こちら艦娘広報室   作:たこ輔

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C98 にて頒布予定だった作品。pixivにも投稿していますが、こちらでも
青葉がお仕事で出会った海自のエリートに言い寄られてしまいます。ですが青葉には心に決めた人が……。そんな、ラブコメ的話になります。


雨夜に咲いた青い花

 ――プルルルルルルルルルルル!

 

 

 嫌な予感が電話のベルと共にやってきました。

 

「はい、こちら艦娘広報室――」

 

 受話器を取ったのは室長である司令官さん。周りの皆さんは構わず自分の作業を続行しています。

 ……青葉を除いては。

 

「鳳翔さん、その花は何て名前なんですか?」

 

 花瓶に花を生ける鳳翔さんと雑談する体を装いながら、青葉はジッと、司令官さんの声に耳を向けていました。

夏真っ盛りの八月、クーラーの効いた涼しい室内のはずなのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいます。

 

「これはゼラニウム、ベゴニア、スターチスね。花言葉はそれぞれ『予期せぬ出会い』、『親切』、『変わらぬ思い』よ」

 なぜだか司令官さんの出た電話に、胸のざわめきが止まりません。きっと彼の声が普段よりも低いから、眉間にシワが寄っているから。

 ごめんなさい鳳翔さん。話をほとんど聞いていませんでした。

 

「はい、はい。……わかりました。調整をかけてみますね」

 

 口調こそは丁寧に、そう言って司令官さんは受話器を置きました。ガチャリという音が広報室に響きます。

 と同時にふー、と司令官さんが深いため息を一つ。とても深く、重いです。それだけで電話の内容がどんなものだったか簡単に想像できてしまいました。

 

「みんな、ちょっと聞いてくれないかな?」

 

 司令官さんは声を上げました。皆さんの作業していた手がピタッと止まります。同時に視線は彼の元へ集中。もちろん青葉も。

 

 司令官さんは一度青葉たちの方を見まわした後小さな咳払い。どんな話が来るのか、青葉はゴクリと固唾を飲みます。

 

「今度、海上自衛隊の幕僚幹部が鎮守府の視察をしたいという申し出があった。その対応にこの広報室が当たることになったから」

 

 うわぁ……嫌な予感はこれでしたか。青葉は心の中でげんなりします。たまにあるんですよね。畑は違えど、同じ海を守る立場として海上自衛隊の人たちが鎮守府に興味を持っているという話が。そして見学したいっていうお願いが。

 他所の人を案内するというだけでプレッシャーなのに、お偉いさんの相手というのは更に気がのりません。絶対にちょっと失敗しただけで小言を言われたり、後でクレームを入れられるに決まっています。

 

 それは皆さんも同じようで、隠すことなく表情に面倒くさいがにじみ出ています。普段温厚な鳳翔さんや鹿島さんですら、渋い表情をしていました。

 

「はぁ? なんでそんなことをしなくちゃいけないのよ。その鎮守府で対応しなさいよ!」

 

 そんな中でやっぱりというか、司令官さんの言葉に真っ先に文句を言ったのは霞さんでした。彼女は机をバンッと叩きます。

 

「そーだそーだ」

 

 那珂さんも同意を示しました。青葉も頷く形で皆さんに同調します。

 

 それと共に、視線は司令官さんの右袖、空っぽに揺れるソレに向けました。事故で無くなってしまった右腕。

 

「室長さん……」

 

 鹿島さんも不安を浮かべた表情。そこには司令官さんを気遣うような雰囲気が込められていました。

 なぜ青葉たちがそこまでしてお偉いさんの対応を嫌うか。それもそのはず、前回青葉たちはそのお偉いさんの対応で嫌な目にあわされたからです。

 

 あの時の相手はどこかの地方議員だったはず。広報室内での対応でしたが、その議員の秘書がとにかく酷かったのです。青葉たち艦娘に対するセクハラはもちろん、その後の接待まで求めてきました。

 それどころか、見かねた司令官さんが注意したら腹いせに司令官さんの隻腕をなじり、あまつさえ上層部を通じてクレームを入れてきたんですよ!

 

 そのせいで司令官さんは酷く叱られたことを、ここにいる皆さんがよく知っています。思い出した今でも、胃がムカムカとしてくるほど。普段人に対して怒ることのできない青葉でも、明確に怒りを露にするほどでした。

 青葉にとって初めてのことだっただけに印象が強く、嫌な気持ちしか出てきません。きっと皆さんも同じ感情だと思います。

 

 ピリピリとした空気が広報室の中に充満。

 そんな中で、落ち着いてと冷静な口調で鳳翔さんが言い放ちました。手には花を持ったまま。確かゼラニウムでしたっけ? 花言葉は……忘れてしまいました。

 

 まるで音が存在しなくなってしまったかのように、一瞬にして静かになる広報室。この迫力はさすがベテランさんと青葉が感心していると、鳳翔さんがスッと司令官さんに対して正対します。

 

「室長、あの世界にいる人が全員、ああいう方ばかりというわけでは決してありません。ですが私たち艦娘広報室という部隊はまだまだ若輩です。あまりに不当な扱いを受けることはこれからも多々あります。それでも……」

 

「それでもやるよ。それがボクの仕事なんだから。なにより、みんながこの前みたいなことにならないようにするために、もっと艦娘について理解してもらわないといけないんだから」

 

 鳳翔さんの問いかけに、司令官さんはまっすぐ答えました。一点の曇りもない綺麗な眼差しで。あまりの眩さに青葉の頬が思わず熱くなります。

 鳳翔さんは目をつむります。青葉は思わずゴクリと固唾を飲み込みました。張り詰めた空気が、妙な緊張が漂いました。

 一呼吸。

 

「わかりました。それなら私たちも全力で当たらせてもらいます」

 

 ニコッと微笑む鳳翔さん。一瞬にして緊張した空気が緩みます。ふぅと青葉も大きく息を吐きました。

 それから、鳳翔さんの言葉を起点に、広報室の皆さんが一斉に動き出しました。

 

「まったく、上司にそんなこと言われたら私たちは断れないじゃない」

 

 ニヤリと笑いながら霞さんは椅子に座ります。それからパソコンと向き合いながら一言。

 

「その代わり、今度また同じような人が来たら、相手のこと蹴っ飛ばすからね」

 

「那珂ちゃんも加勢するよ」

 

 虚空に拳を突き出してシャドーボクシングをする那珂さん。

 

「それは頼もしいね。だけどそうならないように、ボクも頑張るよ」

 

 司令官さんが苦笑しながら、だけどどこか嬉しそうに肩をすくめて答えます。彼の言葉に、霞さんは満足そうに頷きました。

 

「それなら早速、計画案を作成するわ」

 

「那珂ちゃんは鎮守府と調整するよ」

 

 霞さんはパソコンのキーボードを叩き、那珂さんは受話器を取ります。

 

「おそらく当日は鎮守府の方で食事を取られますよね? それでしたら各種申

 請についてはやっておきます」

 

「それでは鹿島は、もう一度海上自衛隊の方と皆さんの計画で調整を図りますね」

 

 鳳翔さんは自分の席に戻ってパソコンを操作します。鹿島さんも他の皆さんと言葉を交わしながらメモを取り、それを基に受話器を手にしました。

 皆さんあっという間に各々の仕事を始めてしまいました。やる気が溢れているのが肌で感じます。それでいてとても楽しそう。すごく、ステキな空間だと心の底から感じました。広報室に勤務していて良かったなと改めて思います。

 

 こうしちゃいられません。青葉の方も自分の仕事をしようとパソコンと向き合って……

 

「はて?」

 

 思わず首をかしげます。青葉は……何をしたらよいのでしょう?

 広報室での青葉の仕事は取材係。簡単に言ってしまえば現場に行って、その情報をまとめるのが仕事。つまりは現場に行かなければ話が始まらないのです。

 

 皆さんが事前準備のために働いている中、青葉は一人スタンバイ。手持無沙汰になってしまいました。なんとなく視線は司令官さんの方へ。

 

「あ……」

 

 目が合ってしまいました。なんでこういう時に限って……、うぅ……気まずい。何か、何か言うことは何のでしょうか。

 

「先ほどの言葉、カッコよかったですよ……!」

 

 何を言っているんですかっ! 慌てるあまり本心を口に出してしまって恥ずかしいです。

 

「ん、ありがとう……」

 

 司令官さんも面と向かって言われたのが意外だったのか、目を見開いたかと思えば、恥ずかしそうに視線を背けてしまいました。

 

 青葉と司令官さんの間に微妙な空気が流れます。いつまでこの状態が続くのだろうと思っていましたが、案外すぐに壊されました。

 

「こーら、仕事中にイチャイチャしないで。クーラーが壊れたかと思ったじゃない」

 

「し、してません!」

 

 霞さんが半眼でこちらを呆れたように見てきたので、青葉は反論します。

 

「はいはい」

 

 投げやりに返されました。うぅ……。でもおかげで気まずいのはなくなったので、少し感謝です。

 司令官さんの方も改めて青葉の方を向くと、小さく咳払いします。

 

「えっと……青葉には当日の対応をしてもらいたいんだけど」

 

「うえぇ……」

 

 勢い余って変な声が出てしまいました。

あぁ、嫌な予感の正体はこれでしたか。

 

 だけども考えるまでもなく、青葉は取材係ということで鎮守府に出向いている回数はここにいる誰よりも多いです。案内や説明も脳内でシミュレートした結果、多少の予習は必要ですが問題なくできそう。

 

 とはいえ相手はお偉いさん。実際に対面したら緊張で上手くできるかどうか。今から不安で嫌な汗が流れ出てきてしまいます。

 

 普段お調子者みたいに見られやすい青葉ですが、その内ではすっごい不安を心に抱いています。それこそ群青に塗りつぶされてしまいそうなほどに深い不安を。

 

 そんな青葉に、司令官さんは優しく微笑みました。

 

「青葉がそういうの苦手なのは知っているよ。だけどもだからこそ成功したら、少しは自信になってくれるんじゃないのかな? 当日はボクも一緒だから心配しなくてもいいよ」

 

「司令官さん……」

 

 青葉のことを考えてくれているんだっていう、司令官さんの優しさや思いやりが本当に嬉しいです。

 なにより、不安の真っただ中で大好きな人と一緒にいれることほど心強いものはありません。

 青葉は小さく頷きました。

 

「ん、大丈夫ならよかった」

 

 嬉しそうなその微笑みに、思わず見とれてしまいます。青葉の心が温かくなるのを感じました。

 

「あー、いいな~。デートだ」

 

「違いますって!」

 

 茶化す那珂さんに青葉は力いっぱい否定してしまいました。

 青葉は司令官さんが好きです。司令官さんも青葉を好きだと言ってくれます。

 だけどまだ、素直に好きの形を明確にすることができません。お互いのの気持ちは知っているのに、今までと変わらない両片思い。それはきっと青葉が弱いままだから。いつも群青色の不安を抱えているから。……努力します。

 

「そういうわけだから、青葉は霞の計画作成の手伝いをしてほしいかな。当日どういう経路で回って行くかは、青葉に任せるよ」

 

「了解しました」

 

「まったく、なんで私があんたのデートコース作成を手伝わないといけないのよ」

 

「だから違いますってば!」

 

 口では文句を言いながらも表情はニヤケている霞さん。完全にからかいに来ている彼女に、青葉は叫ぶように否定しました。

 

「それにしても……」

 

 誰にも聞こえないほど小さな声で呟きました。

 まだ胸の中に嫌な予感が残っているのは……なぜでしょう。

 

 

 

 皆さんの協力のおかげで、お偉いさんへの対応準備は滞りなく終わりました。鎮守府の方も快く受け入れてくれて、あとは青葉がつつがなく終えるだけ。

 

 ……そんなわけで当日。

 

「うぅ……やっぱり緊張しますよ」

 

 鎮守府の警衛所に設置された面会室。パイプ椅子に座りながら青葉は胸を押さえます。

 心臓がバクンバクンと大音響で鳴り響き、隣に座っている司令官さんにまで届いてしまいそう。口の中もカラカラで、それなのに冷や汗はだらだらでと、始まる前から心が脱水症状になりそうです。

 

「噛んでしまったらどうしましょう。……あぁ、失礼なこととか、えっと……案内する際の文言と……もう一度計画の確認を……」

 

 口を開けばネガティブな言葉が自分でもビックリするくらいに溢れ出てしまいます。それが焦燥感を余計に煽りました。アワアワともう、何が何だか分かりません。

 カンペを読み返してもまともに頭に入ってこず、それがより焦りにつながってしまうという悪循環。

 

「緊張してるね。大丈夫だよ」

 

 そんな青葉を見かねてか、司令官さんがそっと手を握ってくれました。ちょっとゴツゴツした男の人の手。

確かに感じるぬくもりが愛おしく、青葉のがんじがらめになった緊張をほぐしてくれます。

 

 だけど同時にその温かさが青葉を落ち着かなくさせました。だって好きな人に公然と手を握られているんですよ? 平静ではいられません。

 

「司令官さん、恥ずかしいです……」

 

 小声で耳打ちをします。そばにいた鎮守府の職員さんが、生暖かい目でこちらを見ていて恥ずかしい。夏の暑さではない熱さが頬に宿ります。こればっかりはクーラーでは冷ませません。緊張とは違う汗が首筋を伝いました。

 

 しかし司令官さんはそんなことお構いなし。むしろちょっと嬉しそうに微笑んでいます。

その表情は……ズルいです。そんな顔をされてしまってはもう、離せなくなっちゃうじゃないですか。

 

 そうは思いつつも湧いてくる羞恥から気持ちを逸らそうと、青葉は新しい話題を振るため沸騰寸前の頭を働かせます。

 そこでふと、気になることを思い出しました。

 

「そういえば司令官さん、先ほどは誰と話されていたのですか?」

 

 鎮守府に到着してすぐ、司令官さんは誰かと電話でお話をしていました。その内容を青葉は聞いていませんでしたが、その時の司令官さんの表情がとても暗く、普段の優しい司令官さんと比べて怖いとすら思えるほど。緊張でそれどころじゃなかったとはいえ、ずっと心に引っ掛かっていた出来事でした。

 

「あー……、それは……」

 

 司令官さんは明後日の方を向いて言葉を濁します。言いたくないことだというのはとてもよく伝わりました。だからこそ余計に気になってしまいます。

 

 それは単なる好奇心だけではありません。青葉は司令官さんが大事です。暗い顔なんてしてほしくありません。できることならなんだってしてあげたい。

 

 だから司令官さんがどういう思いで隠し事をしているのか、気になるのです。青葉を気遣っているのか、それとも……。

 ちょっとイジワルな聞き方をします。

 

「青葉に、言えないことですか?」

 

「その言い方はズルいかな……」

 

 困ったような笑みを浮かべ。自分の右側、失ってしまった右腕に視線を向けます。

 一呼吸置いて。

 

「今は言いたくない、ことかな?」

 

 静かに、言いました。

 言いたくないことと、言いました。今はという言葉も付け足して。

 それはつまり、いつかは言ってくれることなのでしょう。それだけで聞ければ今の青葉には十分でした。

 

「それなら、いつかちゃんと教えてくださいね。青葉、司令官さんのためならなんだってお手伝いしますから」

 

「ありがとう。ボクにはもったいないくらいの言葉だよ」

 

 優しく微笑む司令官さん。やっぱり青葉は、この表情が一番好きです。

 

「だからこそ、ボクなんかでいいの?」

 

 まるで転調したかのような唐突な問いかけ。それが意味するところは、青葉の想い人が司令官さんであることへの、本人からの疑問。思わずえぇ……と困惑を浮かべてしまいます。

 

「自分からプロポーズしておいてそれを言いますか?」

 

 かつて司令官さんは青葉にプロポーズをしています。青葉の悲しみや苦しみに寄り添うという想いを込めて、「どこまでも広がる悲しみの群青を一緒に超えようと」言ってくれました。

 

「そうなんだけどね。ただ、今は保留中だから」

 

「ごめんなさい……」

 

 だけどもその時の青葉はまだ弱くて、応えることができませんでした。だから今もこの微妙な関係。

 

「それにボクはほら、御覧の通りだから」

 

 口にして、司令官さんはひらひらと右袖を揺らします。何も入っていない、空っぽの右袖。思わず顔を曇らせてしまうほど心が締め付けられます。

 

「もし青葉がこのことに気に病んでいるのだとしたら……」

 

「司令官さん」

 

 言葉を遮ります。いつもよりも強い口調で。

 

「それ以上はさすがに怒りますよ」

 

 青葉は、司令官さんが本当に大好きで、一緒にいたいんです。そのことを、たとえ司令官さんであっても否定しようとしないでください。

 

「……ごめん」

 

 申し訳なさそうに顔をうつむかせる司令官さん。なんだからしくないです。妙に自信なさげで、なんだか青葉みたい。

 もしかしたら電話の内容が関係しているのかもしれませんが、今は言えないこと。青葉は静かに待つことしかできないです。

 

 なんだか空気が微妙に湿ってしまったので、青葉はわざとらしく声を大きくして話題を変えます。

 

「……そういえば、今日来る幹部の方ってどんな人なんでしょうね」

 

「えっとね、年はボクよりも下だね。だけど相対的な階級はボクより上の、優秀な人だよ」

 

 司令官さんは平静に答えます。だけどもそれは装ったもの。青葉の気持ちに気づいて行ってくれた、わざと。おかげで湿っぽさに心を濡らされることはなくなりました。

 一方で司令官さんよりも若くて階級も上というのがどれくらいすごいのか、青葉にはイマイチ理解できないので、はえ~と感嘆を相槌として打ちます。

 

 司令官さんは言葉を続けます。

 

「人柄も……悪くはないと思うよ。自衛官という肩書の割にはちょっと軽い感じだろうけど、それでも真面目……だと思う」

 

 ん? やけに詳しいですね。青葉は違和感を抱きます。まるで知っている人のような話し方……。

 

「――っていうのを、向こうから聞いたんだよ」

 

 なんだか取り繕ったような言い方ですね。

 青葉は司令官さんの言葉選びに不信感を覚え、半眼で見つめます。

 

「……どうしたの?」

 

 気まずそうに目線を逸らす司令官さん。何か青葉に隠していることがあるようで、気になって仕方ないです。今日の司令官さんは本当に隠し事が多いです。

 しかし以前なら判別がつかず素直に引き下がっていたでしょうが、今ならわかります。今回の司令官さんの挙動は本当に聞いてほしくなさそうなことではなく、ちょっとわざとらしく、まるで釣りでもしているかのような、こちらの出方を伺っているかのような隠し方。ズルいです。

 

 むぅ、こうはぐらかされると、なんとしてでも聞き出したくなってしまいます。

 躍起になって青葉はしつこく司令官さんに詰め寄りました。

 

「司令官さん、青葉に隠し事は無駄ですよ」

 

「おや、青葉も積極的になったね」

 

「青葉だってちゃんと強くなっているんです。今度はちゃんと司令官さんの想いに応えられるよう、少しずつ積極的にもなっていきますよ」

 

「それは嬉しいことだけど、今は仕事中だから」

 

「そうやって逃げても――」

 

「青葉……近いよ」

 

 言われてハッとします。司令官さんへの追求に熱中するあまり、気づけば距離が目と鼻の先、もう少しで唇がくっついてしまいそうなほどに近づいていました。

 

 視線の外側で、職員さんが気まずそうに視線を逸らしています。

 急激に冷静さを取り戻すのと同時に、恥ずかしさがこみ上げてきます。

 

「ご、ごめんなさい!」 

 

 慌てて司令官さんと手を放して距離を取ります。恥ずかしさのあまりパイプ椅子の上で正座して縮こまってしまうほどに。

 

「いや、うん。……嬉しいよ」

 

 いつもは恥ずかしいことを平気で言ってくる司令官さんも、今回ばかりはどう反応したらよいのか困った様子で頭をポリポリ掻いています。

 それからお互い喋ることなくただただ時間が過ぎるのを待つばかり。

 

 なんでしょう、新手の拷問のようなこの空気。大変いたたまれないです。

 やっぱり青葉には無理なのでしょうか。頑張ろうとしても空回りして、青葉だけでなく司令官さんも恥ずかしい思いをして。

 

 それまで温かかった心が群青に沈んでいってしまいそうな感覚。強くなろうと決めても、容赦なく襲ってくるこの感情に青葉はまた、飲み込まれてしまいそう。

 そんな時。

 

「大丈夫」

 

 司令官さんがそうとだけ言って、もう一度手を握ってくれました。優しい表情。青葉を悲しみから救い出してくれる柔らかさ。

 

 そうです、青葉は絶対に譲れないもの――司令官さんと一緒にいるために頑張るって決めたんです。

 

「頑張ります」

 

 小さく、だけどハッキリと青葉は口にしました。司令官さんからの返答は、優しい頷きでした。

 青葉の心に、しっかりと火が灯ったのを感じます。

 うん、いけます。小さくとも確実な決意が芽生えました。

 ……それはそれとして、やっぱり緊張はするものです。

 

「えっと、本日はようこそ……」

 

 警衛所の面会室。目の前の人を前にして、さっそく青葉の口調はぎこちないです。

 約束の時間となり、鎮守府に海上自衛隊の幹部の方が来られました。

 

 対面してみての感想は、司令官さんの言った通りの印象。二十代半ばか後半に差し掛かったくらいでしょうか。若く整った顔立ちはヤンチャっぽくありますがイケメンです。自衛官という割には細身ですが、それでもしっかりと制服を着こなしており、様になっていました。そして輝く階級章。一尉……でしたっけあれは?

 

 ですが、チャラいと表現すべきなんでしょう。長めの髪など自衛官という肩書から抱く印象と比べてやや軽そうな雰囲気もあります。ですがそこがまた、女性受けの良さそうなカッコよさなのでしょうね。写真に収めれば結構な買い手が付きそう。そんな方です。

 

 ……あ、もちろん青葉的には司令官さんの方がずっとカッコイイですよ。

 

 で、そんな人を前にして、青葉は硬くなったままでした。

 

「……はじめまして。艦娘広報室の室長です」

 

 緊張で役に立たない青葉に代わって、司令官さんが一歩前に出て左手を差し出します。うぅ……面目ないです。

 

「……はじめまして。海上自衛隊の黒沢一尉です」

 

 幹部の方……黒沢一尉も手を差し出して握手に応じました。見た目に反してとてもしっかりした立ち振る舞いなのは、少々意外でした。

 

 しかしその一方で、とても友好的なやり取りなのに、なぜだか彼にも妙なぎこちなさを青葉は感じてしまいます。まるで演じているかのような……。

 

 とはいえそれは一瞬のこと。すぐに消えてなくなり、青葉の中で気のせいということで終わりました。

 

「それにしても、隻腕の英雄とお会いできて光栄ですよ」

 

 黒沢一尉は笑顔を浮かべます。

 

 『隻腕の英雄』とは司令官さんこと。かつて民間人を救った代償で右腕を失ってしまった彼へ、世間がつけたあだ名。

 だけどその名前を聞くと、青葉の心はキュッと締め上げられてしまいます。だってその事故は青葉が関わっているのですから。

 

「その話はやめてください。単にボクの未熟さが招いた結果ですから」

 

 司令官さんがやんわりと断ります。一瞬こちらに目配せをして。きっと青葉の気持ちに配慮してくれたのでしょう。

 そして黒沢一尉も何かに気づいたような表情をした後、

 

「これは失礼しました。てっきり誉め言葉だと思っていただけに」

 

 申し訳ないと頭を下げる黒沢一尉。それだけでこの人がとてもいい人だということが感じ取れました。

 

「いえ、これは単純にボクの我がままですから。さあ雑談はこれくらいにして、行きましょうか」

 

 司令官さんが仕切り直しの言葉を述べます。

 

「ここからはウチの青葉が案内させていただきます」

 

 司令官さんの言葉と共に、青葉は黒沢一尉に正対。敬礼します。よし、汚名返上のために頑張ります。

 

「それでは最初に本部庁舎へ案内しましゅ」

 

 早速噛みました。

 気まずい空気。恥ずかしさで顔が真っ赤になります。司令官さんは変わらず微笑んでいてくれますが、黒沢一尉の方は……

 

「それではよろしくお願いします」

 

 司令官さん同様微笑んでいます。大人な対応です。すごい、ここまでいい人だと感動すら覚えてしまします。てっきりチャラい見た目だから、からかわれると思っていただけに。人は見かけによらないですね。

 

 気を取り直して青葉たちは警衛所を出ました。八月の日差しが肌に突き刺さります。一気に全身から汗が噴き出してくるのを感じ、これだけで気持ちが気だるくなって仕方ないです。ですが、今はお偉いさんの手前、ビシッと決めます。

 

「いや、暑いですね。こんな日は涼しい部屋でビールでも飲みたいですよ」

 

 ……そのお偉いさんがさっそくだらけていました。シャツの胸元でパタパタと仰いでいます。それどころか帽子を脱いで団扇代わりに。偉い人らしくない、なんだか変わった人ですね。

 

 一方の司令官さんは額に汗を浮かべても決して服を着崩すことはなく、こうしてみると対照的な印象です。

 

「室長さん、女の子誘って飲みにいきませんか?」

 

 うわ、やっぱりチャラ男でした。

黒沢一尉。うーん、ものの数分でなんだか最初の印象とコロコロ変わっている感があります。司令官さんが言う通り、本当にまじめな人なんでしょうか。今は見た目通りの女の子にだらしないチャラ男にしか見えないです。

 

「そういった話は、今は控えた方がいいですよ」

 

「……はい、申し訳ないです」

 

 ただ、下位者であるはずの司令官さんが注意すると素直に聞く当たり、悪い人ではないのは確かみたいです。

 雑談を交えながら最初にやってきた本部庁舎。そこで鎮守府司令と黒沢一尉が挨拶をします。

 

 その時の彼は道中とは打って変わってビシッと決まっていたので、人の見た目ってあてになりませんね。その様子をカメラで撮影しながら、青葉は思わず渇いた笑いが出てしまいそうでした。

 

 早々に挨拶を済ませた後、本部庁舎を出ます。

 

「さぁ、堅苦しいのが終わりましたよ。ようやく鎮守府の中を見学できる。全く、こういう格式ばったの嫌いなんですよね」

 

 外に出た瞬間、黒沢一尉が大きく背伸び。ここまで来ると、この切り替えの早さはさすがとしか言いようがないです。

 そんな彼に司令官さんはこっそり苦笑を浮かべています。青葉もうっかりつられて笑ってしまいそうになりましたが、表情筋を緊張させて堪えました。

 

「えっと……それでは鎮守府の中を案内させてもらいますね」

 

 表情をもにょもにょとさせながら青葉は先導します。後についてくる黒沢一尉と司令官さん。

 ここからが青葉の頑張りの見せどころということで、気合を入れます。見ててください司令官さん。青葉、ちゃんとやってみせますよ。

 

 そうして最初にやってきたのは工廠。多くの艤装が保管、整備されている場所。自衛隊の人と言えど見せることのできない秘密の部分はありますが、それでも種類豊富な艤装の数々を間近で見るというのは珍しいことだと思います。

 

「艤装は艦娘に合わせたほぼオーダーメイドということもあって、日々の整備がとても重要になってきます。自衛隊からしてみれば非効率なことかもしれませんが、わざわざ維持に手間のかかることをしている理由としてはやはり、艦娘との相性というものがあるからなんです」

 

 現に青葉の説明を聞きながら黒沢一尉は興味深そうに艤装を見ていました。

 

「なるほどね。なかなかに興味深いことだ。ふむふむ……」

 

 ……艤装を整備していた艦娘の方に意識が向いていた気がするのは、気のせいだと思っておきます。

 次いで艦娘たちの訓練。徒手格闘や射撃訓練など自衛隊でも行われている内容もありますが、目玉となるのはシミュレーターを使っての訓練でしょう。ドーム型の施設に入ります。

 

「最新のVR機器を使っての訓練機材になります。様々なシナリオでの訓練が可能になっていまして、実戦に近い感覚での訓練ができます」

 

 まるでゲームののような感覚で行うことのできるソレは、艦娘でなくとも体験することができ、黒沢一尉にも実際にやっていただきました。ですが想像以上に難しかったようで、何度もバランスを崩されていました。

 

「いや、難しいね。艦娘は普段こんなにもバランス力が必要な中で活動してるなんて驚きですよ。だけどキミのおかげで転ばずにすんだよ。ありがとう」

 

 ……そのたびにインストラクターをしていた艦娘に対しての接触が過剰な気がしましたが、気のせいでしょう。

このような鎮守府でしか見ることのできない光景。

 

 そこに青葉の解説を加えて案内をしていきました。と言っても基本的な教本に乗っている程度のことですが。

 それでも黒沢一尉は興味深そうに反応を示してくれるので、青葉としても一夜漬けで覚えた甲斐があったと思います。

 それに、そんな様子を司令官さんが嬉しそうに見ていてくれることが、青葉にとってとても嬉しいことでした。

 

 青葉の中で成功を噛み締めながら、午前中の案内は終ります。

 休憩兼昼食ということで、青葉たちは食堂に。今日のメニューは冷やし中華。暑い夏にはぴったりのメニューで青葉はウキウキです。

 

「そう言えば、鎮守府の方は今後の方針をどのように考えていられるのですか?」

 

 食事中、黒沢一尉が尋ねてきました。だいぶ運営に突っ込んだ内容。

 おつゆが絡んだ麺が美味しいです。

 

「ボクはあくまで広報なので、言えることは少ないですが……」

 

 司令官さんが前置きをしながら答えます。

もちっとした麺にきゅうりのシャキシャキがいいアクセントになっています。

 

「戦力を確実に増強している深海からの脅威に対して、新たな装備品の開発に着手しています。それでもやはり、過剰な戦力を持てないこの国においてそれが一番の難点でもありますが」

 

 ……ん! からしを入れすぎてしまいました。鼻の奥がツーンとします。お水お水。

 

「なるほど。実は今、海上自衛隊では鎮守府との連携を考えています。護衛艦に艦娘が一緒に乗船してもらうという計画が……」

 

 なんで細切りにした卵焼きってこんなにも魅惑的なんでしょうね。ふわっふわした食感がとても幸せになります。

 

「ともあれ、深海からの脅威に対して艦娘にばかり負担を強いてしまっているのが現状です。我々としても、少しでも助けになればと考えていますよ」

 

「そのお気持ちはありがたく受け取ります。各鎮守府の方にも伝えさせてもらいますね」

 

 青葉が冷やし中華に夢中になっている間に、司令官さんたちの難しい話は終ったようです。

 

「ふー、ごちそうさまでした。……ん?」

 

 なんでしょう、お二人の青葉を見る視線が妙に生暖かいのは。

 

「青葉、食べかけでよければ食べる?」

 

「え、いいんですか? でも司令官さん足りないんじゃ」

 

「暑くて食欲がないからね」

 

「それでも食べないとダメですよ。そうだ、夏バテ防止の物を今度作りましょう。青葉、豚しゃぶとか食べたいです」

 

 いつも通りの何気ないやり取り。

 

 だけど司令官さんはチラチラと目が泳いでいて……あ。

 

 そこで青葉も気づきました。黒沢一尉が苦笑を浮かべていることに。すっかり日常の一部になって忘れていましたが、当初は『イチャついている』なんて皆さんにはやし立てられていました。

 

 それをお偉いさんの前で見せるというとは……。もしかして、とても失礼なことをしてしまったのではないでしょうか?

 

「ご、ごめんなさい。あ、司令官さん、どうぞ自分の分は食べてください……」

 

 羞恥のあまり赤面して縮こまり、消え入りそうな声をうつむきながら発します。黒沢一尉だけでなく、司令官さんまでもが苦笑を浮かべてしまいました。うぅ、穴があったら入りたい。

 恥ずかしい気持ちが一杯で終わったお昼休憩。それでもお腹もいっぱいでやる気をチャージしたところで、午後の案内が始まります。

 

 ……と言っても鎮守府はそれほど広いわけでもなく、陸地のみでいえば外周は六キロくらいしかありません。

 進行がスムーズだったこともあり、計画よりも早く全行程が終了してしまいました。

 

 その間にわかったことと言えば、黒沢一尉に最初抱いていた軽そうという印象が核心に変わったことぐらいでしょうか。道行く艦娘や鎮守府の女性職員に片っ端から声をかけ、ナンパまがいのことをしていました。

 

 そのたびに司令官さんに注意されという、コントかと思うようなやり取りの数々。思い出すと失礼ですが、笑ってしまいそう。

 

司令官さんが言っていた真面目という印象は完全に霧散してしまっています。

 

「なるほど、ウチの基地と作りは似ていますが、案外規模が小さいんですね」

 

 黒沢一尉が感想を漏らします。完全に一応ちゃんと仕事はしているというアピールのようにしか思えなくなってしまいましたが、青葉はきちんと応対します。

 

「そうですね、海上自衛隊のように大きな装備品が必要ないので、基本的にこぢんまりしていると思います」

 

「それでもその小さい中に私の知らない世界が詰まっているのですから、この視察は大変有意義なものでしたよ。今後のウチの活動にとって、とても重要な情報です」

 

 だけどもこれは本心で言っているように感じられました。やっぱり根は真面目なのでしょうか。よくわかりません。

少なくとも黒沢一尉の表情は満足そうで、青葉の案内は成功と言えるでしょう。心にブイサインを出します。

 

「うーん、時間がまだありますね」

 

 時計を見ながら青葉は呟きます。

 

 黒沢一尉の迎えが来るまでにもう一スポットくらい案内する時間がありますが、生憎鎮守府を一周してしまい再び本部庁舎前。

 

 これほど喜んでくださるのですから、もっと鎮守府を楽しんでもらいたいという気持ちが青葉にはありました。それに、司令官さんにもっといいところを見せたいですし。

 

 どこかいいところはないでしょうか。青葉は考えます。

 

 そして一つだけ思い当たるところがありました。司令官さんにいつか見てもらいたいと思っていた、青葉だけが知ってる場所。ちょうど今回が絶好のチャンスです。

 

 だけどもそこは鎮守府や艦娘の活動とは何にも関係のない場所。そんなとこにお偉いさんを連れまわしてもいいのでしょうか。不安を覚えます。やっぱり……やめておきましょうか。

 

 ……ううん! 青葉は強くなるって決めました。不安に怯えずここは思い切って提案してみます。ダメな時はその時です。

 

「あの、もう一つだけ案内したいのですが、よろしいでしょうか? 鎮守府とはその、あまり……関係のない場所になってしまいますが。すっごく、いい場所なんです!」

 

 青葉も申し出に司令官さんと黒沢一尉が顔を合わせます。そして、

 

「私は構いませんよ」

 

「だってさ。青葉、案内してくれるかな?」

 

「はい、ちょっと歩きますがこっちです」

 

 黒沢一尉の許可が貰えたということで、青葉は早速その場所へ案内しました。

 そこは鎮守府の隅っこ。潮風を防ぐために植えられた木々の林。そこを抜けた先に青葉が目的とするものがありました。

 

「これは……」

 

「凄いね」

 

 黒沢一尉と司令官さんが同時に感嘆の声を漏らします。

 目の前に広がる景色。どこまでも広がる水平線。鎮守府の中であることを忘れてしまいそうなほどの一面の蒼。

 午後の日差しを反射してキラキラと光る水面はまるで宝石の幻影のようです。

 

「まだお昼ですけど、夕方になると茜色に一面が染まってとっても綺麗なんですよ」

 

「ステキな景色だね」

 

 青葉が楽しそうにこの場所のことを話すと、司令官さんは優しく微笑みます。青葉の好きな柔らかい表情。

 

「こんな場所良く見つけたね」

 

「たまたま鎮守府内を散策していたら見つけたんです。多分、鎮守府の人もそんなに知らないスポットですよ」

 

「それじゃあここは青葉の特別なんだね。そんな特別をボクに教えてくれて……嬉しいよ」

 

「えへへ」

 

 青葉は嬉し恥ずかしで頬を赤くさせてしまいます。この場所に、司令官さんとこれてよかった。心からそう思います。

 パシャリ。青葉はカメラで司令官さんを写します。特別な場所と特別な人。青葉にとって大切なものがまた一つでき、ポッと心を温かく灯します。

 

 その一方で、先ほどから黒沢一尉がとても静かなことが気になりました。もしかして、あまり面白くなかったでしょうか?

 心配になりながら青葉は黒沢一尉の方を向きます。すると……。

 

「――!」

 

 思わず、言葉を失ってしまいました。その表情があまりに魅力的だったので。

 潮風になびく短髪。目鼻がスッと通った線の細いイケメン。だけれども、どこか幼さの残る表情はまるで無垢な子供の笑顔を彷彿とさせるほどに輝いています。夢中になって煌めく水平線を見つめる視線の純粋さは見る者を魅了させてしまいます。

 

 それまで軽薄なチャラ男な印象を抱いていたせいもあってか、あまりに意外。ギャップを感じさせられました。

 

 写真に収めれば、さぞ絵になったことでしょう。だけど青葉は撮ることができませんでした。そうすることを忘れてしまうほどに彼の横顔に見とれてしまっていたのです。

 

「……はっ!」

 

 我に返って青葉は胸を押さえます。何ですかこのバクバクと高鳴る感覚は。それに頬が熱いです。

 なんで、どうしてと訳が分からず目をぐるぐると回す青葉。

 

「はぁ~、いや、いいものを見れました」

 

 黒沢一尉は大きく息を吐きます。その声には大満足の感情が込められており、表情も満面の笑み。

 

「青葉さん、とても素敵な場所をありがとうございます」

 

「あ、はい。どうも……」

 

 丁寧にお礼を言ってくれましたが、それにこたえられる余裕がなく、青葉は適当な相槌を打ってしまいます。

 青葉はいったいどうしてしまったのでしょう。黒沢一尉への感情が、なんだか司令官さんへの想いと似ているような……。

 

「いえ、違います!」

 

 思いっきり頭を左右に振って否定。そんなはずはありません。考えただけで、自分の心が恐ろしくなってしまいそうなほどのもしかして。

 

「最後にとてもいいものが見れてよかったですよ」

 

「それはよかったです。是非とも部隊への土産話に……いえ、これについてはご内密に」

 

「そうでした。青葉さんの特別な場所ですからね」

 

 そんな青葉の心情は露知らずといった様子の司令官さんと黒沢一尉が談笑しています。

 自分の感情が訳の分からないまま、黒沢一尉への鎮守府案内は終わりを迎えました。

 

「今日はありがとうございました。とても貴重な体験をさせていただいて」

 

 黒沢一尉は笑顔で手を差し出します。

 鎮守府の正門前。黒沢一尉の見送り。後ろでは官用車が待機しています。

 

「そう思っていただけたなら幸いです」

 

 司令官さんはそう言って握手に応じました。

 そして今度は青葉の番。

 

「青葉さんも、ありがとうございます。おかげでもっと知りたくなりましたよ」

 

「はぁ……。ありがとうございます」

 

 どう反応したらいいのかわからず、おずおずと手を取りました。司令官さんよりもスラっとした、長い指の手。だけども青葉のものとは違い、確かな硬さ。やっぱり男の人の手です。

 

「それでしたら、もしまた鎮守府を見学したいときは案内させていただきます」

 

 何気なく浮かんだリップサービスを口にします。

 しかし黒沢一尉から返ってきたのは言葉ではなく行動。

 

 グイっと手を引っ張られ、彼の元へと引き寄せられます。肩と肩が触れ合ってしまいそうなほどの至近距離。

 

 彼は、青葉の耳元で囁きました。

 

「私がもっと知りたいと言ったのは、青葉さんのことですよ」

 

 甘い、ハチミツのような声音。一瞬にして心の血糖値が跳ね上がり、心臓が高鳴ります。

 

「え……ええええええええぇぇぇぇ!っ」

 

 突然の不意打ち。あまりの驚きに青葉は手を振り払って飛び退くような勢いで距離を取ります。

 

 今、いったい何を言われたんですか? 思考が追い付きません。

 何度も黒沢一尉と司令官さんを交互に見返します。黒沢一尉はニコニコとした表情。対して司令官さんは嬉しそうとも悲しそうとも判断のつかない表情。無表情ではなく、確かに感情があるはずなのに、それが読み取れない顔。

 

「よろしければ今度、遊びに行きませんか?」

 理解の追い付かない青葉に、黒沢一尉はさらに追い打ちを仕掛けてきました。それってもしかしなくてもデートのお誘いではないですか。

 

 青葉の脳みそは機能限界、オーバーフローを起こして今にも煙が噴き出しそう。

 黒沢一尉は確かに魅力的な人だとは思います。ちょっとチャラくて女の子にだらしないけど。いい人だということは今日一日でよくわかりました。

 

 だけども青葉には司令官さんという心に決めた人がいるんです。お互いの気持ちも知っています。青葉が他の人とデートだなんて、司令官さんだって嫌なはずです。

 そう思って司令官さんの方を見ると……

 

「青葉が良ければ、行ってきてもいいんじゃないかな」

 まさかの了承されてしまいました。あまりに意外なことで、戸惑うのも忘れて硬直してしまいます。

 

「……はっ!」

 

 一拍おいて我に返ります。

 青葉さえよければと言いますが、いいわけないじゃないですか。嫌ですよ。だけども相手は海上自衛隊の幹部の人。ストレートに拒否を伝えるのは憚られます。あ、もしかして司令官さんも上位者だから強く言えないだけで……、

 

 思いかけて、違和感を覚えました。それなら鎮守府で黒沢一尉がしていたナンパまがいのことも注意できなかったはずです。だけども今回それをしないってことは……。

 青葉の心にモヤモヤが立ち込めました。

 

「どうでしょうか?」

 

 再度問いかけてくる黒沢一尉。

 ここは何としてでも当たり障りのない言い訳を探さなければと脳をフル回転。

 

「あ、勤務……! 勤務がありますから!」

 

 食い気味に答えます。青葉の仕事は広報活動。そのため多くの人が休日である日が逆に働き時だったりします。

 黒沢一尉は幕僚勤務ですのでシフト制ではなく日勤のはず。つまりは休みもカレンダー通り。

 となれば青葉とは休みが合わないはずです。本当はシフト制になるのはイベント事があるときで、通常は土日もお休みなことが多いですが、そこは黙っておきます。

 

 よし、これならさりげなく断ることができたでしょう。

 そう思っていたはずだったのですが。

 

「勤務交代しようか? それとも年次休暇を使ってもいいよ。余裕はあるはずだし」

 司令官さんが言いました。まさかの味方に背後から撃たれたような気分。その発言の意図が、青葉には全く分かりません。青葉の混乱はさらに悪化。

 

 少なくともこれで完全に退路は断たれてしまいました。

 青葉がとることができる選択肢は一つ。

 

「……はい、わかりました」

 

 ただ、頷くことだけ。必死に平静を保とうとしますが、表情が今にも曇ってしまいそう。

 

「それはよかった。日程に関しては後で伝えますね」

 

 嬉しそうにニコニコしながら、黒沢一尉は車に乗り込みました。その様子を敬礼しながら見送る青葉と司令官さん。だけども青葉は全く心が入りません。

 

 車が完全に見えなくなった後、青葉は司令官さんの方を見ます。未だ感情の読み取れない表情。

 

「ボクたちも帰ろうか」

 

 優しい言葉遣い。だけども青葉にはどこか悲しく感じてしまいます。

 ……どうして?

 その言葉を言おうとして、でも言うことができません。

 

 聞いてしまったら、青葉の心が耐えられなくなってしまいそうだから。

 ただ静かに差し出された手を取ります。黒沢一尉よりも硬く、がっしりとした男の人の手。そのぬくもりが一番のはずなのに、今の青葉には少し、痛かったです。

 

 

 

「ちょっと、どういうつもりよ!」

 

 広報室に霞さんの怒号が響き渡ります。相手は司令官さん。

 黒沢一尉への鎮守府案内が終わり、広報室に帰った青葉たち。そこで事の顛末を話した結果がこれでした。

 

「対応は問題なく終わったけど……?」

 

「そういうことじゃなくて!」

 

 キョトンとする司令官さんに、霞さんはより眉間にシワを寄せます。

 

「その黒沢一尉? ……っていう人が、青葉をナンパしておいて、なんで黙って見ているだけなのよ!」

 

「そうそう、青葉ちゃん取られちゃうかもよ? チョロいんだからさ」

 

 那珂さんまで加わって司令官さんを問い詰めています。

 

 未だ実感のわかない青葉に代わって感情を発露しているお二人。いえ、青葉はチョロくないですよ、決して。心の中できっぱりと否定します。

 

「取られるもなにも、ボクと青葉はそういう関係じゃないから」

 

 冷静に返答する司令官さん。確かに青葉と司令官さんは特別な感情は抱いていても、特別な関係ではありません。だけど……

 

「だけど……!」

 

 霞さんが何かを言おうとして、司令官さんが遮ります。

 

「それなら、ボクが口をはさむことはできないよ」

 

「~~~~~~~~~~~っ!」

 

 大きく見開かれる目。霞さんが何かを言いたそうに、でも息を飲みます。まるで爆発寸前の感情を必死に抑え込んでいるような表情。

 

 確かに司令官さんの言うことは正しいです。だけど青葉は……口をはさんでほしかった。そう思ってしまうのは、わがままでしょうか。

 

「もう……いいわ!」

 

 押し殺したように、だけど少し感情が漏れてしまった言葉を残して、霞さんは司令官さんに対してそっぽを向きます。那珂さんにいたっては舌をべーっと出していました。

 

 そんな彼女たちに司令官さんは何も言いません。ただ、いつも通り微笑みかけているだけ。でもなんだかちょっぴり申し訳なさそう。そんな複雑な表情を浮かべていました。

 

「ごめん、今日は早く上がらせてもらうね。報告資料は明日作るから」

 

 そう言って司令官さんは荷物を持って広報室を出ていきました。その様子は少し急いでいる……というよりは慌てた感じ。

 バタンと扉の閉まる音。落ち着かない静かさに包まれた広報室。

 

「……ん、もうっ!」

 

 霞さんが感情に任せてゴミ箱を蹴飛ばします。カランカランと転がるゴミ箱と、散乱するゴミ。

 霞さんは感情が落ち着いたのか、大きく息を吐いた後、自分で散乱したゴミをゴミ箱に戻します。

 

「……で、あんたはいいの?」

 

 霞さんの矛先が、今度は青葉に向きました。とても鋭い目つき。それだけで心が委縮してしまいそう。

 

「え、あ……はい」

 

 視線を泳がせながら青葉は答えます。よくはないです。ないですけど……そうとしか答えることができません。

 

「他所の鎮守府の子に聞いたけど、あの人かなり女の子にだらしないって噂だよ?」

 

 那珂さんが顔をしかめて警告を口にします。……ええ、知ってます。散々目にしてきたので。

 

「青葉さん。もし本当に嫌でしたら、今からでもきちんとお断りすれば……」

 

 それまで静観していた鹿島さんが進言します。皆さん、本当に青葉を心配してくれているようで、青葉は幸せ者なんだなと実感しました。だけど……

 

「大丈夫です」

 

 青葉は答えます。なぜと言わんばかりの表情をする皆さん。

 だって、青葉が断ってしまったら黒沢一尉はきっと、ものすごく寂しそうな表情をしてしまう。……何となくですがそんな気がするのです。

 

 ただ、そのことを上手く言葉にできず、ぎこちない微笑みで返すだけ。

 それでも鳳翔さんは何かを感じ取ってくれた様子。

 

「それなら仕方ないわね。それがきっと青葉ちゃんの良さでもあるんだから」

 

 その言葉で皆さんも察してくれたようで、苦笑を浮かべたり、やれやれと肩をすくめていました。

 

「お人よしですね。でも、わかる気がします」

 

 頷く鹿島さん。

 

「まったく……仕方ないんだから」

 

 呆れ半分な気持ちが込められた苦笑を浮かべる霞さん。でも先ほどまでの厳しい感情は、その表情から感じられませんでした。やっぱり、ここの人たちはとても温かいです。

 

「でも、気をつけなさいよ」

 

 霞さんは付け加えます。

 

「そうだよ、青葉ちゃんはチョロいんだから」

 

 ……だから、青葉はチョロくありませんって、那珂さん。

 そんな青葉たちの様子を微笑ましそうに見ている鹿島さんと鳳翔さん。よかった、さっきまでの嫌な雰囲気はなくなったみたいですね。

 

 そう、青葉がホッとしていると、

 

「それにしても、あの室長は本当になんなの?」

 

 霞さんがぶり返してしまいます。吐き捨てるような口調。本人に悪気がないとわかっていても、心が苦しくなってしまいます。それは、司令官さんを悪く言われたからなのか、それとも青葉も心のどこかで彼女の言葉を同意してしまっているからなのか……。

 

「よく愛想つかさないわね」

 

 霞さんが言いました。愛想も何も、青葉はお付き合いすらできていませんけどね。

 

「実際どこがいいのか那珂ちゃん気になるな」

 

 ……おや、なんだか雲行きが変な方向に言った気がします。

 

「あ、それは私も気になります。室長さんのどこがお好きなんですか?」

 

「え、ちょ……」

 

 鹿島さんまで! 普段落ち着いていると思っていましたが、もしかして色恋話はお好きなのでしょうか……?

 

「そうそう、こうなったら飲みに行きましょう。そこで根掘り葉掘り聞かせてもらうわよ」

 

「えっ、えっ。えっ…」

 

 霞さんに捕まれ、引きづずられる青葉。他の皆さんもご一緒にぞろぞろとついてきます。完全に青葉の話を肴にする気満々な、青葉もビックリの好奇心。

 

 だけどもそんなやり取りがなんだかおかしくて、クスリと笑ってしまいます。

 それまで胸の中でモヤモヤとしていた思いが、今はどこかに隠れてしまっていました。

 

「……皆さん、ありがとうございます」

 

 青葉は小さな声で、だけどもハッキリと呟きました。

 

 ふと、道中にて鳳翔さんがボソッと青葉の耳元で囁きます。

 

「きっと室長も青葉ちゃんのこと想っているはずよ。だけども今は色々な思いを抱えているのかもしれないわね……。ふふ、男の人って案外素直じゃないから」

 

 その言葉の意味が、青葉にはわかりませんでした。だけど鳳翔さんの言葉通りだったらいいなという思いは、確かにありました。

 

 

 

 黒沢一尉への鎮守府案内が終わった数日後、正式に彼とデートをすることになりました。場所は青葉の住む街。向こうから来ていただけるようです。

 

 その当日、青葉は駅の改札近くで柱に背を預けます。

 今はお昼を少し過ぎたあたり。改札では多くの人が行き来していますが、休日ということもあって私服の人を多く見かけます。それでも中にはスーツを着た人がいて、休日出勤お疲れ様ですと、心の中で。同時に、広報室のことを思います。

 

「なんか、青葉だけ休んでしまって申し訳ない気持ちになってしまいますね」

 

 休日ですが広報室の皆さんはお仕事です。もちろん司令官さんも。

 あれから司令官さんとはあまりお話しすることができませんでした。あったとしても事務的なやり取りが精々。

 すごく、寂しい気持ちに包まれたこの数日間。心に穴が開いたとはこういうことかと実感しました。その隙間に容赦なく入り込んでくる群青が、すごく苦しい毎日。

 

「おかげで寝不足だよ」

 

 大きなあくびを一つ。もっとも、その一番の原因は今日のデートですが。

 言うまでもなく乗り気はしません。それでもぞんざいに終わらせていいものでもないです。慣れないメイクとおしゃれに悩んだせいで、始まる前からクタクタ。

 もしこれが司令官さんとのデートだったらと考えると、きっと悩むのも楽しみの一つだったのかもしれませんが……。 

 

「あ、思い出したらまた悲しくなってきちゃう」

 

 頭をぶんぶんと左右に振って考えないようにします。それでも表情がどうしても暗くなってしまいそうで……、

 

「お待たせしました青葉さん」

 

 そんな時にタイミングよく改札の向こう側から黒沢一尉がやってきました。先日の制服姿ではなく、シャツにロングパンツのラフな私服姿。アクセサリーや耳のピアスも相まってよりチャラく見えますが、それが似合ってしまっています。

 

「あ、いえ。ぜんぜん。青葉も今来たところですから」

 

「それはよかった。とっても……お似合いですよ」

 

 視線を青葉のつま先から頭のてんっぺんまで一瞬にして、滑らすように移しながら黒沢一尉はお世辞を述べます。わかっていても言われると嬉しいですが、ちょっと照れくさいですね。

 

 メイクで血色をよく見せた頬が少しだけ赤くなります。

 

「ここにいては通行人の邪魔になりますから……、あー……」

 

 言いかけて、黒沢一尉は言いよどみます。何かあったのでしょうか?

 

 何度か青葉と虚空に視線を行ったり来たりさせた後、コホンと咳払い。

 

「敬語、やめてもいいですか?」

 

 まるで喫煙許可を得るかのような、申し訳なさそう口調での申し出。

 

「はい、青葉は構いませんが」

 

「それはよかった。いや、敬語って苦手なんだよね」

 

 青葉がうなずくと同時に、大きく息を吐いて肩を脱力させた黒沢一尉。その言葉遣いも崩れます。確かに、そのチャラい見た目で敬語っていうのはなんか違和感がありましたから、こっちの方が自然体なのでしょう。

 

「それにしても青葉ちゃんが応じてくれてよかったよ。たまにの出張、女の子と遊ばないともったいないからね」

 

 いきなりちゃん付けで呼ばれ、青葉は内心うわぁ……と引きます。顔に、出ていないでしょうか?

 そしてわかってはいましたがこの軽薄な発言。青葉は早速このデートに応じてしまったことを後悔します。

 そんな青葉の内心なんて全く知るはずもなく、黒沢一尉はマイペースに話を進めていきました。

 

「ここで立っているだけじゃもったいないし、行こうか。あ、場所についてはこっちで勝手にあたりをつけているけど、行きたいところとかあったら言っていいから」

 

 黒沢一尉に先導されて、青葉のデートは始まってしまいました。

 今日の天気は曇り。まるで青葉の心模様。

 

 行きたいところがあればと言われましたが、そう思えるところが今の青葉には思いつきません。黒沢一尉に連れられるまま歩いていきます。

 

 そんな青葉たちが最初に訪れたのは駅近くにあるアーケード街です。てっきり怪しいネオンの建物にでも連れ込まれると思っていただけに、少し意外でした。

 

 だいぶ寂れてしまってはいますが、そこにいる人々の活気は全く衰えている様子のない場所。

 

「いやぁ、一度来てみたかったんだよね」

 

 楽しそうな笑顔を浮かべながら黒沢一尉はアーケード街を散策しています。まるで異国の地に遊びに来た子供のように。興味の対象があっちこっちに移りかわり、その度に興奮したように歓声をあげていました。

 

 その様子もまた、青葉の中では意外でした。

 

「そうなんですか? なんでまた……?」

 

 青葉は思わず尋ねてしまいます。どこにでもあるようなアーケード街だと思いますし、何より黒沢一尉のいる幕僚は都会。ここよりももっと魅力的な物はたくさんあるでしょうに。

 

「ここ出身の人から話を聞くことが多くてさ、興味があったんだよね」

 

 そう説明する黒沢一尉。きっと彼の部隊の人がここの出身なんですね。だとするとその人はよっぽど宣伝上手なんだろうなと、青葉は心の中で感心します。

だってここ、本当に華やかさがない街ですから。だけどそんな静かさが、青葉は好きだったりします。

 

「そうだったんですね。来てみた感想としてはどうでした?」

 

「楽しいよ。特にここにいる人がこの場所を好いているっていうのがよくわかるし」

 

 その回答はもっと意外でした。なんだか司令官さんみたいなことを言うなと、思ってしまいます。もしかして根は案外近いのかも。そんな印象を心のどこかで抱きました。

 

「あ、あそこのやつ美味しそうじゃない? 食べ歩きしよ」

 

 そう言って食べ物が売っている屋台に駆け寄る黒沢一尉。その子供っぽい振る舞いに、先ほどの考えは気のせいだったと思いなおす青葉。司令官さんはあそこまで子供っぽくないですからね。

 

 それから青葉たちは再びアーケード街を歩きました。お店をあちこち見て回ります。

一緒に行動していて感じたのですが、黒沢一尉はすごく女性の扱いが上手いです。伊達にチャラい見た目をしていないですね。自分が一方的に喋っているように見えて、巧妙に青葉から言葉を引き出してきます。

 

「……それでですね、司令官さんってばいつもは優しくニコニコしているのに、時々すっごいイジワルになるんですよ! ……あ、ごめんなさい。青葉ばっかり」

 

 それどころか気づけば青葉の方がしゃべりすぎているくらい。それを楽しそうな表情で的確に言葉を返してくるので

 

「いやいや続けて。青葉ちゃんが楽しそうに話しているの、俺は好きだから」

 

 それでいて結構、紳士的なところがあるのです。何かと青葉を優先するような言動。今している食べ歩きも、青葉の視線が長く注視している物を買ってくるという、なかなかできる芸当ではないですよ。

 

 なるほど、こんなものを見せられては世の女性は彼に対して良い印象を抱かざるを得ません。実際に青葉も、気づけばいつのまにかこのデートを楽しんでいました。

 

「これとか似合うんじゃないですか?」

 

 通りにポツンとあった帽子屋。人の良さそうなおばあちゃんが店番をしています。気まぐれに入ったそこで、黒沢一尉に似合いそうな帽子を選びます。買うつもりは一切ない、ウインドウショッピングの延長、ただの戯れ。

 

「もう少し派手な方がいいけどな」

 

 青葉が選んだものと、自分が選んだものを交互に被る黒沢一尉。彼が選んだものは青葉が選んだものより明るい色。飾りも大きく派手です。似合ってはいますが、なんだか青葉の中とイメージが合いません。そちらはむしろ司令官さんの方がよく似合いそうです。

 

「えーそうですか? 青葉のイメージはこっちですが」

 

「そう? ならこっちにするよ」

 

 そう言って黒沢一尉は青葉が選んだ方の帽子を持って会計に向かいます。

 

「え、買うんですか? 見るだけかと思っていたのですが」

 

 思わず呼び止めて聞いてしまいました。青葉としてはてっきり買う気はなかったと思っていたのですが……。

 

「見ているつもりだったけどね。だけど青葉ちゃんが選んでくれたものだから、記念に買うことにしたよ」

 

 そう言って何のためらいもなく黒沢一尉は会計を済ませてしまいました。

ちなみに、ちらりと見た値段については、知っていたら絶対に勧めない額のものでした。黒沢一尉が買わなかった方を、司令官さんのプレゼントに買っていこうかなと思っていましたが、青葉のお財布事情では無理そうです。

 

 それから黒沢一尉には、無意識で高価なものを選んでごめんなさいと心の中で謝罪しますが、当の本人は全く気にしない様子。それどころか。

 

「お礼に、今度は俺が青葉ちゃんに似合うものを選ぶよ。帽子がいい? それともアクセサリー?」

 

 なんて気前のよすぎることを言ってきます。

 その申し出があまりに恐れ多くて、青葉は反射的に首を左右にブンブン振って拒否を示してしまいました。

 

「いえ、大丈夫ですから」

 

「そんな遠慮しなくていいって。どうせ給料なんかほとんど使い道無いんだから」

 

 ニコニコとする黒沢一尉。自衛官の給与がどれほどかはわかりませんが、司令官さんのお給料は幹部の階級でありながら特別高いというわけではありませんでした。日々の買い物ですら結構悩んでいるのを青葉は知っています。

 対して黒沢一尉は全く躊躇う様子も見せません。羽振りがいいのか、それとも本当に使い道がないのか。

 いずれにしても、青葉は彼の好意に甘えることができませんでした。

 

「本当に大丈夫です。青葉にはこれで十分ですから」

 

 そう言って、首から下げた指輪のネックレスに触れます。司令官さんからもらった大切な物。二人の心の証です。

 それを見た黒沢一尉。一瞬、ほんの一瞬だけ顔をしかめて、だけどすぐさま微笑みます。

 

「それなら仕方がないか。だけど遠慮なく言ってくれていいからね」

 

「大丈夫です。それに、青葉の分は他の女の子に使ってください」

 

「おいおい、俺がそんなどんな女の子にも甘いように見える?」

 

「はい、すっごく」

 

「あはは、こりゃ手厳しい」

 

 黒沢一尉は苦笑します。つられて青葉も笑います。

 気づけば彼に対してだいぶ打ち解けていました。それこそ今のような冗談をぶつけ合うやり取りをする程度には。

 

 これには青葉自身が驚きです。こんなにも早く砕けた会話ができるようになるとは思ってはいませんでした。司令官さんの時はだいぶかかりましたのに……。

 

 これが、黒沢一尉の魅力なのかもしれません。司令官さんにはない、相手の心を開かせる眩さ。

 一方でその眩さが青葉の心に影を落とします。

 

「よし、次に行こう。次」

 

 黒沢一尉は青葉の手を取り引っ張ります。司令官さん以外の男の人に手を握られることは初めて……。だけどそこには嫌な気持ちがなくて……、だからこそそんな自分が嫌でした。

 

 青葉は司令官さんのことが大好きです。だけど黒沢一尉に対して抱いている感情が、なんだか司令官さんに対して抱いている物と酷似しているような気がしてなりません。

 

 それを自覚してしまうことが……たまらなく怖いです。なんだか青葉が青葉じゃなくなってしまうような気がして……。

 心が群青に沈んでしまいそう。

 

「……どうしたの? 気分でも悪い?」

 

 黒沢一尉が青葉の顔を覗き込みます。よほどひどい顔をしていたようです。青葉は慌てて取り繕うように心から出た言葉で言い訳します。

 

「いえ、今日は青葉だけお休みを貰って悪いので、司令官さんたちにお土産でも買っていこうかな~って」

 

 黒沢一尉はしばしジッと青葉の目を見つめます。キラキラと純粋な、子供のような瞳。ドキリとしてしまうような輝き。そんな眼差しに対して嘘を吐いてしまった罪悪感。

 

「それもそうだね。じゃあ後で買いにいこうか。それと次に行くところは高いとこだけど、高所恐怖症とかない?」

 

 ひとまず納得してくれたようです。ホッと安堵。同時に、黒沢一尉の問いに頷いて答えます。彼の口ぶりから、どこに行きたいのかは容易に想像がつきました。

 

 そして青葉の予想通り、次に訪れたのは駅のそばにある商業ビルの展望スペース。日の出が長い八月ですが、そろそろ太陽も赤く染まって地平線に沈むころ。曇ってはいますが、雲の隙間から差し込む日差しがこの展望スペースを茜色に染まります。

 

 この景色を司令官さんと見れたらな。なんてことを考えながらぼんやりと窓の向こうを眺めます。

 

「いい景色だね」

 

 息を吐きながら黒沢一尉が呟きました。じんわりと心に染みていくような声音。郷愁を感じさせる表情で、展望窓の外を、街を眺めます。

 

 そんな彼の反応に、青葉は意外だと本日何度目かの驚きを感じます。

 どうやらそれが表情に出てしまっていたようで、黒沢一尉はニヤリ。

 

「以外に思った?」

 

「ええ……はい」

 

 青葉は素直に頷きます。

 

「てっきりもっと派手なところがお好きだと思っていたので」

 

「青葉ちゃんの思う派手が分からないけれど、俺はこういった落ち着いた場所は好きだよ。なにより……」

 

 言葉を区切り、黒沢一尉はもう一度視線を街に。

 

「こうやって直接街を感じられるのが一番好きだな。愛しさすら覚えるよ」

 

 その表情が……夕焼けに照らされた顔があまりにもステキで、思わず見とれてしまいました。

 ボーっと彼の顔を見つめる青葉。黒沢一尉が青葉の方を向きます。目が……合いました。

 

「惚れちゃった?」

「……そ、そんなわけありません!」

 

 ハッとなって慌てて否定します。だけどこの頬の色は、果たして夕焼けの赤で誤魔化せているのでしょうか。

 

 ニヤニヤと笑う黒沢一尉に、青葉はプイっとそっぽを向きます。それを笑う黒沢一尉。

 とても温かなやり取り。それと同時に青葉は絶望しました。

 ほんの僅かな間とはいえ、青葉の心に司令官さんが存在していなかったのです。代わりにいたのは黒沢一尉。

 その事実があまりに青葉の心を群青に沈めようとしてきます。自分の薄情さに反吐が出そうになってしまいます。

 

「顔色が悪いよ? 本当に大丈夫?」

 

 心配そうに顔を覗き込んでくる黒沢一尉。

 大丈夫だと言いたかったです。だけど今の青葉にはそれすら言うことができず……

 

「ごめんなさい、ちょっとトイレに……」

 

 そうとだけ言い残してトイレに駆け込みます。

 個室に入り、鍵を閉め、扉にもたれかかりました。

 

「最低ですね……」

 

 思わずこぼれた自責の言葉。嫌な感情がぐるぐると心の中でかき混ぜられていきます。

 青葉が好きなのは司令官さんです。それは変わらない……はずです。それなのに、どうして黒沢一尉の言動にドギマギしてしまうのでしょうか。彼に魅力を感じてしまうのでしょうか。

 

 そして司令官さんが黒沢一尉とのデートに何も言わなかったという事実が、今になって再び青葉の心に重くのしかかってきました。

 

 その時の司令官さんがどういう感情だったのかわかりません。わからないからこそ、青葉は怖いんです。

 実はもう、司令官さんの想いは薄れしまっているのかも。青葉がいつまでも応えられないせいで。

 

「……う」

 

 自責と不安とネガティブが混ざり合い、群青のポタージュとなって溢れます。心を飲み込みます。それが、涙となって頬を伝いました。

 

「だめ……! メイク、崩れちゃうから」

 

 必死にぬぐおうとして、余計に溢れてきて。青葉の顔は、心はもうグチャグチャ

 こんな時司令官さんがいたらどうしていたでしょうか。思わず考えてしまします。

 だけど今ここにいるのは黒沢一尉で……。それがたまらなく寂しくて……。

 

「ぁ……、ぁあ……」

 

 嗚咽が漏れます。

 心に空虚な隙間が空いて、そこに容赦なく入り込んでくる暗やみ。

 フラッシュバックする、司令官さんの暗い表情。青葉とは関係のないことのはずなのに、それが今の状況と重なって……。

 

「が……ぁ、はぁっ」

 

 お腹の奥底から不快感の塊が沸き上がり、たまらず便器の中に吐き出します。

 

「うぇ……ごほっ、ぁ、ぇ……」

 

 えづきが止まりません。なんども、何度も吐き出します。

 胃の中を全部、胃液まで吐ききったところでようやく気持ちが落ち着きました。それと同時に我に返ります。

 

「あ、服! ……よかった。汚れてない」

 

 ホッと安堵。奇跡的に服は吐しゃ物で汚れることはありませんでした。だけど顔の方は……。

 

 「これはちょっと、難しいですね」

 

 便器の水を流し個室を出ます。手洗い場の鏡で自分の顔を見たとき、思わず苦笑してしまいました。

 涙で崩れたメイクで顔はグチャグチャ。まるでピエロのようです。

 こんな顔のまま戻るわけにもいきません。慌ててメイクを直そうとしますが、普段やり慣れていないこともあってだいぶ苦戦してしまいました。

 

「……こればっかりは、どうしようもないか」

 

 どうにか直すことができましたが、涙で赤くはれた目元を隠すことはできませんでした。

 だけどいつまでも待たせるわけにもいかず、諦めてトイレから出ます。

 

「おかえり。本当に大丈夫?」

 

 そう問いかける黒沢一尉の表情は嫌な雰囲気を全く見せず、心の底から心配しているもの。それが嬉しくもあり、苦しくもあります。

 

「はい、ちょっと調子が良くなかったみたいですけど、きっとお腹が空いてしまったんですね」

 

 なんて適当なことを言っても誤魔化せるはずがありません。何より目元の腫れを見て、彼が何も感じないということは、ないでしょう。不審に思うのが普通です。

 

 それなのに黒沢一尉は何も触れませんでした。ただ、

 

「そうだね。時間もいいころだし飯でも食いに行こっか」

 

 そうとだけ言いました。

 本当に彼は見た目の印象に反してとても優しいです。そんな彼に対して返せるのは、歪な笑顔だけ。

 

 展望スペースを降りるエレベーターに乗った彼に、青葉はついて行きます。

 どんなに表面上平静を装っても、心はもう、クタクタに疲れ切っていました。今はとにかく司令官さんが恋しい。そんな思いでいっぱいです。

 

 同時に、その恋しいは自分の中にある不安から逃げるためだということに、たまらなく自己嫌悪に陥ります。

 だけど美味しいものを食べれば少しは元気が湧いてきてしまう。ちょっとだけポジティブになれる。そんなゲンキンな自分が嫌になってしまいます。

 

「うん、うまい」

 

 黒沢一尉がモグモグと口を動かします。

 展望スペースのあった商業ビルの二階。レストランフロアの一店舗で青葉たちは夕食を食べています。ちょっとお値段ははりますが、街でも有名なレストラン。目の前のお肉に青葉の気持ちは少し晴れます。

 

 パクリと一口噛めば広がる肉汁。香ばしさと甘さの混ざった美味しさが口の中を包みます。少し、心に幸せが戻った気がしました。

 

「確かに、美味しいですね。食べるだけで笑顔になれるって、すごくステキなことですよね」

 

「そうだね。それに何より酒が旨い」

 

 そう言って黒沢一尉はがぶがぶとお酒を飲みます。その光景を見て思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう青葉。

 

 青葉も本当のところは飲みたいです、お酒。だけど飲んでしまったら最後、何をされるか分かりません。……とはいったものの、本当に何かされるとは思えなかったです。

 

 そう、思ってしまうほど今日一日で黒沢一尉のことを知りました。感じました。

 見た目は確かにチャラいですけども、とてもいい人なんだと、優しい人だということを、魅力的な人だということを。

 

「青葉ちゃんは飲まないの?」

 

 だけども飲んでしまったらもう、青葉はきっと自分の心に耐えられなくなってしまうから。

 

「青葉、お酒には弱いので」

 

「そっか。もし酔ったら俺が介抱してあげるけど?」

 

「それでも、です。ご迷惑をかけるわけにはいきませんので」

 

「まじめだなぁ。まあ、そんな真面目な青葉ちゃん、俺は好きだけどね」

 

 サラリと好意を伝えられて、青葉の心はドキリとしてしまいました。苦しいのに、顔が赤くなってしまいます。そんなまんざらでもない自分にまた、嫌気がさす。

 

「そ、そんなこと言われても困ります」

 

 うつむいて否定しますが、酔っているせいか黒沢一尉の軽口は止まりません。

 

「いやいや本当に。明るいし気遣いできるし楽しいしで、一緒にいたいと思えちゃうよ。こんな子が彼女だったらな~ って考えちゃうくらい」

 

「えっと、その……」

 

 これは、告白なのでしょうか。まるで雑談をするかのように言われたその言葉がどこまで本気なのかは分かりません。でも、今の青葉は嫌でも意識させられてしまいます。

 

「本当……」

 

 黒沢一尉の言葉は続きます。次はどんなことを言って青葉の心を乱してくるのでしょう。そしてそれに喜んでしまう軽薄な青葉は、どれほど自分のことが嫌いになってしまうのでしょうか。そんな思いが胸の中でぐるぐると渦巻きます。

 

「……付きに欲しいくらいだよ」

 

「え?」

 

 それまでとはうって変わって真面目なトーン。青葉はその言葉の意味を理解するのに時間がかかりました。

 

「付きって……?」

 

「簡単に言うと秘書だね。俺のいる部隊で、秘書をやってほしいってこと」

 

「それってつまり、青葉をスカウトということですか?」

 

「そうなるね」

 

「それじゃあ広報室からは……移籍ということになるのですか?」

 

 何を当たり前のことをと思われるかもしれませんが、それほど青葉にとって重要なことなのです。

 もし青葉が黒沢一尉の付きに……秘書になってしまったら海上自衛隊の所属になります。それはつまり、鎮守府とは、広報室とは、なにより司令官さんと離れてしまうということ。

 

「どうかな? キャリア的にも将来的にも悪い話じゃないと思うよ? 何より俺はすごくキミを大事にする」

 

 ニコニコと笑顔で勧めてくる黒沢一尉。

 青葉の心は決まっています。嫌だ。だけどその言葉が、すぐに言い出すことができませんでした。

 

 シト、シト。窓の外に視線を向ければ雨が降ってきました。雫が窓ガラスに当たり爆ぜます、伝って下へと落ちていきます。

 

 青葉は広報室から離れたくはありません。そもそも出世とかに興味があるわけではないです。

 だけども黒沢一尉の言葉が、表情が青葉を必要としている気持ちが本当だということが伝わってきてしまったのです。どこまでも真面目な眼差しで。

 

 そんな彼の想いを無下にしてしまうのは、とても心苦しいです。

 他の人からしたら、愚かな考えなのかもしれません。悩む必要なんかないことなのかもしれません。ただ、自分の想いを伝えるだけ。

 

 だけども青葉はこんなことでも後ろめたさを感じてしまい、ジレンマを抱えてしまうほど。想いを伝えることができないほど弱っちい存在。だからずっと司令官さんの想いにも応えられないんです。

 心の中で自嘲を浮かべました。

 そんな単純が幾重にも重なって複雑な感情のミルフィーユのせいで、青葉は何も言うことができず黙ってしまいます。

 

「無理にとは言わないけども、でも考えておいてくれると嬉しいな」

 

 優しい口調の黒沢一尉。それがまた、青葉の心を惑わせてしまう。

 結局返答ができないまま夕食は終り。食べ物の味はほとんど分かりませんでした。

 そんな残念な気持ちなままレストランを出ます。

 

「あー、雨降ってるね。雨宿りに二件目行かない? それともどこかで休憩する?」

 

 そう誘ってくる黒沢一尉。言葉こそ下心たっぷりの最低なものですが、彼の真意はすごく真面目であることが、わかってしまいます。

 

 だからこそ青葉はすぐに答えられません。付きの話も合わさり、青葉の心はすっかり外のように土砂降りです。心が、寒いです。

 

 ふと、この人なら青葉の心を温めてくれるでしょうか。そんな最低な考えすらよぎってしまいます。

 嫌なのに……。青葉には司令官さんだけなのに……。それをはっきりと口にできないでいる自分……。

 

「そうですね……」

 

 青葉は思わせぶりな仕草をとって、彼の様子を伺いました。

 会ったときよりも近い距離間。少し身をよじればお互いの身体を、温もりを感じてしまえそう。

 そんな甘い誘惑。夜に咲く花のような心の隙間を満たしてくれるような華やかさ。

 

「君を絶対、悲しませたりしないよ」

 

 優しい言葉が耳元でささやかれます。思考が痺れるような感覚。この涙の雨が止むのなら。

 

「それなら……」

 

 青葉はゆっくりと唇を動かし、出した返答は……。

 

「やあ。邪魔しちゃ悪いかもだけど、届け物に来たよ」

 

「司令官さん!」

 

 商業ビルの出口、傘をさしてそこにいたのは司令官さんでした。傘を持つ手にはもう一本、閉じた傘を持っています。

 青葉は驚きのあまり反射的に黒沢一尉との距離を取ります。

 

「どうしてここに?」

 

 青葉は叫ぶように聞きました。今日の青葉の行動は全く伝えていなかったはずですのに、どうして場所が分かったのでしょう。

 

「なんとなく……かな」

 

 何の根拠もないという司令官さん。青葉は言葉を失ってしまいます。司令官さんの恰好は仕事着であるスーツ姿。仕事後に来たということが伺えました。

 

「部下のお迎えとは、なかなか真面目な上司ですね。しかしいささか過保護すぎではないでしょうか?」

 

 黒沢一尉が言いました。猫を被った敬語。しかし言葉の端々に明確なトゲが見えました。

 そんな彼の挑発に司令官さんはどんな言葉で返したかと言えば……。

 

「迎え? ただ忘れ物を届けに来ただけですよ。傘を。青葉が濡れて風邪をひかれては困りますから」

 

 そう言って司令官さんは青葉に傘を手渡します。

 

「え、え……?」

 

 状況が分からず受け取る青葉。そうして司令官さんは踵を返すと、

 

「それではこれで」

 

 そう言って帰ってしまおうとしていました。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 思わず青葉は呼び止めます。あまりに予想外すぎる展開。混乱しっぱなしの青葉は司令官さんに詰め寄りました。

 

「本当に傘を渡しに来ただけなんですか?」

 

「そうだよ。風邪ひかないようにね」

 

 青葉の問いに、平然と答えます。先ほどまでの黒沢一尉とのやり取りだって見えていたはずなのに……怒っているのでしょうか?

 それにしては言動が穏やかすぎました。ということはつまり、やっぱり司令官さんは青葉のことなんて……。

 再び寂しいが泡となって心に浮かび上がってきます。途端に司令官さんとの距離が遠くに感じてしまいます。

 

「もう……群青は一緒に超えてくれないのですか……?」

 

 消えてしまいそうな呟き。かつて言われたプロポーズの言葉が、青葉の中で悲しく反響。

 青葉がいつまでも答えられなかったせいなのですか?

 

 にじむ涙。ぼやける視界で、冷たい司令官さんの背中を見送ります。

 ぼんやりとただただ見つめる中、ふと司令官さんのズボンの裾が目に入ります。ずぶ濡れで、だいぶこの雨の中を歩いたことが分かります。加えて傘をさしているはずなのに、背中がやけに濡れていました。

 

 もしかして、ずっと探していたのでしょうか。

 そんな考えが青葉の中によぎります。だけどもその思考を邪魔してくる黒沢一尉。

 

「さ、あんな人なんか放っておいて、俺たちも行こうか。青葉ちゃんにはあんな冷たい人と一緒より、俺の方がいいよ」

 

 なおも甘い囁きを漂わせる黒沢一尉。でもその言葉を聞いた瞬間、スッと青葉の心をまるで引き潮のような静けさが支配します。その言葉は……聞き捨てなりません。青葉の大切な人を、そのように言わないでください。

黒沢一尉に対し、初めて芽生えた明確な拒絶。心が冷静になると同時に、頭の中で何かがカチリとはまりました。

 

 首から下げた指輪のネックレス。先日の司令官さんの暗い表情と隠していること。そして鳳翔さんの言葉。

 

「……男の人って、素直じゃないから」

 

 呟いて、気づきます。司令官さんが持ってきた傘が新品だということに。わざわざ傘を届けに来たというのに、広報室の共用物品ではなく新品を用意するというのはなんだか不自然。

 

 青葉は試しに開いてみます。

 

「わぁ……」

 

 思わず声を上げました。傘の中には花束がありました。正確には一面に描かれた花の模様。

 鮮やかなそれらの中で、青葉が目についた花がありました。青紫色の、小さな花。先日鳳翔さんが広報室の花瓶に飾っていたのを覚えています。名前は確かスターチス。花言葉は……

 

「変わらない心」

 

 瞬間、青葉の心が一瞬にして晴れ渡ります。なんだ、そうだったんですね。

 青葉の心が完全に決まりました。

 

「司令官さん、少し待っていてください」

 

 司令官さんに声をかけてから、心を告げるため、傘を閉じて振り向きました。

 緊張します。怖いです。だけど……これが青葉の気持ちですと、黒沢一尉の目を見て口を開きました。

 

「ごめんなさい。先ほどの話はお断りさせていただきます」

 

「理由をきいてもいい?」

 

 黒沢一尉は驚く様子もなく、冷静に問います。青葉は、彼の目を見たままキッパリと答えました。

「一緒に、いたい人がいるんです」

 

「………」

 

 確かに黒沢一尉はとても魅力的な人だと思います。だけど……

 

「ただ、優しいだけの人です。あなたのように特別カッコイイわけでも、甲斐性があるわけでもありません。でも、優しいんです。不器用ですけど、とても」

 

 一言一言、司令官さんに対する想いを浮かべながら、言葉を紡いでいきます。

 

「私と一緒にいたいと言ってくれました。そして私の心に寄り添って、隣にいてくれる人。だけどあの人もきっと色々抱えています」

 

 失ってしまった腕のこと、今はまだ話してくれない暗い表情の答え。

 

「それでも私のために、一緒に群青を超えていこうと言ってくれました。そんな人だから私は、今度は彼の支えになりたい」

 

 まだ弱っちくて、全然彼の想いに応えることができないけれども。いつかは絶対にという決意を胸に込めて。

 

「手を繋いで隣にいたい、人がいるんです」

 

 一度に言葉を吐きすぎて息が切れてしまいます。頭が酸欠でクラクラ。

 重い沈黙。十秒でしょうか? それとも一分? でも本当は一秒も経っていないかも。そんな曖昧な時間間隔。

 

「ふぅ……」

 

 黒沢一尉が大きな息を吐きます。それから見せた表情は微笑み。

 

「よっぽど、いい人なんだね青葉ちゃんの司令官は」

 

「え、いえ、司令官さんというわけでは……」

 

 まさかの相手を言い当てられるとは思わず、焦ってしまいます。

 そんな青葉を見て黒沢一尉が笑いました。

 

「さっきまでのやり取りを見せられて気づかないわけがないじゃん。それに青葉ちゃん、意識してないかもしれないけど、俺といるときもずっと司令官の話していたんだよ?」

 

 言われて、思い返してみればそんな気が……。

 ということは黒沢一尉にはずっとバレていたということでしょうか。意識して急に恥ずかしさがこみ上げてきます。

 

「これは失礼しました……」

 

 とんだ醜態を見せてしまったと、縮こまって謝罪します。何度も何度も頭をペコペコ。

 

「いいよいいよ。それじゃあ、フラれた男は帰るとしますか」

 

 苦笑を浮かべ、肩をすくめた黒沢一尉は雨の夜に消えてこうとします。

 

「待ってください」

 

 青葉は呼び止めました。

 

「これ、使ってください」

 

 そう言って差し出したのは司令官さんが持ってきた傘。特別な花ですが、青葉にはこれがなくても十分です。

 

「濡れて、風邪ひかれてはいけませんので」

 

 黒沢一尉はしばしジッと青葉の手元を見て……優しく微笑みます。

 

「どこまでも優しいね君は」

 

 そう言って傘を開き、広げます。

 

「さて、女の子でもナンパしていくかな」

 

 そう言い残して彼は夜に消えていきました。

 青葉にはその軽薄な言葉が、彼なりの優しさだということが伝わります。

 黒沢一尉がいなくなった後、青葉は司令官さんのもとに駆け寄りました。

 

「お待たせしました、司令官さん」

 

「傘、あげたんだね」

 

「はい、雨に濡れたら八月といえど寒いですから」

 

「そうだね、だからはい」

 

 司令官さんが自分のさしていた傘を青葉に差し出します。

 

「青葉が濡れたら大変だ」

 

 優しい気づかい。だけど今、青葉が望んでいるのはそれではありません。そのことに気づいてくれないことに、青葉は頬を膨らましました。

 

「もう、司令官さんは鈍いですね」

 

「……どういうこと?」

 

 わからないといった風に首を傾げられました。

 青葉は司令官さんの傘を押し返し、そして彼と一緒に傘の下に入ります。傘を持つ手を抱きしめて、身体を密着させ、端から垂れてくる雫に濡れないように。

 

「こうすれば、一緒に入れますよね」

 

 あなたの左側、あなたの心臓に一番近い位置。鼓動がわずかに伝わる気がします。トクン、トクン。落ち着くリズム。

 

「……そうだね」

 

 そう、口にする司令官さんの表情は花のように柔らかでした。思わず青葉も花のように明るい笑顔を浮かべてしまいます。

 夏の雨夜。だけどここだけはまるで春の夜のように温かでした。

 

「司令官さん、二件目行きましょうよ。青葉、お酒飲めなかったんですよ。付き合ってください」

 

「ボクは一件目だけどね。……というか、ボクお酒弱いんだけど……」

 

「知ってます。だけどこれは罰なんですから。散々青葉の心を不安にさせた。……それとお礼です。青葉のこと、迎えに来てくれた」

 

「……そんなこと言われたら喜んで」

 

「それと、司令官さんはもっと自分の心を主張してください」

 

「青葉に言われるとは思わなかった……」

 

「何ですかその表情は! そりゃあ青葉も引っ込み思案なところはありますけど……でも、司令官さんにはもっと青葉に甘えてほしいんです」

 

 強く言い放ちます。これが青葉の気持ち。青葉の変わらない思いです。

「じゃあ……」

 

 司令官さんは言葉を区切って、青葉をじっと見ます。

 

「今夜は、一緒にいてほしい」

 

 そんな不意打ちに、青葉の顔は夜闇でもわかるくらいに真っ赤になります。

 シトシトと傘を叩く雨のリズムが、高鳴る青葉の鼓動と同じでした。

 

 

 

「おはよう、昨日はどうだったかしら?」

 

 そう言ったのは霞さん。

 次の日、広報室で青葉は皆さんに取り囲まれています。まるで尋問でもされているかのような気分。緊張で冷や汗が垂れてきます。

 

 だけども一方の皆さんは妙に笑顔。というかニヤニヤとした笑みでなんだか気持ち悪いです。

 

「そんなの聞くまでもないんじゃない?」

 

「そうね、同伴出勤までしてきたんだから」

 

 那珂さんの言葉に霞さんはイジワルそうな笑顔を浮かべます。

 

「ど、同伴出勤なんかじゃないです! た、たまたま一緒になっただけですって」

 

 必死に否定しますが、皆さんの生暖かい眼差しは変わらないまま。……うぅ、信じてもらえません。いやまあ、その通りなんですけど。

 

 ちなみに司令官さんは課業前なのに仕事を始めています。はい、いつも通りです。

 どうやって青葉が言い訳しようかと頭を必死に働かせている傍ら、皆さんはお話を勝手に進めます。

 

「まあ、いらない心配だったのかもしれないわね」

 

「そうですね」

 

 クスクスと笑う鹿島さん。何やら含みがあり、思わせぶりです。

 どういうことでしょうかと青葉が首をかしげると、彼女は一瞬チラリと司令官さんに視線を向けると、

 

「室長さん、昨日ずっとそわそわしていたんですよ。珍しく仕事が手につかないようで」

 

「そうそう、雨が降ってきたらこれだと言わんばかりに立ち上がって『傘を届けてくる!』って飛び出して」

 

 鹿島さんと那珂さんがしゃべりながら思い出し笑いを。

 

「え、そうなんですか」

 

 反射的に青葉の視線は司令官さんの方へ。

 そのやり取りが聞こえていたのでしょう。司令官さんは足早に広報室の隅、給湯スペースに行ってしまいました。

 

「あんだけ露骨なことしておいて付き合ってないは無理があるんじゃないかしら?」

 

 霞さんに詰め寄られますが、すいません。そこは本当なんです。主に、青葉のせいで。

 

「あら、素直じゃない人がここにも一人」

 

 普段は静観している鳳翔さんも、今回はなぜか混ざって楽しそうな微笑みを浮かべています。どうやらここに青葉の味方は誰もいないみたい。

 

 そんな状況にも関わらず、青葉は思わず笑ってしまいます。

 ああ、青葉はやっぱりここが好きなんです。愛する人がいて、大切な仲間がいるこの広報室が。

 

 ここを手放さなくてよかった。本当にそう思います。

 ここならいつか、司令官さんの想いに応えられるくらい、強くなれそう。司令官さんが暗い表情の訳を教えてくれるくらいに、寄り添うことができるようになりそう。

 

「これは事情聴取が必要ね。今日の仕事後に飲みに行くわよ」

 

「はい、喜んで」

 

 霞さんのお誘いに、青葉は笑顔で頷きました。

                                       終

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いい子、ですね」

 

 行きなれた居酒屋、隣で彼はそう言った。そうだね、とボクは返す。

 

「ボクは何度も救われたよ」

 

 手に持ったグラスに視線を向けて、呟くように。カランと氷が揺れる。

 飲みなれないお酒。だけど今日は特別な日。彼とこうして飲みかわすのはいつ振りだろうか。

 

「確かに、あの頃のやつれた目と比べたら、今はすごくイキイキしていますよ」

 

 彼の言葉にボクは思わず苦笑する。彼と一緒にいた頃のボクは随分と荒んでいた。心が何度壊れかけたことか。それでも今こうして艦娘広報室の室長としてやっていけるのは紛れもなく、彼女のおかげ。

 

「それに……先輩が好きになった理由が分かりましたよ」

 

 ボクを先輩と呼ぶ彼。あっけらかんと話すのだが、対象的にボクは顔をしかめた。それもそのはず。

 

「そう思うなら、なんでデートに誘ったのさ。黒沢。……いや、今は黒沢一尉かな?」

 

 隣の彼、黒沢一尉に嫌味を込めて言い放つ。みんな……特に青葉には黙っていたけども、彼とは大学時代の先輩後輩の関係だ。今では彼の方が階級が上になってしまったが、それでも先輩と慕ってくれる。

 

 とはいえ青葉にちょっかいをかけたのは、さすがにいただけなかったが。ずっと心がザワザワして仕方がなかった。

そんな黒沢は苦笑を浮かべる。

 

「階級のことはやめてくださいよ。今でも違和感しかなくて気持ち悪いです。特に先輩に敬語使われると」

 

 黒沢は照れを隠すようにグラスのビールを一気に飲み干す。そしてお代わり。

 彼はこれでもう何杯目だろうか。一杯目のボクに比べて酒にとても強い。そんな彼を時々羨ましく感じていた。

 新しくきたビールに口をつけながら、黒沢はニヤリとキメ顔で言う。

 

「それに、可愛い女の子をデートに誘うのは俺の信条ですから」

 

「いつか刺されるよ?」

 

 自分の大切な人を可愛いと評価されるのは嬉しいが、彼の軽薄そのものな信条とやらに、ボクは呆れた表情で返した。

 黒沢のこれは学生時代から全く変わっていない。それが嬉しいような、悲しいような。

 

「女の子が幸せなら本望ですよ」

 

 とてもいい顔でそう宣言する彼の今後の安否がとても心配だ。

 

「……というか、嫌なら断らせればよかったじゃないですか。俺としては先輩の方が不思議ですよ」

 

 黒沢の問いかけにボクはグラスに口をつける。こればっかりはシラフで言うことはできない。それに、これは彼に言っても伝わらないであろう感情。それを口にする。

 

「もしかしたら青葉は、負い目を感じているのかもしれないと思ってね。それによる固執なら、やめさせたかった。それに青葉を幸せにしてくれる人は他にもたくさんいる。彼女がボクに執着する必要はないと思ってね。少なくともキミなら不幸にすることはないだろう?」

 

「評価してくれるのは嬉しいですけど、相変わらずめんどくさい性格してますね」

 

 予想はしていたが、やはり笑われてしまった。

 

「そもそも先輩は自己評価が低すぎですよ。青葉ちゃんがどんだけ先輩にぞっこんか、自覚ないでしょう?」

 

「それは……まあ」

 

 彼の問いかけにグラスを揺らす。確かに彼の言う通り、ボクがどれほど青葉に好かれているかわからない。だからなのかもしれない。時々ボクの好意が押し付けなのではないかと不安になってくる。

 

 ボクが答えられないでいると、黒沢から呆れ眼。

 

「俺とのデート中に泣いてましたからね。罪悪感すごかったですよ」

 

「それは悪かったよ」

 

「お詫びに、今日はご馳走になりますからね」

 

 ボクは苦笑を浮かべながら彼のグラスに自分のグラスをぶつける。カチンと小気味のいい音。こんなボクに今でも付き合ってくれるキミにならという思いを込めて。

 

「それから、キミに悪者みたいな役回りさせちゃったみたいでゴメンね」

 

 あの夜、彼女と黒沢がどのようなやり取りをしたのかはわからない。だけどもきっと彼は損な役回りをしたのだろう。

 

「いいですよ。さっきも言った通り女の子が幸せならそれで。それに、俺も先輩のこと悪く言っちゃいましたし」

 

「……助かるよ」

 

 彼なりの優しさにも、ボクは救われていると実感する。

 

「それに、先輩の地元が見れて楽しかったです。青葉ちゃんも好きだって言ってましたよ」

 

 黒沢は言う。実は、広報室のあるこの街は、何の因果かボクの地元だ。この街に居心地の良さを感じていないので複雑なところだが、彼や彼女が気に入ってくれたのは少し……嬉しい。ここで生まれ育ってよかったと初めて感じたかもしれない。

 

「ありがとう」

 

 恥ずかしいので、彼に聞こえない声量で礼を口にした。

 そうして飲み続けていると、黒沢がふと言葉を投げかけてくる。

 

「それより大丈夫なんですか? 家の方は。今のめんどくさい考えもきっと、それが関係してるんでしょう?」

 

 ボクの手が止まる。彼はボクの事情をよく知っているが、それでも躊躇いが生まれた。青葉にも今は言いたくないこと。だけどいつかは言わなければならない、ボクが抱えていること。

 

「そっちはどうにかするよ。彼女に重荷を背負わせるわけにはいかないからね」

 

 ゆっくりと、笑みを浮かべながら返す。だけど果たしてボクは上手に笑えているだろうか。

 

「一杯いっぱいなの、目を背けても辛いだけですよ。ちゃんと甘えてください」

 

 対して黒沢は苦笑交じりの笑みを上手に浮かべている。やはり彼は器用だ。それが羨ましい。

 

「特に青葉ちゃん。先輩が甘えてくるの、待っているみたいですからね」

 

「そっか……」

 

 どこまでもボクの心を救ってくれる彼女。本当に大切な人。だからこそ、ボクは遠慮してしまうのかもしれない。

 

「大事にしてくださいよ? じゃないと今回みたいなすれ違いがまた起こりますからね?」

 

 黒沢の忠告。ボクは肝に銘じるよと口にして、グラスに口をつけた。濃いアルコールの味。これは、明日の肝臓にだいぶ響きそうだ。

                                  終

 


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