ウラジーミル・ブルツェフの事件簿   作:神山甚六

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『撫子色の研究』/「Изучение цвета гвоздики」
宿なし軍医


 英雄譚の主人公として活躍する自分の姿を夢想するのは、幼少期特有の熱病のようなものであろう。

 例えばそれは国家の命運を賭けた戦場に将軍として臨む自分であったり、あるいは大商人として成功した証である金貨の玉座に座る自分であったりする。

 そして成長するに従い、夢想に費やす時間は減少する。

 可能性という言葉の残酷さを知り、自分自身の限界を自覚するからだ。

 

 私の大望とは「医者となり身を立てる」というものであった。

 私と同年代の少年達の気宇壮大かつ非現実的な大望と比べると、いささか見劣りするのは否めない。

 明確な目標を有していたといえば聞こえはいいが、それが私の限界だったのだろう。

 

 私にとって幸いだったのは、家族の理解と支援を得られたことだ。

 決して豊かではない家計にも関わらず、両親は私を全面的に支援してくれた。

 

 ギムナジウム在学中、予期せぬ世界大戦*1と革命*2に遭遇するが、ペテログラードの軍事医学アカデミーに入学する。

 

 革命や内戦*3という未曾有の政治的混乱の中でも、アカデミーは教育機関としての役割を果たした。

 1923年の卒業と同時に医学博士号を得た私は、そのままアカデミーで自分の研究を続けることを希望したが、それは叶わなかった。

 

 レッド・パージ*4は、駐留ドイツ軍の圧力や政府内部の主導権争いも加わり、官民問わずロシアのあらゆる組織へと波及。

 本来、政治上の対立とは中立であるべきアカデミーもその例外ではなく、各学部や研究室は、あらゆる予算削減圧力や政治闘争に血道をあげた。

 コネも伝もない私に、そこに入り込む余地はなかった。

 

 私は研究者としての未練を残したまま、スロボタ第2陸軍病院において軍医となるべく実地研修を開始する。

 驚くべきことに、わずか3か月の即席教育を受けただけで軍医少尉に任官。同年12月末、ペトロパヴロフスク要塞*5の歩兵連隊に配属された。

 

 この性急かつ泥縄式な教育課程の繰り上げは、レッド・パージによる人材不足に苦しむ軍の意向が影響していたという。

 既にケレンスキー大統領とコルチャーク大元帥の対立は抜き差しならぬものとなっており、報道管制もむなしく暫定首都には数々の流言飛語が飛び交い、不穏な空気が漂っていた。

 

 1924年1月21日。「2人のアレクサンドル」の対立は、大元帥のクーデター*6という最悪の事態に発展する。

 

 婦人決死隊の死闘で名高いモスコーフスキー駅攻防戦、クロンシュタット軍港奪還作戦など、今日まで語り継がれる数多くの英雄譚が誕生し、多くの軍人や協力者達が惜しみなく勲章を与えられ、あるいは実力にそぐわない昇進を果たした。

 しかし市街地戦闘に巻き込まれた市民にとっては、降ってわいた災難でしかない。

 それはペトロパヴロフスク要塞に駐留していた連隊に配属されたばかりの私個人にとっても同様であった。

 

 同要塞はペトログラード中心部の占拠を目指すザバイカル・コサック軍団の襲撃を受けた。

 数少ない尉官であるというだけの理由から、私は要塞西門の塹壕構築に駆り出された。

 初陣ということもあり、必要以上に気分が高揚して言葉が裏返った事を覚えている。

 即席士官では実戦に役に立たないと判断されたのだろうが、そのような評価を知るよしもない私は、軍事医学アカデミーからの志願学生と共に、土嚢の代替品として使用する舗装レンガを剥がす作業に没頭していた。

 

 緊張と戦意が空回りした私は、再三にわたり古参兵注意を受けていたにも関わらず、塹壕から不用意に上半身を晒した直後、敵のコサック狙撃兵に左肩を撃ち砕かれた。

 幸いにして神経や動脈は無事だったのだが、私は骨が砕ける痛みに気絶し、塹壕の外へと転落した。

 もしもこの時、勇敢なアカデミーの女学生が自ら銃弾に身をさらす危険性を冒してでも私の身体を塹壕内に引きずり込まなければ、私は野蛮なザバイカル・コサックの捕虜になっていたかもしれない。

 

 ちなみにこの勇敢な女学生が、後に私の妻となるエフゲニアである。

 

 私が目を覚ましたのは銃撃から3日後である。

 ピョートル大帝病院の病床において、私は看護婦からクーデターの顛末を知らされた。

 従軍記章を含めて複数の勲章を授与されたが、私には何の慰めにもならなかった。

 士官どころか軍医としても何も出来なかったという事実が、私を落胆させていたからである。

 

 クーデターの後もペトログラードの物流は回復せず、医療品の供給不安が続いた。

 私のリハビリテーションは優先順位が低いとして後回しにされ、結果として左腕には僅かに障害が残った。

 かねてから臨床医よりも研究者としての道を志望していた私にとって、これは一つの転機となった。

 

 半年に及んだ療養終えて退院の許可を得た私を出迎えたのは、連隊の同僚達やアカデミーの同窓生による祝辞ではなく、ペトログラードを襲った大洪水*7であった。

 折からの長雨とネヴァ川の大潮が重なり、9月23日に発生した4メートル近い高潮は、ピョートル大帝が築き上げた人工都市のほぼ全域を水没させた。

 戻ったばかりの軍の集合住宅も浸水被害を被ったが、自分の境遇を嘆く暇も与えられない。

 私は三角巾で左腕を吊るしたまま、市内の軍病院に詰めかけた被災者の医療活動に従事した。

 

 各軍管区からの応援部隊到着にあわせて、各国からの支援物資が行き渡ることで災害対応が一段落すると、私はペトログラード市内の待機を条件に、半年間の療養休暇を認められた。

 

 私は早速、新たな住居探しに取り掛かった。

 水害後に私が一時的に居住を許されていた軍の簡易宿舎は、すでに収容限界を大幅に越えており、廊下で雑魚寝する兵士が常態化するなど、衛生環境も悪化していた。

 担当者から11月末までの退去を宣告されていた私にとって、市内待機の条件を満たせる下宿を探すことは急務であった。

 

 下宿先を探し始めてみると「ペテログラード市内での待機」という条件が、軍当局からの遠回しな退職勧告であることに気が付いた。

 浸水を免れた市内の住宅価格は高騰し、食糧や生活必需品も品不足が続いていた。

 休職中に減額された給金と傷病手当金では、家賃はおろか、その日の食費すら満足に支払えないのだ。

 実際、私と同じく待機を命ぜられながら、下宿先を確保出来ずに退役に追い込まれる同僚が相次いでいた。

 軍医を辞して故郷のグドフスクで開業することも検討したが、私はどうしてもアカデミーに戻り、自分の研究を再開したいという想いを捨てきれなかった。

 何より将来のことを考えれば、今ここで軍を退役するのは躊躇われた。

 

 軍医を続けるためにはペトログラードに残らなければならないが、その為の生活資金がない。

 軍の支援はおろか、家族からの仕送りも見込めないという八方ふさがりの状況に、私は途方に暮れた。

 

 そんなある日。私は夕食をとるため、スロボタ地区のスタローヴァヤ*8を訪れた。

 おりしもペテログラードの食料事情は最悪期であり、メニューもセルフサービスとは名ばかりなものであった。

 脂身だけの塩漬け豚に、ドイツからの救援物資であろうジャガイモを茹でただけのもの。カビも生えないほどに固くて不味いライ麦の黒パンに、申し訳程度に塩辛いだけの具なしのシチー*9

 これに気の抜けた炭酸水と、馬の小便と見間違うばかりの妙な匂いを漂わせるクワス*10が飲み物として選べるだけだ。

 

 お世辞にも食欲を湧かせるとは言いがたい内容と、食事と呼ぶには憚られる臭いに辟易していた私の肩を、突如として叩く人物があった。

 誰かと振り返れば、それはアカデミーにおける私の担当教官の1人であったアリンキン教授であった。

 ロシアにおける血液学の権威である教授は、レッド・パージが吹き荒れるアカデミーにおいても、臨床内科部長の地位を守り続けるという政治力と処世術を存分に発揮していた人物である。

 

 どちらかといえばアカデミー時代の私は、アリンキン教授とはさほど親しい関係ではなかった。

 それでもペテログラードという大都会の大海の波間に、根無し草のように揺蕩っていた私にとって、思いがけぬ恩師との再会は天啓のように感じられた。

 アリンキン教授も私との再会を大いに喜び、胃袋を膨らませるためだけの不味くて不健康な食事を共にした。

 

「いったい何があったのだね?」

 

 痩せ衰えた私の風貌に驚いた教授に、私はこれまでの経緯を簡単に説明した。

 教授は丸眼鏡の下の団栗眼をしきりに左右へと動かしながら私の境遇にひどく同情して見せたが、この場の食事代を奢ろうという言葉だけは、ついぞ出てこなかった。

 

「これから一体、どうするつもりなのか?」

「官舎の退去期限が11月末なので、それまでに次の住居を探します」

「あと2週間しかないではないか。何かあてはあるのか?」

「ペトログラードならば、どこかの共同住宅でもアパートでも構いません。倉庫か物置小屋に下宿させていただけるだけでも、今の私には十分過ぎます」

 

 私としてはアリンキン教授に学生寮を紹介してもらうか、あるいは教授の自宅に下宿させてもらえないかと暗に伝えたつもりであったのだが、教授は両手を打ち鳴らすと「ちょうどいい!」と叫んだ。

 

 店内から好意的ではない注目が集まるが、アリンキン教授はそれに構わず続けた。

 

「ちょうど医者の同居人を探している人物に心当たりがある。というよりも、先ほどまで会っていたのだが」

「医者の同居人ですか?わざわざ指定しておられるということは、その方は何か持病をお持ちなのですか」

「まぁ、持病といえば持病であるし、病気といえば病気なのだが……」

 

 突如として歯切れが悪くなった教授は、奇妙なまでに高い声を発して「君はウラジーミル・ブルツェフという老人を知っているかね?」と訊ねてきた。

 

「ロシア革命のシャーロック・ホームズですか?」

 

 突如として、恩師の口から飛び出した大物の名前に、私は飛び上がらんばかりに驚いた。

 私は政治にはあまり関心が強い方ではないが、アゼフ*11を告発したブルツェフのことは知っていた。

 

「今、この国でブルツェフの名前を知らない人がいるとは思えませんが」

「コルチャーク・クーデター鎮圧の立役者として、毎日のように新聞で名前を見るからな。

 ……そしてここからが本題なのだが、そのブルツェフ老人が同居人を探している。

 君が希望するのなら、私が推薦人になってもよいと考えている」

 

 思いもがけぬビックネームに動揺して浮き足立つ私を焦らすように、アリンキン教授はスクワのカップにゆっくりと口をつける。

 そして私の反応を丸眼鏡越しに確認すると、再び続けた。

 

「君が希望するのであれば、私が話をしてもいいが?」

「それは願ってもない話ですが、何分急な話ですし……」

「相手が相手だ。戸惑うのもわかるが、断る理由はあるまい?

 同居にはいくつか乗り越えなければならない『ちょっとした』問題があるが、私としても最初から同居する意思のない、冷やかしのような人物を紹介するわけにはいかない。

 軍属で身元のしっかりした君なら、その資格はあると判断した。あとは君の気持ち次第だな」

 

 いつになく多弁なアリンキン教授の口から、具体的な条件が語られないことへの違和感を覚えなかったわけではない。

 だがどのみち早期に下宿先を見つけなければ、予備役編入で軍を追い出されるのだ。

 熱心に掻き口説く恩師に、私も肚を決めた。

 

「是非もありません。教授、ぜひ私にブルツェフ氏を紹介していただけないでしょうか」

「よかろう」

 

 その時の私にはわからなかったが、私の言質に笑みを浮かべたアリンキン教授の表情は、実験動物に投薬した試験薬が、期待通りの効果をあげたことを喜ぶ研究者のものと酷似していた。

 もっとも私が教授の真意を理解するのに、さしたる時間は必要なかったのだが。

*1
第1次世界大戦(1914-21)

*2
1917年2月革命により、ロマノフ家の帝政は崩壊。続く10月革命によりボリシェヴィキ政権が発足した。

*3
ロシア内戦(1917-1920)。ロシア南北戦争とも。

*4
ロシア内戦後、臨時政府が実施した公職追放令。旧ボルシェヴィキ政権関係者と支持者が対象となった。

*5
ペトログラード要塞

*6
ロシア共和国軍最高司令官アレクサンドル・コルチャークによるクーデター未遂事件。ブレスト・リトフスク条約の即時廃棄を主張したが、旧白衛軍勢力の支持を得られず、わずか3日で鎮圧。ケレンスキーは政権基盤を強固なものとした。コルチャーク・クーデター、コルチャーク・ブッチとも。

*7
1924年のペトログラード大水害。

*8
ロシア内戦後に臨時政府が設置した公営の大衆食堂。

*9
野菜スープ

*10
微炭酸のアルコール飲料

*11
エヴノ・アゼフ(1869-1918)。反体制派の社会革命党幹部でありながら、秘密警察の二重スパイであった。

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