ロプトウスの血を飲み干した直後シグルドは急激な眠気に意識を奪われ、そしてどれだけの時間が経ったのであろうか…シルクの繊細な肌触りと柔らく暖かな寝台の感触に包まれシグルドは目を覚ます。
「うん………こ、ここは」
青髪の青年はまだ頭と体に気怠さを感じながらも、現状の状況を確認しようとすぐさま寝台から跳ね起き部屋を見回す。
そこはかつてどこかでシグルドが見た…いや見慣れた懐かしい景色。
士官学校卒業の祝いとして父から送られ幾多の戦場を自分と共に駆け抜けた愛用の佩刀、寝酒用にと自分で買い揃えたワインとワインラック、あまりに殺風景すぎると妹からたしなめられ大して興味もないのに押し付けられた絵画…そして簡素ではあるがどれも品質と確かさとそれ相応の価値を感じさせる家具、装飾の数々。
「シアルフィ…シアルフィ城の私の寝室か?本当に、本当に戻ってきたのか…」
思考が現実に追いつかないのか阿呆のように口をぽかりと開け立ち尽くすシグルド。
本当に戻れたのだという喜びよりもあの黒トカゲの妄言と力は本当だったのだという驚きが、シグルドの動きを止め、思考をふわふわと別の場所に飛ばしていた。
そんな停止もほんの数瞬、寝室の扉を激しく叩く音それに合わせて響くとても懐かしい声がシグルドの思考を現実に回帰させる。
「兄上!またいつもの寝坊ですか!?起きてください!返事がないなら開けますからね!いいですね!」
部屋の主を返答を待つ間もなく寝室の扉は遠慮なく開けられる
「朝ですよ!兄上!いつまで寝てる…って、起きてらしたのですか?でしたら返事くらいしてくだされば…」
ピンクの髪を振り乱し、端正な顔をこわばらせて無遠慮極まりなく寝室へズカズカと歩を進めてきてたのはシグルドの妹にしてシアルフィ公女、エスリン=フォン=シアルフィその人であった。
「起きてるなら起きてると仰ってくだされば私だって…きゃああああ!」
シグルドはエスリンの言葉の終りを待たず妹を正面から抱きしめた。
断っておくが決してシグルドが妹に欲情したとかそういういやらしいというか非倫理的な理由ではなく、また生きている妹に出会えた感動が余ってこういう行動に出たのであって、どこぞのヴェルトマー公爵みたいな理由では決してないとだけ注記しておく。
「エスリン!エスリンだな!エスリンなんだな!」
「あ、兄上まだ寝ぼけてらっしゃいますか?そうです!そうですよ兄上!エスリンですってば!それで間違いありませんから!間違いありませんから放してくださいってば!」
エスリンの言葉に我を取り戻したシグルドはそっと割れ物を扱うように、妹の身体を腕をほど数歩後ろに離れる。
顔を薔薇のように紅潮させたエスリンは詰まらせながら言葉を紡ぐ。
「あ、兄上、わわ、わたしももう今年でじゅ、16しゃい。あ、あと数ヶ月で、えと、レンスター王国に輿入れする身ですのでこういったことはその控えて頂ければ!……、ま、まあ兄上なら嫌ではありませんがゴニョゴニョ」
「す、すまないそのなんというか…え、16歳…レンスターに輿入れ?」
抗議なのかなんなのかイマイチ判然とせず早口になったり言葉を濁したりと言葉の意図は分からなかったが、とりあえず謝罪を口にするシグルド。
ただ先ほどの最愛の妹の言葉の中にはいくつか聞き捨てならない要素が組み込まれていた。
「やっぱり寝ぼけてらっしゃいますね、兄上。私の年はまだしもお家の重大な婚儀まで失念されいるなんて。まあ私としては私の年齢を忘れられる方が悲しいですが…」
エスリンはその年齢に似合わず幼子のように頬膨らませ怒っているという振りを見せてみせるが、今のシグルドには目に入らない。
(そうだ!考えてみればおかしかった…エスリンがどうしていまだシアルフィ城にいるんだ?私が戻ってきたのはヴェルダン戦役開始前なんかじゃない…そういえばあの黒トカゲもいつの時に戻るなんて具体的に言ってはいない…あの剣があるということは私は既にバーハラ士官学校を卒業してはいるみたいだが…そしてエスリンがレンスターに嫁いだ時期を考えれば…)
「あ、あのー兄上?」
目の前にいる自分を見もせず俯き、親指を噛みしめぶつぶつ言いだした不気味な兄の有様に耐えられずエスリンは恐る恐る兄に問いかけると、
「エスリン!」
「はいっ!?」
「ひょっとして今はグラン歴753年セティの期なのか?」
「……兄上それ本気で言ってますか?ひょっとしてふざけていませんかね?」
「大事な事なんで教えてくれないかな?」
兄の真剣な顔に気圧されエスリンは渋々と兄のふざけた質問に答える
「ええ、その通りです。兄上の仰る通り今はグラン歴753年セティの期。兄上、一度侍医や司祭殿に見てもらった方がよろしいのではないでしょうか?今日の兄上はいつも以上に変ですよ?あるいは寝酒のワインを控えられるか…」
妹が真剣に心配しだしたことに申し訳なく感じつつも
(ああ、そういえばエスリンはこうなると長いんだった…母上がお隠れになられてからは父上や私はいつもこうしてお小言を頂戴していたっけな)
懐かしさとこれはまずいことになったという思いが入り混じった顔でエスリンの小言を頂戴し約10分の時が経つ。
「よろしいですか!衣服を整えられたら必ず一度看てもらってくださいね!あ、それと待中長のスクルド殿が兄上に用が…」
「わかったからエスリン、必ず看てもらうから」
「そうやっていい加減な返事を返すのは兄上の悪い癖です!いいですか兄上は今クルト王子の後見役としてバーハラ宮に詰めている父上の代わりにこのシアルフィ公爵領を正しく治める義務があるのです!もしその御身に大事あらばその義務は果たせるのですか?そうなると困るのはシアルフィ家だけではなくそこに住む民草、ひいてはグランベル王朝の根幹すら揺るがしかねませんよ!」
「昼行燈扱いの私にそこまで中央や父上は期待してないと思うがな…」
「まあなんて覇気がない!わたしの兄上はそんな人ではないと思ってました!いいですか!」
お説教の内容もループしだしエスリンの言葉にもいくばくかの疲れが見えだしので、妹君には頭を床にめり込むほど下げることで退室を願いシグルドは衣服を整え、寝室を後にした。
そしていま一度エスリンの言葉を思い返しまたぶつぶつと独り言を繰り返す。
「グラン歴753年…しかしこれは好都合かもしれないあの戦争が再び起こるにしろ、起こらないにしろ時は欲しいと思っていたんだ。この4年でなにがしかの準備が出来れば…それはそうとエスリンが変なことを言っていたな。待中長…スクルド…そんな人間がシアルフィ公国にいただろうか?そもそもこの時期の私にそんな秘書だのなんだの付けられているはずは…」
とはいえ実際に用があると待っているものは仕方ないと自分を納得させ、朝の業務をせわしなくこなす使用人、臣下たちに声をかけつつ豪奢に飾られた城内廊下を抜け、待中府の扉の前までたどり着き、シグルドは重厚な木製の扉を開ける。そこには、
「待ちかねたぞ、友よ」
扉の先にはソファーに寝転がった青のローブに身を包み豊かな銀髪と褐色な肌、血のように赤い瞳を持った15歳の少女…ロプトウスが
「お前まで若返ってるのか、だいたいお前が待中長とはどういうことなんだ?さっさと訳を説明してもらおうじゃないかこの黒トカゲ!」
「ここにくるまで貴様も色々困惑があったと思うが、私も大変だったんだよ…ここで一つお互いの情報交換といこうか、わが友よ」
かくして運命の扉は開かれた。
ヴェルダン王国のグランベル領侵攻まであと4年…