秘密の恋がしたいわけじゃないのよ、と彼女は友人に漏らしたことがあった。珍しく年相応な表情で、肘をついて、その手の上に顎を乗せて。まるで自分の髪や窓に映る顔が忌々しいかのように見つめながら。
「私は、この名前を捨てられない」
──白鷺千聖、という名前を聞いたなら、また彼女の顔を見たなら、道行く人は色めき立つ。
「どうしたらいいの? 私は、恋をしてはいけないのかしら……?」
女優として、アイドルとして、大成した彼女を襲った悩みはそれだった。恋をしてしまったこと。それが許されざる感情だと頭ではわかっていても、心はそれを否定した。
「私だって……」
「……浸るねぇ」
「浸って悪いかしら?」
それを向かいで聞かされた彼は茶化すように笑ってみせた。彼は千聖のマネージャーであり、彼女のフォローが仕事の一つだった。
だが今は別方面のフォローが必要だ、と嘆息する。
「千聖」
「なにかしら?」
「助けてほしいなら素直に言ったらどうだ?」
「なら助けだしてくれるのかしら」
トゲのある口調。目線を合わせることなく紡がれた言葉を彼は受け止めることなくコーヒーを口にした。
とある喫茶店の目立たない席で向かい合い、彼と彼女の机にはカップとケーキがそれぞれ置かれていた。片方は制服、片方はスーツ。しかもあの白鷺千聖であることも相まって、店員は二人の関係を疑うことはない。
「わかっているわ、どーせ私の悩みなんて十代特有の下らないセンチメンタルでしょうからね、もうあと数ヶ月もすれば二十代後半に足を踏みいれられるマネージャー様におかれましてはくだらないの一言で済ませますよねどうもありがとうございました」
「わかってねぇじゃん」
「何しに来たのよ」
「仕事だけど?」
まるで普段の千聖とはかけ離れた不機嫌な声音で放たれたマシンガントークだったが彼にはひらりと躱され、眉間に寄った皺に対しても、大人の表情と余裕でやめなさい、と言われますます不満が募っていく。
「……恋人のクセに」
「それ今関係あるか?」
「マネージャーのクセに仕事道具兼パートナーの私を誑かした挙句告白させて泣かせた結果の恋人のクセに」
「待て待て」
語弊と誤解をまき散らす千聖に対して、流石に焦りを見せながら彼は彼女の要望を聞き入れる体制に入る。
マネージャーとして、大人としてではなく、恋人としての顔を見せた。
「あのな……千聖、俺は別に」
「もういいわよ、次の仕事に行きましょう」
しかし、その切り替わったタイミングを狙って千聖は立ち上がった。伝票を持ち、会計ついでに領収書をもらう彼女の後ろで、彼は小さな声で呟いた。
「経費で落ちないと思うけど……」
「後で、あなたに請求しますから、そのために貰ったの」
「お、おい……わざわざか」
「はい」
そうして、領収書の名前に素早く白鷺千聖のマネージャー、と文字を走らせた。やけにマネージャーという文字に力が入っているのは気のせいではないだろうな、と彼は速足に歩きだした彼女の後ろをついていく。
「おい、千聖っ」
「話しかけないで」
「お前なぁ」
「いいわよっ、私なんて、私なんて……っ」
演技よりも演技らしく、けれども千聖らしくないその怒り方は彼に対する甘えの意味も籠っていた。
恋人、とは言うが恋人らしいことを何度したことか。そんなやはり自分は無邪気に恋ができないということへの絶望がその中にはあった。
「待てって、おい千聖」
「っ、はなして」
人通りの少ない商店街で、彼は千聖の腕を取った。だが勿論意地を張る千聖は振り払うと躍起になる。痴話げんかを繰り広げる二人に対して、傾いた陽の中を歩く僅かばかりの通行人が彼と彼女に瞳を向けた。
「騒ぐと騒ぎになるぞ」
「……サイテー」
「あん?」
「そうやっていたいけな女子高生に向かって脅し文句をしかけるというのね」
「いやいや」
「いいわよ、脅してハメて撮影して私に首輪でもハメてきゃんきゃん言わせればいいじゃない」
「いやお前何言ってんの?」
突如口から飛び出た女優でアイドルで女子高生である彼女から出てはいけないワードたちに、さしもの彼もたじろいだ。唯一の救いは通行人には会話が聞こえない範囲のトーンであること。聞かれたらどうなるか、それは彼も彼女も周知の事実だった。
「……素直になれよ」
「じゃあ今すぐ愛の証明に婚姻届にサインして」
「素直になれてねぇんだよなぁ……」
やっと足を止め、ツンと顔をそむけた千聖に彼は説得を試みる。だが会話をあさっての方向へと投げ捨てていく彼女は、まともに取り合うつもりが最初からなかった。
故に、彼への言葉たちも届いてほしいと思っても、届いていないことには気づけないのだが。
「素直ってなに、なにをどう素直だって言うのかしら?」
「お前なぁ」
彼がやや不機嫌そうな声音を出し、手を肩の高さまで上げたたことで、千聖はびくっと肩を震わせた。
そして、反射的に瞑った目を開いた彼女が見た景色は、穏やかな表情をしながら頭を撫でてくる、恋人の姿だった。
「ったく……なんでもいいけどよ、次の仕事終わったらちゃんと電話しろよ」
「……どう、して?」
「迎えに行く……嫌だったか?」
はっとしたように首を横に振ると、ならよし、と彼は前を歩き出す。彼女の頭の中には、今の言葉が違う意味を込めてくれているのだという期待でいっぱいになっていた。
秘密の恋がしたかったわけじゃない。けれど、二人だけの合言葉が増えていく度に、千聖は年相応の表情で笑みを零すのだった。
「……イタリアンがいいわ」
「お、今からもうメシの話か」
「奢ってくれるわよね?」
「へいへい、お姫様の仰せのままに」
黄昏に染まるスーツの後ろ姿に追いつこうと小走りに近づき、彼の横顔を眺める。その度に千聖は胸が高鳴るのだった。
──作戦通り、とすっかり日が暮れた街の夜景をカーテンで遮り、ワイングラスを手に千聖はほくそ笑んだ。
イタリアンをねだった時から、それ以前に喫茶店で拗ねた時から、彼女はここまでの流れを思い描いていた。狡猾に、貪欲に。
「……千聖、俺の服どこにやった?」
「さぁ? ちゃんとバスローブは置いておいたつもりだったけれど?」
「そうだな、それしかなかった」
「まさか酒を頼んでたとはな」
「うふふ、飲酒運転はいけないものね♪」
「……そうだな」
レストランで半ば強引にワインを飲まされ、車という移動手段を失った彼は帰るに帰れぬまま、すぐ近くのホテルに連れ込まれた。ビジネスホテルでもラブホテルでもないその豪奢で広々とした部屋に、何処からか取り寄せた──またもやワイン。それを千聖は躊躇うことなく口をつけていく。
「おい、未成年」
「通報する? 逮捕されてしまうのはどちらかしら……ね?」
流し目とチラリと肩をはだけさせての脅迫と誘惑の追撃に、ついに彼は折れた。とことんまでこのわがままな
「あんまり飲むなよ」
「ええ、わかってるわ」
カツン、とグラスを打ち合い、机とワインを挟んで二人は、大人でも子どもでもマネージャーでも女優でもアイドルでもない、ただの男女としての二人きりの時間と空気に身を浸していく。
「これが……大人の味、なのね」
「慣れてそうな割には子どもっぽい感想だな」
「パーティでシャンパンは飲んだことはあるわよ、ノンアルコールの」
「はは……そうか」
雰囲気に呑まれ、気付けばもうワインのボトルが空になりそうになったころ、千聖はすっかりアルコールという魔物に取りつかれていた。うまく平衡感覚がつかめず、感情の抑制が聞かない。それでも意識が妙にハッキリとしていた彼女は、左の膝を抱えて甘えた表情で彼を呼んだ。
「ん?」
「……酔ってしまったみたいなの」
「そりゃあ……大変だな」
「運んでくれるかしら?」
しっとりとした表情で、甘い毒を垂らしていくように。唇に、瞼に、指先までを意識して千聖は目の前の彼を誘惑していく。舞台女優としての経験を活かして、演技がかったように、けれどわざとらしさは与えずに。千聖は少女ではなく女を演じていく。
「ったく、そんなに確かめようとしなくても、今更だろ……千聖」
「きゃ──っ」
──しかし、アルコールに身を任せなければできなかったことを、彼は最初から覚悟してきていた。彼女と同じ部屋に泊まるということはどういうことなのか、彼女と同じベッドで眠るということはどういうことなのか、年上である彼がわからないはずはなかった。抱きかかえて運んだのも束の間、ベッドに半ば強引に寝かせ、彼女の手首を持つ。千聖が全て自分の影に隠れた状態で、彼はたった一言だけまだまだ詰めの甘い彼女に忠告をした。
「据え膳食わぬは男の恥……ってな。お前がホテルを予約したって聞いた時からずっと、俺はこうするつもりだったんだよ」
「……ケダモノ」
「おいおい、啼かせてほしいっつったの、誰だよ」
「……言ってないわよ、そんなこと」
千聖は逆光で見えない彼から顔を逸らした左手首はしっかりと彼の手が巻き付いており、それが千聖の心拍を高まらせていた。
こんな彼は初めてだ、いつもなら自分が脱ぐまでなにもしてこないのに、とぼやけていく頭で思った。
「言ったろ? 脅してハメて……ってやつ」
「言葉の綾よ」
「じゃあ、やめるか?」
「……するわ、シて……あ、でも……」
「でも?」
「……電気は消して……お願い」
真っ暗になった、空調の音とシーツの擦れる音だけが響く部屋で、アルコールで火照った身体に彼の手が当てられる。その度に、千聖は秘密の恋に溺れていくような、まるで愛情と言う名の首輪をつけられたような、逃れられない感情に絡めとられていく。
彼のことしか考えられなくなるまま、彼の肩に爪を立て、絶叫を上げていく。愛おしい彼の名前を呼び、愛おしい彼に名前を呼ばれ、愛してるとささやかれる。
その度に、彼女は思うのだった。自分が白鷺千聖で、よかったと。女優としてアイドルとして彼女が活躍したからこそ出逢えたのだから、彼がその名前を呼んでくれるから。ただまっすぐに、千聖、と短く。
「浸ってもいいけどな、千聖」
「ん?」
「お前はまだまだ十代だし、センチメンタルになっちまうのもわかるけどさ……俺がいること忘れんなよ」
秘密の恋は、独りではできないんだからな、という背中からの声を聞き、千聖はそうね、と目を閉じたまま笑ってみせた。
真っ暗な部屋はもう、時計の音と、時折身じろぎする度にするシーツの音だけを響かせている。そんな静寂の中で、千聖は友人には決して伝えることはできないであろう結論を彼に聞かせたのだった。
「──秘密の恋がしたいわけではないけれど、あなたとの秘密の恋は、ずっとしていたいわね」
「なに言ってんだ」
「浸っていいって言ったじゃない」
「へいへい、あー、明日どうすんだこれ……」
頭を抱える彼のぼやきを聞き、千聖はくすくすと笑う。そして、
「それなら有給でも使ったらどうかしら? 私、オフなのだし?」
行きたいところがあるのよ、と言い出した天下の女優兼アイドルの計画に、彼は舌を巻かされることとなった。
まるで一緒にいる時間全てを掴まれているような感覚に、彼はどっちが首輪をつけられてんだろうな、と暗闇に呟いた。