「今日はここまで。宿題は魔法族の動く写真と
授業が終わると生徒たちは一人、また一人と教室を去っていく。彼ら全員が部屋から出たことを確認し、マーガレットは大きなため息をついた。なにせ今日は一限から授業があり、今やっと最後の授業が終わったのだ。それに、研究室には今日回収した宿題のレポートが山のように積み上げられている。
少しでも疲労を癒すため、マーガレットはローブのポケットに入れていたチョコレートを口に放り込んだ。
マーガレットは助手として一年、教授としてはすでに二ヶ月も教壇に立っている。そのため、一年前の9月の頃や教授の仕事を任された直後と比べれば、それなりに余裕のある日々を過ごしていた。
しかし、自身の研究や趣味に当てられる時間は少し増えたものの、それでもまだレポートや小テストの採点に費やす時間の方が多かった。現に、今夜は何杯もの紅茶を飲みながら作業をしなければならないだろう。
マーガレットは再び大きなため息をついた。それならばすぐにでも次の仕事に入った方がいい。彼女は机の上の荷物をまとめ、研究室に授業で使った資料を片付けに行った。しかし、数分後に再び姿を現したマーガレットはマグル学教室を飛び出し、足早にどこかへと向かった。
マーガレットとネモはホグワーツの廊下を歩いていた。城内のいたるところにはかぼちゃをくり抜いたランタンが飾られ、ろうそくの炎が怪しげな影を作り出している。今日は10月31日。年に一度のハロウィーンである。
厨房では朝から屋敷しもべ妖精たちが晩餐で出すための料理を作っていて、パンプキンパイのおいしそうな匂いが廊下中に漂っていた。
「ネモ、今年も楽しみだね」
マーガレットにとって、ハロウィーンは一年のうち三番目に好きなイベントである。一番目が母の作るケーキが食べられる誕生日、二番目が祖母の作るブッシュ・ド・ノエルが食べられるクリスマス。そして、お菓子で溢れるハロウィーン。
特に、7月の誕生日と12月のクリスマスは実家で祝うことがほとんで、反対にハロウィーンはすっかりホグワーツで楽しむことが恒例となっていた。魔女の仮装をして近所の家々をまわるマグル流のハロウィーンも楽しかったが、絶品のかぼちゃ料理をお腹いっぱいになるまで食べることができるホグワーツのハロウィーンもマーガレットは大好きだった。
というわけで、レポートの採点という大仕事に取り掛かる前に、まずはおいしいものや甘いものをたくさん食べて英気を養おうとマーガレットは考えたのであった。
大広間では何千匹ものこうもりがマーガレットたちの到着を待ち受けていた。そのこうもりたちがかぼちゃのランタンに火を灯すことで、ホグワーツのハロウィーン・パーティーは始まる。
マーガレットが席に着くと、金色の皿の上に今夜の食事が現れた。かぼちゃのグラタンにかぼちゃのスープ、それからパンプキンパイとかぼちゃづくしである。この後もかぼちゃのプリン、かぼちゃのアイス、パンプキンタルトにかぼちゃジュースと甘いデザートがこれでもかというほど続く。
マーガレットはこの甘いかぼちゃ尽くしのメニューが大好きであったが、やはりこれが苦手な者もいるようだ。例えば、彼女の二つ隣の席に座るスネイプ教授はげんなりとした表情でちぎったブレッドを口に運んでいた。
今日は魔法薬学教授の顔がよく見えるなあ、と思っていたマーガレットであったが、それが食事の席でいつも彼女の左隣に座る恩師の姿がないからだということに気がつく。時計を確認すれば、夕食が始まってからもうそれなりの時間が過ぎていた。
普段から大広間に来ない占い学のトレローニー教授ならともかく、クィレルまでいないことにマーガレットは胸騒ぎを覚えた。
新学期の準備で忙しくしていた6月のように、最近もクィレルと顔を合わせるのは食事の席くらいであった。三年生からの選択科目であるマグル学とは違い、闇の魔術に対する防衛術はホグワーツの全生徒を対象としているのだから、一日の授業数も採点する課題の量もマーガレットとは桁違いである。そのため、クィレルが自身の研究室から出てくる機会は減り続ける一方だった。
さらに仕事の量だけでなく、疲労も増しているようだった。8月を過ぎたあたりから一段と顔色が悪くなり、そのうち過労で倒れてしまうのではないかとマーガレットも心配に思うくらいであった。
もしや新学期が始まって二ヶ月が過ぎようとしている今日、このハロウィーンの夜になにかあったのではないか。食べかけだったパンプキンタルトを口に詰め込み、マーガレットは防衛術の教授を探しにいこうかと考える。
ちょうどその時だった。クィレルが大広間に駆け込んできたのは。
「トロールが……トロールが……」
ずっと走っていたのか息も絶え絶えで、顔も青ざめている。ただ事ではない様子のクィレル教授を見て、徐々に生徒たちの騒めきも大きくなっていく。クィレルはうわごとのように「トロールが……」と繰り返し、やっとの思いでダンブルドアの席の前までたどり着く。
「トロールが……地下室に……お知らせしなくてはと思って」
まるで糸がすべて切れてしまった操り人形のようにクィレルはその場に倒れ込んだ。
「先生! 大丈夫ですか、先生!」
マーガレットは真っ先にクィレルに駆け寄った。あんな倒れ方をした後だったが意識はあるらしく、マーガレットの呼びかけに対してクィレルは弱弱しく頷いていた。
一方、生徒たちは大混乱だった。そこかしこで悲鳴が上がり、恐怖のあまりその場で動けなくなっている者もいれば、我先にこの場から逃げ出そうとしているものもいる。
しかし、ダンブルドアが杖の先で何度か爆竹を爆発させたことで、その場は静かになった。
「監督生よ」
校長の威厳に満ちた声が大広間中に響く。
「すぐさま自分の寮の生徒を引率して寮に帰るように。それから、地下室に寮があるハッフルパフとスリザリンには、それぞれスプラウト先生と——そうじゃな、フリットウィック先生に同行してもらうかの」
スリザリンは寮監ではないのかと思い、マーガレットは先ほどまでスネイプが座っていた席を見るがすでにその姿はなかった。
「トロールは先生方が対処してくださる。では、寮で楽しいハロウィーンのパーティーを続けるのじゃ」
ダンブルドアに続き、他の教授たちも大広間から地下室へと向かっていた。生徒たちも監督生を先頭に、整然とした様子でそれぞれの寮へ帰っていく。
「わたしもトロールを探しに行きますが、先生は無理なさらないでくださいね」
「は、はい。わ、私ももう少しや、休んでから……合流します」
「わかりました。では、先に向かいます」
まだクィレルの顔色は悪いままだ。早く医務室に連れて行くべきなのではとも思うが、まずはこの城に混乱を生み出した原因を探し出さなければいけない。
ならば一刻も早くトロールを見つけなければ、とマーガレットは立ち上がった。しかし、普段ならどこへでも一緒に行くはずのネモが彼女の左肩から飛び降りた。
「ネモ? どうしたの? 一緒に来ないの?」
ネモは「カー」と鳴き、クィレルのそばで立ち止まった。飼い主の代わりに自分がクィレルことを見ていようでも言いたいのだろうか?
「ネモが先生のそばにいてくれるの?」
ネモは「カア」と鳴き首を上下に振った。どうやらマーガレットが想像したとおりのことをネモは考えているようだ。
ネモはさらにクィレルに近づき、彼のことを見つめていた。マーガレットはどうするべきか悩んだが、賢いネモなら少しでもクィレルの役に立つことができるだろうと考えた。
「……先生。人を呼んでくるとか、物を運ぶとか、それならネモも先生のお力になれるかと思います。ですから、なにかあったときはネモを頼ってくださいね」
「は、はあ」
「ネモ、わたしの代わりをお願い」
マーガレットはネモとクィレルだけが残る大広間を後にした。
トロールといえばあの大きな体に、遠くからでもわかるような独特の匂いが特徴だ。しかし、城中に充満しているかぼちゃの甘い匂いのせいで、トロールの悪臭はかき消されている。それゆえにトロールの捜索は難航していた。
とはいえ、このまま発見が遅れてトロールが城内を荒らしたり、物を壊したりしたとしても魔法で簡単にもとに戻すことができる。それに、生徒たちは夕食のために大広間に集まっていて、このトロールの侵入を受けて一斉に寮へと戻った。だから、マーガレットはそこまで切羽詰まったものを感じていなかった。そう、彼らを見つけるまでは。
「あなたたち、そこでなにをしているのですか!」
どこからかドアの閉まる音が聞こえ、マーガレットは急いでその発生源を探しに向かった。トロールにドアを開けたり閉めたりする知能があるとは思えないが、その音はたしかに自分以外のなにかが近くにいるという証拠である。
しかし、マーガレットがある女子トイレの前で見つけたのは、トロールでもなければ城内を捜索している他の教授でもなかった。
「どうしてグリフィンドールがここにいるのです」
黒髪の少年と赤毛の少年は互いにしまったという表情をしていた。黒髪の少年はマーガレットも見覚えがある生徒だった。夏に漏れ鍋で出会った、「生き残った男の子」ことハリー・ポッターだ。
それに、赤毛の少年のことも——正確には彼の兄たちをだが———知っていた。グリフィンドールの監督生が「末の弟もグリフィンドールに組分けされた」と話しているのを聞いたが、彼がそのウィーズリー家の末弟だろう。
「マノック先生、これは……」
説明しようとハリーが口を開きかけた時、三人は甲高い、恐怖で立ちすくんだような悲鳴を聞いた。赤毛の少年——ロン・ウィーズリーの顔は真っ青になっている。
「ハーマイオニーだ!」
ハリーとロンが同時に叫んだ。
「この中に誰かいるんですね」
「ハーマイオニーが、ハーマイオニー・グレンジャーが中に!」
その名前は直接面識がないマーガレットも聞いたことがあった。今年の一年生にはとても勉強熱心で大変優秀な生徒がいるという話は三年から始まる選択科目の教授たちにも伝わっていた。マーガレットの記憶がたしかなら、「ハーマイオニー・グレンジャー」はその生徒の名前であったはずだ。
「それから、僕たちが閉じ込めたトロールも!」
マーガレットは自身の鼓動が速まるのを感じた。しかし、頭はそれと反比例するかのごとく冷静になっていく。
「わかりました。二人とも、扉の前を開けてください」
「——
鍵のかかった木の扉が一瞬で砕け散る。すると、汚れた靴下と、掃除したことがない公衆トイレの臭いを混ぜたような悪臭が漂ってきた。間違いなく、この中にトロールがいる。
マーガレットはすぐに呪文を唱えられるよう、杖を構えたまま女子トイレに突入した。ハリーとロンも杖を手にし、彼女の後に続く。
「ミス・グレンジャー!」
ハーマイオニー・グレンジャーは奥の壁にはりついて縮み上がっていた。彼女はハリーとロン、そして彼らが連れて来た
「二人はここを動かないでください。ミス・グレンジャーのことは必ず助けますから。——
白い杖の先から真っ黒い鴉が何羽も飛び出した。鴉たちはトロールの真後ろで「ガアガア」とがなり立てる。鴉の鳴き声に気を取られたトロールはゆっくりと振り返り、その小さな瞳をマーガレットたちの方に向けた。
「『石』になれ——
白く、暖かな光がトイレ全体を包み込んだ。その光が眩しかったのか、トロールは顔を大きな手で覆って動かなくなった。
「本当に、石になったんですか?」
ハリーが恐る恐るマーガレットに尋ねる。
「いいえ、
ハリーとロンが砕けた扉の残骸の近くに立ったのを確認し、マーガレットはハーマイオニーのもとに歩みを進めた。石のように動きを止めているとはいえ、4メートルもあるトロールの姿は見る者に恐怖を抱かせるには十分である。
マーガレットも恩師から教えてもらったおかげで弱点を知っていたからよかったものの、棍棒を振り回して暴れているトロールと対峙するなど相当な勇気が必要だ。
「ミス・グレンジャー、よく頑張りました。もう大丈夫ですよ」
床に座り込んでしまっているハーマイオニーにマーガレットは手を差し伸べる。ハーマイオニーは弱弱しくその手も握り返した。
「さあ、戻りましょうか。……えっと、立てますか?」
ハーマイオニーは首を横に振る。
「私……。私、腰を抜かしちゃって。だから……」
「わかりました。大丈夫ですよ」
身体浮遊の呪文をかけるため、マーガレットは杖を構えた。しかし、ある異変に気づく。
マーガレットが助けにきたことでほっとした表情をしていたはずのハーマイオニーが、再び恐怖の滲んだ瞳で上を見上げていた。ガクガクと小さな体を震わせ、必死になにかを伝えようと口を動かす。
「せん、せい……。う、しろ……」
ブァーブァーという低い唸り声が背後から聞こえてきた。それから、なにかを引きずるような音も聞こえてくる。
相手は凶暴な山トロールであり、森トロールや川トロールに比べれば太陽の光にも強い個体である。しかし、あれだけ強い光を浴びたのだから少なくとも五分間は石のように動かなくなるはずだ。なのに、一分もしないうちにこのトロールは再び動き始めた。
マーガレットは杖を強く握りしめる。
「マノック先生、危ない!」
「——
マーガレットが振り向きざまに出現させた見えない盾とトロールの振り下ろした棍棒がぶつかり合った。ゴンッという重い音がトイレに反響する。もし盾の呪文が間に合わなかったとしたら、マーガレットの命はなかったかもしれない。
トロールは再び棍棒を掲げ、勢いよく振り下ろした。その攻撃も見えない盾によって防がれる。が、トロールはそれでもなお攻撃の手を緩めはしなかった。
いくら盾の呪文があるとはいえ、このままでは埒があかない。
「こっちに引きつけろ!」
「やーい、ウスノロ!」
マーガレットとハーマイオニーの窮地を察し、ハリーとロンは砕けた扉の欠片や壊れた洗面台の破片をトロールに向かって投げ始めた。しかし、まだ11歳の子供が魔法の力も使わずに投げているので、トロールに当たったところで大したダメージにはならない。彼らのことなどお構いなしに、トロールは棍棒を振り続ける。
「あの、トロールの動きを止められれば」
「でも、どうやって止めるんだ! そんな呪文、僕たちはまだ習ってやしない。やっと今日、物を浮かび上がらせる呪文を習ったくらいだ」
「ロン、それだよ! 動きを止められなくても、あの棍棒で殴れなくすればいいんだ!」
ハリーとロンは互いに顔を見合わせて頷いた。そして、同時に杖を構える。
「——
棍棒はトロールの手から飛び出し、空中高くに上がった。握っていたはずの棍棒を見失い、トロールは不思議そうに首を傾げている。ハリーの予想通り、棍棒をなくしたトロールはマーガレットたちへの攻撃を止めた。
トロールの手から離れた棍棒は空中で一回、二回と回転し、やがてゴトンと音を立ててハリーたちの近くの床に転がった。その音を聞き、トロールはゆっくりと振り向く。棍棒を取り戻すため、今度は彼らへと近づいていく。
「ミス・グレンジャー、一人で歩けますか?」
「はい。もう、大丈夫です」
「怖いかもしれませんが、トロールに見つからないよう壁際の洗面台の下を通って彼らのところまで行ってください。その間はわたしがトロールの気を引きます。だから、あなたたちは逃げて」
ハーマイオニーが立ち上がると、マーガレットは彼女を守るようその一歩前に立った。ローブのポケットから丸いボール型のチョコレートをいくつか掴み、そのうちの三つをハーマイオニーの手のひらにのせる。
「ここを出たら彼らと食べてくださいね。甘いものを食べると幸せな気持ちになれますから。さて……」
マーガレットは残りのチョコレートをトロールの後頭部に向かって投げた。
「——
トロールの背後で肥大化したチョコレートが爆裂する。爆発の音とともにチョコレートの甘ったるい香りがあたりに漂った。トロールは歩みを止め、マーガレットに顔を向ける。
「ハロウィーンですから、お菓子ならいくらでもありますよ。——
菓子をしまっているポケットには検知不可能拡大呪文をかけているため、チョコレートの用意ならいくらでもある。そのため、爆発の音や光、それから匂いでトロールの気を引き続けるのは容易だった。棍棒のことなどすっかり忘れたトロールはマーガレットに向かって一歩、また一歩と迫って来る。
マーガレットがちらりと横を見た。すでにハーマイオニーはトロールの横を抜け、もうすぐハリーたちと合流できそうなところまで来ていた。自分の役割は果たせそうだとマーガレットは安心する。
マーガレットは再び視線を戻した。トロールは拳を握りしめ、腕を大きく振り上げている。棍棒がなかったとしても、あの大きな手で押しつぶされてしまってはひとたまりもない。
「——
盾で攻撃を弾き返す。トロールが再び腕を振り上げた。その瞬間こそが反撃の機会である。マーガレットは杖先をトロールの顔に向けた。
「——
その時、マーガレットはなぜこのトロールが日光を浴びてもなお動くことができたのか気がついた。マーガレットが呪文を唱えようとした瞬間、トロールはたしかに目をつむった。この山トロールは光を避けるための行動を取ったのだ。ということは、先ほども顔を手で覆い、光を遮ったことでダメージを軽減したのだろう。
しかし、トロールの脳はとても小さく、ほとんど食事のことしか考えていない。そのため、野生のトロールというのは狩りで獲物を追っている間にも勝手に日光を浴び、勝手に動けなくなる程度の知能しか持たない。誰かから知恵を授けられない限り、自身の弱点のことなどトロールが知っているはずないのだ。
「——
マーガレットの唱えた呪文はトロールの硬い皮膚に跳ね返された。こうなってしまってはもうこの怪物を止められない。
トロールは限界まで腕を振り上げた。ハリーとロンの叫ぶ声が聞こえ、ハーマイオニーの悲鳴がトイレに響く。
マーガレットが死を覚悟したその時、突如として黒い影が現れた。
「ネモ?」
青い目の鴉はトロールの眼前に飛び出すと、くちばしでその小さな目玉をつつき始めた。この攻撃は効いたようで、トロールは手を振り回して鴉を追い払おうとする。
「ミス・マノック、そこを退いてください」
「はい! 先生!」
そこには黄褐色の杖を構え、真剣な表情をしたクィレルがいた。太い腕に当たらぬよう慎重にトロールを避け、マーガレットは恩師のもとに駆け寄る。ネモも飼い主が安全な位置まで退くとトロールへの攻撃を止め、彼女の左肩へと戻る。
獲物を逃がしてなるものかとトロールは咆哮を上げた。しかし、それにも一切動じることなくクィレルは無言で杖を振る。
床を転がっていた棍棒が勢いよく吹き飛んだ。それは美しい放物線を描き、トロールの顔に当たる。ぐしゃっとなにかがつぶれるような音がマーガレットの耳に届いた。
トロールは後ろによろめき、壁に後頭部を強打した。その反動で今度は顔から床に倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。
「これ……死んだの?」
「いや、ノックアウトされただけだと思う。……たぶん」
三人の生徒は、信じられないとでも言いたげな顔でうつぶせに伸びているトロールと闇の魔術に対する防衛術の教授のことを交互に見ていた。
「ミス・マノック、け……あぁ、け、怪我はあ、ありませんか?」
「はい、わたしは大丈夫です。それよりも……あなたたちは怪我しませんでしたか?」
マーガレットはハーマイオニー、ロン、ハリーの順に彼らの顔を覗き込んだ。三人とも首を縦に振り、「大丈夫です」と答える。
マーガレットは杖をローブにしまい、表情を緩めた。
「よかった。本当によかったです」
マーガレットが安堵のため息を漏らしていると、バタバタと足音が近づいてくることに気がついた。
「突然、鴉を追いかけ始めたと思えば——。これは……」
まず、真っ先に女子トイレに飛び込んできたのはスネイプ教授だった。それから少し遅れて、マクゴナガル教授もやって来る。彼女は床に倒れ伏したトロールとその傍らに立つ三人の生徒を見て驚きの表情を浮かべていた。
「一体全体、これはどういうことなのですか」
「マクゴナガル教授、わたしが説明いたします。彼ら——ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーがここにミス・グレンジャーとトロールがいると教えてくれたのです。ですから、彼女を助けようと……。しかし、わたしだけでは危ないところでした。ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーがトロールに立ち向かってくれたからこそ、なんとか彼らを守ることができました」
「では、誰がこのトロールを?」
「それはクィレル先生です」
マクゴナガルは驚きの、スネイプは疑いのまなざしをクィレルに向けた。そのクィレルは先ほどの雄姿が嘘だったかのように、頼りなさそうで、弱弱しい笑みを浮かべている。
「わ、わ、私はじ、自分ができることをし、したまでです」
「そうでしたか。ここでなにがあったのか、大体のことはわかりました。そして、あなた方です」
マクゴナガルは三人のグリフィンドール生のことを見た。
「殺されなかっただけでも運がよかった。しかし、寮にいるべきあなた方がどうしてここにいるのですか?」
生徒たちは黙り込んでしまった。ハリーとロンは互いに顔を見合わせ、気まずそうな顔をしている。
「マクゴナガル先生。聞いてください——二人とも私を探しに来たんです」
口を閉ざしたままの少年たちに代わり、ハーマイオニーが理由を説明し始めた。
「ミス・グレンジャー!」
「私がトロールを探しに来たんです。私……私一人でやっつけられると思いました。——あの、本で読んでトロールについてはいろんなことを知っていたので。もし二人が私を見つけてくれなかったら、もし二人が先生を呼んできてくれなかったら、私、いまごろ死んでいました」
「ミスター・ポッター、ミスター・ウィーズリー。では、あなた方はミス・グレンジャーを探すため、寮には戻らなかったということですか?」
ハリーたちは黙ったまま首を縦に振った。マクゴナガルは小さくため息をつく。
「そういうことでしたか」
マクゴナガル教授は三人の生徒をじっと見た。
「ミス・グレンジャー、なんと愚かしいことを。たった一人で野生のトロールを捕まえようなんて、そんなことをどうして考えたのですか? グリフィンドールから5点減点です」
そして、マクゴナガルはハリーとロンの方に向きなおった。先ほどまでに比べれば、その表情はずいぶんと柔らかいものだった。
「先ほども言いましたが、あなたたちは運がよかったのです。もし、あなたたちだけでトロールと出会ってしまったら、とても恐ろしいことになっていたでしょう。しかし、それでも友人を助けるために動いた勇気、そしてトロールに立ち向かった度胸は評価します。ミスター・ポッター、ミスター・ウィーズリー、二人に5点ずつあげましょう。さて、怪我がないならグリフィンドール塔にお戻りなさい。生徒たちが、さっき中断したパーティーの続きを寮でやっています」
ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は女子トイレを後にした。マーガレットは彼らの後ろ姿を見送り、胸を撫でおろす。
「私はダンブルドア先生にご報告しておきます」
マクゴナガル教授はいまだに動く気配のないトロールをちらりと見てから、マーガレットの方を向いた。
「ミス・マノック、あなたも無事でよかった。ここは彼らに任せ、あなたも戻りなさい」
「はい。そうさせていただこうかと思います」
マクゴナガルは足早に校長室へと向かった。
「ここは私だけで結構。クィリナス、あなたも研究室に戻ったらいかがかな」
スネイプはトロールのことをじっと見つめていた。
「しかし、あなたがトロールを倒したとは」
「わ、私はぼ、ぼ、防衛術を教える身です。こ、これくらいは、できますよ」
「いや、あなたの技量は知っていますとも」
クィレルは一瞬だけ険しい表情になった。
「先生?」
「み、ミス・マノック、少し話したいこともありますし、け、研究室まで送りますよ。せ、セブルス、後はお願いします」
「ありがとうございます、先生。スネイプ教授、お先に失礼します」
マーガレットはクィレルとともにトロールの悪臭とチョコレートの香りが入り混じったトイレをあとにした。
「み、ミス・マノック、本当に怪我はしていませんか」
「はい。本当に大丈夫ですよ」
マーガレットはにっこりと笑った。それを見て、クィレルもわずかに表情を緩める。
「でも、わたしがこうして怪我一つしていないのも先生のおかげです。
「いえ、わ、私は……」
クィレルは自信のなさそうな顔をしているが、ある程度の知識を持っていたマーガレットでさえ苦戦したあのトロールを彼はたった一撃で倒してみせた。それに、それがただのまぐれではなく、クィレルがそれくらい実力者であることはマーガレットもよく知っている。
「あ、あの場に間に合ったのはね、ネモのおかげです。ね、ネモが突然カーカーと鳴き始め、どこかに向かってと、飛んで行ったものですから。い、急いで追いかけてみれば、き、君たちがいたというわけです」
マーガレットは左肩にとまるネモのことを見た。ネモはマーガレットと目が合うと、褒めてと言わんばかりに体を飼い主の顔にすり寄せた。
「そうだったのですか。ネモ、いい子いい子」
マーガレットが頭を撫でてやると、ネモは気持ちよさそうに目を閉じた。クィレルはその様子を優しげなまなざしで見つめていたが、マーガレットと目が合うと慌ててそらした。
その時、マーガレットはふと彼に聞きたいことがあるのを思い出した
「そうだ、先生。あのトロールのことで、気になることがあったのです」
「な、なんでしょうか」
クィレルは再びマーガレットの方を見た。
「あのトロール、太陽の光が効かない……と言いますか、どうすれば太陽の光を浴びても動くことができるかを知っていたのです」
「そ、それは……ど、ど、どういうことでしょうか」
マーガレットは自分が見たものをすべてクィレルに話した。太陽の光が弱点であるはずなのに、トロールが石のようにならなかったこと。光を見ないようにするため、目をつむるという知能がトロールにあったこと。それから——
「あのトロール、山トロールでしたよね。ホグワーツの周りにいるのは森トロールと川トロールですから、野生の山トロールが迷い込んでくるというのは不思議といいますか……。その……」
「き、君はこう考えているのですか? あ、あのトロールはだ、誰かがホグワーツに入れたのでは、と」
クィレルは目を伏せ、なにか考え事を始めた。
「あの、わたしにはわからなくて……。ですが、先生はトロールにお詳しいですから、なにかご存知かもしれないと思って?」
「た、たしかにトロールの弱点はた、太陽の光ですが、それにつ、強いトロールというのもいます。例えば、ち、知能が高く守衛をするようなトロールもいるでしょう? 守衛の仕事を任せても、ひ、光に弱いままだとや、役に立ちませんから、そういったトロールにはた、太陽の光からの身のま、ま、守り方を教えることもあるようです」
「なるほど。そうだったのですね」
ならば、きっと今日のトロールはかつて人間の下で働いてトロールが再び野生化したものなのだろう。それならば、山トロールがこのホグワーツに現れたことも説明がつく。マーガレットは納得し、ほっとした様子で笑った。
「と、トロールにものを教えるのはそ、それなりの知識とぎ、技術さえあればできることです。き、君も知っているかとは思いますがわ、私にもできます」
マーガレットは頷いた。彼女がまだ学生だった頃、クィレルとともに森トロールを見に行ったことがある。その際に近づいて観察しても大丈夫なよう、クィレルは自身やマーガレットが餌ではないということをトロールに覚え込ませていた。
「ですから、き、君は……。今夜の騒動を引き起こしたのはわ、私ではないかとは思いませんでしたか?」
マーガレットはクィレルを見つめたまま、目をパチクリさせていた。恩師のことを疑うなど、マーガレットにはありえないことなのだ。
「まさか。だって、わたしを助けてくださったのは先生ではないですか」
「そ、そうですか。き、君がそう思ってくれるならば、よかった」
クィレルは小さく笑った。そこには安堵と疲労の色が入り混じっている。
「そうだ、先生。トロールをノックダウンさせた先生の『
そこまで言って、マーガレットははっとした。
「もちろん、先生がとてもお忙しいことは承知しています。あの、先生のお時間がある時でかまいませんから」
「それはまた……。そ、そのようなき、機会があるとよいですね」
クィレルは肯定とも否定ともとれる曖昧な笑みを浮かべた。
「い、いつになってしまうかはわかりませんが、いつかき、きっとそのような時間を作るとや、約束しましょう」
「本当ですか! ありがとうございます、先生!」
マーガレットは青い瞳を輝かせた。白い歯を見せ、心の底から嬉しそうに笑う。
気がつけば、二人はマグル学教室の前に立っていた。
「き、君も疲れたでしょうから、ちゃんと休んでくださいね」
「はい。先生もしっかりと休まれてくださいね。今日は先生に助けていただきましたから、今度はわたしが先生のお手伝いをなんでもさせていただきます」
「い、いえ、大丈夫ですよ。き、君も大変でしょうから」
「ですが……。あぁ、そうだ」
マーガレットはローブのポケットからたくさんのチョコレートを取り出した。赤や青、金に黒、ピンクとカラフルな包み紙で包まれている。
「先生、ハッピー・ハロウィーン! 赤はミルク、青はダーク、金はホワイトのチョコレートです。どうぞお食べください」
「こ、こんなにたくさん……。き、君は本当に甘いものが好きですね」
クィレルは自身の手の中にあるチョコレートの小さな山をじっと見つめていた。
「み、ミス・マノック、ありがとう。大事にいただきます。……そ、それではおやすみなさい」
「おやすみなさい、先生。いい夢を」
マーガレットとクィレルはそれぞれの自室へと帰った。パンプキンパイを食べたのが遠い昔のように思えるが、時計を見ると実はまだ一時間くらいしか時は過ぎていなかった。
今夜はレポートの採点をするつもりであったが、マーガレットにその体力は残されていなかった。部屋に戻ってきて早々、ベッドに倒れ込む。ネモも飼い主の隣でうずくまり、寝る体勢を整えていた。
そして、マーガレットは眠りに落ちた。
——その夜、マーガレットは夢を見ていた。
夢の中の彼女の目の前には扉があった。その扉は鍵が開けられ、半開きになっていた。隙間から扉の向こう側が見える。
扉の向こうには闇が広がっていた。そして、闇の向こうからは雷のような音が——いや、低い唸り声が聞こえてくる。この先になにかがいる——でも、それはなに?
理性では、この先に進むべきではないということはわかっている。しかし、知りたがりとしての本能はこの先になにがいるのかを見に行こうとしていた。
現実の彼女なら前者の考えを優先するだろう。しかし、夢の中の彼女は後者を選択したようだ。無意識のうちに一歩、また一歩と扉に向かっていく。そして、人ひとりが辛うじて通れるくらいの隙間に体を滑り込ませた。
扉の先は真っ暗で、最初はなにも見えなかった。しかし、なにかがいる気配は感じられる。しかも、気配は一つではなかった。正面に一つ、右に一つ、そして左に一つ。全部で三つある。
幸い、暗闇にも目が慣れてきた。では、その気配の正体を探ろうと顔を上げる。そして、彼女は見てしまった——。
そこには、床から天井まで空間を全部埋め尽くしてしまうほど大きな犬がいた。その犬は血走った目と黄色い牙を招かれざる侵入者に対して向けている。そして、彼女は
怪獣のようなぎょろりとした目玉が六つ、ヒクヒクと動く鼻が三つ、よだれの垂れ下がった大きな口が三つ。犬は全部で三匹いる——いや、違う。三つの頭はすべて一つの胴体に繋がっている。ならば、これは三つの頭を持った一匹の犬だ。
三頭犬が一歩近づいてきた。たった一歩しか動いていないはずなのに、元々大きく見えていた顔がさらに大きくなる。ただ、彼女は黙ってそれを見上げている。
やがて、魔犬は大きな腕を高く振り上げた。このまま振り下ろされれば、彼女は間違いなく鋭い爪の餌食になる。
——この夢はなんだろう?
夢の中の彼女は考えていた。巨大な魔法生物と対峙しているこの状況は、まさに今夜のトロールとの戦いの再現だ。しかし、目の前にいるのはトロールではなく、三つの頭を持つ三頭犬。その物語を読んだことはあっても、その姿を実際に見たことはない。
——それなら、これはなにかの予言?
三頭犬の振り下ろした右腕が、あと数センチで顔に触れるという瞬間にマーガレットは目を覚ました。
「はぁ、はぁ……」
ベッドから飛び起きたマーガレットは何度も肩で息をしていた。冷たい汗が頬を伝う。
「なにか夢を見ていたはずだけど……。あれは……」
急に目を覚ましたせいか、マーガレットは先ほどまで見ていたはずの夢の内容をまったく思い出せなくなっていた。
マーガレットは夢のことを思い出そうと、目を閉じてうーんと唸る。しかし、なにも思い出せない。ふと膝の上に重みを感じて下を向いてみれば、ネモが彼女のことを見上げていた。
「ごめんね、ネモ。わたしのせいで起こしちゃったかな?」
マーガレットが頭を撫でてやると、ネモはクイッと首を傾げた。くりくりした目で飼い主のことを見つめている。一方、マーガレットはトロンとした目でネモのことを見ていた。
「わたしね、夢を見たの。でも、それがどんな夢だったか憶えてなくて……。はあ、また眠くなってきちゃった」
マーガレットはネモを抱きしめ、再びベッドに横になった。そして、またすぐ眠りに落ちた。しかし、あの夢の続きを見ることは二度となかった。
週に一回程度を目安に更新すると書いておきながら、まったくできてなくてすみません。今後もこんな調子かと思います。
独自設定も増えてきたので、少々解説させていただきます。
二次創作ではわりとお馴染みのトロールの弱点を本作でも取り入れさせていただきました。
これは作者が勝手に考えていることなのですが、魔法族から見た非魔法族の面白いところの一つに、非魔法族は
そのため、非魔法族にはファンタジー小説として流布しているけれども、魔法族が読めば実は本当のことだったら面白いと思い、太陽の光に弱いトロールを取り入れさせてもらいました。
でも、トルーキンのトロルは本当に『石』になってしまうのですが、この差については次話でマグル学教授に説明していただきます。やっと主人公の授業風景が書ける。
独自設定・独自解釈のオンパレードになりそうですが、少しでも面白いとか、ありえるかもしれないと思っていただけたら嬉しいです。