【丸山彩】ただ一人のキミへ
彼女は目を閉じると、今でも鮮明に思い浮かぶ景色があった。ピンク色のサイリウムの光、涙に濡れながらそれでも笑顔で歌い続ける、あるアイドルの姿。
ファン一人一人は笑顔だったり泣いていたりと様々だったが、それでもおめでとう、という想いでサイリウムを振っていた。
「ありがとうございました! わたしっ、みんなのアイドルで、いられて……幸せでしたぁ!」
その言葉にファンの歓声が巻き起こる。
アイドルバンドという一つの時代を築いたアイドルスター、丸山彩……そんな彼女の華々しい引退ライブだった。かつての仲間が楽器を構え、彩は涙を堪えて歌い上げる。そんな夢のような舞台を経験していった。
「……起きてってば、遅刻しちゃうよ!」
「はっ、マジで?」
「はい、もう朝ご飯できてるから、早く!」
輝かしい日々から数ヶ月。彩はベッドに眠る彼を揺すり起こしていた。う~ん、と唸る彼を半ば無理矢理起こして、パンを目の前に出した。
髪を下ろして、すっかり馴染んだエプロン姿で彼を見送り、彩ははぁ、と息を吐いた。
「さて、掃除しないと!」
アイドルを引退し、彼女は一人の女性としての幸せを送っていた。大学時代に出逢った彼との暮らし、間近に迫る結婚という幸せに彩は顔を綻ばせた。
──とはいえアイドルは引退したものの、専業主婦でいるわけにもいかず、掃除を終えた彩は芸能事務所へと急いだ。
「あ、彩さん!」
「麻弥ちゃん!」
事務所に入ってすぐ、工具を手に持った麻弥に遭遇した。引退ライブ以来の再会に二人は笑顔で旧交を温める。
引退してから約半年ほど、彩は半ば活動自粛のような形をとっていた。それもそのはずで、彩が彼に出逢ったのは六年も前のことで、現在結婚を控えている二人はアイドル時代に付き合っていたのだから。
「あのヒトは元気ですか?」
「うん、今日も寝坊しそうになったの、慌てて起こしたんだよー」
「フヘヘ、彩さんはいい感じに奥さんできてるみたいっすね」
「……えへへ、そうかな?」
そうっすよ、と言われ彩はまた頬を緩ませた。少なくともかつての仲間たちは祝福してくれている。だがファンはどうだろう、それが彩の一抹の不安だった。今日事務所から呼び出されたのも単なる仕事復帰の話だけではないはず、そう確信していた。
「麻弥ちゃんはまだ仕事?」
「そうなんです……あ、でもでも、なんかジブンも呼び出されてて……なんなんでしょう」
「なんだろうね? 麻弥ちゃんもそろそろ表に出てみたらーとかそんな感じ?」
雑談を交わし、一旦は解散となった。
空いている時間はレッスン室を見学し、後輩と食事を摂った彩は集合時間五分前に会議室へとやってきた。
「あら……? 彩ちゃん」
「千聖ちゃん! 久しぶり~!」
「そうね、三ヶ月振りくらいかしら?」
ここでもかつての仲間であり友人でもある白鷺千聖と再会し、思わず瞳を潤ませているところで、扉が開かれた。
そこには先ほど再会した麻弥のほかに若宮イヴ、氷川日菜の顔があり、彩は今度こそ決壊してしまう。
「みんな~」
「あははは、彩ちゃん泣きすぎ~」
「だって、だってぇ~」
「よく来られたわね日菜ちゃん」
「丁度近くにいたんだ~」
高校生の当時、不安しかないようなスタートを切った五人が再び集められていた。
どうして、と考えた彩の目の前に今度はさらなる驚きが広がった。そこにはプロデューサーと一緒に、仕事に向かったはずの彼もやってきた。
「どうして?」
「営業だよ、新商品のCMの依頼」
「それで、丁度我々がパスパレの復活ライブを計画していまして」
「え、ええ~!?」
彩は今度こそ叫び声をあげた。
復帰は半年後、復活ライブとCMで再びお披露目ということになった。その前に丸山彩は彼との結婚報告を、ということになった。
「な、なんか……いいのかな」
「何が?」
帰り道、直帰してくれた彼に寄り添うカタチで二人は並んで歩いていた。彼との時間を得るために引退したのに再びアイドルとして活動できるという幸せ、事務所を通して公式にファンに自分のことを報告できる幸せ、そして、彼との時間を過ごせるという幸せ。
「二つ全部取って幸せになっていいのかな……?」
「そんなことを考えてたのか」
「だって」
こんなに嬉しいはずのことが、彩にはどうしても前を向くことができずに俯いてしまった。幸せであるはずなのに、そのあまりにも出来過ぎた幸せが彼女の顔を下に向けた。ステージで輝ける喜び、愛おしい彼の傍にいられる喜び、二つは両立していてはいけないのではないのか、そんな思いに駆られていた。
「彩」
「……なに?」
「彩ってエゴサをいつもしてたって白鷺さんから聞いたんだけど」
「え……う、うん」
突然の言葉に彩は疑問符を浮かべた。アイドルだった頃にはいつもSNSの検索に自分の名前を入力していた。引退の時にもそれを見てまた涙を浮かべた彼女は、その舞台から離れていくことで自然と、それをしなくなっていた。
「してみて」
「え……っと?」
「いいから」
どういう意図があるのか分からずに、彼に促されるまま、昔のようにSNSを開いた。半年前から動かなくなった自分のページから検索をかけようとして、その検索ワードのトップに自分の名前を見つけた。
「な、なんでトレンドに私が……?」
「さぁて、調べてみたら?」
「む」
その自分はわかっているよ、という態度に少しだけむっとして彩は自分の名前で検索し、その一番最初に見つけた記事に、彩は大きな声で叫んだ。
──そこには、丸山彩が婚約したという芸能事務所の発表が取り上げられていたのだった。
「え、で、でも……発表は、半年後の活動再開の時だって……」
「サプライズだよ。まぁ俺が計画したんだけど」
「えぇー!?」
出逢いから一年後、彼が就職した先で広報担当していて、CM依頼を彩に持ってきた。それでより繋がりが深くなったという始まりを持つ彼。
そんな彼が彩が復帰するこの時をずっと狙っていたのだと今更になってわかったのだった。
「な、なんで?」
「彩には欲張りでいてほしいんだよ」
「よく、ばり?」
「ほら、彩って割と遠慮がちでしょ? 俺が告白してからは毎日のように悩んでたし、プロポーズに応えるためって引退を宣言した。正直その時に彩の覚悟に惚れ直したよ」
──けれど、けれど彩はアイドルだと彼は言った。一緒に暮らしているうちによりアイドルとして輝く彩でいてほしいと強く感じていた彼は、彩のために奔走した。元メンバーに頭を下げ、事務所に頭を下げ、会社に頭を下げ、彼がお願いしますとありがとうございますという言葉と共に地面を見た回数はこの半年で数えきれないものとなった。
「彩、アイドルスターとしてもう一度、輝いて」
「……いいの? 私は、あなたと幸せになるって決めたのに……」
「ほら、これ」
迷う彩に彼が見せたのは、ファンたちの声だった。勿論彼女が懸念したようなショックを受けるような反応、マイナスの感情もあれど、大部分は祝福の声で埋め尽くされていた。おめでとう、お幸せに、復帰も待ってます。そんな声たちは冷たい端末の向こうでとても暖かな光を放っていた。
「……っ! いいんだよね……? 私っ、あなたと一緒にいても、輝いて……いいんだ」
「……うん、彩は、アイドルでいいんだよ」
多くの人に祝福され、その上で復帰を望まれているという事実に、決壊した思いと、溢れる想い。二つの感情が混ぜこぜに涙となって零れ落ちた。そんなとめどない感情はいつものように、泣き虫で愛おしい彼女を抱きとめるように、彼が受け止めていた。
アイドルを引退すると決めた時も、何か悩みがあった時も、出逢ってからいつだって彩の涙を拭ってきた彼の目尻にもまた、涙が光っていた。
「彩は、俺の彩でもあるけど……みんなの彩なんだ」
「……うん、そうなんだね。知らなかった……私は、こんなにも沢山の人に愛されてたんだ」
「ちょっと、妬けるけど」
「ごめんね……でも、私はあなたを愛してるよ……これだけは誰にも譲れない、特別だから」
「……彩」
手を繋ぎ、彩はただ一人特別に愛する彼と、愛する場所へと帰っていく。
夕陽が傾き、夜が来て、また彼女にとっての特別なステージは昇ってくる。トップアイドルとしての彼女と普段の彼女、そのどちらも、彼にとっては眩しいほど憧れ、そして愛おしいと感じた丸山彩だった。
──そしてそれは、彩にとってもそうだった。仕事として営業にやってくる彼と、家で彩に甘える彼、そのどちらも彩にとっては愛おしいただ一人の彼だった。