午後十時、冷房の効いた快適な部屋。ベッドに身体を預けた松原花音は水色のクラゲがデフォルメされたクッションを抱えながら、メッセージアプリでやり取りをしていた。
返事が来るたびに花音は頬を緩ませる。頬を緩ませながら、メッセージでは拗ねたようなやり取りを繰り返す。
『知らない、今日も構ってくれなかったもん』
『いや、他にヒトいたから』
『ふんだ』
『拗ねるなよ』
その返事に、花音はデフォルメされたシャムネコが唇を尖らせながらそっぽを向くメッセージスタンプを送った。構ってくれなくて不満だったというのは事実だが、独占している現状を楽しむかのように、花音はベッドで微笑みながらスタンプを連打していく。
『わかった、明日は一緒に大学行くから、な?』
『本当? じゃあ待ち合わせしよっか』
去年の秋に出逢って、恋に堕ちてから今日まで、彼女は自分の中にこんなにもわがままでどうしようもなく甘えたがりな一面があることを初めて自覚した。
電車に乗るまでの時間だけの独占では飽き足らず、花音は次に通話ボタンを連打するスタンプを送った。電話したい。声聞きたい。そんな花音のわがままに、彼は応えて電話を掛けた。
「もしもし」
「えへへ、もしもし」
数時間ぶりの彼の声、なのに待ち焦がれていたように胸が高鳴っていた。本当はずっとそばにいたい。同棲でもしたい、と思ったがそれは花音の両親も彼の両親も納得しなかった。付き合いの浅い状態の同棲はトラブルの原因になり得るのだから当然だと彼も頷いていた。
「今日はね、バイトでひまりちゃんと巴ちゃんがね、喧嘩してたんだけどすぐ仲直りしちゃうの。いっつもそうなんだけどね」
「本当に仲良しなんだな、その二人は」
「うん、そうだね」
他愛のない会話を繰り返すだけで、花音の胸に言葉にできないほどの幸福感が溢れていく。彼への想いを、どんどんと募らせていく。その度に花音は砂糖のように甘く、わがままになるのだった。
「ねぇ、今週末暇?」
「お生憎様、バイトだ」
「やだ」
「やだって言われても」
「会いたい」
しかしそれじゃあバイト先来るか? と問われては花音はまたやだ、と唇を尖らせた。二人きりになれば片時も離れたくないとばかりに甘える花音も、誰か人の目があれば適度な距離を保っていた。付き合う前からあまり違いが出ないため、一部の友人には心配もされているのだが。
「デートしたいなあ」
「したいなあって」
「水族館行きたい」
「花音はデートがしたいのかクラゲが見たいのかどっち?」
「どっちもだよう」
デートもしたいし、クラゲも見たい。愛おしい彼とクラゲを同時に堪能できる一石二鳥、更にカフェでお茶もすれば一石三鳥という機会を狙う花音だが、彼にため息をつかれてしまい、頬を膨らませて、抱き枕に顔をうずめて呟いた。
「冷たい」
「ん?」
「冷たい……構ってよう」
「構ってるだろ、じゅーぶん」
「全然、ダメ、不足してます」
「お前なぁ……これ以上は構えません」
やだやだ、と頭を振って駄々っ子のように彼の気を引こうとする。自分だけを見て欲しい。自分を生活の中心にしてほしい。そんな、笑ってしまえるほどの子ども染みた独占欲。花音としても、それが彼にとって最良の恋人ではないだろうとわかっていても、どうしてもやめられないのだった。
「いつ行くか……今決めるか」
「明日」
「大学サボんのはナシ」
「えぇ~……すぐがいい」
「明日は一緒に行くんだから我慢しろっての」
「やだ」
「そこでわがまま言ったら一緒に行くのもなし」
「やだ」
「じゃあちゃんと決めよう」
「明日がいい」
「……はぁ」
ピリっと彼の僅かな苛立ち、怒りを声色から感じ取った花音は、わがままを言い過ぎたこと、疲れているであろう彼を思いやれない自分を責める意味も込めて、ごめんなさい、と小さな声で謝罪した。そして、その謝罪に対して彼が放つ言葉は、厳しかった。
「謝るんだったら最初から、話を進めさせてほしいな」
「……うん」
「さっきの会話、まるっと全部無駄だし、実現不可能なことは言っても仕方ないだろ」
「……うん」
それでも、そうだとしても甘えたい。まるで二人きりでベッドで寝転がっているように構ってほしい。抱きしめて、キスをしながら甘やかしてほしい。
一緒にいる時に幸せだから、どうしようもなく満たされているから、だからこそ触れられる場所にいない時が苦しい。それを満たす方法を知らない花音は必死に甘えていた。
彼もそれをわかっているから、苛立ちはしてもその感情を花音にぶつけることはしない。泣かせても、彼女の渇きは満ちることがないことは、知っているから。
「明日、大学行きながら決めた方がいいな。なんなら迎えに行くよ」
「ううん……だいじょうぶ」
「そこで遠慮すんなよ。いつもだったら迎えに来てほしいなあ、ってわがまま言うクセに」
「だって……」
だって、そんなことをされたら、いつかそれを当たり前だと思ってしまう自分がいるだろうから。彼が迎えに来なくて、それに拗ねてしまう未来が想像できてしまう。
半年前はデートの予定を立てようとしてくれるだけで満たされていた。こうして声を聴けるだけで他に何もいらないくらいに幸せだった。一緒に大学へ行く、なんて知った日には朝から緩む頬を引き締めることができなかった。
──いつの間にか、それがあることが当たり前で、当たり前であるが故に満たされなくなってしまったこと。無いとどうしようもなく感情が抑えられなくなってしまうこと。家を出たら彼がいる、という幸せも、そんな当たり前に塗りつぶされてしまうことが怖かった。
「嫌われたくない……私、嫌われちゃったら……息もできないよ」
恋は水、彼は酸素ボンベ。満たされれば満たされるほど、いなくなった時に溺れて死んでしまう。あふれんばかりの想いを泳げるほど、花音は自分の恋慕を制御できていなかった。
マイナス思考に振り切れて、涙が止まらなくなる。彼に嫌われる未来を想像して、花音は恐怖という碇に囚われてしまった。足に纏わりついた恐怖は、花音を光の届かない海底へと、ゆっくり沈めていこうとしていた。
「……40分、その間我慢できそう?」
「え……?」
「今からそっち行く。電車はまだあるしさ」
「ふえぇ……い、今から……来て、くれるの……?」
そんな彼女をまた光の当たる場所に引っ張り上げるために、彼は既に支度を始めていた。寝間着から簡単なシャツとパンツに着替え、貴重品と明日の講義の用意をして、イヤホンマイクで彼女の声を聴きながら。
「な、なんで……?」
「そりゃ、花音のことをなんとも思ってなかったら、こんな面倒なことしない」
「……面倒」
「そう面倒なんだよ。もう風呂も入って着替えたのに、また着替えて出かけるってのはさ。でも、でもな花音。俺は花音が好きだ……花音が俺を想ってくれて、それに応えられないのは我慢できないくらいに」
彼が花音のわがままに、怒ってもいいくらいの甘えたがりに強く出られない理由が、それだった。
一緒にいて、幸せそうに笑ってくれる花音を大切に想っているから。わがままになってしまうくらいに想ってくれることが嬉しくて、どうしようもなく幸せだから。
「電車の間は返事できないけど」
「……うん」
「すぐ、会いに行く、駅のコンビニで待ってて」
「……うんっ!」
その言葉に、花音は涙を拭き、パジャマを脱ぎ捨て着替え始めた。丁度マンガを返してほしいと催促に来た弟に両親の説得を押し付け、花音は海の底から、光の当たる外へと飛び出していった。
駅への道、暗いと迷子になってしまう危険もある花音だが、全く迷うことなくまっすぐに指定されたコンビニへとたどり着いた。もう彼は電車に乗っていたために、遠くに駅名だけが聞こえてくるのをじっと待つこと数十分。花音は彼の名前を呼び、周りの目も考えずに抱き着いた。
「……ごめんね」
「いいよ、俺も、会いたかった」
「えへへ」
それと時を同じくして、花音のスマホに弟からのメッセージが入った。おそらく誤魔化すことなく真実を全て伝えたであろうメッセージの内容に、花音は怒りのスタンプをこれでもかというくらいに連打していた。
「なんて?」
「お夜食を作るので、ちゃんと連れて帰ってくること、だって」
「……申し訳ないな。ちゃんと返せるようにしなくちゃ。花音のお母さんにも、弟くんにも」
手を繋いで、彼の顔を見ながらの会話。通話では満たされなかった想いが満たされていく感覚。充足感が花音を包み込んでいた。
もう涙はなく、そこには笑顔だけが輝いでいた。
「一緒に寝る?」
「花音が寝るまではな」
「……シない?」
「弟くんが怒るぞ」
不満そうに頬を膨らませてみても、それはやがて口許が緩み、笑顔に変わっていく。だが、そんな笑顔がまた罪悪感と、いつか来る、これが当たり前になってしまう未来に、曇ってしまいそうになる。今は幸せでも、いつかこれが当たり前になってしまったら、次こそ呆れられてしまうのではないか、嫌われてしまうのではないかと。
「確かに流石に毎日はキツイな」
「……だよね」
「だから、そん時までに金を貯めること、花音もな」
「……えっと?」
「アパートとか借りるのに、使うからな」
彼はそう言ってキラキラと笑顔を向けた。花音が焦がれた笑顔。いつでも、いつまでも輝き続ける、それはまるで太陽のような眩しさだった。
花音はその輝きに、うん、と笑顔で応えた。会いたいという気持ちは我慢できない。ならば、いつまでも一緒にいればいい。そんな風にわがままと向き合ってくれる彼への想いに、花音はますます水を注いでいく。
「……夜中になったら、夜這いに行くから」
「なんで宣言した?」
「じゃないと大学行けないもん」
「なんだそれ。いや、我慢してくれたら……明日は俺んちが空いてるんだけどな?」
「じゃあ明日も」
「も、かよ」
迷子になりやすい方向音痴な花音が見つけた、いつも変わらない道標。
いつか彼の元へと帰るのが当たり前になったら幸せだな。いつかこんな風に一緒に帰る日が当たり前になる未来が、花音は楽しみで仕方がなかった。