々で革命が起きていることもいったいどれほどの魔法使いが知っているのか。もしかすると、あのマグル育ちの少女ですら、それらの出来事は新聞に書いてあることくらいしか知らないのかもしれない。

 学者としての実績も、教師としての知識もきっとこの旅で増やすことができる。そうすれば、まだまだマーガレットには追い越されず、まだ彼女の憧れのままであり続けられる。

 

 そう心に決めてからのクィレルの行動は早かった。ダンブルドアに一年間の休暇を願い出て、マクゴナガルやフリットウィックにも来年は研究のためにホグワーツを離れるつもりだと告げる。

 クィレルの突然の決断には誰もが驚いていた。校長も副校長も、それから学生時代から世話になっている寮監も一言目には「どうして急に」と、二言目には「ミス・マノックはどうするのか?」と聞いてくる。その度にクィレルは「今しかないと思いまして」と答え、「私がいない間はミス・マノックにマグル学の講義を任せるつもりです。彼女ならきっと大丈夫ですから」と言った。

 皆が皆、それですぐに納得してくれたわけではない。けれど、「クィリナスがそう言うのなら」ということで、結局は彼の思いどおりに事は進んだ。

 

 ただ、一つ彼の計画どおりにいかなかったことがあるとすれば、マーガレットに自分が一年間の研究休暇に出るということを卒業式の前日まで言い出せなかったことだろう。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 かくしてクィレルは長い長い旅に出た。旅の始まりはドイツのベルリン・テーゲル空港。人も文化も分断していた大きな壁は消えたものの、未だ統一はなされていない国で数週間を過ごしたのち、彼は東欧諸国へと向かう。

 革命の口火を切ったポーランド。「静かな革命」を成し遂げたチェコスロバキア。対して数多の血が流れたルーマニア。かつての偉大な指導者を失い、解体への気運が高まるユーゴスラビア。そして、混迷を極めるアルバニア。

 

 

 

 アルバニアでのフィールドワークの最中、クィレルは奇妙な噂を耳にした。

 

「あの森には亡霊がいる」

 

 ホグワーツに長いこといれば亡霊など、さして珍しくはない。しかし、噂の震源である森に近づけば近づくほど、彼はその亡霊への興味を惹かれていた。

 

「なんでも森を彷徨っているのは、イギリス中を恐怖のどん底に陥れた『闇の帝王』の魂らしい」

「間違いない。あれは『例のあの人』だ! 『例のあの人』が生きていたんだ!」

 

 「闇の帝王」、「例のあの人」——その言葉を聞いてなにも感じない魔法使いなどいるわけがない。ある者は恐怖を、またある者は怒りを。そして、この時のクィレルは好奇心を抱いた。

 

 「例のあの人」が生きている? いや、そんなはずはない。なぜなら、彼は「生き残った男の子」によって倒された。それに、どうしてイギリスから遠く離れたアルバニアの森に「例のあの人」の魂がいるのか。

 おかしな噂だと一笑に付すのは容易い。けれど、クィレルはその噂の真相を確かめてみたくなった。

 本当に「例のあの人」がいるなど、彼ははなから信じていない。けれど、遠い異国の地で宝探しに勤しむのも面白いかもしれないとクィレルは考えた。彼の頭の片隅にはそういった土産話が好きそうな少女の顔が思い浮かんでいたのだ。

 

 だが、クィレルは軽い気持ちで森に足を踏み入れたことを後悔することとなる。

 

 「例のあの人」は——ヴォルデモート卿は生きていた! アルバニアの暗い森の奥深く、哀れで愚かな男がやって来るのを彼は待ち続けていたのだ。

 

 魂だけの存在となっても相手は史上最も強力かつ危険な魔法使い。我が身可愛さに一目散に逃げようか? それとも栄誉と実力の証明のために戦おうか? そんなことを考える暇もなく、クィレルはヴォルデモートに取り憑かれた。いくら防衛術が得意とはいえ、「闇の帝王」を前にした彼になす術はない。

 

 身体に自分ではない何者——それがヴォルデモートであることは言うまでもない——の魂が入り込んでくる。暗い記憶が頭に流れ込み、心は冷たい感情で満たされる。

 己のすべてがヴォルデモートの手に落ち、気づけば体にまでおぞましい変異が起きていた。

 

 

 

 クィレルがホグワーツに帰還したのは、それからしばらくあとのことだ。後頭部の変異を隠すように大きなターバンを巻き、長旅の疲れと日々の悪夢のせいで顔はすっかりやつれていた。

 ご主人様の機嫌を損ねてはいけない、自分が「例のあの人」の手先となったことを悟られてはいけない。極度の緊張状態に晒され続けていたせいで、どもりは学生の頃よりもひどくなっている。

 

 

 

 ただ、そんな変わり果てた男のことを待っていたのは、昔から変わらぬ笑みを浮かべる青い瞳の魔女だった。




投稿頻度も話の展開も遅いことへのお詫びと作者自身の気分転換もかねて、ありえたのかもしれない「もしも」の掌編を。
(本編には直接かかわりのない物語であるため、あとがきを使わせていただきました)


▽ △ ▽



 その日、()()()()()()()()を身にまとい、青い目の鴉を連れた黒髪碧眼の少女はグリフィンドール寮の寮監と向かい合って座っていた。

「では、面接を始めましょうか」
「はい、マクゴナガル教授。どうぞよろしくお願いします」

 今日はふくろう(OWL)試験に先んじて行われる面接の日。寮監を相手に将来の進路について話し合う。もちろん、それは実家の手伝い(マグルの仕事)を考えているマーガレットも例外ではなかった。

「さて、ミス・マノック、この面接はあなたの進路に関して話し合い、六年目、七年目でどの学科を継続するかを決める指導をするためにものです」

 マクゴナガル教授が言った。

「ホグワーツ卒業後、なにをしたいか——を聞く前に、少し雑談でもしましょうか」

 マクゴナガル教授は机に散らばっている資料を手元に集めながらこう続ける。

「一年次、学年一位。二年次も学年一位。三年生になってからも……学年一位。そして、マグル学の試験では歴代最高得点。あなたに三年生からは12教科すべてを履修したいと言われた時はどうなることかと思いましたが、この成績ならば魔法省にも掛け合ったかいがありました」
「それもこれも先生方のご協力のおかげです! あの時、わたしのわがままを聞いてくださって、ありがとうございました!」

 マーガレットは胸に手を当て、感謝の意を伝える。だが、マクゴナガル教授の表情はどこか硬い。

「毎日大変だとは思いますが、よく頑張っています。昨日も図書館で熱心に本を読んでいるあなたを見かけました。それから、クィリナスも褒めていましたよ。『ミス・マノックは本当に勉強熱心で教えがいがある』と。先日は日が暮れるまで『盾の呪文』の練習に付き合ってもらっていたそうですね」
「試験も近いので、もう少し精度をあげられたらいいなと思いまして」
「それはよい心がけです。……ですが、一つ気になることがあります」

 マクゴナガル教授の口調が急に厳しくなった。マーガレットは思わず姿勢を正す。飼い主の緊張を感じ取り、ネモも首をぴんと伸ばしていた。

「クィリナスは()()()()()()、ミス・マノックと『盾の呪文』の練習をしたと言っていました。それも、夕食の時間になるまでずっと。ですが、昨日の放課後、私はたしかにあなたのことを図書館で見かけました」
「……もしかして、人違いだったのでしょうか?」
「自寮の生徒を私が見間違えるはずないでしょう」

 マーガレットは血の気が引く思いだった。今まで隠し通してきた、そして誇張でもなんでもなく墓場まで持っていくつもりだった秘密がバレようとしている。

「ミス・マノック」
「……はい」
「今、『逆転時計』は持っていますか?」
「……」

 マーガレットは震える手で金の砂時計を引っ張りだした。

「ミス・マノック。二年前、私はあなたになんと言いましたか?」
「……この時計は貴重なものですから、大切に使いなさい。……ですよね?」
「たしかにそうも言いました。他には?」

 マーガレットは蛇に睨まれた蛙のようにすっかり委縮している。

「『逆転時計』の使用には危険が伴います。くれぐれも過去の自分に出会わないように」
「それもあなたに忠告しましたね。他は?」
「……『逆転時計』を授業以外では決して使わない」

 マクゴナガル教授は大きなため息をついた。

「そのとおりです。まさかあなたが規則を破っていただなんて……。いったい、いつからこういうことはしていたのですか?」
「えっと……」

 マーガレットの目が泳ぐ。彼女は回答を渋っている様子だったが、ネモにせっつかれてからようやく重い口を開いた。

「その、三年生の頃から、……です」

 これにはマクゴナガル教授も驚いたようだ。

「そんなに前からですか! なんのために!」
「12教科分の宿題と予習で忙しくて、クィレル先生にお会いできる時間がどうしても減ってしまって……。あの、だから、『逆転時計』を……」

 マクゴナガル教授は再びため息をついた。重い沈黙が二人と一羽を包み込む。

「——ミス・マノック」

 教授が静かに口を開いた。マーガレットは叱られるものだとばかり思っていたが、その声色はどこか優しげだ。

「あなたはクィリナスに恋をしているのですね」

 マクゴナガル教授の言葉にマーガレットも、ネモも、目を丸くする。

「……恋?」

 そう噛み締めるように呟いたのはマーガレット。

「……カア?」

 そう素っ頓狂な声を上げたのはネモ。

「ミス・マノック、なんとしてでも会いに行きたいというその気持ちは、そこまでしてでも一緒にいたいというその思いはあなたが彼に恋をしているということですよ」

 マーガレットは考える。クィレルのことはもちろん好きだ。
 賢くて、優しくて、わたしのことを助けてくれる人。記録の中の、かつてのわたしが大好きだった父に似ている人。
 少女はかの青年にずっと憧れていた。そして、父のように慕っていた。

——()()失いたくない。もっと、ずっと、一緒にいたい。

 この感情が「恋」というものなのだろうか?

「これが、恋……」

 それが本当に恋なのか、まだ恋を知らない少女にはわからない。けれど、わからないからこそ、きっとこれが恋なのだと彼女は思い込んだ。

 鼓動が早まる。頬が赤く染まり、青い瞳が潤む。変わりゆく飼い主の顔をネモはただ呆然と見つめていた。

「そっか……。そういうことだったんだ……。これが恋! マクゴナガル教授、わたしもようやくわかりました。これが人を好きになるっていうことなんですね! ジュリエットも、グレートヒェンも、ジェインとエリザベスもみんなこんな気持ちだったんですね!」

 マーガレットは本当に名作のヒロインたちの心を理解したのだろうか。
 でも、恋する乙女がなにを望むのかは彼女だって知っている。

「マクゴナガル教授のおかげで、わたしはどうしたいのかわかりました! わたしはクィレル先生のことが好きです! これからも、いつかこのホグワーツを卒業してからも、ずっと、ずっとおそばにいたいです! だから、この気持ちを一刻も早くお伝えしてきます!」

 マーガレットは首に下げた「逆転時計」に手をかけた。一刻も早く自分の気持ちを伝えるために、一刻(30分)ほど時を遡るつもりなのだ。

「ミス・マノック、話はまだ——!」
「マクゴナガル教授! 進路のことですが、わたしはクィレル先生のもとに永久就職します!」」

 そう言って、マーガレットは慣れた手つきで砂時計を半回転させた。瞬間、彼女の姿が部屋から消える。

「これは大変なことになりました……」

 時間旅行へと旅立ったマーガレットを見送ったのは、頭を抱えるマクゴナガル教授とくちばしを開けたまま、石のように固まっている青い目の大鴉(レイブン)だけだった。
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