肺と口腔に満ちる
さて、洗浄魔法の間違った使い方の最たるものがアナルセックスであることは疑いようもないことだろう。ただ実際問題、必要なだけの精密な制御さえクリアすればこれ以上の方法はそうないのだ。マジカルペンを一振り、それでおしまい。熱湯消毒したオナホールよりクリーンな胎内には中身もなければ感染症の危険だってない。終わった後シーツに染みたなんだかよく分からない体液だって綺麗さっぱり。なのでまあ
イグニハイド寮長イデア・シュラウドとオクタヴィネル寮長アズール・アーシェングロットは恋人どうしだ。なにせ性転換薬などというものがある世界だからして、同性であることは──個人の性的指向を除いて──問題にはならない。高魔力の生物は遺伝子的に、左右対称の整った容貌が多い(権力者による
寮長のいいところは外泊届けを適当に済ませられるところだな、とアズール・アーシェングロットは思う。無論それだけではないけれど。電子化の上申請すれば自動的に許可が下りるようになっている
「イデアさん」
ほら今だって、シャワーまで済ませた恋人が下着の他はオーバーサイズのシャツ一枚で自分のベッドに寝転がっているというのに、何枚も浮かべたタブレットとホロPCの画面に夢中。アズールが人魚でなければとっくに愛想が尽きていることだろう。
「好きですよ」
「……知ってる。物好きですよな、アズール氏なら引く手数多でしょうに」
ようやくイデアの金眼が画面から目を離してこちらを見た。つめたい地下の黄金と同じ色をした瞳が、アズールの青灰色を見つめて試すようなことを言う。陸の人間にはありがちなことだが、この男も人魚が恋にどれほど盲目になるのか本当の意味では分かっていないのだろう。アズール・アーシェングロットはイデア・シュラウドのためなら足の六つも脳の八つも捨てて構わないのに。
アズールは
「ひどいことを言いますね」
誘惑の魔力を、深海の呼び声を混ぜて愛しい人を呼ぶ。
「あなたよりも上等な人間も人魚もいるものですか」
人間、ね。そう言ってくれるのは嬉しいけれど、いつまでも黙っているわけにもいかないのだろうと思う。嘆きの島には人間よりもゴーストや
「いつまでそうしているおつもりです?さっさと僕を構いなさい」
そう言って笑えば、一瞬だけ溢れる青炎の髪が揺らめいた。こちらへのしかかってくる男の目元を縁取る、アイラインではない青と、深い隈。
「またそんなに煽って……僕をどうしたいの」
勿論、余裕を崩したいのだ。魔導工学の申し子、冥精召喚の天才。そのおぞましいほどの頭脳がぐちゃぐちゃになってアズールのことだけを考えている様が見たい。どろどろのぐずぐずに溶けてこの夜の深くまで二人で沈んでいけたらいい。アズールは度々そう思った。この、皮下脂肪が少なすぎる所為で筋肉が浮いて見える、見るからに体力のなさそうな恋人は、しかしこと夜のこととなるとアズールよりも早く力尽きたためしがない。
燃え上がる青と、口づけ一つ。海中でも消えることのない彼の炎は、決して酸素を奪うわけではないはずなのに、アズールの息を時折苦しくする。
「ねえ、口開けてよ」
呑み込まれる。深い、深い、地の底。金と鉄の生まれる場所、あるいは北の海の深淵とも違う、
その夜の残りを、アズールはよく覚えていない。ケルベロスに似た地の底の捕食者の金眼に、喰われてしまったことだけしか。
「や、やめ、イデアさ、おねがい……」
静止の声を、否定と懇願を、流し込んだ
「辞めて?もっと、の間違いでしょ」
俯せに伏したアズールの白い首筋に噛み付いて、その奥底に輝く淡い萌黄を染め上げるようにと青を吐き掛ける。ぷつりと切れて滲んだ現世の赤も、彼の故郷でなら
柘榴の赤。僅かな慈悲までも焼き尽くすような
そうやって侵して染め上げて、残ったものはアズール・アーシェングロットか?ほんとうに?
傷口から滲む赤も、胎の奥底に吐き出した白も、萌黄の炎に混ざり込む青も。イデアが暴いて擦り込んだ征服の証のそのすべて、消えずに残ればいいとさえ思った。誰もアズール・アーシェングロットを見ないように、この場所、イデアの領域へ閉じ込めてしまえたら。暴力的な情動を自覚して、火の粉を散らす髪を抑えた。そんなこと、たとえ嫌われなくたってできもしないのに。今日の夜だけで何度目か、一瞬だけ思考と情動の落ち着いた頭で自嘲する。ひとでなしの、これが愛だとイデアは言いたかった。
祈りひとつ、願いひとつ、愛の言葉一つでさえ、この青い
「アズール氏、アズール。
ふるい言葉。死者の国の古代呪文語こそは、イデアの母語だ。魔力を空気と同等に震わせて発される、冥府のことば。古びた血よりも凝って淀むその
このところずっと、具合が悪かった。どうにも食欲がなくて、そのくせジャンクなものばかり食べたくなって、昨日など吐いてしまった所為でモストロ・ラウンジを急遽閉めることになった。ノロウィルスだったりしたら洒落にならない。
ただ、それでも、部活に顔を出しただけでどちらの体調が悪いのかとばかりに顔色を真っ青にされる謂われはない、はずだ。
「あ、アズール氏」
「なんでしょう?」
コピー用紙みたいな血色の悪い肌を更に青くして恐る恐る問うイデアに、いつも通りの笑顔で言葉を返す。一瞬だけ言葉に詰まったように瞬きをして、炎の髪の男は続けた。
「……その、体調悪かったりしない?吐き気とか……」
「どうして分かるんですか!?……いえ、大丈夫です」
顔色は化粧で誤魔化しているし、声の調子だって変わりないはずだ。二人きりの部室は教室よりよほど安心できるので、多少気を抜いていたかもしれないが、それにしたって入室したその一瞬で分かるものだろうか。
「あ、や、そうじゃなくて」
イデア・シュラウドの目には、生者の内にある魂が映る。
「なんですか」
アズール・アーシェングロットの魂は(この頃は青みが強い日もあるけれど)典型的な人魚のそれで、淡く柔らかな萌黄色をしている。首元に灯るこの世ならざるその炎に同じ色は二つとないが、それでも特徴的なものはある。人魚の黄緑、妖精の白銀、竜の黄金──そして、冥府の青。イデア・シュラウドには魂が見える。フロイド・リーチの首元で燃える
青のほむらが
「……その、言いにくいんだけど。アズール氏、妊娠してる……」
イデアのその言葉に、アズールは分かりやすく眉を顰めた。アズール・アーシェングロットは蛸の人魚であり、
「は?僕は雄ですしそもそも蛸は卵生です冗談はやめなさい今機嫌が悪いので」
そしてアズールは、自分から目を逸らした恋人が一呼吸おいて絞り出した言葉に言葉を失うことになった。
「……すみません100僕の所為ですアズール氏と僕の子供が欲しいなとか思って、いやわざとじゃないんだけど、」
「わざとでないならどうして僕が、その、妊娠、するような事態になるんですか」
思いの外糾弾するような声になったが、実のところアズールはむしろ困惑していた。確かに海のいきものは総じて陸よりもその恋において性別を意識しない傾向が強いが、それは性転換薬の法規制が弱いからであって、生態としての雌雄変化は人魚も同種の水棲生物も変わりない(そしてアズールはそういう種ではない)。
「……」
「黙ってちゃわかりませんよ」
今度こそ、それは糾弾の声だった。身を切るような、流氷漂う冬の海の冷たさ。友も兄弟も死ねば肉でしかない場所に住まう、冷血動物に流れる青の色。
「呪いを……その、体を作り替えるような呪いを無意識で掛けたんだと思う……」
誓って言うが今回も、イデアは意識して
「……できるわけないじゃないですか。妖精族ならまだしも、僕は人魚であなたは」
「僕は」
アズールなどよりもよほど、血を吐くような声だった。こんな形で言うつもりではなかった。こんな、取り返しの付かない形で言う予定ではなかった。初代のシュラウドたる
「僕は、ヒトじゃない」
その告白を、
「……そうですか。よしんばあなたが
「勿論です!!」
「うるさ……。いえ、それならいいんです。さて何をしてもらいましょうか……」
食い気味の宣言に、内心の笑いを噛み殺す。もう少しロマンのある状況を夢見てはいたが、まあいい。ことこうなれば生涯、離してなどやるものか。
「……アズール氏」
「なんですか避妊を怠ったイデア・シュラウドさん」
「申し訳ございません。……その、指輪を、
左手の薬指に揃いの指輪を付けるのは陸の風習であり、夫から妻へ送るガーネットのアクセサリーは嘆きの島でのみ見られるプロポーズだ。赤い
「こんな形で言われる予定はなかったのですが、ええ。いいですよ。そちらがそのつもりなら子供は産みます」
「え……いいの」
間髪入れずの了承に、むしろ戸惑ったのはイデアの方だった。酷いこと言っている自覚はあったので。その寛容が決して恋への盲目さの故ではないことを、柄にもなく祈った。エロースの黄金の矢によるような、いつか冷める受難の激情でないことを。
「さて、そうと決まれば実家と学園に報告しなければいけませんね。休学するつもりはありませんのでそのあたりはどうにかしてください」
そう言うアズールは、しかし恋の故に子を産み落とすと決めたわけではなかった。蛸の
これを、なにか言葉で括るのならきっと愛だった。海を捨てても、陸の上はおろか地の底まで逝くことになっても、
「早急にリモート受講の用意を整えて学園長を説得します。マドル積めばいけるでしょ」
目に見えるようだ。「さすがに妊婦……妊夫ですか?を通わせるというのは……」「おっとこんなところに小切手が」「許可しましょう!私優しいので!!」はいおしまい。オルトの「持ち込み許可」の時と同じ。
「僕のものにもなるんですから無駄遣いは、」
「オルトの深海用ギア開発に比べれば誤差だよ」
そう言われればアズールには何も言えなかった。
「それを出されると弱いですね……。あとウツボは頑張ってくださいとしか」
「そっちの方が問題っすな……」
オクタヴィネル寮長妊娠の報がナイトレイブンカレッジを駆け巡ってから三ヶ月の間に、アズールはそれはもう何度も襲撃に遭ったが、そのたびにウツボの形をした両腕だとか、あるいは転移魔法の魔導回路プログラムを仕込んだ予備のタブレットを押しつけたイグニハイド寮長だとかがこれ見よがしに下手人を叩き潰したし、そもそもアズール自身別段魔法の腕が落ちたわけではない。少々腹がふくれて動きにくくなった程度でそこらの生徒に叩きのめされるような腕前なら、初めからオクタヴィネルの寮長など務まっていない。
「アズール氏」
授業とモストロ・ラウンジ、その合間に挟まる週に一度の部活の時間。アズール・アーシェングロットの生活は、この三ヶ月でも大きくは変化しなかった。勿論悪阻のことがあるので食事はその時食べられるものに限ったし、いかんせん単純に腹の子供の体重分だけ増えればいいというものでもないのでカロリー計算は大味になったし、体力育成と飛行術、それから魔法薬学は全てレポート提出に代替されて、少しでも調子が悪ければそのほかどんな授業も端末越しの受講を許可されたけれど、少なくとも大枠のところでは。
「はい。なんでしょうイデアさん」
シュラウド家は、意外なくらいにあっさりアズールが嫁いでくることを認めた。「オルトの」両親だという男女の目に混ざる怯えの理由が、アズール・アーシェングロットには分かるような気がした。肩甲骨のあたりまで伸ばされた義父の燃える髪からは、イデアほどの魔力は、イデアのような、妖精か、それこそ神の一柱であるかのような強大さは感じられなかった。
「遅くなったけど、これ、してくれる……?」
そう言って、二人きりの部室で机の向こう側から差し出されたのは、鮮やかな青の
「ほんとに遅くなりましたね、まった、く……」
紺色の
「あ、アズール氏?何か気に入らなかった?」
ああ。この男は真実、神の裔なのだ。当然のような顔で、冥府の柘榴を封じ込めた
「……これ、幾らしたんですか」
込められた魔法を度外視しても、真っ当に買えば考えるのも恐ろしい額になるのは間違いない代物だった。ミスリルもオリハルコンもアダマンタイトも、自然産出のものは金や白金さえ及びも付かない高級金属だ。錬成品は魔導機部品用途の希少金属としては二級品とされるが、それだって決して安くはない。
「え、九割五分ぐらい自作だしガーネットは嘆きの島産だから割引効くし、その、申し訳ないけどそんな大した額では」
「魔導鉱石ですよねこれ」
「錬金しました」
「は?魔導鉱物の錬成ってなんですかあとでやり方教えなさい。あとどうせ自分の分もありますよね?」
そう聞けば、おずおずと取り出される木の箱。
「う、うん。これ……」
開くと、純白の絹地に包まれた
鋭い銀色に十二の
「あ、で掛けてる魔法についてなんだけど」
「やっぱり何か仕込んでやがりましたかこの天災児……」
少し目を離せばすぐこれだ。この廃ゲーマーの皮を被った真正の天才(いや廃ゲーマーなのはただの事実なのだが)が常識やら世間で言う限界やらを軽く飛び越えて夢物語を形にしてくるのはいつものことなので、アズールもう何をやらかしたのかをさっさと聞いてしまうようにしていた。
「そ、そんな大したアレじゃないですぞ。緊急時にお互いのリングを転移の座標指定先にできるのがメインなのでそれを邪魔しない程度に疲労回復と魔力蓄積と魔法耐性の底上げ」
「十分すぎます」
普通指輪サイズに仕込めるのはマーキングとおまけ程度の魔力蓄積が精々で、魔力体力の持続回復(おそらくブロット対策に気力の回復まで仕込んであるだろう)に魔法耐性まで付けるとか、専業の魔法具製作師であっても国に片手の指の数もいればいい方だろう。
まったく、こんなものを持ってこられては付けないわけにはいかないじゃないか。おまけに単品ならデザイン性も悪くないのが余計に困る。
案の定左の薬指にぴたりと合った指輪の、あれだけ強い魔力が指輪を填めた途端に馴染んでしまったことに空恐ろしいものを感じながら、アズールは指輪を填めたばかりの手で自分の膨らんだ腹を撫でた。
「……イデアさん。この子は、人魚だと思いますか?」
その声が震えていなかったかどうか、アズールには判別が付かない。蛸の人魚は卵生なので、そんなはずはないと思うのだが、今の自分の体は人間の雌とも違うものであるので、確信は持てなかった。アズールは、自分の人魚の姿が好きではない。生物多様性に理解を示せないわけではないけれど、イデアとの子供として、陸で育てられるこの胎の中身の持つ脚が、二本だけならいいとは思う。
アズールの問に、イデアは少し悲しそうに目を伏せた。イデアはアズールの本性が決して嫌いではないし、それどころかアズールが嫌がらなければいつだってじっくり眺めたいくらいには好きだけれど、それを伝えたところでアズール・アーシェングロットが自分の姿を好きになるわけではないことも知っている。それが、アズールが幾ら言葉を尽くしたところでイデアが自分の燃える髪を好ましく思う日が来ないのと同じことだと。
「ううん。この子はシュラウドだ」
「そうですか。それはよかった」
そう言って柔らかく微笑む恋人の、ブルーグレーが包む頭を思わず撫でる。するりと頬に手をやって語りかけるイデアは、その言葉だけで救われるような心地がした。一つの命として
「……そう言ってくれるの」
「当然です。間違いなくあなたの子だということでしょう」
「……その子が、どれだけ生き残れるかはわからないよ。生まれてこれるかだって」
イデアには、腹違いのきょうだいがもう一人いるはずだった。名前を付けられる日さえ来なかった小さな妹が。弟は今でも「生きて」いるけれど、そうと認める人間がどれだけいるだろう。情報を吸い出された脳と、最後の一欠片までイデアに切り裂かれて機械にすり替えられたちいさな体。永遠の子供、青く魂灯燃えるテセウスの船。
「海だって同じですよ、そんなこと」
イデアの悲観を、