私が老人と共同生活を送ったのは、1924年11月から1933年2月までの8年と3ヶ月である。
私と同居を始めた時点で、老人は功成り名を遂げた成功者であった。
ロマノフ帝政とボリシェヴィキ政権に対して闘争を続けた革命運動家としての経歴、自由主義を擁護し続けた共和派ジャーナリストとしての活動、反動主義の暗部を暴き出した歴史学者としての業績、そして新聞経営者としての経済的な成功……新時代を迎えた共和制ロシアにおいて、その名は燦然と輝いていた。
こうした周囲からの評価とは裏腹に、老人は齢60を越えても、現状に満足するということを知らなかった。
更に酔狂なことに、老人は自分に奉られた「とある敬称」について異常なまでの執着を示し続けた。
ペテログラード軍事医学アカデミーを卒業したばかりの、白衣の糊が残る25歳の新米軍医(私である)との共同生活を受け入れたのも、その一環であったという。
動機はどうであれ、老いても衰えを見せない才気煥発な革命家は、周囲からの忠告や諫言に耳を傾けず、ただ遮二無二突き進んだ。
妄想を逞しくする人間は多いが、それを実現させてしまう金と時間を持て余した行動力のある暇人ほど手におえないものはない。
8年と3ヶ月の間、私はそれを嫌というほど思い知らされた。
私達の奇妙な共同生活は、モスクワ市内の彼が経営する新聞社屋の一室であったり、老人が保有していたドルスキニンカイやカザンの
その大半がペテログラードのアドミラルテイスキー地区に老人が保有していたアパルトメント最上階の個人事務所兼住宅を舞台としていた。
私達の同居は、書類の契約上は老人が家賃や生活費の大半を負担する代わりに、私が老人の主治医と秘書を兼ねることで成立していた。
一種の雇用関係にあったと説明すれば聞こえは良いだろうが、私が老人に経済的に依存していた事は間違いない。
実際、老人は私以外にも複数の秘書や使用人を抱えており、私の仕事といえば、身の回りのちょっとした雑用と、偏屈で気分屋で虚栄心の強い老人の話し相手ぐらいのものであった。
この歪な依存関係は、私が軍を退役して自活を始めるだけの経済力を持ち始めても継続された。
私は幾度となく生活費の見直しを申し出たが、老人は断固として受け取ろうとしなかった。
今思えば、それがひねくれた老人なりの私に対する好意の示し方であったことがわかるのだが、当時の私には、老人が精神的に優位に立ち続けようとするための押し付けとしか写らなかった。
一事が万事このような具合であったため、私達の共同生活は果てしなき世代間の闘争と価値観が衝突する連続であった。
ハードカバーの本や食器を投げつけあうのは日常茶飯事。
老人の横柄、かつ傲慢な言動に対する腹立ちのあまり、怒りに任せて部屋を飛び出した回数は数知れない。
私と老人の関係を観察することを趣味としていた妻に言わせれば「似た者同士」だと言うことになるのだが、この評価だけは今も納得していない。
人生の黄昏を迎えた今、思い起こされるのは腹立たしいことばかり。
だがそれでも、あの人と過ごした8年と3ヶ月の間に経験した数々の事件、それを取り巻く奇妙な冒険談は、間違いなく精神的な血肉となり、今の私にも大きな影響を遺している。
認めるのは癪だが、あの共同生活がなければ、現在の私はなかっただろう。
驚嘆すべき老人がこの世を去ってから、今年で23年……気付けば私も同居を始めた当時の、老人の年齢を越えてしまった。
老人を直接知る世代は世を去りつつあり、人々の話題に上ることも少なくなった。
狂騒の長い20年代*1の記憶が歴史となりつつある今、私達が体験したいくつかの事件を記録に残すことは、あの時代を生きた人間の責任であると考える。
故に慣れない筆を執り、自らの体験した記録と記憶を、可能な限り文章に起こした次第である。
記憶が定かではない箇所は、当時の新聞記事や記録から内容を引用した。そのため読みづらい箇所があるかもしれないが、予め御了承頂きたい。
そして私を公私に渡り支え続けてくれた妻エフゲニアに、この場を借りて深い感謝を。
1965年1月3日 イワン・ペトローヴィッチ・パブロフ記念軍事医学アカデミーの学長室で