夏の夕方から夜に変わる頃、ポツリポツリと降り始めた雫が、やがて街の喧騒を全て雨音に消し去る中、彼はのんびりと自宅へと戻ってきた。
「ただいまー」
予報されていた雨であったため、濡れた傘の雨粒を払い、多少裾についた水気を気にすることなく、部屋に向かった。明りのついた部屋から奏でられるピアノの音色、日常の音に彼は何も思うことなくカバンを床に置き、簡単な服に着替え、台所の冷蔵庫からコーヒーを取り出し、コップに注ぐことなくペットボトルに口をつけて飲む。
と、ちょうどそこに先程までピアノを演奏していた母が台所にひょっこりと顔を出した。
「あ、アンタ、
「帰ってきてないの?」
「いつも通りレッスン前にふらーっとどっか行ったから、どっかで雨宿りしてるかもね」
九重、というのは彼の家で飼っているアメリカンショートヘアの猫の名前だった。音色が苦手なのか、ピアノレッスンの時間になるとふらふらと何処かに行ってしまう彼女のクセは今更なので気にすることもないが、雨が降ったせいで帰って来れないのではないかという母の言葉を受けて、彼は探しに行ってくると玄関に向かった。
「行ってくる」
雨降る中、レッスン終わりで迎えに来ていた子どもたちの親に軽く挨拶をしながら、彼は帰ってきた時と同じようにのんびりと歩きだした。
──十年前は、レッスンを受けている子どもたちと同じだったのに、と過ぎた月日を背中に感じながら、向かう先は九重の散歩コースでもある商店街に、と思ったところで家の駐車場から女性の声と一緒に聞きなれた鳴き声が聴こえ、立ち止まった。
「んー、どうしよう、このままだと迷惑だよね……」
「……つぐみ、か?」
「あ! あ、あはは……お邪魔してます……」
軒下で雨宿りとしていたのは、探していた飼い猫と戯れている、少女だった。
夏の制服と短めの茶髪はしっとりと濡れており、手荷物からも、傘を忘れたのだという予想はできた。
「なにやってんだよ……呼べよ」
「だっ、だって今日はレッスンの日だもん! 先生呼んだら迷惑だよっ!」
「いや俺をだよ」
あわあわと手を振って否定する彼女に、彼はため息一つでツッコミを入れた。
つぐみはあっ、と声を上げ、それから下を向きながらでも、と頬を染めた。
「なんか……意識しちゃって……」
「……そうかよ」
「ご、ごめん」
「怒ってねぇ」
「う、うん」
雨音だけになった空気を、九重が彼の足元にやってきて鳴くことでようやく元に戻る。つい最近、付き合い始めたばかりの空気も九重は知ったことではないようで、つぐみはその背を撫でると満足そうに鳴いた。
そのしゃがんだつぐみのスカートがヒラリと捲れそうになった瞬間はっとしたように、彼はほらよ、とつぐみに傘を手渡す。
「あ、え?」
「貸してやる、けどちゃんと後で返せよ?」
「うん、ありがとっ!」
全力で頭を下げたつぐみはだが次の瞬間、静かな雨音だけだった世界に轟く音に悲鳴をあげた。
まだ遠くで鳴ってはいるがハッキリと聞こえた雷鳴。その音につぐみの足は止まってしまっていた。
「おい、つぐみ?」
彼が声を掛けた瞬間、二度目の雷鳴。つぐみはまた悲鳴と共に彼に抱き着いた。
彼女が苦手なもの。その一つが雷だった。雨雲を裂いているような大きな音と強い光、つぐみには今でも竦んで動けなくなってしまうもので、いつもの夜ならば枕を抱きしめ布団に潜り込んでいる、そのせいか、咄嗟に安心感を求めて彼の背中に手を回していた。
「お、おい……離れろって」
「無理……むりぃ」
羞恥心も忘れてひたすらに恐怖感を薄めるために、まるで子どものように首を左右に振るつぐみを前にして、彼の両手が行き場を無くしたように宙を舞った。
チラリと足元を見ると、もう九重はいなくなっていた。おそらく雷が嫌で一目散に逃げていったのだろうと言うのは察しがついたのだが、それよりも今は目の前の恋人をなんとかする方が、彼にとって目下最優先で対処すべき問題だった。
「か、帰れそうか?」
首を横に振る。光る度に身体がビクっと震え、音がするたびに小さく悲鳴を上げてより密着していく。
駐車場の中震えるつぐみ。そこには生徒会役員として、実家の手伝いとして、バンドのキーボードとして、頑張りすぎるほど頑張る彼女はいなかった。ただ頼れる恋人に縋る少女でしかなかった。
「……とりあえず俺んち、入るか」
「……ん」
しっとりと濡れた髪に触れ、制服の肩の辺りが濡れて張り付いて、その僅かなラインにピンク色の紐が見えた気がしたところで彼は考えることをやめた。
決してやましいことはない。ただ家に上げて着替えを貸して、雷が止むまで傍にいるだけ。彼はそう言い聞かせ続けた。
「お、おじゃましますっ」
「母さん。つぐみのことよろしく」
「あらあら、九重だけが帰ってきたと思ったらぁ、お邪魔虫だったのねぇ」
「そういうのいいから、このままじゃコイツが風邪引く」
「はいはい。ごめんね、照れ屋で」
「うるせぇって」
つぐみはすぐにピアノのBGMに包まれたその家にやってきてほうっと一息をついた。ここなら雷の音は聴こえないという安堵感と彼の母親のほんわかした賑やかさに押され、BGMが反響する風呂に浸かっていた。
「いいなぁ、ウチのお風呂もこうだったら、雷なんて気にしなくていいんだけど……」
『いやいや、これはチャンスだよ、つぐ~!』
「なんの?」
『カレシの家にお泊りなんでしょ!? そりゃ、えっちするしかないでしょ!』
「……やめてよ、ひまりちゃん」
ゆっくりしていい、という言葉に甘えて、つぐみは雷が鳴るたびに電話をかけてくれる幼馴染と通話をしながら温まっていた。しかし今日は心配というよりは恋バナに鼻息を荒くしていて、彼女はため息をついてしまった。
『じゃあ、シたくないの?』
「……そりゃ……好きだし、恋人だもん……シたい、けど……」
風呂の熱気、というよりは頬の熱で真っ赤になったつぐみが、小さな声で同意する。付き合い始めたのはつい最近だが、想い始めたのは十年も前のことだったが故に一緒になりたい、恋人らしくいたいという思いは寧ろ強い方だった。だが、それ以上に思春期が訪れるよりも前から顔を合わせてきた彼と、という想像をしてしまうのは、なんだかいけないことのような気がしていたのだった。
『んもう、つぐはオクテなんだから~!』
「むぅ……知らないっ、もう今日は切っちゃうから」
『あ、ちょ──』
えい、とかわいらしい声を上げて、つぐみは通話をオフにした。頬を膨らませて幼馴染への悪態を一通りついた後、今更ながら彼の……恋人の家にいるということ、そして雷が怖かったとはいえ抱き着いてしまったことの羞恥が頬を朱色に染めた。
「……ひまりちゃんのせいで、変に意識しちゃうよ」
風呂を出て、彼の母の言葉に従いリビングで髪を乾かしていると、目の前にミルクと砂糖の入ったアイスコーヒーが置かれ、隣に彼がやってきた。その顔が少しだけ不機嫌そうに見えたつぐみは首を傾げるが、彼はそんなつぐみを一瞥もせず、テレビを見始めてしまった。
「え、えっと……?」
「ん?」
声色も返事も、普段電話をしている時よりも素っ気ないもので、つぐみは次の言葉を失ってしまった。
何か怒らせることをしたのか。いやそれ以前に駐車場で勝手に雨宿りをした挙句に雷が怖くて、こうして我が物顔でリビングでドライヤーをかけていることが、それに当たるのではないか、そんなマイナス思考が彼女の思考をぐるぐると駆け巡った。
「……母さんが連絡取ってた。今日はもう遅いから泊ってけ、だってよ」
「そんな、悪いよ……」
「そんなこと言っても、雷の中帰れねぇんだから、しょうがねぇだろ」
「……うん」
そんなタイミングで告げられた言葉に、つぐみは増々罪悪感を募らせていった。彼がリビングを出ていくまでは保てた笑顔も風呂入ってくる、という一言と共にいなくなって独りになってしまえば、堪えることができずに膝を抱えて嗚咽に変わる。
もっと自分が頑張れたら。雨の中でも帰れるだけの頑張りがあれば、雷を怖がることなく、家まで帰れるだけの頑張りがあれば、こんな思いはせずに済んだのに。すべては自分の頑張りが不足していたせいだ、と責め続ける冷たい棘のような感覚は、そんな小さく縮こまった身体を突如包み込んだ暖かさが和らげた。
「……やだ、放して」
「なんでだよ」
「だって……このくらい、自分でなんとかできるから……これ以上、迷惑かけたくないよ……」
あんな顔をされて、仕方がないとため息をつかれてまで優しくされたいとは思わない。つぐみはそんな僅かばかり残っていた意地を振り絞って、首を横に振った。
だが、彼は頑としてつぐみを放そうとはしなかった。それどころか意地を溶かそうと彼は今までにないくらいまで彼女と密着していた。
「迷惑じゃねぇから」
「……本当?」
「疑うなよ……恋人の言葉を」
「こい、びと……うん、ごめんね」
されるがまま、つぐみは彼の胸に身体を預け、優しく頭を撫でられる気持ちよさに目を閉じていた。
そんな純粋な愛情に溺れそうになりながらも、必死に掴まっていたところに、つぐみは彼の独白のような実はさ、という言葉に彼を見上げた。
「つぐみの風呂上りの時、なんかさ、変に意識しちまってて……素っ気なくて、ごめん」
「……それで」
不機嫌そうに見えたのは視界に入れてしまうと意識してしまうから。自分と同じ気持ちだったと知ったつぐみは、そっかと呟いた。
──よく考えれば当然のことだった。同じ想いを持っているから、自分たちは恋人なのだから。
「……な、なぁ、つぐみ?」
「なに?」
「母さんからの伝言なんだけど……」
「うん」
「……今日は雷がうるさいといけないから、BGMかけて寝るから、って」
「……えっと?」
その真意を測りかねたつぐみは少し考えて、すぐあとに彼が、つまりよっぽど大きな声や物音を立てない限り気付かないって意味だよ、と補足され、首まで真っ赤に染まった。
彼の母にしてみれば、息子の恋人が家に泊まるのだからそのくらいは
「あと、まだ孫はいらない、だとよ」
「……も、持ってるの?」
「そりゃあ……もちろん」
「なんで」
「なんでって、そんなの……言わなくてもわかってんだろ」
「……えっちなことばっかり、考えた?」
「そん──! そんなわけねぇだろっ」
言い合いの末、その日は二人で抱き合うようにして眠りについた。それからというもの、雨の降る夜につぐみは決まって、黄色い傘を差して彼の家の駐車場に来るようになった。
それが昔から恥ずかしがりやで、けれど頑張りやな彼女なりの、精いっぱいの想いを籠めた、YESの意思表示だった。
大人に近づき変わった関係でも、駐車場で待つ彼女の顔も迎えに行き、彼女を家に上げる彼の顔も、昔と少しの違いもない、と彼の母はモーツァルトを奏でていくのだった。