【弦巻こころ】キミは笑顔のヒーロー
暗闇に浮かぶ星の海、揺蕩う川の流れのような星たちの瞬きを見ていた彼女の黄金の瞳もまた、感嘆と感動に星を煌めかせていた。
空を見上げればいつでも浮かぶ星とは違う、まさしく満天の星たち。そんな星に照らされた新月の夜、弦巻こころは隣でレジャー用の折り畳み式の椅子に座る彼に、そんな黄金の星たちを向けた。
「すごいわね! こんなに星がたくさん!」
「本当だ、都会じゃこんな星は見れないね」
「空が近づいてくれたみたい!」
感動と感情を爆発させ、両手に乗せて動きで表す少女に、彼はタンブラーの中にあるコーヒーに口をつけた。
人工の明かりが一切ない山に立つ弦巻家所有のペンションの前に机と椅子を出し、こころは彼と二人きりで星空のロマンスに見惚れる。山の上であることで夏にしては湿度と温度の低い風を受けて、彼女の金色の髪が星の輝きを反射して揺れる。気持ちのいい風はまるで、突然やってきた二人を歓迎しているようだ、とこころはまた口許を綻ばせた。
「どう? 前にも来たことがあるけれど、素敵なところでしょう?」
「確かに、天の川もきっちりはっきり見える。星座がわかんないのがちょっと寂しいけど」
そんな彼の言葉に、こころは大丈夫よ、と笑った。星座がわからない、ということは、それだけ星たちが、ともすれば織姫と彦星は人間が線を結ばなくても、仲間たちがいる。
それがこころにはとてつもなく嬉しいことに思えていた。
「星は、独りぼっちなんかじゃないのね」
「ん?」
「織姫や彦星も、きっと一年間、独りぼっちで寂しいわけじゃなくて……沢山の仲間と沢山笑顔で暮らしているのね」
「……こころらしい」
前向きな笑顔と考え方。いつも曇ることのないピカピカの太陽。いつだって誰かを照らしてそして笑顔に変えてくれる、笑顔のヒーロー。
しかし、ふとした瞬間、彼はそんなこころにとってどんな存在なんだろう、と考える時があった。
仲間ならバンドがある。影の立役者なら黒服たちがいる。自分は本当に、真の意味で弦巻こころの役に立てているのだろうか。
「あなたはあたしの将来の旦那様よ、誰が、なんと言おうと」
「俺が迷ったとしても?」
「たとえ……浮気をしていたとしても、よ」
ニコリと顔を向けられ、彼は苦笑いで応えた。彼女としては信頼している言葉の一つなのだが、彼にとっては妙に圧力を感じなくもない笑顔だった。また一口コーヒーを啜り、その苦味に顔をしかめると、その様子を見ていたこころが、折り畳み椅子を彼のすぐそばに置いて、そこに座った。
「苦かった?」
「……俺の舌はまだ子どもらしい」
「いいじゃない、誰だってしかめっ面で、わかった風に苦味を我慢したくなんてないわ」
だから砂糖を、甘みを与えてあげるのよ、とこころは苦味に閉じた唇を奪ってみせた。たった二人きりの夜空が支配する静かな世界で、風と星だけが、それを見つめていた。
「甘い、でしょう?」
「甘い……確かに甘い」
むせ返りそうだ、と文句を唇を尖らせた彼に向かってこころはますます太陽の輝きを見せた。同時に甘えるように肩に頭を置き、手を重ねて、ねぇ、と一言声を出した。
彼はため息をついたのちに手の甲を下に向け、五指を開いてこころの手を誘導した。細くて白い指が指の間に入り、手のひら全体で彼の体温を感じるその密着感と彼の一連の動作が、こころは好きだった。
「ありがとう」
「どーいたしまして」
「照れなくてもいいのに」
「うるさいし照れてないからな」
照れると素直ではなくなる彼の、言葉とは裏腹な手の温かさが、そっぽを向いてしまうわかりやすさが、こころの胸の内にある世界を笑顔に、という夢とはかけ離れた感情を衝き動かし、主導権を握るようになる。
こっち向いて、と静かに囁き、不思議そうに向いたその顔を驚きと羞恥に染めたくなる。そのまま膝の上に移動して、星空なんか見られないくらいに、独占したい。天使のような慈愛を持つこころが抱く、悪魔のような欲望だった。
──しかし、彼の膝の上にやってきたこころを待っていたのは、手痛い反撃だった。抱き寄せられ、舌が入ってくる感覚。それに溺れ夢中になり始めたところで、頭を撫でられ、彼は再び悪魔から視界を星空に取り戻した。
「あとで、な?」
「いやよ」
「ベッド行けばすぐにでもできるだろ」
「今がいいわ」
「ダメ」
「や」
今まではわがままを言うこともなかったし、言ったことはなんでも叶えられてきた。そんな彼女が見つけた、思い通りにならないもの。それにこころ自身も振り回されていた。理性とは遠く離れていた本能と呼ぶべき、触れたい、独占したいのに彼は応えてくれないという不満。そんなままならない感情のまま、こころは頬を膨らませた。
「もうちょっと星を楽しもうって気はないのか」
「楽しんだわ、次はあたしを楽しんでほしいの」
「随分刺激的な誘い文句だなぁ」
離れそうにない彼女の金色の髪を彼は優しく撫でた。サラリとした手入れの行き届いた髪、そこから立ち上るフローラルであり温かな香りにやや惑わされそうになりながらも、彼は理性的であり続けた。
「弦巻家のお嬢さまがこれってのはどうなんだ」
「だって、不安になってしまうわ。あたしは、あなたにとって本当に必要なの? 本当に、あたしが全てを独占していいのか、迷ってしまうもの」
先ほどは自分がそれを否定したにも関わらず、こころはそんな不安な感情を吐露した。
独占したい、けれどそうすることが彼の笑顔のためなのかはわからない。
「こころ」
「……なに?」
「笑ってよこころ」
そんな感情に振り回されしかめっ面の彼女を前に、彼は笑顔を向けた。太陽にはとても叶いそうにない、小さな笑顔を生み出した。
だが、その言葉は弦巻こころが弦巻こころたる所以を取り戻させた。世界を笑顔に、彼女は笑顔でいることで、周囲を幸せにしていく、太陽なのだと彼は訴えかけた。
「俺はこころを置いてったりしない」
「……あたしがわがままでも?」
「どんなに迷惑お嬢様でも、だ」
周囲を巻き込むことがしばしばなこころだが、それに振り回される方の気持ちは彼は嫌というほど知っていた。
──楽しい。いつの間にか、顔が綻ぶ。そんな風に正しく誰を笑顔にするために輝く太陽のようだと。
「……大好き!」
「おわっ!?」
そんな言葉に大袈裟な感情を荒ぶらせて、ガタンと椅子が倒れてしまうのもおかまいなしにこころは彼の首に腕を巻いてハートを飛び散らせた。
「やっぱりあたしっ! あなたといられるのがサイッコーだわ!」
「……そりゃよかった。できたらどいてくれ」
「もうちょっと!」
「いやいや、もうちょっとってお前なぁ……」
馬乗りになった太陽を見据えた彼は、まぁいいかとため息一つで受け入れることにした。
彼女でいっぱいになった視界の後ろには、天の川を挟んだ輝く二つの星があった。
その二つの離れた星に笑われている気がして、彼はうるせぇな、と笑った。星も彼女の笑顔も楽しめる方法なんて、それこそ、考えればいくらでも思いついたことに、今更気付いたのだった。
夜が更け、だんだんと西へと移動していく星を見ながら、こころはそこにキラリと闇夜を滑り落ちる光を見つけた。
願いが叶うにしては早すぎる落下スピードに、目を奪われ同じものを見たであろう彼に振り返った。
「流れ星だわ」
「え、見逃した」
「どこ見てたのかしら?」
うるせぇ、という背中から聞こえてくる返事に対してこころは、仕方がないわね、と体重を後ろに預けた。
彼の体温に包まれ、言い知れない幸せに浸る彼女と、そんな彼女から伝わる体温に心臓を早くさせる彼はテラスを吹き抜ける風を浴びていた。
「ってか、あんまり外いると風呂上りなんだから風邪引く」
「ふふ、そうね」
名残惜しそうにテラスから部屋の中へと戻っていく寝間着姿の二人は星の明かりに照らされた大きなベッドに腰かけた。
ゆったりとした空間、だというのにこころは彼の頭を自らの膝に乗せて、満足そうに微笑んでいた。
髪に触れることも触れられることも、肌に触れられることも触れることも、彼を感じる全てが、こころにとっては愛おしいと思えるものだった。
「どうかしらっ」
「マジで寝心地サイコー、柔らかいしいい匂いするし」
「に、匂いは……ちょっとえっちだわ、あ、ダメ、こっち向いたらダメよ、そっちはもっとダメっ」
意地の悪い笑顔で頭の向きを180°回転させようとした彼を必死で留める。羞恥のまま唇を尖らせてそういうのはよくないわ、と説くこころに向かって、彼は一言ため息をついた。
「それ、こころが言う?」
「う……それでも、そういうのはマナー違反だわっ」
先刻彼の膝で誘いをかけ、尚且つ現在は脚を惜しげもなく晒し、パーカーを被っただけの彼女は裾を引っ張りながら彼の頭を押さえていた。
真夜中の攻防を制するのはいつも彼だった。そもそも、本気で嫌がるわけではないこころに勝ち目など最初からないのだが。
「えっち」
「誘うから」
「えっち」
「……いや、だって」
「えっち」
「はい……ごめんなさい」
「わかればいいのよ」
太陽のような彼女にも、休む時がある。ならばせめて、彼女の安らぎになろうと彼は思っていた。そしてそれは、彼女も同様だった。
「でも……そんなえっちでも、あなたはヒーローよ、あたしのヒーロー」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないわ!」
いつだって傍にいてくれる、いつだって見守ってくれる。そんな優しくて強い彼を、こころはいつもそう呼んでいた。
──あたしのヒーロー。笑顔を取り戻すヒーローになりたかった太陽が見つけた、本物のヒーローは、ともすればただの平凡な一人の男だった。少なくとも彼は自分を物語にするならそう書くね、と笑うのだった。
「お、おいこころ」
「それは嫌いよ……あなたの物語なら、どうしてあなたが一番じゃないの?」
彼の腕の中に収まり、こころは叱咤するように言葉を紡ぐ。もしもこころなら、自分の愛する彼をそんな風に
「あなたはいつでも、あたしを守ってくれるヒーローよ。大好きな、旦那様ヒーローよ」
そんなありがたくも厳しい言葉を受け取った彼は、彼女を離すことなく意識を堕としていった。自分の身体から力が抜けていく感覚、また朝日が昇るまで、しばしの別れになるであろう大切で、愛おしい彼女の身体を抱いたまま、彼は最後にポツリと言い残した。
「ありがとう……愛してる」
「……ずるいわ、寝る寸前に言うだなんて……バカ」
その言葉を噛みしめながらこころも段々と眠りにつく。本当はもう、限界だった。彼が寝そうになる更に前から瞼が重く、何度か意識を手放してしまいそうになるのを堪えていたのだった。
先に寝てしまったら、彼を一人にしてしまうから。強くて弱いヒーローを一人にしてしまうのは、こころにとっては自らが苦しむよりも辛かった。
大人たちはこれを子どものような恋だと、笑いものにする。依存しあって、二人だけの世界しかないなんてことはないんだよとでも言いたげに揶揄する。だがこころは確信していた。彼の言葉に嘘はなく、また自分の言葉には一切の嘘も一時だけの感情もないのだと。
──たとえ浮気をしていても、たとえわがままお嬢様でも、二人は二人のままこうして夜空を見上げて生きていくのだと。
そしてその生き方で、もっと数多くの人々を笑顔にしていくのだと。いつまでも、ヒーローの隣に寄り添って。