空は橙を段々と紺色に変え、星が目覚めていく。月明り下には星のようにまばらで淡い提灯が踊っている。
祭囃子に太鼓の音が聞こえ、屋台がひしめく参道は色とりどりの浴衣姿や私服姿の老若男女ににぎわっていた。
──そんな人込みの中、一人の女性が息を切らせて小走りに男性の元へとたどり着いた。その容姿はまるで妖精のように通りゆく人を振り返らせた。
「す、すみません! 着付けに時間がかかってしまって……!」
大きな瞳を伏せて謝罪を示す彼女の名前は若宮イヴ。提灯の明りすらも反射し銀色に煌めく髪、アジア系と欧州系の間のような顔立ち、長身にスラリとした手足を持つ彼女は、今日は白色にピンクと青の蝶が舞う浴衣姿だった。アップにした髪は普段見せないうなじが協調され、鎖骨や細い腕、ひらりと跳ねる脚は魅力にあふれていた。
「いや、いい……いいんだ」
「よくありません! かくなるうえは、腹を切って……ってどうしたんですか?」
「なんでもない……腹を切ったら意味ないだろ」
そんな一段と妖精のような妖しさすら感じる女性に待っていた彼はそれに文句も愚痴も言えなくなるほど、見惚れていた。
顔を覗き込まれ、浴衣では少々はだけすぎる胸元から視線をそらしながら紺色の甚平姿の彼はイヴの手を握った。
「あ……」
「人多いから、はぐれるなよ、イヴ」
「──はいっ!」
不器用で恋愛下手な彼から手を握ってもらったということで既にイヴのテンションは最高潮に近くなっていた。寄り添い、そしてあまり縁がなかった夏祭りというものに指を差し、彼を振り回していく。
リンゴ飴、チョコバナナといった屋台ならではの食べ物、射的や輪投げ、スーパーボールや金魚すくい。彼女はその度に目を輝かせた。
「金魚! 日本の夏の風物詩ですね!」
「金魚ならウチにいるんだけどな、年中」
「……あれは、あんまりかわいげないですから」
そのセリフに彼はぷっと吹き出し、笑い始めた。数年間庭の池に生息する金魚はサイズもふてぶてしさも、金魚すくいで憐れにビニールの狭い世界に晒されるものとはまるで違っていた。エサをねだる肉食のような荒々しさはかわいさの欠片もないものだとイヴは常々感じていた。
「ブシとして……狙いは外しません!」
「射的でブシドーもクソもないんじゃないか?」
「そんなことは──あ」
射的ではこれまたブシドーとはかけ離れたかわいらしい小物を狙うイヴだったが、思うようには弾は当たってくれずに全く何もないところへと消えてしまう。眉根を寄せたイヴを見兼ねた彼は貸して、と銃を取り、コルクをつめていく。
「こーゆーのはだな、ブシドーとかじゃないんだよ」
「……え?」
「理屈だよ。どこに重心があんのかとか、弾のブレかた、とか……な!」
そんなことを言って放った
「すごい、すごいです!」
「だろ? まぁ取れなかったけどな」
「それでも、やっぱりすごいんです! もっと自慢しましょう! ケンソンなんていりません!」
彼が自分のできなかったことをしてくれたことが嬉しくて、自分のために何かをしようとしてくれたことが嬉しくて、思わずイヴは彼に抱き着いていた。ハグしましょう、といつものクセであることもあり彼も特に恥ずかしがることもなく彼女の背中に腕を回しありがとう、と笑った。
──射的の店主の咳払いが聞こえるまでは。
「あ……す、すいません」
「いやいや、ラブラブでいいじゃねぇか! ほら、カレシの頑張りに免じて、お嬢ちゃんにはこれをプレゼントだ」
「え、い、いいんですか!?」
「遠慮はいらねぇよ」
「ありがとうございますっ!」
深々と頭を下げてイヴは小さな白色と青色のイルカの置物を店主から貰い、巾着袋に入れた。
──アイドルとなる以前から付き合いがあった彼との関係を続けてることが本当はアイドルとしてよくないことをわかっている。けれど、よかったなと頭を撫でてまた手を繋ぎなおしてくれる彼は、イヴにとって何よりも代えがたい宝物だった。
カランコロン、と慣れない下駄と浴衣の歩みに合わせてくれる彼が、イヴは何よりも大切なヒトだった。
「花火、人多そうですね……」
「だろうな」
「でも、キレイな花火、日本の和の心! 見たいです!」
あなたと一緒に、花火が見たいんです。そんな気持ちを込めた彼女の言葉に、彼はそういうと思ったよ、と笑う。笑ってだからとっておきの場所を教えてやる、と彼女の手を引いた。
「え?」
「とびきりの場所だよ。人込みもないしゆっくり座ってみれるし、イヴが人目を気にすることのない場所だ」
「それは──」
どこですか? という言葉に彼はいたずらっ子のような笑顔で提灯の明りから、人々の喧騒から離れてく。その道をイヴは知っていた。庭が広くて少し高いところにある、祭りのすぐ近くにある、彼の家だった。
庭に椅子を置き、そろそろだなとスマホを見た彼の言葉を待っていたように、二人の眼前に夜空に、大輪の花が咲いた。色とりどりの鮮やかな燃ゆる花たち、その迫力にイヴは感嘆の声を上げた。
「わぁ……キレイです」
「だろ? まぁ、めちゃくちゃうるさいんだけど」
苦笑い気味の彼の言葉をかき消すように、花火は轟音を鳴らして空気を揺らす。そのあまりに大きな音の中でも話ができるようにとイヴは彼の肩に頭を乗せた。
暗がりにパっと一瞬光るその景色の中、二人は何度もその影を重ねていった。人目を気にする必要のない二人だけの世界の中では、花火の轟音ですら、阻むことはできなかった。
「とってもハクリョクマンテンでした! 感動しました!」
「それはよかった」
花火も終わり、静寂を取り戻した中で、イヴはその余韻に浸っていた。既に紺碧に染まった空には月明りと星の煌めきだけだというのに、彼女の瞳の中には未だにカラフルな花たちが浮かんでいた。
そんな幻視の世界に旅立っている恋人に向かって彼は少しの溜息をつきながらおーい、と呼び掛けた。
「そろそろ帰らなくていいのか?」
「……あ」
現実に戻される。帰らなくていけないのだという現実にイヴは花火たちを曇らせた。滲んでいく景色に彼女が躊躇いを見せたのもまた、花火の如く一瞬だった。
迷いを吹っ切って、少女は妖精の羽を羽ばたかせ、愛おしい彼の腕の中に飛び込んだ。
「今夜は……帰りたくありません」
「は……え、えっ」
「ダメ……ですか?」
ダメっていうか、ほらイヴは浴衣だから、と必死に彼は止めようとするが、イヴはそれなら服を貸してください、と譲らない。
獅子奮迅、背水の陣で挑む不倶戴天の武者のように、若宮イヴはただ前へ進む。
「この花火を一瞬の思い出にはしたくないんです……! 私に、永遠の思い出を、くれませんか?」
「──っ!?」
彼の肩が跳ねた。まだそこまで進んでいなかった関係を進めるような、誘い文句。その言葉を受けてゆっくりと頷き、抱き寄せたイヴの唇にそっとキスを落とした。何度も触れ合ったそれとは違うキスにイヴはきょとんとした顔をしていた。
「……え?」
「え?」
「え、なにその反応」
「何がですか?」
「いやだって……永遠の思い出をって、え?」
「はい、ですから、今日という日を、あなたと一緒に過ごしたいんです……?」
「え、だから……もしかして、ただ泊めてほしいってこと?」
「はい!」
がくっと彼は肩を落とした。彼女の日本語が若干意味が違ってしまうこともあった。だが、それでもこの大事な場面で外してしまうとは、と。だがそれは逆に非常にイヴらしいことでもあるため、今度は肩の力を抜いて笑顔を浮かべた。
「ふ、ふふ……あはは」
「え……えっと?」
「いや、イヴらしいなって……泊まるって言ったらどういうことか、考えてないなんて」
「……あ」
そこでようやくイヴ自身も自分が何を彼にぶつけていたのか理解し、真っ白な肌が朱色に染まっていく。
うなじまで真っ赤になったイヴは、尻込みしてしまいそうになったが、一緒に見た景色とその時に合わせた唇を思い出し、小さな声で呟いた。
「……いいですよ」
「はい?」
「そういう覚悟も……できてます」
「待って絶対嘘でしょ」
「ブシに二言はありません!」
何故そこでブシドーを思い出すんだよと彼は内心でツッコミを入れた。だがイヴは本気で覚悟は決めたように、彼に抱き着き今度は唇を奪い去った。
──本気かよ、という彼の言葉に若宮イヴは、妖精のように煌びやかな瞳の光を宿し、武士のように強い覚悟と決意を秘めて彼に向けて二言の無い宣言をしてみせた。
「はい! それが私のブシドーですから!」
少し意味が違うが、やはりそれも、イヴの魅力のひとつだと彼は諦めたように彼女を抱きとめた。帯を解き、滑り落ちた彼女の白は、永遠の白の輝きを宿していた。
風鈴がチリンと揺れる。瞳の中では花火は打ちあがり続ける。彼女の高校一年生の夏休みのとある一日は、若宮イヴにとって永遠の思い出となった。