1983年9月2日——前日に入学式を終えたばかりのこの日、
この少女——マーガレット・マノックの想像どおり、ホグワーツ魔法魔術学校は魔法と神秘に満ちていた。動く階段、喋る肖像画、それから校内をうろつくゴーストたち。どれも彼女が初めて目にするようなものばかりだ。
あちこち見ながら歩いていると、つい階段を一階多く降りすぎたり、つい廊下を長く歩きすぎたりしてしまう。そのせいで、マーガレットは今日一日だけでも両手で数えきれないほど道に迷いかけていた。
しかし、今は一緒に教室に向かう同級生も道順を丁寧に教えてくれる監督生もいない。寄り道をしたい気持ちをぐっと抑え、メモを取り出す。慣れない羽根ペンで書いたせいで字は少々読みづらいが、今の彼女にはなくてはならないものだ。
「階段を降りて……。それから、北塔に向かう。で、ここがその北塔で目的地は二階。階段は……あった!」
マーガレットは階段を駆け上がり、ようやく目的の教室の前までたどり着いた。授業時間ではないからか、木製の扉は閉ざされている。息を整え、彼女は元気よく扉をノックした。
しばらくの間はなんの反応もなかった。もしかして留守だったのだろうかとマーガレットが考えていると、ゆっくりと扉が開いた。恐る恐るといった様子で顔をのぞかせたのは、彼女が会いたがっていた例の青年だった。
「クィレル先生、こんにちは!」
マーガレットは白い歯をのぞかせにっこりと笑った。
「み、ミス・マノック、こんにちは……」
クィレルは驚いたような顔をしていた。きっと、マーガレットがこんなにも早く自分に会いに来るとは思っていなかったのだろう。
「先生、時計とそれからアイスのお礼をお渡ししにきました。その、受け取ってください」
「あ、ありがとうございます」
マーガレットは大事に抱えていた緑色の包みをクィレルに渡した。
「紅茶とビスケットです! とってもおいしいですよ!」
「こ、これは……。あぁ、ロンドンの老舗百貨店のものですね。い、いいものをいただきました。ありがとう」
クィレルの言葉を聞き、マーガレットはほっとした表情を浮かべた。魔法使いに贈り物をするのは初めてであったから、なにが喜んでもらえるかずっと心配だったのだ。そのため、マーガレットがおいしいと思うお菓子を選んだのだが、間違っていなかったようだ。
「み、ミス・マノック、よくこの教室の場所がわかりましたね」
「監督生さんに聞きました。それから、行き方を忘れないようにメモも取りました。でも、何度か迷っちゃいました……」
「それは……。た、大変だったでしょう」
マーガレットはこくりと頷いた。
「でも、色々なものが見られてとっても面白かったです! ホグワーツってこんなに摩訶不思議なところだったんですね。もうすっかり気に入っちゃいました」
「それはよかった。そ、そうだ。ミス・マノック、この教室まで来るのに疲れたでしょう。一息入れるついでに、す、少しお話していきませんか? き、君が持ってきてくれた、ビスケットでも食べながら」
「いいんですか! ぜひ喜んで!」
マーガレットはとびきりの笑顔をみせた。クィレルは教室の扉を大きく開け、彼女のことを迎え入れる。
「ミス・マノック、———————————」
それからの時間はマーガレットにとって、とても楽しく、心地の良いものだった。温かい紅茶とおいしいお菓子、それから自分が知りたいこと、知らないことをなんでも教えてくれる
気がつけば夕食の時間。マーガレットにはまだまだ聞きたいこと、話したいことがたくさんある。しかし、もう帰らなければならない。別れ際に「また会いに来てもいいですか?」と聞けば、クィレルはにっこりと笑って頷いた。
「先生、また会いましょう!」
この日、マーガレットは初めてマグル学教室を訪れた。そして、次の日も、そのまた次の日も彼女はこの教室に足を運んだ。
それから、この時の彼女はまだそんなことを知る由もなかったが、寮の談話室や図書館にいるよりも多くの時間をこのマグル学教室で過ごすようになるのであった。
そして、1990年6月。卒業式を翌日に控えたこの日、マーガレットは校内を忙しなく駆け回っていた。道順を書いたメモも、もう彼女には必要ない。
マーガレットは寮の談話室で七年間をともに過ごした仲間たちと別れの言葉を交わし、大広間ではかつて勉強を教えた後輩たちから祝いの品を受け取った。それから各教授への挨拶を済まし、通いなれたマグル学教室に足を運んだのは夕方になってからのことだった。
マーガレットとネモは北塔二階のマグル学の教室に足を踏み入れた。授業中とは違って誰も——それこそ教授も——いない教室はひどく静かで、どこか寂しげに感じられる。
ここは何度も訪れた教室ではあるが、もう生徒として来ることはないのかと考えるとマーガレットは感慨深かった。
「先生、マノックです。いらっしゃいますか」
マーガレットが声をかけると、彼女を招き入れるかのように研究室の扉が開く。部屋の中では彼女の恩師が忙しそうに書物の整理をしているところだった。普段なら棚にぎっしりと本が詰められているはずだが、今はところどころに隙間ができている。
「お忙しいところすみません。少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「えぇ、そろそろ私も休憩しようと思っていたところでした」
マーガレットとクィレルは向かい合わせでソファーに腰掛け、ネモはマーガレットの膝の上に座った。クィレルが杖を振るうと二人の間に紅茶が現れる。マーガレットは初めてこの現象を見た時にはずいぶんと驚いたが、卒業間近の今となってはもう見慣れたものだった。
マーガレットは紅茶を一口、口に含んだ。華やかにベルガモットが香るアールグレイ。彼女が最も好きな紅茶だ。
「ついに君も卒業ですか。少し早いですがおめでとう」
「ありがとうございます!」
マーガレットは愛想のよい笑みを浮かべた。クィレルは彼女の胸元に輝く
「初めて出会った七年前は魔法界のことなどなにも知らなかった君が、今や賢きレイブンクローを代表する生徒の一人。ま、まったくもって君は優秀な生徒でした」
「いえ、わたしが優秀だなんて……。わたしはただの知りたがり屋で、わからないことがあるとじっとしていられなかっただけです。……それに、そんなわたしに色んなことを教え、助けてくださったのは先生じゃないですか」
マーガレットにまっすぐ見つめられていることに気づき、クィレルは思わず視線を逸らした。灰色の瞳に困惑の色が浮かぶ。
「わ、私が君に教えられたことなど、たかが知れています」
「いえ。先生からは本当にたくさんのことを教わりました。例えば、——
マーガレットは膝の上のネモを一瞬でゴブレットに変えてみせた。
「これが初めて先生から教わった呪文でしたよね。でも、すぐには覚えられなくて……。この教室に何度も通って、先生に何度も教えていただいて、やっとできるようになった時はとっても嬉しくて!」
マーガレットは懐かしそうに笑う。
「あぁ、そうだ。——
ゴブレットは高速で回転し、元の鴉の姿に戻った。目が回ったのか、ネモは頭をゆらゆらと揺らしている。
マーガレットはネモの体を撫でながら、再び口を開いた。
「これ以外にも、もっともっと色んなものを先生のおかげで知ることができました。呪文なら——そう、
マーガレットはそこで一呼吸置いた。
「……だから、これからもどうぞよろしくお願いします。ホグワーツの教員となるにはまだまだ未熟な魔法使いです。それに、未だ先生から学ばせていただかなければならない身です。だから、先生にご迷惑をおかけすることもあるかもしれません。それでも、助手として先生のお役に立てるよう精進します」
マーガレットが恩師の元を訪ねたのは、なにも今までの感謝を伝えるためだけではなかった。ホグワーツを卒業後、彼女はマグル学の助手としてクィレルのもとで働くことが決まっていた。だからこそ、その挨拶と今後の打ち合わせのためにマグル学教室に足を運んだのであった。
「君にはなんの心配もしていませんよ。ところで、き、君に一つ聞きたいことがあるのですが」
「なんでしょうか?」
「まだ、ちゃんと聞いたことがありませんでしたので。……君はどうしてマグル学の教員を選んだのでしょう? 君の夢はお父様との記憶を思い出すことでしたよね。失った記憶を取り戻すための研究を行うのなら、もっとふさわしい職場があったのではないか、と。君の成績なら魔法省で忘却術師として働くことも、聖マンゴに癒者として勤めることもできたでしょうに」
マーガレットは口元に手を当て、考える素振りを見せた。今度は目をそらすこともなく、クィレルはその様子をじっと観察している。
「たしかに、その二つの職に就くことを考えたこともありました……。忘却術師は魔法界で最も記憶の取り扱いに長けた仕事ではありますが、記憶を消すことに主軸が置かれています。だから、わたしには抵抗がありました。また、癒者となっても人の記憶を元に戻せるようになるわけではない。かつてのわたしのように記憶を取り戻せずに苦しむ患者の姿を見たら、またわたしも苦しくなってしまいそうで……。だから、わたしはどちらにも向いていないと思いました」
そう語るマーガレットの表情はどこか寂し気だった。
「難しいですね、記憶というものは。この七年間、なにか取り戻せる方法ないだろうかと図書館で調べたり、他の教授たちに聞いてみたりもしました。それでも、まだなにもわからないままです。それこそ、失われた『レイブンクローの髪飾り』にでも頼らねばならないものなのかもしれませんね」
マーガレットの失われた記憶は魔法界に来たからといって戻ることはなかった。それに、いくら探したところで記憶を取り戻す方法を見つけることもできなかった。
「実は、何度か実家を継ごうかとも考えたこともあったんです。もう記憶が戻らないのならば仕方ないかな、と。マッカーデン商店、あそこはかつてホグワーツを卒業した父が働いた場所でもありますから、父のようにはなれますし」
当時のマーガレットは悩んだ。
しかし、彼女は七年前に抱いた魔法への希望を、そして魔法で叶えたい夢を諦めることはできなかった。
「でも、絶対に思い出したいんです。記憶はないけれど、それでも父はわたしの大切な人で、永遠の目標なんです。だから、わたしは魔法界で夢を追い続けることを選びました。『夢を持ち続ければ、いつか魔法は応えてくれる』はずですから」
『夢を持ち続ければ、いつか魔法は応えてくれる』と口にしたマーガレットの表情はとても晴れ晴れとしていた。曇りのない青い瞳はしっかりと前を——クィレルのことを見つめている。
「そして、魔法界に残ろうと決めたその頃でした。フリットウィック教授がホグワーツで教員として働けば、仕事の傍らで自分の研究や調査を進めることもできるのではないかと提案してくださいました」
「だから、ホグワーツの教員に?」
「はい。先生もご存知かとは思いますが、マグル学はわたしが一番好きで、得意な教科です。魔法族から見た非魔法族の社会——つまり、魔法界で生まれた父の見ていた世界を少しでも知ることができますから。だから、一番父に近づくことができる教科だと思いまして。それに、ふと思い出したんです。先生が以前、わたしのような生徒がマグル学の研究に参加すればいいのにと言ってくださったことを。あの言葉が、とても嬉しくて——」
マーガレットは白い歯を見せて笑った。
「だから、先生のご期待に応えられるよう精一杯励みます」
「……。なるほど、そ、そういうことでしたか。では——ミス・マノック、さっそくですが君に任せたい仕事があります」
マーガレットは初仕事への期待で胸をいっぱいにしていた。青い瞳は将来への希望に満ち溢れ、きらきらと輝いている。
「く、9月からの一年、き、君がマグル学の教鞭をとってください」
「はい、頑張り——。え? わたしが、ですか?」
マーガレットは首を傾げた。彼女が任されたのは助手の仕事である。教授の授業の手伝いをすることはあっても、一年間ずっと助手が授業を受け持つということはまずない。
マーガレットは唇をぎゅっと結び、不安げにクィレルのことを見つめている。彼女の緊張を感じてか、膝上で座っていたネモもその居住まいを正した。
「私は次の一年間、け、研究のために休暇をとることにしました。その間の講義を助手、つまりは君に任せるつもりだということも伝えましたが、校長も他の教授たちもミス・マノックが引き受けるのなら問題ないだろうと快く認めてくださいました。ですから、9月からはき、君が学生たちにマグル学を教えてください」
「あの、待ってください! わたしには先生の代わりなんてできません。それに、わたしはまだ先生に教わりたいことが——」
マーガレットは顔を赤くして、ひどく動揺していた。なにか言おうとするが、口をパクパクとさせるだけで言葉が出てこない。ネモはそんな飼い主を少しでも落ち着かせるために鳴き声を上げて気を引こうとするが、マーガレットの耳にはそれすらも入ってきていなかった。
クィレルは静かに腰を上げ、本の整理を再開した。自身の蔵書を検知不可能拡大呪文がかけられたトランクに詰め込んでいく。マーガレットに背を向けたまま、彼は淡々と作業をこなしていた。
「ミス・マノック、マグル学をよく学んでいる君なら知っていることかと思いますが——」
クィレルの声が聞こえたことで、ようやくマーガレットは冷静さを取り戻した。視線を動かし、彼の背中を見る。
「——マグルの世界は今まさに大きな変革の時を迎えています。ある国では都市を分断していた壁が取り壊され、またある国では革命が起きた。それまで彼らの世界を二分していた思想のうちの一つが瓦解しようとしている。だから、私はその混沌を知るために東に行こうと考えています。ですから——」
「先生、それなら——」
クィレルが振り返るとそこには口元をわずかにゆがめ、歪な笑みを浮かべるマーガレットがいた。七年もの間、クィレルはマーガレットと交流を深めてきたが、それは彼が初めてみる彼女の表情だった。
「いえ、なんでもありません」
マーガレットは瞳を閉じ、一度大きく深呼吸をした。そしてゆっくりと目を開くと、先ほどまでとは打って変わって自然な笑みを浮かべた。
「……先生、いつ出発されるんですか?」
「明日、君たちの式が終わった後に。ミス・マノック、これが引き継ぎの資料です。……君に無茶なお願いをしているのは、わかっています。でも、きっと君は……大丈夫なのですよ」
「先生、それは買い被りすぎですよ」
マーガレットは手渡された書類の表紙を撫でながら小さな声で呟いた。
「でも、それだけ先生が期待してくださっている、ということですよね」
マーガレットは冷めた紅茶をゆっくりと飲み干した。そして、ソファーから立ち上がり、本棚の前に立つクィレルの隣に並んだ。かつては見上げなければいけなかった青年の顔が、今では目線の高さとほぼ変わらないところにある。
マーガレットが指で合図をすると、ネモは彼女の左肩にとまる。肩に鴉をのせたマーガレットの立ち姿はまさしく魔女と呼ぶにふさわしいものだった。
マーガレットはクィレルの方を向いた。胸に手を当て、「先生、今まで本当にありがとうございました」と感謝の言葉を口にする。ネモもまるでお辞儀でもするかのように頭を下げていた。
「それから、休暇中のことはお任せください。先生の代わりを務めるには、わたしは力不足です。それでも、わたしに任せてよかったと思っていただけるように全力を尽くします」
「……期待しています」
マーガレットは横目で本棚を見た。そのあまりにも片づけられた棚を目にしてしまうと、本当に恩師はこの部屋に戻ってくるつもりなのだろうかと不安を感じた。
「あの、先生。先生がマグル学教室に戻ってきてくださるその日まで、わたしはここで待っています。だから、必ず帰ってきてくださいね」
マーガレットは右手を差し出した。そして、クィレルはその手をそっと握り返す。
「一年後、また先生にお会いできる日を楽しみにしています。そのときはぜひ休暇中にどんなことがあったのか教えてくださいね。では……。また会いましょう、先生」
マーガレットはそっと手を離し、マグル学教室から立ち去った。すっかり慣れていたはずの寮への帰り道も、この日はなぜだかとても遠く感じた。
マグル学教室で過ごす時間——それは彼女にとって、いつも楽しく、心地の良いものであった。彼女がホグワーツで学生として生活していた七年間、その思いは
しかし、七年という長い年月が過ぎるにつれて、あの教室の中でなにかが変わっていた。そして、マーガレットはその変化に気づかないまま、ホグワーツでの学生生活を終えようとしていた。
次回から第1章「賢者の石」編となります。
学生時代の主人公について、マグル学教室でなにが変わってしまっていたのかについては第1章の最終話で触れる予定となっています。