氷川日菜はモテる。大学で彼女はアイドルでありながらも何人もの男性に好きと言われたのだろう。付き合ってほしいと言われたのだろう。
──だが、その星の数ほどの告白を日菜はたった一言、一言一句違わずに同じ言葉でフるのだった。
「うーん、ごめん興味ない」
興味がない。それはどれほど想いを込めても届かぬ亀裂だった。
氷川日菜にとって他者はそれほどのものでしかなかった。以前は、彼女がまだ制服に身を包んでいた頃にはそうでもなかったのかもしれない。自分と他人が違うことすらまだ理解したてだった彼女には他者というものは興味の塊だった。だがそれも数年経ち、氷川日菜は色々な意味で、大人になっていたのだった。
「おーはーよっ」
「おはよう、じゃないでしょ。また遅刻?」
「あはは~、ごめんごめん、思いのほかあったかくってさ~」
大学の講義室で、またその無邪気な明るさを振るう日菜に彼はそう溜息と共に返事をした。
それ以上興味もないという風に本に目線を戻した彼に、日菜は当たり前のように隣の席へと座っていく。
「……気が散るんだけど」
「講義中くらい静かにしてられるよー」
「そう言って寝息を立てられると気が散るんだよ」
「神経質なんだね~」
「……この」
キミが大体ズボラすぎるんだと何度目かの言葉を日菜ははいはい、と聞き流す。だが彼女の口許には他の人間に話しかけられるのとは決定的に違うものが浮かんでいた。
講義までまだ多少の時間がある。がやがやと色々な人間の話し声に包まれたそこで、日菜も雑談を始めていく。
「ねね、今日活動日でしょ? どーするの?」
「ダンスサークルは?」
「あーあれね、それよりあたしは星が観たい気分だし」
「……知らないよ」
天体観測サークル。日菜が立ち上げた、今や彼と彼女の二人だけのサークルの名前に彼はまた溜息をついた。天体望遠鏡を持ち込んで、大学の屋上を借りて星を観る。そんなくだらない、もうすぐ消えてしまうサークルの名前と活動を、日菜は何故だか楽しそうにこなしていた。
「氷川は」
「んー?」
「……どうしてそこまで星を観たがるの?」
「そーゆー気分だから、かな?」
そう、とその言葉を単なる気まぐれや適当なものだと捉え、彼はまた興味を無くしたように本を閉じた。丁度そのタイミングで講師がやってきて、春になりきらない講義室に一人の声が響き始めた。
「ねぇ」
「講義中は話しかけるなって言ってあるだろ。気が散る」
「……つまんない」
頬を膨らませ、日菜は顔を伏せた。大学の講義も、講義内容をまるで呪詛のように淡々と言葉にしていく教授も、すべてが彼女の二つの言葉で灰色に沈められていった。
──興味ない。つまんない。氷川日菜は日常の中で失ってしまった興味に飢え、退屈という渇きに苛まれているのだった。
「氷川」
「なに」
「……お昼、部室で」
だがそれでも、誰もが驚くことに講義に出席し、単位を獲得しているのはたった一つだけ日菜の飢えと渇きを満たすものがあるからだった。
日菜は彼が使い終わったルーズリーフにロケットを落書きしていく。その顔はまるで、幼い少女のような無邪気な輝きが宿っていた。
日菜にとって彼は同じサークルにたった一人残った人物であり、隣にいてもまるで窓から差す日の光のような温もりのある人物であり、そして。
「それで? 今日は晴れてるし普通に活動──!?」
「その前に、じゅーでんするっ」
「は、はぁ? ち、ちょっと……
二人は他人には伝えていない秘密の恋人同士でもあった。
誰の視線のなくなる天体観測サークルの部室で弁当を広げる前に、日菜は彼に抱き着き、服に顔をうずめた。
「んー、るんってするぅ……♪」
「いや普通の洗剤の匂いじゃないか?」
「違うよ、キミの匂いもするでしょ? 他にも講義室の匂いとか、えーっと」
「そんなに解析できるもん?」
とにかく全部合わさってるからるんってするの! と笑顔を見せられ、彼はそっかとこの追及を諦めた。
一通り甘えた日菜はすっかりいつもの笑顔を取り戻し、ご飯を食べつつ、あったことを色々としゃべっていく。
姉の話、アイドルとしての他のメンバーの話、駅中にあるスイーツのお店がおいしそうだという話、他愛のなく意味もない会話に彼は相槌を打っていく。
「あ、あとね、生徒会の子がね、カレシにプロポーズされて……」
「結婚するんだ?」
「みたい。あたしより年下なんだけど……結婚って、そんなにしたいものなのかな?」
「わかんないな」
少なくとも彼にとって、結婚とはまだまだ遠い未来のことのように思えていた。就活に忙しいとはいえ、まだ来年も大学に通う身であり、サークルの維持はできなくても、日菜とは変わらない日々を過ごしていく。そこでいきなり結婚という言葉を向けられても、彼には何ひとつ感慨もなにも湧いてくるものではなかった。
「結婚する……としたらキミと、だよね」
「わかんないよ」
「別れる気なの?」
「……そういうわけじゃないけど」
就職先が決まって、ある程度自分で稼げるようになって……そんなものが数年分も、積み上げられる以上、その先で家庭を持つ相手が必ずしも学生時代に付き合っている恋人だとは限らない。そんな現実的であり得るかもしれない不明瞭な未来の話をした彼に、日菜は、んーと考えるような仕草をした。
「あたしたち、何があったら別れると思う?」
「……何突然」
「それだったらさ、わかんなくないでしょ?」
「なんだろうね……」
彼は今すぐ別れてしまうほど許せなくなる要因を挙げていく。浮気をしている、借金があるかも、実は黙っていたけど黙っていたままじゃ付き合っていけないほど重要な秘密がある。などなど、そんな列挙された言葉たちに日菜はまたもや無邪気な笑みですべてを吹き飛ばした。
「あるの?」
「ないよ」
「じゃあ別れないね」
「そうだね……ってなんで嬉しそうなの?」
「キミと一緒にいれるんだなーって思ったらこの顔になっちゃうんだよ」
付き合いたての頃は喧嘩の絶えなかった二人だったのだが、最近は喧嘩をしたことがなかった。それほどまでに彼女が傍にいることが当たり前であり、彼女が嫌だと思ったことがいつしか彼にとっての当たり前の日常に変わっていった証拠だった。
「俺は日菜が俺に興味を持ってくれてるか、今でも内心不安だよ」
「興味かー」
「……ん?」
「ううん、最初は興味だったんだけどさ、今はほら、キミのこといっぱい知ってるじゃん?」
それはその通りだ。一緒にいる時間が長いんだからと彼は頷く。そこで日菜はだからもうとっくに興味はないんだよね、と呟いた。日菜にとってもう彼は知り尽くした相手であり、知りたいと思う相手ではないという事実を単純に突き付けていく。
「でも不思議でさ……パスパレもそうなんだけど、知ってるのに一緒にいて退屈しないし……なんかね、特別なんだよ」
「特別、か」
「うん、トクベツ」
興味があるわけではないけれど、それでも一緒にいたいと思える。なによりも自分をただ一人の氷川日菜として見てくれるということが、彼が彼女に選ばれた要因だった。
ほっとしたように微笑んだ彼に向かって食べ終わった弁当箱を乱雑にしまってから、嬉しそうに椅子を彼の隣に置いた日菜がネコのように目を細めて彼の温もりに頭を預けていく。
「ねーねー、星観た後泊まってっちゃダメ?」
「怒られなかったらな」
「うんっ、電話してみるー!」
底抜けに明るい声で電話をするために離れようとした日菜を手招きし、彼はその頭を撫でていく。傍にいてもいい、と言われたような気がした日菜はますます笑みを輝かせて、腕にまとわりつきながら電話を始めた。母親が出たようで、軽い調子で恋人の家に泊まってもいいかということを伝えていく。母からまず出たのは着替えとかは、という言葉だった。
「あー、どーしよ」
「……いっそのこと三限休んだら? 別にノートとか取らないだろ?」
「あ、そっか!」
また余計なことを教えたな、と少しだけ後悔しつつも何かある度にくっついてくる日菜の顔を見てまぁいいかと彼は思うことにした。日菜はそれから何度かやり取りをしていると唐突にぱっと顔を上げ、いいの!? と声を出した。最高潮に嬉しそうな顔をした日菜はわかった、じゃあねという言葉を最後に通話を終えた。
「どうしたの?」
「えへへ、おかーさんが持ってきてくれるんだって。サボんなくて済みそう」
「よかった。悪いこと教えたんじゃないかってヒヤヒヤしてた」
「えー、あたしそんなカンタンにサボったりしないもーん」
講義が退屈でも、興味のない人に話しかけられても、それでも彼女は寝坊はしてもサボることは一度もなかった。
それを彼はどうしてとは問わないところが、また日菜の心を弾ませた。同じ気持ちでいてくれているから伝わるという幸せが、二人の空間を埋め尽くしていく。
「えへへ……好き、好き好きっ、大好き!」
「ぐっ……きゅ、急に突進してくるな」
「だって! 二人きりの時はちゃんと伝えてほしーってゆったのキミだもん!」
「物理ダメージで伝えてくるんだな?」
「うんっ」
文字通り好きを伝えるために頭を下げて抱き着き……もとい突進をした日菜の石頭を鳩尾で受け止めた彼は、その痛みに呻きながらも、俺も日菜が好きだと優しい声で返事をした。締め切られた窓を突き抜ける日の光で暖められた部屋が、彼の声を同じような温かさで日菜を包み込んだ。
「うーん、もっと誰かいても関係なくぎゅってしたい」
「恥じらいを持ってくれない?」
「え、恥ずかしくないよ?」
「……あのな」
そもそも日菜はアイドルだろとツッコミを入れられ、彼女はそーだけどさーと胸の内にある不満を隠すことなく吐露していく。
好きな時に好きと伝えられないという不安がないわけではなかった。可能な限りは彼の傍にいるが、周囲はルックスもスタイルも他とは一線を画す氷川日菜というアクセサリーを身に着けようと必死にアピールをしてくる。そのせいで昼にこうして二人になれない時もしばしばあるのだった。
「あの人たちにとってカノジョは服とおんなじだよ。ブランドものをオシャレに着こなせばステータス、みたいな」
「……まぁ、そんな感じする」
「でもキミは違う。だからあたしは一緒にいたいって思ったんだもん」
その出発点が恋だったかと問われると、日菜も彼も違うと答えるだろう。だが二人は恋をした。アクセサリーではなく、アイドルなんていうブランドも関係なく氷川日菜を受け入れた彼を、いつしか日菜は特別だと感じるようになっていた。
「あ、でもさ日菜」
「なにー?」
「構われて鬱陶しいなら俺のとこ来ていいから。カレシです、って堂々とは言えないけど、独占くらいはしてあげるよ」
「……っ、い、いいのかな~? あたしが構ってほしくなってしょうがなくなっちゃうかもよ?」
「講義始まるまで、ってことでどうだ?」
「──るんってきた!」
困らせようとしても、困ってくれない。自分がきっと他人には理解されないことを言ったとしても、理解はしないけれどしないなりの言葉をくれる。日菜にとって彼は特別の塊だった。自分が恋をするためにここで待ってくれたのだとすら思えるくらいに、日菜と彼は感情のバランスの取れた二人になっていた。
「卒業まで後一年だね」
「ん? そうだな」
「卒業したら、同棲したいなぁ……なんて」
「いいよ」
「いいの!?」
「なんでびっくりすんだよ……日菜ならそう言うと思ってたよ」
わかっちゃうのかぁ、と日菜は彼を見上げ、一等星のような笑みを浮かべた。色々なものが積み重なった未来という名前だけがキラキラとする暗闇に、それでも確実な線を引いていこうと彼は決めていた。
──日菜と共に過ごすという先を、見つめるために。