1992年の9月2日。この日は朝からとにかく賑やかであった。なにせ、ふくろう便で赤い封筒が——「吼えメール」が届いたのだ。
ウィーズリー夫人による息子とその友人へのお説教が大広間の石の壁に反響していた。
新学期早々、なぜこのようなことになったのか。事の起こりは昨日まで遡る。
昨日は9月1日。子供たちがキングス・クロス駅からホグワーツ特急に乗り込み、ホグワーツ城へと戻ってくる日である。だから、マーガレットも生徒たちを乗せる馬車を磨いたり、式典の準備を手伝ったりと忙しくしていた。
ここまでは例年と変わらない一日であった。違うことといえば、昨年よりも余裕を持って身支度を終えたことくらい。
だが、マーガレットが部屋でくつろいでいると一匹の猫が現れた。空中に佇む銀色の猫——これはマクゴナガル教授の守護霊だ。
「大変なことになりました。至急職員室まで来てください」
わざわざ守護霊を使って招集が掛けられるなど、めったにないことだ。マーガレットが急いで職員室に向かうと、すでに多くの教授が集まっていた。
いないのはこういった場にはまず姿を現さないトレローニー教授、ホグワーツ唯一の幽霊教師ビンズ教授、それと新しい闇の魔術に対する防衛術の教授であるロックハートくらいか。
「ミス・マノック、待っていました。これを見てくれませんか? こういったことはマグル学を教えるあなたが一番詳しいでしょうから」
マクゴガナル教授から手渡されたのは今日の夕刊預言者新聞だった。一面の見出しには「空飛ぶフォード・アングリア、訝るマグル」と書いてある。
どうやら首都ロンドンやイングランド東部のノーフォーク州、ボーダーズのピーブルズといった街の上空で空を飛ぶ青いフォード・アングリアが数名のマグルに目撃されてしまったらしい。
「ミス・マノック、確認です。マグルは空を飛ぶ乗り物も持っているそうですが、そのフォード・アングリア、ですか? それも空を飛ぶものなのでしょうか?」
「いえ、空を飛ぶ自動車はまだ発明されていません。ましてや、60年代に発売されたようなこの車なら、なおさら空を飛べるわけが……。まず、魔法が関係しているのは間違いないかと」
マーガレットが所感を伝えるとマクゴナガル教授は口を真一文字に結んだ。ため息を吐いたり、頭を抱えたりしている教授もいる。
この後始末に駆り出されるのであろう魔法省の職員や忘却術師のことを思えば、それはそれは大変なことになるだろう。が、どうしてホグワーツの教師たちがこの件に関し、これほどまでに心配しているのかがマーガレットにはわからない。
「マクゴナガル教授、このニュースがどうかしたのですか? その、この手の事件はまま在る事では……」
「えぇ、そうですね。ですが、これに乗っているのが我が校の生徒の可能性があるです」
「ホグワーツの生徒? たしかにこの車はロンドンから北へ、まるでホグワーツへと向かってきているようですが……。しかし、そもそも生徒たちは汽車に乗っているはずでは?」
普通、ホグワーツ生はロンドン、キングス・クロス駅九と四分の三番線からホグワーツ特急に乗り込む。だから、今頃の生徒たちは汽車に揺られているはずだ。
「先ほど、ホグワーツ急行からふくろう便が届きましてな。差出人はグリフィンドールの監督生パーシー・ウィーズリー。なんでも汽車の中に弟とハリー・ポッターの姿がないと。はて、彼らはどこにいるのですかな」
眉間に皺を寄せているマクゴナガル教授に代わって、スネイプ教授が答えた。彼は薄い笑みを浮かべている。
マーガレットはもう一度夕刊預言者新聞に目を落とした。よくよく意識をして読めば、空飛ぶフォード・アングリアの目撃された場所がホグワーツ急行の線路が引かれた土地でもあることに気が付く。
「空飛ぶ車はホグワーツ特急を追いかけている? つまり、この年代物のフォード車にはホグワーツにたどり着きたい誰かが乗っている。だから、ホグワーツ特急に乗っていないミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーがその誰かなのでは? と、いうことですね」
「ミス・マノックも吾輩と同じ結論にいたったようですな」
他の教授たち概ね同意見のようで、あちらこちらから肯定の言葉が聞こえた。
「えぇ、考えれば考えるほどその推測どおりに思えてきます。ですが、今は彼らの到着を待つしかありません。話を聞かないことには、どう処罰すべきかも決められませんから」
マーガレットはこの時ほど厳しい表情のマクゴナガル教授を見たことがなかった。そして、この時ほど意地悪い顔のスネイプ教授も見たことがなかった。
結局、マーガレットの推理は当たっていた。
ホグワーツ急行に乗り遅れた二人の生徒は空飛ぶフォード・アングリアでホグワーツ城までやって来た。それも自分たちで運転してきたというのだから驚きだ。
赤い吼えメールが真っ赤な炎となって燃え尽きるのを見届けたのち、マーガレットはホグワーツ城の外へと出た。天を仰げば、雲一つないような青空が広がっている。
ネモは飼い主の肩を離れ、風に身を任せていた。黒い翼を大きく広げ、空を滑るように飛ぶ。
今朝の騒々しさがまるで遠い過去になってしまったかのような、そんな清々しい朝だった。
薬草学の温室まで来れば、目的地が見えてきた。昨夜、空飛ぶフォード・アングリアがぶつかったという「暴れ柳」まではもうすぐ。
大きな柳の木の下には二人分の影があった。一人は小柄で継ぎはぎだらけの三角帽をかぶった魔女、もう一人はトルコ石色ローブを風になびかせている魔法使い。
「スプラウト教授、ロックハート教授。おはようございます。いい天気ですね」
マーガレットが声をかけると二人の教授は振り向いた。
ロックハート教授はこぼれるような笑みを浮かべている。陽光を浴び、白い歯がきらりと輝く。
だが、もう一人の——スプラウト教授の顔を見て、マーガレットはどきりとした。なぜなら、普段は快活でいつも笑みを浮かべているような彼女が不機嫌な顔をしていたからだ。
けれど、スプラウト教授はマーガレットの姿を見ると、すぐに頬を緩ませた。
「ミス・マノック、いいところに。『暴れ柳』に包帯を巻くのを手伝ってください」
さすがは薬草学の
スプラウト教授の指示を受け、マーガレットは「暴れ柳」の枝に包帯を巻いていく。プレゼントボックスにリボンをかけるときのように丁寧に、丁寧に。
「あっという間に終わりましたね。おかげで私の出る幕がなくなってしまいました。私の知る『暴れ柳』の治療法をお見せできるかと思ったのですが」
ロックハートは残念とでも言いたげな様子だった。
「以前、旅の途中で私はこのエキゾチックな植物と出遭ったことがあるのです!」
あれはいついつ、どこどこでのこと。ロックハートが一人で語り続けるのを、マーガレットは後片づけの手伝いをしながら聞いていた。
「そういえば、ミス・マノックはどうしてここに?」
巻き取った包帯を手渡した際、スプラウト教授からそんなことを聞かれた。
「その、例のフォード・アングリアを一目でも見られないかと思いまして。小さい頃、海を走り、空を飛ぶ不思議な車のお話を何回も見せてもらっていました。だから、空飛ぶ車には憧れがあるんです」
少し恥ずかしそうに、と同時にどこか感慨深そうにマーガレットは語った。
「やっぱり魔法はすごいですね。まさか空飛ぶ車まで作れてしまうだなんて……」
いつまでも魔法界は、ホグワーツはマーガレットにとって驚くべきことばかり。
「スネイプ教授がおっしゃっていたとおり、今ここにはあのフォード・アングリアはないようですね。でも、もう少し探してみようかと思います」
「悪戯好きの子供たちより、あなたが先に見つけてくれるのならば私たちにとっても安心です。ですが、空を飛んでいるところをマグルに見られてしまわないように気をつけてくださいね」
「もちろんです、スプラウト教授。わたしも車の運転はできませんので、勝手に動かすわけにはいきませんから」
マーガレットはマグル育ちではあるが、それはあくまでも11歳までのこと。だから、彼女は運転免許を持っていない。
そのため、空を飛ばしていなかったとしても、車を運転しているところをマグルに見つかってしまうわけにはいかないのだ。
「目立ちたいから車を飛ばすなど、もっての外ですとも! そんな方法で目を引こうなど、ハリーには困ったものだ。しかし、彼に有名になることへの味をしめさせてしまったのは私なのです。『有名虫』を彼に移してしまった。ですから、より有名である私からの助言がハリーには必要でしょう!」
いつの間にか会話に参加してきたロックハートは笑顔でウィンクすると、「それでは、私はハリーと話さねば」と城に向かってすたすたと歩き出した。
彼の姿が遠ざかるのを眺めながら、スプラウト教授はほっと息をつく。
「とても助かりました、ミス・マノック。では、私は授業がありますから。探し物が見つかるといいですね」
スプラウト教授は使い切らなかった包帯を両手に抱え、温室へと向かっていた。
教授の後ろ姿を見送り、マーガレットは空を見上げる。
「ネモ、おいで!」
マーガレットが呼ぶと、ネモは彼女の左肩にふわりと舞い降りた。
「どう? フォード・アングリアは見つけられた?」
ネモは首を横に振る。そして、まったくもってわからないとでも伝えたいのか首を真横に傾けた。
「そっか……。空からは手がかりも見つからなかったか」
包帯でつるされた「暴れ柳」の枝が風でぶらぶらと揺れるのをマーガレットは眺めている。
「そういえば……」
自分が憶えているもっとも古い記憶のことを思い出した。
「わたしもあんなふうだったな。頭も腕も包帯でぐるぐる巻きにされて。そっか、あの『暴れ柳』も自動車とぶつかったから——」
「カーカー」とネモはマーガレットの耳元で鳴く。その鳴き声でマーガレットの思索は途切れた。
「あぁ、ごめんね。嫌なことを思い出しちゃった。そうだ。ネモは気づかなかったみたいだけど、わたしは消えたフォード・アングリアの手がかりを見つけたの」
マーガレットは杖を足元に向ける。そして、わずかに残されたタイヤの跡を示した。
「『君はただ眼で見るだけで、観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大違いなんだぜ』*1……なんて。ごめんね、ちょっと言ってみたかっただけ。それに、空高くからはこのタイヤ痕も見えなかったと思うから」
少し機嫌を損ねた助手にお詫びのショートブレッドを与え、名探偵は推理を続ける。
「空飛ぶフォード・アングリアは『暴れ柳』にぶつかり、不時着した。その後、ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーを残し、フォード・アングリアは走り去る。そして、このタイヤ痕の方向には——『禁じられた森』」
口いっぱいに頬張っていた菓子を飲み込んだからだろうか。ネモの喉元からごくりと唾を呑むような音が聞こえた。
「あとはネモが教えてくれたとおり、空からは何も見えなかった。なら、フォード・アングリアは隠れているのだと思う。例えば、木々が生い茂る深い深い森の中、とか」
はっきりとした証拠はない。けれど、マーガレットは確信していた。空飛ぶフォード・アングリアは「禁じられた森」の中にあるのだと。
「ネモ、——」
マーガレットが声をかけるよりも先に、ネモは飼い主の肩から飛び降りると翼を大きく広げた。まるで通せんぼしているようだ。
マーガレットが一歩前に進むと、今度は胸を張ってさらに翼を大きく見せようとする。その様子を見て、マーガレットはふっと笑った。
「ネモ、城に帰ろうか。大丈夫だよ、わたしがフォード・アングリアを探しに『禁じられた森』へと行くんじゃないかって、心配してくれたんだよね」
マーガレットはネモを抱き上げると、何度も頭を撫でる。
「いい子いい子。ありがとうね」
「暴れ柳」にくるりと背を向け、ホグワーツ城に向かって歩き始めた。ネモはマーガレットの腕の中で飼い主の青い瞳をじっと見上げている。
「わたし、『禁じられた森』で襲われたんだよね? だから、またそんなことがあったら大変でしょ? それに——」
記憶を消されたため、マーガレット自身はよく憶えていない。だが、自分がネモを探しに向かった先である人物に襲われたこと、そして、その人物が誰であるのかは知っていた。
だから、その人物がもうホグワーツにはいないこともわかっている。ならば、再び襲われてしまうのではとマーガレットが怯える必要はないはずだ。
けれど、——。
「それに、わたしが困ったときにいつも助けてくださっていたクィレル先生も今はいらっしゃらないから、ね。わたしは先生に甘えてばかりで……」
彼女の敬愛する恩師ももうホグワーツにはいない。
「ネモ、どうしたの? そんな顔して。大丈夫、心配しないで。だって、ハロウィーンの夜にトロールと戦ったり、真夜中の『禁じられた森』で襲われたり。それから、例のあの人に殺されかけただなんて、そんな一年が二度もあるわけないでしょう?」
And Now...