マグル学教室へようこそ   作:BellE

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第2話 マグル学教授と「生き残った男の子」

 マグル学教授への就任が決まってから、マーガレットはとにかく忙しい日々を送っていた。一度は片づけた荷物を再び研究室に並べ直すことから始まり、シラバスの作成、備品の整理、それから資料や書籍の収集と休むことなく9月に向けての準備を進めていた。

 

 そして、それは新しく闇の魔術に対する防衛術の教授への就任が決まったクィレルも同じようであった。ホグワーツに帰って来てからの彼はほとんど研究室を出ることがなく、マーガレットと顔を合わせるのも食事の席くらいであった。

 学生時代のマーガレットであれば、恩師に会うため研究室にも足を運んだことだろう。しかし、ホグワーツの教師になり、その大変さを理解してしまった以上、そういうわけにはいかない。同じ城の中にいるのだからお茶をしながらゆっくり話す機会もどこかであるだろうと考え、マーガレットは夏が近づく6月を乗り越えた。

 

 

 

 そして、7月。マーガレットは父の命日に合わせて帰省していた。当初は一週間程度の休みをもらえればいいと思っていたが、副校長から一か月でもいいと言われたため、彼女は7月を丸々ロンドンで過ごすことにした。

 

 休みの間、マーガレットはマッカーデン商店の手伝いとして店に立つこともあれば、マッカーデン氏の代わりに時計やオルゴールを修理することもあった。時にはどうしても修理できない物が店に持ち込まれることもあったが、そういった物はマグル学の貴重な資料としてマーガレットが持ち帰ることになった。

 また、仕事がない日には家族揃ってウエスト・エンドに出かけたり、一人で博物館に足を運んだりと充実した余暇を楽しんでいた。もっとも、マーガレットにはマグル学の授業のためにマグルの歴史や文化を改めて学ぶという目的もあったのだが。

 

 こうして7月を最愛の家族と過ごす時間、そして自身の見識を深めるための時間として使っていたマーガレットであったが、それももうじき終わろうとしていた。今日は7月30日。明日はホグワーツへと帰る7月31日だ。マッカーデン商店のマーガレットから、ホグワーツのマノック教授に戻る日でもある。

 だから、マーガレットは家族とともに過ごす夏休み最後の夜を楽しもうとしていた。

 

 

 

「マーガレットの教授就任を祝って乾杯!」

 

 赤ら顔のマッカーデン氏は上機嫌でグラスを持ち上げる。孫娘としばらく会えなくなる寂しさからか酒が進み、今夜の彼はずいぶんと酔いが回っているようだった。

 

「まさか、このマッカーデン商店から教授が誕生するとは! おめでたい。本当におめでたい!」

 

 黙々とアンティークの修理をしているような普段のマッカーデン氏からは想像もつかないような姿だが、三人の女性たちは「やれやれ」だとか「またか」といった表情を浮かべている。ネモですらも口を半開きにさせ、呆れ顔とでもいった様子だ。

 

「教授とはいうものの、わたしには他の教授たちのように優れた実績があるわけでもないから……」

 

 ビスケットをかじり、マーガレットは苦笑いを浮かべた。自分は「変身現代」のような高名な雑誌で賞を取ったわけでもないし、決闘チャンピオンになったわけでもない。それに、前任のマグル学教授のように様々な呪文を無言で扱えるほど、魔術に長けているわけでもない、と。

 だからこそ、彼らと同じ教授という役職に自分などがいることはマーガレットにとっては複雑なのであった。教授になれたことはもちろん嬉しい。が、本当に自分でよかったのだろうか。ホグワーツで忙しく動き回っていた間はそんなこと考える暇もなかったが、家族と過ごし少し余裕も生まれた今だからこその悩みだ。

 

「しかし、この一年はミスター・クィレルの代わりに先生を務めたのだろう?」

「でも、それまで先生がやっていらした授業をわたしが真似していただけ。ほら、また先生がマグル学の教壇に戻って来てくださるものだと思っていたから。なるべく授業の雰囲気や内容を変えないようしようと思って」

「それもあなたの才能だとあたくしは思うのだけど」

 

 グラスを揺らしながら、マッカーデン夫人は呟いた。

 

「でも、もう先生の助手ではないからその手は通用しないかな。ちゃんと自分で考えないと」

「そうか……。だが、君は論文を書いて、雑誌にも載せてもらえただろう?」

「あれはクィレル先生の前の教授が編集長をしてらっしゃる雑誌で、わたしが学生時代に面識があったから声をかけていただけたの。だから、マグル学の教授としても、一研究者としても、まだまだこれから」

「でも、君は研究をし、それを論文に書いた。そして、それが雑誌に載った」

 

 マッカーデン氏はマーガレットにまっすぐ顔を向けた。酔って真っ赤な顔をしているが、言葉ははっきりとしている。

 

「それは立派なことじゃないか。マーガレット、君は真面目だから自分が教授にふさわしいのか悩んでいるのだろう。そして、それは当然のことだと思う。だが、それで卑屈になってはいけない。君は一年間授業を受け持った。論文だって書いた。君は……教授になろうと、いい先生になろうと頑張っている。そして、君がそういう努力をできる人だからこそ、教授を任されたのではないかね」

 

 祖父の言葉を聞き、マーガレットの心が軽くなった。「ホグワーツのマグル学を任せられるのは君しかいない」と言われたあの時、たしかに自分はマグル学教授になることへの覚悟を決めた。その決意を翻してしまうことこそが、マーガレットを次のマグル学教授にと推してくれた恩師への裏切りになる。だからこそ、今はただ前に進むしかない。

 

「ありがとう」

「お礼を言われるほどのことではないさ」

 

 マッカーデン氏はグラスをあおった。そして、これがいけなかった。

 

「はあ……。しかし、マーガレット・マノック著『マグルのチェスと魔法使いのチェス ~ただ駒が違うだけなのか~』だったか。私も読ませてもらったが、ははは、実に面白い研究だったじゃないか! マーガレットにチェスを教えたのは私だが、はは、それがあのような研究に結びつくとは。ははは」

 

 マッカーデン氏は笑いがこらえられないといった様子だった。祖父が酔っている姿は何度も見たことがあったマーガレットであったが、こんな酔い方をしているのを見るのは初めてであった。

 

「私は父から『自分が学んだことはすべてにお前に教える。だから、お前も子供になんでも教えなさい』と言われて育った。ははは、だからこそ、メアリーにも、マーガレットにも様々なことを教えてきたつもりだが、それが論文に、それも一つの本になるとは……。はは、あの書斎に家族の名前が載った本があるなど、ははは、夢のようだ」

 

 マッカーデン氏はずっと笑っている。その様子を見て、マーガレットはビスケットを口に運ぶ手を思わず止めてしまうし、ネモもあんぐりと口を開けている。

 

「マーガレットは初めて見るかしら? お父さん、とっても嬉しいことや悲しいことあったときは、こんな風になるのよ」

 

 メアリーは困ったように笑っている。しかし、今の話を聞く限りはマーガレットの教授就任が祖父にはとても嬉しいことだったのだろう。だからこそ、止めることができないといったところか。

 

「……あたくし、スコットと初めて出会った時はなんて真面目で誠実そうな方なのって思ったの。でも、お酒が入るとこう。彼の寡黙でミステリアスな雰囲気にあたくしは惹かれましたのに」

 

 そう語りながら、マッカーデン夫人は三本目のワインボトルを空にした。

 

「お母様から結婚するなら自分と似た男にしろと言われていましたが、お酒の強さはまったく似ていませんでしたわ」

「しかしだね、エミール。私と君はよく似ているよ。私はよい骨董品を追い求めて、ははは、世界中を旅した。一方、君は私のことを追って世界を回り、最後はイギリスまでやってきた。はは、私たちは似た者同士なのさ」

 

 どう考えても酒のせいではあるが、今夜のマッカーデン氏はやけに饒舌だ。ははは、と楽しそうに声を上げる。そんな夫に影響されてか、何杯ワインを飲んでも顔色一つ変えなかったマッカーデン夫人もほんのりと赤くなっている。

 

「こんなにいい気分なのは、ははは、マイケルと初めてあった日以来か? いや、メアリーのお腹の中に子供がいるとわかったときか? ははは、そうか、マーガレットが魔法使いだとわかったあの日ぶりか。ははははは」

「マーガレット、こうなった時のお父さんの話は長いわよ。でも、きっと楽しい話が聞けるわ」

「ははは、ならば順に話そうか。まず、私がマイケルと初めて出会ったのは1971年6月のことだった。あの日は——」

 

 母の言うとおりになりそうだなと思いながら、マーガレットはビスケットを半分に割った。片方を自分の口に放り込み、もう片方をネモに食べさせながら祖父の語る長い長い昔話に耳を傾けていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 翌朝、マーガレットはメアリーとともにキッチンに立っていた。母はゆっくり休んでいればいいと言ってくれたが、ホグワーツにいるとこうして料理を作る機会というのはそうそうない。それに、昔のように母と一緒に朝食を作れることがマーガレットにとってはなによりも楽しかった。

 メアリーが慣れた手つきでポーチドエッグを作るのを横目で見ながら、マーガレットはベーコンを焼いていた。ほどよく焼き色をつけ、トーストしたマフィンにのせる。後はポーチドエッグをのせ、その上からソースをかければエッグベネディクトの完成だ。

 

「マーガレット、ロウェナとネモのベーコンも焼いてあげて」

「うん」

 

 フライパンに油を引き直し、新たに三枚のベーコンを並べる。それをカリッカリになるまで焼き上げ、二枚はネモ用のプレートに盛りつける。もう一枚は食べやすい大きさに切り、野菜や果物の入ったサラダにのせた。

 

「できたわね。マーガレット、ロウェナにご飯を持っていってもらってもいい?」

「もちろん。ネモもおいで」

 

 マーガレットは少し離れたところからキッチンの様子を見ていたネモに声をかけた。すると、ネモは飼い主に向かって一直線に飛んできて、普段どおり彼女の左肩にとまる。

 マーガレットはサラダボールをのせたトレーを持ち、ロウェナのいる部屋へと向かった。

 

 かつて父が仕事場として使っていた部屋は、彼が亡くなった時からほとんど変わっていない。ルーペやドライバーなどの仕事道具が収められたキャビネット。童話や児童文学と小さな子供が喜びそうな本がたくさん並べられた本棚。家族の写真を飾ったコルクボード。そして、ペンスタンドや山積みのノートが置かれた作業机。

 ここで待っていれば、父がふらりと帰って来るのではないか。この部屋に足を踏み入れるたび、マーガレットはいつもそんなことを考えていた。

 

「おはよう、ロウェナ」

 

 マーガレットは窓辺で微睡む一羽の鴉に声をかけた。年老いた鴉は首を傾け、マーガレットの姿を見つけると小さく「こんにちは(Hello)」と鳴いた。

 ロウェナは父が学生の頃から飼っていた大鴉(レイブン)だ。幼い頃はなぜロウェナという名前なのだろうと思ったが、ホグワーツに通った今ならわかる。ホグワーツ創設者の一人、叡智の塔を築いた偉大なる魔女、ロウェナ・レイブンクローに因んだ名前だ。

 

「ロウェナ、ご飯だよ。今日もね、お母さんと一緒にみんなのご飯を作ったんだ」

 

 特製のサラダを机に置くと、ロウェナは嬉しそうにくちばしを鳴らした。その音は拍手のようにも聞こえ、マーガレットはロウェナが自分のことを褒めてくれているように感じた。

 

「ロウェナは優しいね。ありがとう」

 

 マーガレットが頭を撫でると、ロウェナは気持ちよさそうに目を閉じた。親子というだけあり、ネモとロウェナの仕草はよく似ている。

 

「ロウェナ。またしばらく会えなくなるけど、元気でね」

 

 自分の頭から離れていく手をロウェナは名残惜しそうに見つめている。その様子を見てマーガレットも少し切なくなった。左肩にとまるネモも青い双眸を母に向けていて、自分と同じようなことを考えている気がした。

 ロウェナはかなりの高齢だ。年々、動きも緩慢になっていき、自らの羽で飛ぶことも減っている。そのため、部屋から出ずに一日を過ごすことも多くなっているそうだ。

 今は元気そうでも、いつお別れの時がやってきてもおかしくはない。それが次の一年でないことを祈り、マーガレットはもう一度ロウェナの頭を撫でてから父の部屋をあとにした。

 

 マーガレットがリビングに戻ると、すでに朝食の準備は終わっていた。マッカーデン氏は今朝の新聞を読み、マッカーデン夫人は近所の空き家にそろそろ人が越してきそうだという話をメアリーとしていた。

 マーガレットは母の隣に座った。ネモも彼女の肩から飛び降り、テーブルの上に立つ。鴉が食卓の上にいるなどお行儀の悪い光景ではあるが、これはまだ幼かった頃のマーガレットが「ネモと一緒がいい! ネモとご飯食べる!」とごねた名残であり、もうこの家にはそれを咎める者も、おかしいと感じる者もいなくなっていた。

 

「お待たせしました」

「ありがとう、マーガレット。……さて、みんな揃ったかな」

 

 新聞をたたみながら、マッカーデン氏は家族の顔を——もちろんネモも含めて——一つ一つ確認した

 

「まず、昨晩は見苦しい姿を見せてしまった。申し訳ない」

「いつものことですから」

 

 この家の朝は決まってマッカーデン氏の謝罪から始まる。もっとも、子供だった頃のマーガレットは真面目で厳格な祖父がなぜ謝っているのかはわからなかったが。

 

「ありがとう、エミール。……さて、今朝もメアリーとマーガレットが朝食を作ってくれた。今日を最後に、マーガレットの作る食事がしばらく食べられないのは悲しいが……。だが、また一年後の楽しみが増えたと思おう。では、マーガレット」

「えぇ、どうぞ召しあがれ!」

 

 ホグワーツに行ってからの八年、マーガレットを取り囲む環境は常に変化し続けていた。しかし、家族とともに迎える朝はいつも変わることがなかった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 昼頃、マーガレットはチャリング・クロス通りを歩いていた。それぞれの手には検知不可能拡大呪文をかけたトランクと赤いチェック地の布を被せたバスケットが提げられている。着替えや書物、それから授業で使うための様々なマグル製品にロンドン中で買い集めたお菓子が一つのトランクに収まっているのだから、本当に魔法は便利だ。

 楽器店やハンバーガーショップ、映画館の前を通り過ぎ、ちっぽけな薄汚れたパブの前で彼女は立ち止まった。

 

「ネモ、準備はいい?」

 

 小声で話しかけると、ネモは同じく小さな声で「カア」と返事をした。両手がふさがっているためにネモを撫でてやることはできないが、その分は後でおいしいお菓子でもあげようとマーガレットは考える。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 一度深呼吸をし、マーガレットは漏れ鍋に足を踏み入れる。と同時に、ネモはバスケットから飛び出し、彼女の左肩にとまった。ブラウスにデニムのパンツ、そしてローブも帽子も身につけていないマグル同然の姿だが、ネモのおかげでずいぶんと魔女らしくなる。

 空になったバスケットをトランクに詰め込みながら、マーガレットはダイアゴン横丁へと繰り出す前に冷たいドリンクでも一杯飲もうかと考えた。どこかいい席はないだろうかと店内を見回していると、見覚えのある人物がいることに気がついた。

 

「先生! クィレル先生!」

 

 マーガレットが声をかけると、クィレルの肩が大きく跳ねた。まさか、ここで彼女に出会うとは思っていなかったのだろう。

 

「み、ミス・マノック。き、帰省していたのでは?」

「はい、ついさっきまで。一か月間のお休みをいただいていましたから。このあと、ダイアゴン横丁で少し買い物をしてからホグワーツに帰ろうかと。先生もお買い物ですか?」

「わ、わ、私も新学期に向けての準備をするためにき、来ました」

 

 クィレルは今年、闇の魔術に対する防衛術の授業を担当することになっている。当たり前ではあるが、今まで彼が教えていたマグル学とは教科書も違えば、扱う道具も違う。それゆえに、準備しなければならないものが多いのだろう。

 

「新しい教科を教えるとなると、準備することも多くて大変ですよね。あの、荷物持ちでも、教室の片付けでも、お手伝いできることはなんでも言ってくださいね。だって——、あ」

 

 「わたしは先生の助手ですから」と言いたかった。だが、もうそうではないことを思い出し、マーガレットは口を閉じた。

 

「き、君が助手なら、ですが……。い、今はその気持ちだけ受け取ります」

「すみません」

「い、いえ。それに、き、君も大変でしょう。だから、わ、わ、私のことは気にしないでください」

 

 クィレルは硬い笑みを浮かべた。きっと、それはマーガレットを安心させようと思ってした表情なのだろう。しかし、それは彼女にとってはかえって不安を感じさせるものだった。

 最近、マーガレットはクィレルが自分に対して壁を作っているように感じていたが、それが思い過ごしではないような気がしていた。

 

 クィリナス・クィレルは人が変わった。——一年間の研究休暇を終えてホグワーツに帰ってきた彼のことを見て、何人かの教授が口にした言葉だ。そして、決して口には出さなかったものの、マーガレット自身もそう感じることはあった。

 たしかに恩師には神経質なところがあるし、緊張するとどもってしまうことがあることも知っている。しかし、なにかに怯え、周囲の人々と距離を置こうとするような人ではなかったはずだ。

 噂では黒い森で吸血鬼に会ったからとか、鬼婆といやなことがあったからなどと言われているが、それが原因なのだろうか。本当にそのせいで恩師は変わってしまったのだろうか、とマーガレットのなかで疑問が膨らんだ。

 

「あの、先生?」

「は、はい」

「先生は——」

 

 ちょうどその時、店の中が突然静かになった。そのため、自然と二人の会話も止まる。クィレルはマーガレットから視線を逸らし、人が集まりだした店の入り口に目を向けた。

 

 この瞬間、マーガレットは強い安堵を覚えた。と同時に、好奇心の赴くままに行動しようとしていた自分自身に嫌悪感を抱いた。

 一年の研究休暇の間になにがあったのか、クィリナス・クィレルの身にいったいなにが起きたのかということが噂でしかないのは、本人が本当のことを語りたがらないからなのだ。だというのに、マーガレットはそれを聞き出そうとしていた。

 人には誰しも——もちろんマーガレット自身にも——他人に踏む込まれたくないものや聞かれたくないものというのがある。だからこそ、「あの研究休暇の間、なにがあったんですか?」と口にしなくてすんだことに安堵する一方、そんな当然のことを忘れていた自分自身を嫌悪した。

 

「ごめんなさい。今のことは忘れてください」

 

 マーガレットは謝るが、クィレルはなにかに気を取られていて彼女の声など聞こえていないようだった。

 

「先生?」

「あれが、ハリー・ポッター……」

「ハリー・ポッター?」

 

 マーガレットはその名前をどこかで聞いたことがあるような気がした。記憶をたどり、「近代魔法史」や「二十世紀の魔法大事件」といった本に「ハリー・ポッター」なる人物が出てくることを思い出す。

 しかし、なぜクィレルがそんな有名人の名を口にしたのか、マーガレットにはわからなかった。だが、彼の視線の先にきっとその答えがあるのだろうと考え、彼女もクィレルと同じ方向を見る。

 そこにはホグワーツの森の番人であるハグリッドと彼の連れらしき眼鏡をかけた細身の少年がいた。そして、店の中にいる誰もがその少年に話かけようとしたり、握手をしようとしたりしている。

 

「ハグリッド? それから、あの少年は?」

「か、か、彼が、ハリー・ポッター。か、かの有名な『生き残った男の子』です」

「彼が『例のあの人』を倒した『生き残った男の子』なんですか?」

 

 マーガレットは驚いていた。

 

「まだ子供じゃないですか」

 

 ホグワーツに通うまではプライマリースクールに通っていたマーガレットにとって、歴史の授業で習うような偉人というのは当たり前のように自分よりも年上——そして故人——なのである。その印象は、ホグワーツで魔法史を学ぶようになってからも変わることはなかった。

 だというのに、その教科書で学んだはずの人物が目の前に、それも自分よりも幼い姿でいるというのは不思議な感覚だった。

 

「あ、あれは十年前のことですから。き、き、君はあの時代を知らない。だから、あ、あまりピンとこないのでしょう」

 

 クィレルの言う通り、八年前に初めて魔法界にやって来たマーガレットは、十年前の暗黒の日々のことを知らない。そのため、「例のあの人」のことも、それから「生き残った男の子」のことも教科書に出てくる存在としてしか知らず、あの時代の魔法界を生きた人々とは感覚が異なるのだ。

 

「か、彼は今年、ほ、ほ、ホグワーツに入学するそうです」

「そうなんですか! それなら、彼はハグリッドと一緒に学用品を買いに来たんですかね」

「お、おそらく」

 

 マーガレットは八年前にクィレルと一緒に魔法界を訪れたときの自分のようだなと思っていると、不意に声をかけられた。

 

「おお、クィレル教授! それに、マーガレットも!」

 

 声のした方を見れば、誇らしげな顔をしたハグリッドが手を招いている。彼が直々に呼んでいるからか、「生き残った男の子」を囲んでいた人混みが二つに割れ、マーガレットとクィレルが並んで通れそうな道ができている。

 

「先生、行きましょうか」

「そ、そ、そうですね」

 

 ハリーは自分に近づいてくる一組の男女の姿を交互に見ていた。一方は大きなターバンを巻いた青白い顔の男、もう一方は肩に鴉をのせた若い女。いったい何者なのだろうという疑問が少年の中で膨らむ。

 

「ハグリッド、この人たちは?」

「ハリー、クィレル教授とマーガレット——いや、マノック教授だ」

「今までどおり、マーガレットで構わないです」

 

 ハグリッドと親しげに話すマーガレットのことをハリーは不思議そうに見上げている。

 

「ハグリッドと知り合いなんですか?」

「はい。わたしがホグワーツの学生だった頃から」

「ハリー、クィレル教授もマーガレットも元はホグワーツの学生で、今は二人ともホグワーツの先生だよ」

「ぽ、ぽ、ポッター君」

 

 クィレルは一歩前に進み出た。まばたきを何度も繰り返し、声も上擦っている。

 

「お会いできて、ど、どんなにう、うれしいか」

 

 ハリーが有名人だからクィレルは緊張しているのだろうか、とマーガレットは思った。

 

「クィレル先生、よろしくお願いします。それから……」

 

 緑色の瞳がマーガレットの方を向いた。マーガレットも一歩前に出て、右手を差し出す。

 

「はじめまして、わたしはマーガレット・マノックといいます」

「はじめまして……」

 

 ハリーはマーガレットと握手をする間、ずっと彼女の顔——ではなく彼女の左肩にのるネモのことを見ていた。

 

「マノック先生、この鳥は?」

「この子は大鴉(レイブン)です。名前はネモといいます。ネモ、ミスター・ポッターにご挨拶を」

 

 ネモがぺこりと頭を下げる様子をハリーは面白そうに見つめていた。

 

「魔法使いって、みんな先生みたいにペットを飼っていらっしゃるんですか?」

「みんなではないですが、飼っている人も多いです。このネモとはわたしが小さい頃から一緒にいますが、ホグワーツ入学をきっかけにふくろうや猫を飼う人もいますよ」

 

 マーガレットの話をハリーは目を輝かせながら聞いていた。マーガレットがふとハグリッドの方に目を向けると、彼もにっこりと笑っている。生き物が好きなハグリッドのことだから、ハリーがペットに興味を持っていることがわかって嬉しいのだろうとマーガレットは考えた。

 

「ハグリッドはホグワーツでも一二を争うほど生き物に詳しい人物です。きっと色々なことを教えてくれますよ」

「そうなの、ハグリッド?」

 

 ハリーが話しかける。が、ハグリッドはなにやらぶつぶつと呟いていてなにも聞いていなかった。

 

「ヒキガエルは流行遅れ。猫は俺が好かん。ハリーならふくろうか……」

 

 突然、ハグリッドがパンと手を叩いた。その大きな音にハリーも、クィレルも、マーガレットも、ネモも、いや漏れ鍋にいた誰もが驚いた。

 

「よし、買い物がごまんとあるぞ。ハリー、おいで」

 

 なにかを思いつき、すっかり上機嫌となったハグリッドはハリーを連れて中庭へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、あの少年も動くレンガの壁やその向こうに広がる魔法界の景色に心を奪われるのだろうかとマーガレットは考えていた。

 

「み、ミス・マノック」

 

 不意にクィレルから声をかけられた。

 

「か、か、彼らのことを見ていたらは、八年前のことを思い出しました」

「八年前、ですか?」

「み、ミス・マノックを見上げるぽ、ぽ、ポッター君の瞳がか、かつての君のようでしたので」

 

 マーガレットはそっと目を閉じ、先ほどのハリーとのやり取りを思い出す。たしかに、自分やネモ、それからクィレルを見上げる少年の瞳はキラキラと輝いていた。八年前の自分はああだったのかとマーガレットは今になって知った。

 

「あぁ、あの頃は楽しかった……」

 

 マーガレットの青い瞳は悲しげに微笑むクィレルの姿を映した。

 

「先生、——」

「あ、あぁ。そ、そうでした。よ、用事があるので……。わ、わ、私はさ、先に失礼します」

 

 クィレルはまた神経質そうに笑った。それにつられ、マーガレットも少し硬い笑みを浮かべる。

 

「そうですか。では、またホグワーツで会いましょう」

「で、では……」

 

 足早に去っていく男の後ろ姿を青い目をした鴉が見つめ続けていた。




誤字報告ありがとうございました!
改めて読み直してみると誤字脱字がたくさん見つかって……。なぜ投稿前に気づけないのか。

それから、作者の確認不足で原作の設定とのずれがあったので少し序章を書き直しました。(懐中時計の件)
マグルの作者的に時計は入学祝いのイメージでしたが、魔法族にとっては成人祝いでしたね、うん。
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