【湊友希那】キミと進むという決意
高校を卒業し、実家から少し遠い音楽を専門とする学校へと通うことに決めた湊友希那は、二人の幼馴染と共に下宿をしていた。
ルームシェアをする友希那と今井リサ、そしてその二人と一緒に過ごす黒一点、それが彼だった。
そんな三人の休日の一幕は、エプロンをつけたリサが怒鳴るところから始まっていた。
「片付けしなさーい!」
「……オカン」
「オカンね」
「いいから──早く、ハリー!」
日常の一幕、昔から変わらない、ようで少し変わった三人のなんでもない日々の始まりだった。
彼と友希那は音楽こそ一流だが、それ以外の生活がてんでダメだった。それすらも昔から変わらなかったために、リサは下宿についてきたようなものだった。
「休日くれーさぁ、昼まで寝ててーよ、リサぁ~」
「……同感だわ、思いっきり歌を歌いたいわ」
「あのね、アタシさ、お昼からカレとデートなんですケド?」
「知らん」
「知らないわ」
また怒号、男性の部屋だというのにずかずかと侵入し、脱ぎ散らかした衣服や散らばった楽譜たちを纏めていく。下着もあるのにお構いなしに触るリサに、彼は少しだけむっと言葉を紡いだ。
「プライバシーは? プライドは?」
「は? 片付けない男にそれいる?」
しかしながら男女以前に片付けをしない幼馴染の前に本気の怒声を出したリサに、彼は素直にすみませんでした、と沈んだ。
女性の手に片付けられていく下着やら恥ずかしいものを指を咥えて見ているところに友希那がふふんと鼻で笑って、彼の肩に手を置いた。
「ざまあないわね」
「お前……友希那……」
「ってか……友希那もね?」
「なんですって……?」
いや、なんでそんな意外そうな顔ができるの……? とリサは苦笑いをする。そして彼同様、友希那の部屋に散らばった楽譜やら下着やらをリサはぽいぽいと放り出してきた。どちらも酷い有様だと嘆息するリサの耳に抗議の声が届く。
「ちょ、ちょっとリサ……!」
「文句言うなら日頃から片付けてね?」
「まぁ、友希那のパンツなんて見慣れてるし──っ!?」
その彼の言葉に友希那は素早く指でチョキを作り、彼の二つの眼球をかわいらしい、えい、という普段の彼女とはかけ離れた掛け声と共に突き、断末魔が彼の声から出た。
リサが振り返り、いつものことだとばかりに近所メーワクだよ~、と笑う声がしているが、彼は冗談じゃない、とのたうち回っていた。
「ばっか、お前……ふざけんな……!」
「盲目でも大成する作曲家もいることだし、いいじゃない」
「よかねぇ……」
ともあれ、そんなじゃれあいが合図になったように、友希那と彼は同時に部屋の掃除を開始した。リサはそれを腰に手を当てて見ながらため息をつき、デートのための支度をし始めた。
「夜はカレも来てここでご飯食べるから、間食は禁止ね!」
「わかったわ」
「りょーかーい」
リサとリサの恋人と彼と友希那はよく一緒に顔を合わせるような仲だったが故に二人はあっさりと受け入れる形で返事をした。
パタパタとシェアハウスから出ていくリサ。そしてそれを見送り、顔を見合わせた友希那と彼は同時にほっとしたような安堵の息を吐いた。
「マジで、リサは母さんみたいだよな」
「本当ね」
くすくす、と笑い合って、二人は同時に腹の虫に苛まれた。
そんなタイミングにまた友希那はふわっと微笑みを浮かべ、彼は苦笑いをする。孤高の歌姫と呼ばれた彼女と、そんな彼女と沢山の時間を過ごした彼だからこそ過ごせる、安らぎの世界がそこには存在した。
「確かメシ……昨日の残りがあったな」
「そうだったかしら?」
「リサが言ってた」
「そう」
レンジに昨日のから揚げを入れ、既にリサによって炊き上がっている炊飯器を確認し、二人は向かい合ってマイクロ波の響く音を聞きながら雑談を繰り返す。
「あ、新しい曲書けたんだが」
「まぁ、見てあげるわ」
「友希那の音域には合ってると思うがな」
「流石ね」
「だろ」
短い言葉の応酬だが、二人には通じる何かが存在した。長い時間の中で積み重ねられた距離感が、二人の間にはある。それは時折、リサが立ち入る隙のないものであった。数年前ならトゲトゲしさもあった友希那も、すっかり表情が柔らかいことが増えていた。
「ありがとう、使わせてもらうわ」
「どーいたしまして」
高校時代なら、バンド結成以前から直後ならこんな言葉は出さなかった。ふわりと微笑み、鼻歌を奏でることもなかった。
──音楽に全てを懸けること、それをやめたわけではないが、それとは別に、友希那には大切なものが積み上げられていた。
「これ食ったらまた掃除再開だな」
「ええ、怒ったらご飯抜きにされてしまうわ」
普段から音楽に没頭し、家事やらなにやらをリサにまかせっきりにしている二人は微妙に温まりきらなかったからあげと、タッパーに詰まっていたサラダを黙々と食べ始める。その二人の脳裏にあるのは片付けではなく、やはり音楽のことだった。
「好きよ」
「ありがと、俺も好きだからな」
「ふふ、そうね」
伝え合う想いに、空気が温かくなる。
大学でも交わされる短い会話でのやりとりだが、この会話に男女の恋情は込められていないことを知るのはリサだけだった。
──新曲の流れが好き、自分でも自信を持ってる。そんな会話。だがそれを極限まで言葉を排したやり取りは、しばしば、カップル認定を受ける理由でもあった。
「……これが洗剤、だったわね?」
「確か、リサが使ってた」
「……これは!」
「どうした?」
昼ご飯を食べ終わり、二人は肩を寄せ合い、シンクに向き合っていた。リサが出かけている時の最大の難関と言っていいもの。それが、食器洗いだった。
まず、洗剤がどれかうろ覚え。隣にはクレンジングや三人分、ないし四人分を纏めて食器洗いをするためにリサが購入した食洗器、それ専用の洗剤があり、常識人なら見分けのつくそれも、非常識な二人にとっては難関だった。
なんとか記憶から正解を引き出し、スポンジに洗剤を垂らし、泡立てたところで友希那がはっと、何かに気づいた顔をした。歌詞のアイデアか、と彼が問うと友希那はゆっくりと彼を見た。
「見て、めちゃくちゃ泡立つわ」
「……洗剤、使いすぎたらまた怒られるぞ」
「そうね、けれど戻せないのだから仕方がないわ」
「開き直っちゃだめだろ……」
後で怒られるのも怖い、と彼はリサにメッセージを送って謝罪しておく。そもそも家事全般が壊滅してる以上、今更よほどのことをしないとリサは本気で怒ることなどないのだが。
だが、友希那も彼も予感している危険はあった。
「慎重にな、友希那……」
「わかっているわ……そのくらい」
余分に泡立ち、それが手につくということは如何なる惨事を招くか。それは手を滑らせてうっかり皿、茶碗を割る、ということだった。
友希那が覚束ない手でゆっくりと汚れを落とし、ツルリと滑らせてもいいように彼が目を光らせていた。
「っ、あ!」
「おっと、セーフ」
そして案の定、皿を滑り落とし、寸でのところでキャッチ、なんとか一枚の皿が諸行無常の理を体現することはなかった。
泡を水に流し、ついでに先程の危機も水に流した二人はふぅと息を吐いた。こんな単純な作業も、二人にとっては大変なものだった。
「食洗器、使えればいいのだけれど」
「ボタンがわかればな」
「本当ね」
食洗器さえあれば水洗いをしてボタンを押すだけ、それだけ時短できて音楽に時間を費やせるのだが、そうもいかないのが彼と彼女という人物だった。
覚えなければ、と思わないわけではないが、それ以上に音楽に容量を割いている二人にそこまで求めてないというのが、リサの本音でもあった。
「そういえば」
「どした?」
シンクで達成感に浸っているところに、友希那がぽつりと零した。皿の水滴が落ちていくのを、宝石のような琥珀色の瞳に写してはいるが、友希那が見ているのは別のものだった。
──微笑むリサ、その隣でまた同じように笑う男性、その二人の織り成す空気。それらを幻視していた。
「恋人とは、恋とは、どういう気持ちなのかしら」
「……そーだなぁ」
羨ましい、と思ったことは一度もなかった。それだけ、この生活に不満はなかったし、これまでもこれからも、自分は音楽と向き合って生きていく。その考えは変わらなかった。けれど、それ以上に彼女の脳裏にはリサにとっての恋人の存在が、如何にして彼女を変えたのか、その変化に着目していた。
「俺も経験ないし、上手くは言えねーけどさ、なんつーの? フツーの若者が考える恋愛てのは、俺や友希那にとって難しいんじゃねーかな」
「フツーの……なら、フツーじゃないなら、なに?」
やけに興味を示してくるな、と彼は見据えられた琥珀色に少しだけたじろいだ。だが、その恋愛、という事象に疑問を抱くという気持ちには賛同できる彼は、友希那の髪をサラリと撫でた。
「男にこんなのをされてドキっとすんのが、フツーの恋だろ?」
「しないわ」
「だから、フツーの、って前置きしたんじゃねーか」
言葉通り、微塵にも心拍数は上がらないと友希那は首を横に振った。だが、リサは違うらしい、ということは言外で伝わった友希那は彼の言葉の続きを待った。
彼は、友希那から自分の左手に目線を落としながら、持論を展開する。間違っているような気がする、そもそも、その手の持論に正解も不正解もない。そう思いながらも自分の考えを吐露した。
「パートナーって考え方なら、いいんじゃねーの?」
「パートナー」
「足りねー分を補いあって、生活する、みたいな感じ。音楽と一緒だな」
足りない部分を補って完成する。それはかつての自分の音楽だと友希那は思い当った。孤高の歌姫では足らなかった部分はRoseliaという彩り豊かな花たちが補ってくれた。日常生活においても、それは変わらない、恋愛においても論理的には変わらないのではないか、そう、彼は考えた。
「それが、私たちがするであろう、恋」
「なんか恋、なんてガラじゃねーけどな。どっちかっていうと、音楽活動を邪魔されねー居心地のいい相手探した方がマシだよな」
浮ついた雰囲気がある、恋、という言葉に、友希那は確かにそうね、と微笑んだ。ガラじゃない。恋をしたなんて喧伝するような性格でもないし、男に心を奪われることはなく、それなら猫に心を奪われていた方が有意義だ、とすら感じているのだから。
──しかし、同時に友希那は右隣に立つ彼を見上げた。もしも自分が誰かと結婚しなければならなくなった時、家庭を持つことを迫られた時、彼女にとって居心地のいい相手は……そう考えた時に真っ先に想像したのはハッキリとした一人の人物の姿だった。
確かめる必要がある。友希那は本能的にそれを確かめる術を思い付き、実行に移した。
「ねぇ」
「今度はなん──っ!?」
肩をたたき、振り返り彼の視線が下がったところに、友希那は踵を上げた。ゼロ距離に彼の睫毛があり、その柔らかく、独特の唇に伝わる感触に、同じように目を閉じた。
ほんの一瞬のふれあい。友希那が再び踵を床につけ、目を開けた時にその琥珀色には、真っ赤になった彼の顔が映っていた。
「な、な、なに、なにしてんだ、お前……!」
「確かめたかっただけよ。さ、早く片付けましょう。私はにゃーんちゃんに会いにいかなければならないもの」
「いや、たしかめって、いやバカ……俺、初めてなんだけどなっ!?」
「私もよ」
「──っ!? いやバカだろお前!」
くるりと優雅にターンし、なおも恥ずかしさにのたうち回る彼を放置して、友希那は自室の掃除を始めた。まだ部屋の隅に残っていた下着を手に持ち、廊下に投げようとして、ピタリ、と止まった。外には彼がいる。普段なら一切気にしない彼女だったのだが気分的に思いとどまった。
とくん、と心臓が跳ねる。先程の感触、熱、そして表情。それらを目の当たりにした友希那は、改めて、自分には安らげるパートナーを既に手に入れていたことに気づいた。
「Roseliaの時と同じね……ふふ」
足りないと思ったらすぐ近くに、その足りなかったものがある。かつての自分は一人でなんでもできる気がしていた。音楽も生きていくのも。故に曲も詞も全て彼女が一人で創り出していた。だが現実は、リサがいないと生活は成り立たず、一人で皿洗いもまともにできない。彼の
「後で、リサに色々訊いてみようかしら」
そしてまた、初めて見つけた感情を自分のものにするために、彼女は自然にリサを頼ろうと考えていた。
友希那は、ふと彼が昔に呟いていたフレーズを思い出した。人は死ぬときは独りだが、決して独りでは生きていけない。そういった矛盾を孕む生き物だ、と。
「ならば、独り死ぬその時まで、頂点へ狂い咲くわ──
──それは、湊友希那が強く美しく歌い上げる、人生という名の決意の詩。