静かながらも彼女たちの優しいやり取りはきっと、夏の夜風のような雰囲気を感じさせてくれることでしょう。
それはきっと夏のせい。
湿った真夜中の匂い。じっとりとした蒸し暑さが汗ばんだ肌に張り付きます。
寝苦しさを覚えて、青葉は目が覚めてしまいました。薄暗い天井が目の前に。
見慣れた鎮守府の隊舎。青葉たちが生活する部屋のもの。ですが真夜中だとちょっとだけ新鮮で、不思議な気持ち。小さなファンタジーを感じるような……。
ですが、そんな感情は浮かび上がる前にまどろみの中へと呑まれてしまいました。
「いま……なんじ?」
ポワポワとした眠気の泡を弾けさせながら、青葉は時計をチラリ。まだ日付が変わったばかり。夜明けにはまだまだ時間がありました。
隣のベッドでは妹艦のガサこと衣笠がスヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てています。
「ん……まだ寝れる……お休み」
大きなあくびを一度。それからまぶたの重さに逆らうことなく目をつむります。
カチリ、コチリ、時計の音。耳の奥、規則正しいリズムが妙に大きく響き渡ります。
それがなぜだか気になって、いつまで経っても眠ることができません。
「んー、眠いのに寝れないよぉ」
小さく愚痴をこぼしながら、ベッドの上で身体をゴロゴロ。眠りやすい体制を探します。
だけど余計に目がさえてきてしまい、青葉の意識はどんどん眠りから遠ざかっていってしまいました。
加えて……
「あっつ……」
青葉を包む夏の夜特有の空気。
お腹に触れてみれば汗でべっとりと濡れていました。
「うわ、こんなになってる……」
何とも言えない不快感に顔をしかめると同時に、気持ちが熱を意識してしまいます。
どんどん内に暑いが沸き上がり、眠いなんてとっくに感じなくなってしまいました。
「う~……暑い」
ガバリと起き上がって息を吐きます。首筋を伝う汗が気持ち悪い。
クーラーをつけたいところですが、残念ながらこの隊舎の空調はボイラー式で、一定の期間にならないと稼働してくれません。
我慢しようとジッとしているだけでも容赦なく浮かび、沸き上がってくる汗。耐え切れず、青葉は涼しさを求めます。
「窓……は開けているけど全然涼しくない……」
全開にしているにも関わらず、網戸越しから夜風が入ってこないことに絶望。シンと静まり返った鎮守府に、少し薄い夜闇がただ広がっているだけの虚しさ。
夏を意識させる景色。ムワッとした空気が伝わってきて、見てしまったことに後悔。
「暑いよぉ……。うーん、これだけは使いたくなかったけど……」
どうしてもこの溢れんばかりの暑いをどうにかしたかった青葉は、奥の手を出すことを決心しました。
こればかりは使いたくなかったのですが……主にガサに怒られるから。
しかし当の本人はぐっすりスヤスヤ。こんな状況で眠っていられるのが羨ましい。
「とりあえず……失礼します」
青葉はソロリ、ソロリとベッドから降り、部屋の隅っこに置かれた冷蔵庫の前へ。
ガチャリと小さく開けると、冷蔵庫の中から光が漏れ出します。
暗闇の中に広がる明かり。冷蔵庫から漏れだす白い冷気も合わさって、なんだかファンタジーなシチュエーションを想像させます。ちょっとワクワク。
「……まあ、実際はただ涼んでいるだけなんだけどね」
間抜けな絵面に小さく笑いを漏らします。
ですが冷蔵庫からの冷たい空気がヒンヤリと、青葉の顔に当たって気持ちいい。汗がゆっくりと引いていくのを感じます。
本当は扉を全開にして全身で冷気を浴びたいところですが、そんなことをしたらガサにバレちゃいますからね。これで我慢です。
「これであとはアイスとかあったら完璧なんだけど……。買っておけばよかったなぁ」
冷凍庫の方を開けてみますが、中身は空っぽ。暑いからと言って買い物に行かなかった過去の自分に後悔します。
「そういえばガサの方は何か買いに行ってたけど……」
ふと、思い出します。
すぐそばで眠っているガサは日中、買い物に行っていました。そして帰ってきたら何かを冷蔵庫に入れていましたっけ。
青葉は開けっ放しな冷蔵庫の隙間から中を覗きます。
「わぁ、イチゴ!」
透明なパックに入った赤い宝石。瑞々しい光沢のつぶつぶ。おいしそうなイチゴが入っていました。
「ガサってばなんでイチゴなんだろう……? 夏なのに」
小さな疑問を口にすると、予想外の展開が。
「――特に深い意味はないわよ。何となく」
「うひゃっ!」
それまで寝ていたと思っていたガサの声が突然聞こえ、青葉は驚きのあまり飛び上がってしまいました。
「ガサ! 起きてたの!?」
「起こされたの。夜中にそんな騒いでいたら、誰だって起きるって」
薄暗闇の中で顔をしかめるガサ。不機嫌がたっぷりと含まれていることは嫌でも伝わってきます。
「……ゴメン」
「はぁ……いいわよ別に」
シュンと縮こまって素直に謝ります。するとガサはあっさり許してくれました。
「私も、実のところそんなに深く寝れていたわけじゃなかったから」
パタパタとシャツの胸元で仰ぐしぐさを見せるガサ。
うんうんと頷いて同意を示す青葉。ガサも同じ気持ちなのが嬉しくて、声が弾みます。
「だよね。こんなに暑かったら寝れないよね。早く空調をいれてほしいよ~」
「だからって、冷蔵庫で涼んでいい理由にはならないからね?」
「……はい、ごめんなさい」
ピシャリガサに叱られてしまいました。
厳しい顔のガサでしたが、すぐに表情の緊張を緩め、大きく息を吐きます。
「まぁ、仕方ないか。……ねえ青葉。少し涼みに行こう?」
「……?」
ガサからの誘い。ですが青葉は思わず首をかしげてしまいます。だって彼女の言葉の意味がすぐには理解できませんでしたから。
「涼むって、こんなに暑いのにどこへ? クーラー効いてるとこなんてまだないんじゃないかな?」
青葉には、彼女の言う涼みに行く場所が全然思いつきません。何より、この時間の鎮守府はどこの施設も閉まっています。
こんな状態で涼むための方法で思いつくのは……
「怖い話でもするの?」
「なんでそうなるのよ……絶対に嫌」
ガサが思いっきり顔をしかめます。ですよね、ホラー嫌いですからね。
青葉としてはとぼけたつもりでしたが、わかってて口にしたのはちょっとイジワルすぎましたね。ガサが不機嫌に頬を膨らませています。
「もう、そんなこと言うんだったら、イチゴあげないよ?」
「くれるの?」
「涼むためのお供。ちょっとだけ悪いことしよう?」
そう言ってガサはベッドから降りると冷蔵庫をガパリ。中からイチゴの入ったパックを取り出します。とてもよく冷えていておいしそう。
彼女はイチゴを持つのとは別の手、人差し指を立てて口元に。静かにするよう伝える仕草。
青葉はガサの言う通り、静かに頷きます。
ガサはソロリと扉の方へ行くと、それから音もなく扉を開けました。そして、
「ちょっと海を、見に行かない?」
誘うガサの表情はイタズラっぽく。青葉は彼女の言いたいことが分かりました。
「確かに、こんな時間に外に出ようだなんて、悪いことだね」
だけどとっても楽しそう。青葉は喜んでついていきました。
夏の夜。薄暗い廊下はどこか不思議な雰囲気がどこまでも広がって。冒険心がくすぐられるような、ちょっとワクワクです。
音をたてないようにこっそりと。隊舎の外へと出たならば、すぐ裏手にある海岸へ。
防波堤に座ります。昼間の熱がまだ残っていて、ほんのり温かい。
つま先でチャプン、満潮でいつもより背の高い水面を蹴って遊んでみたり。
「あ……涼しい」
潮風に頬を撫でられて、思わず言葉が漏れ出ます。
夜の海、全てを飲み込んでしまいそうなほどの群青がどこまでも広がる景色。ただ静かな息遣いを繰り返しています。
青葉たちがいつも見ている海と同じはずなのに、今はなんだかおしとやか。
ポツリ、ポツリと夜空の星が落とした輝きを水面に浮かべて、まるで光のお花畑。
そしてその真ん中で、
「お月様が、きれいだね」
零した言葉。ちょうど半分こなお月様。まるで大きなお花が咲いているみたいです。
「うん。すごく綺麗」
「ねえガサ。この上を滑ったら、すごく楽しそうじゃない」
まるでお花畑を駆けまわるみたいで。とても、ステキな光景が浮かびます。
ですがガサから返ってきたのは小さな苦笑い。
「この上って……さすがに遠すぎるわよ」
見上げて呟くガサ。
「そうかな? 青葉たちは艦娘なんだし、艤装を着ければ簡単だと思うけど。こんなに近くだし」
チャプン。指先で水面に映るお月様をはじきます。ゆらゆらと広がる波紋。
それを見たガサはまた、苦笑い。
「なるほどね……。青葉、私が言ったのは空の月の方」
「あー……」
言われて気づきました。小さな言葉のすれ違い。
ガサにつられて見上げてみれば、確かにお月様はどこまでも遠く、手を伸ばしても届きそうにありません。
「あははっ、青葉たち、違うところ見てたんだね」
「ふふっ。そうみたい」
同じお月様でも海と空、見ている方向が違ったみたいです。それだけでこんなにも感じ方が違う。なんだかおかしくて、青葉たちはクスクス笑いを零します。
「青葉ってば相変わらず発想がロマンチックよね」
「そうかな? 思ったことを口にしているだけだけど」
褒められているのか、いまいちピンと来なくてどういう表情をしたらいいか分かりません。
「そうそう。だけど青葉のそういう発想、ステキだと思うよ。私にはなくて羨ましいな。」
「もう、恥ずかしいこと言わないでよ!」
薄闇の中でもわかるくらい、真っ赤になって青葉は声を上げました。
透き通るような夏の夜空に溶ける、青葉たちの声。ベタベタとまとわりつくような暑さはそこにはなく、ただただスッキリとした静寂。
いつもとは違う表情を見せる鎮守府と海。他のみんなは寝静まっている、青葉たちだけの秘密の時間。
「そうそう忘れる前にはい。おひとつどうぞ」
「おひとつどうも」
差し出されたイチゴのパック。青葉は一つ、つまみます。秘密がもう一個できました。
誰かに見つかる前に食べてしまいましょうと、パクリ。
ツブツブとした食感と共に、弾ける瑞々しさ。冬に食べるイチゴの深い甘さとはまた違う、さわやかな甘酸っぱさが口の中に広がっていきます。
「ん! 夏のイチゴって結構味が違うんだ」
「そうね。これはこれで……うん、いいかも。ジャムとかにしたら甘すぎなくておいしいんじゃない?」
ガサの思い付きに、青葉は大きく頷いて同意を示します。
「それ賛成。それにしてもガサってばよくイチゴを見つけてきたね」
青葉はもう一つ手に取って、眺めながら言いました。この時期のイチゴは全然旬から外れています。どこのお店に行っても、売っているのを見ることはほとんどないでしょう。
「あーそれね。実はたまたま」
ガサは肩をすくめて、それから言葉を続けます。
「買い物帰りに近道のつもりで通った道に果物屋があったの。そこで見かけて、珍しくて買っちゃった」
ちょっと照れくささを誤魔化すような笑顔。
その果物屋さん、青葉も興味がありますね。外に出なかったことをちょっと後悔。
「そんな面白そうなものがあったなら、暑くてもガサについていけばよかったよ。でもガサの気まぐれに感謝だね」
「なんか素直に喜べない言い方……」
今度は顔をしかめるガサに。青葉はクスクス笑います。
笑いすぎてちょっと痛くなったお腹を落ち着かせるように、青葉は大きく息を吐いて、それから小さく頷きます。
「だけど、うん。こんなステキな出会いができるってことは、ガサも十分ロマンチックだと思うよ」
「やめてよ、そんなキャラじゃないって」
恥ずかしそうに首を横に振るガサ。だけどやっぱりうん、ロマンチックです。もう一度は口にしませんが、姉妹そろって似たところがあることに、青葉は嬉しくはにかみます。
「だから……もう!」
青葉の表情で何かを察したガサが顔を赤くさせます。イチゴよりも瑞々しい赤。
それから彼女は困ったような笑顔を浮かべて言葉を続けます。
「それよりも青葉は、この夏どうするの?」
あ、無理やり話を変えてきましたね。それほどまでにガサは恥ずかしかったみたいです。
でもそうですね。こんなにも暑くなってきたのですから、夏休みの予定を立てておくのもいいかもしれません。
だけど……
「ん~、何にも考えてないかな。いつも通り、グダグダした夏休みになりそう」
「え~、勿体なくない? せっかくの夏休みなんだからなにかないの? 海に行くとかさ」
明らかに不満げな表情を浮かべるガサ。そうは言われましても……
「海ならいつも行ってるじゃん」
「そっちじゃなくて、遊びに」
だよね。わかっててとぼけてみただけ。笑って誤魔化します。
唇に人差し指を当てて、考える仕草。それから手でフレームを作ってガサに向けました。
「ん~……行くのはいいけど、青葉は撮り専だよ?」
皆さんの楽しい思い出が残るよう、お手伝いさせていただきます。
そんな純粋な気持ちでの言葉でしたのに、ガサってば渋い表情。
「ごめん、やっぱりゴロゴロしてて」
「なんでよ!」
これにはさすがの青葉も声を上げました。そんなイジワル言わなくてもいいじゃんか。
とはいえ、ガサの言う通り。ゴロゴロしているだけはもったいないです。
青葉も、なにかステキなことができたらいいな。そんな思いを口に。
「でも……なんかしたいよね。夏にイチゴを見つけるみたいなこと」
そんなことを口にしながら、もう一個をパクリ。それからさらにもう一個、もう一つ……
そんなことをしていたらパックの中にあったイチゴはどんどんと減っていき……。
「最後の一個、もーらい」
すかさず青葉は残ったイチゴをつまみ取って、パックを空っぽに
します。
この青葉の早業にガサは驚きと呆れの混ざった表情を見せます。
「あっ……もう、仕方ないんだから」
食いしん坊という添えられた言葉は無視。
最後の一個という特別感を堪能させてもらいます。ヘタを綺麗にとって、先端から口の中に入れようとして……
「……あっ!」
指先から零れ落ちたイチゴ。ポチャンと水面に波紋を広げ……虚しく沈黙
「あー……、落としちゃった。残念」
水面に視線を向けながら、ガックリと落とした青葉の肩をガサがポンと叩きます。
「ほらほらそんなに悲しがらないの。また買いに行けばいいんだから」
想像以上に青葉が落ち込んでいることに、苦笑を浮かべつつもガサは慰めてくれます。
……そうですね。ポジティブにいきましょう
「そうだね。夏休みにしたいこと。一個決まったね」
ガサと一緒にイチゴを買いに行く。青葉の心の予定帳にしっかりとメモをしておきました。
だけどそれでもやっぱり……
「それにしてももったいなかったなぁ……」
月の花が咲く静かな水面。覗く先は深い群青でもう、イチゴの行方は分かりません。
青葉の心は残念な気持ちで一杯。この海のような群青色。
しかし海の方の群青に、何か白いものがプカリ。浮かんできました。
「あれ? なんか白いのが浮いてる……」
指先でつまんで見てみると、小さな黄色を取り囲むような薄い白。それは花でした。しかもこの感触は造花ではなく本物。
「花? ねえガサ。これなんの花か知らない?」
「んー、わかんない。でもなんか見たことあるような……」
青葉が聞いてみても、ガサは首をかしげるだけ。でも、確かに言われてみればこの花、どこかで見たことがあるような気がします。
どこだっけ……? とても身近なものだと思いますが。
思い出そうとしますが全然出てきません。そうこうしているうちにまた、プカリ。
「あ、また浮いてきた。それもたくさん」
二つ、三つ、もっと……。プカリプカリとまるで泡のように浮かぶ白い花。
なんとなく、誘われるようにして青葉は水面に手を伸ばします。すると……
「わっ!」
バランスを崩してしまったのでしょうか? グラリ、青葉の身体が傾きます。一瞬にして目の前にまで迫る水面。
「青葉!」
ガサの叫ぶ声。しかしそれはすぐさまザバンという大きな飛沫の音でかき消されてしまいました。
同時に、全身に感じる冷たさ。服のまとわりつくような感触で、青葉は自分が海に落ちたということを理解しました。
なんて間抜けな……思わず赤面してしまうほどの恥ずかしさ。でも、どうやら海に落ちたのは青葉だけではないようです。
手に感じる温もり。ゆっくりと目を開けるとゆらゆらした視界の先、ガサが青葉の手を握っていました。どうやら助けようとして、自分まで海に落ちてしまったみたい。
嬉しいことではあるのですが、それを感じている余裕はありません。なんせ青葉たちはどんどん海に沈んでしまっているから。
艤装を着けていない艦娘は普通の人と同じで、勝手に海に浮かぶことはありません。加えて口から漏れ出る泡。どんどんと息苦しくなって……
「わわわっ! ……あれま、息ができる。艤装もつけていないのに」
慌てるあまり、手をがむしゃらにバタつかせていた青葉ですがふと、気づきます。どんなに泡を吐き出しても胸が全く苦しくならないことに。
「それに見て、泡が……花になってってる」
ガサが泡と共にこぼした言葉。彼女の視線の先を青葉も向きます。
ゆらゆらとたゆたう水面。月明かりのベールに覆われたそこを目指して泡が浮かんでいきます。
しかもその泡たちが白い花へと姿を変えていっているのです。浮かび上がってきた白い花の正体がようやくわかりまた。泡だったんですね。
それにしてもなんて不可思議な光景。
だけど青葉たちはそのへんてこに心を奪われてしまっていました。
「ホントだ。よくわからないけど……でも、キレイ」
薄明かりのベールに包まれた白い花はキラキラと。なんてステキな世界でしょう。まるで海の中に異世界が広がっているような。
「まるで宇宙の中にいるみたい」
ガサのロマンチックな表現に笑みを浮かべる青葉。
「……なによ」
口にした後恥ずかしさがこみ上げてきたのか、ガサは誤魔化すように青葉に向かって不機嫌な表情を見せます。
「ううん。ガサのそういうところがステキだなって」
「もう、からかわないでよ!」
余計に恥ずかしさを感じてしまったようで、いよいよガサはプイっとそっぽを向いてしましました。そんな彼女の反応を青葉はクスクス笑います。
カメラを持っていないのが悔やまれるほど魅力的な表情。
それから、相変わらずこの宇宙のような海の中。不思議な世界に見惚れてしまった青葉たち、どんどん沈んでいっているのを気にも止めずに海の底。もう手を伸ばしても水面には届きそうもないほど深いところまで来てしまいました。
「ねえ青葉……。ずっとこの中にいるのも、さすがにそろそろマズくない?」
ガサが言葉を零します。
息ができるせいで危機感を持っていませんでしたが、彼女の言う通りいつまでも海の中というわけにはいきません。
「そうだね。夏の海だけど、ちょっと寒くなってきちゃった」
夜ということもあって水温は昼間と比べて低いです。うっすらと鳥肌の立った肌を見せながら青葉は小さく笑います。
それから浮上しようと両手を大きく動かしてみて……あれ?
なんだかおかしいことに気づきました。全然水面に近づきません。
「ねえガサ、青葉ってカナヅチだっけ?」
「私に聞かれても知らないって。……だけど私も青葉とおんなじ気持ち」
青葉の疑問に呆れ眼で返すガサ。だけどどうやら彼女も青葉と同じことを思っていたみたい。
確かガサは普通に泳げたはずだから、泳ごうとして浮かぶことができないこの状況はやっぱりおかしなことのようです。
試しにもう一回手を大きく動かしてみますが、やっぱり水面との距離は変わらずじまい。
「どうしよう……」
ガサが困った表情を見せました。このまま青葉たちは沈んでいくしかないのでしょうか?
「うーん。いっそこのまま深く潜ってみる?」
どんなに泳いでも沈んでしまうのなら、自分たちから沈んでいってしまいましょう。逆転の発想です。
青葉としては真面目に言ったつもりだったのですが、それを聞いたガサはたくさんの泡を吐き出しながら笑い出しました。
「……あははっ。私、青葉のそういうところ好きよ」
「もう、いきなり変なこと言わないでよ!」
ガサに笑われて不機嫌に頬を膨らませる青葉でしたが、彼女が唐突に恥ずかしいことを言ってくるものですから、頬は海の冷たさでも冷めないぐらい熱くなってしまいます。
言った本人であるガサは先ほど青葉が恥ずかしいことを言った仕返しと言わんばかりに、小さくウインク。ますます青葉は不機嫌顔です。
「ふーんだ。ガサなんか知らない?」
青葉はそっぽを向いて手を大きくかきだします。今度は水底に向かって。先ほどまでとは違い、あっさりするほど前に進む青葉の身体。ゆっくりと泳ぎ出しました。
「もう、青葉ってば。待ってよ」
後を追うガサの言葉は苦笑いが混じっていました。
青葉たちは真夜中の海をダイビングします。専用の器具を何もつけていないにもかかわらず、息は続き、水圧もへっちゃら。
それどころか、防波堤から落ちたのですから、そこまで水深がないはずですのに、どこまで潜っても底が見えません。
まるで、何もない世界をただただ漂っているような気持ち。
「ここまで何もないと、不安になってくるね」
「そうね、いよいよ水面の光も届かなくなって何も見えなくなっちゃったし」
「それでも見えるのは白い花だけだもんね」
青葉たちが吐く泡。未だに白い花へと姿を変えていきます。真っ暗な海の深いところでも、その白だけはハッキリと。
「なんだか夢の中を泳いでいる気分」
ガサがロマンチックを口にします。青葉もその表現には凄くしっくりきました。もしかしたらここは、本当に夢の世界なのかもしれません。
そんな気すらしてしまうほど、先ほどから不思議の連続。
それならばこの先には何があるんだろう。青葉は小さくワクワクします。
「じゃあ、夢の果てには何があるんだろう?」
「何もないんじゃない?」
「もう、ガサは夢がないなぁ」
「むしろ、わからないままのほうが夢があるんじゃない?」
「確かに」
ガサの発想に青葉は納得。やっぱりガサはロマンチストですね。
ですが青葉としてはロマンよりも好奇心です。
「……でも青葉は潜るけどね」
「だと思った。もちろん私も付き合うわ。このまま中途半端に浮かんでいるだけじゃ、何も変わらないし」
そんなやり取りをして、青葉たちはさらに深くダイビング。
更に濃い群青の中へ。
このまましばらく変化のない景色を見続けているだけかと思いましたが、すぐさま変化が訪れました。
「……あれ? ねえガサ、なんかない?」
ふと、白に混じって違う色が目に入りました。濃くてわかりにくいですが、それは緑。
「ホントだ。花に混じって細い緑色のものが浮かんできてる。これって……ツタ?」
ガサが緑に触れながら言います。どうやら細長いツタが下の方から伸びてきているみたい。
しかも、その先。小さな赤が微かに見えます。それまで群青しかなかった世界に現れた、目新しさ。
「あ、何かあるよ」
「青葉待ってよ~」
赤に向かって一直線な青葉を慌てて追いかけてくるガサの声。
ですが気分はまるで宝探し。ジッとなんかしていられません。
緑のツタをかき分けて、赤いものに徐々に近づいていきます。青葉たちが泳いだ軌跡に白い花。
きっと今はすごく綺麗な色がこの海を彩っていることだと思います。
だんだんと赤がハッキリと見えてくると同時に、青葉はそれに見覚えがありました。
「……これって、イチゴ?」
小さく光沢のあるつぶつぶのフォルム。瑞々しい赤はまさしくイチゴでした。そしてそのイチゴから緑色のツタが生えていました。
なんでこんな海の深いところにイチゴが……? そう思う青葉でしたが、一つだけ心当たりがありました。
「もしかしてこれって、青葉が落としたイチゴ?」
先ほど青葉が食べようとして海に落としてしまったイチゴ。それがこんなところまで潜ってしまっていたみたいです。
「もしかしてこのツタはイチゴからのメッセージなのかもね」
「うん、ここにいるって青葉たちに教えてくれたのかも」
ガサの言葉に、青葉は頷きました。きっと落としてしまった青葉をずっと待っていたのでしょう。そう思うとなんだか、すごく……ほっこりしますね。
青葉が暖かい気持ちになっていると、唐突にガサが声を上げました。
「この白い花、思い出した。イチゴよ」
泡が形を変えて浮かんでいく白い花。どうやらそれはイチゴの花のようです。そういえば白い花が浮かび上がったのもイチゴを落としてからでしたっけ?
……ああずっと、このイチゴは青葉たちに伝えてくれていたんですね。
「……随分とお待たせしちゃいました。だけど、迎えに来ましたよ」
ゆっくりと、青葉はイチゴに目線を合わせられる高さまで潜ります。
優しく手に取って……だけどその瞬間、泡になってしまいました。
「あ……」
どうして? そんな感情と共にすごく寂しいが青葉の胸に浮かびます。
泡となったイチゴはそのまま、白い花となって浮かんでいきます。もう、手を伸ばしても届かない。
青葉の目じりから何かが浮かんでくるような感覚。ですがすぐさま海の中に溶けていってしまいました。
「青葉……」
ガサが何か声をかけようとして……だけど口から出てくるのは花になる泡だけ。
「……ごめん」
「ううん。ありがとう」
何も言えずに謝るガサに、青葉は小さく首を横に振りました。その気持ちだけで、青葉は嬉しいです。
青葉は微笑みます。
「きっと、イチゴも嬉しかったと思うから」
「……そうね。それからやっぱり私、青葉のそういうところ好きだな」
「んもう、変なこと言わないでよ」
茶化すガサに青葉は赤くなって怒ります。だけどすぐ、二人して笑い合いました。ブクブクと、口からたくさんの泡を出しながら。白い花となって浮かんでいきます。泡になってしまったイチゴを追いかけるかのように。
まるでそれに呼応したかのよう、下の方から泡が浮かび上がってきました。一つ、二つ……たくさん。
数えきれないほどたくさんの泡。そして全部白い花となって、青葉たちを包み込みます。
「わ、すごい」
青葉は小さく歓声をあげます。視界を埋め尽くすほどの白。甘いイチゴの花の香り。
心地よさにうっとりとしていて……そこで目が覚めました。
「……あれ?」
じんわり汗ばんだ肌。身体を起こすと見知った部屋が朝の陽ざしに包まれていました。
「あれ、なんだったんだろう?」
浜辺を散歩しながら青葉は口にします。容赦なく照らされる夏の日差しに、じんわりとにじむ汗。
気が付いたらいつもの天井。自室のベッドで朝を迎えていました。
「青葉が見たっていう夢の話?」
隣を歩くガサの言葉に、青葉は頷きます。
昨日の夜、青葉は確かに泡が白い花になる海の中を潜ってイチゴを見つけるという体験をしました。
だけどそれはあまりに荒唐無稽な話。夢と思うのが自然なことです。
「……ガサも見たんだよね?」
ですがその体験をガサもしたと言うのですから、話は変わってきます。
「うん、確かに青葉が話していた内容、私も覚えているよ」
「二人して同じ夢を見るなんて、そんなことある?」
「でも、そうとしか言えないんじゃない? だって私、イチゴなんて買ってきた覚えないもの」
そうなんです。なんと夜の海で食べたはずのイチゴですが、それを買ってきたはずのガサが、そのこと覚えていないみたいです。
「……確かに、私が買ってきたって夢の中では言ってたし、何となくそうだったような気がしてくるけど……」
ですが、なんだか記憶がモヤモヤしているみたいで、やっぱり本当のところはわからないまま。
「……まあ、どっちでもいっか。きっと夏のせい。そういうことにしておこう」
きっと、一番大事なのは夢とか夢じゃないとか……そういうところじゃないから。
「お気楽ね。私はモヤモヤしっぱなしだっていうのに。だけど青葉のそういうところ、いいと思う」
肩をすくめながらのガサの言葉に、青葉は緩い笑みを浮かべます。ガサもまた、どこか呆れたような、だけど温かい微笑みを。
「あ……」
唐突にガサがしゃがみ込みました。寄せては返す波打ち際、何かを拾ったみたい。
「どうしたの?」
尋ねる青葉にガサは手に取ったものを見せてくれました。
「案外、夢じゃないのかもね」
それは、白い花。小さな花弁のイチゴの花でした。
終