──クーラーの効いたスタジオにギターの音が残響を残していく。淡々とそれでいてその中に恐ろしいほどの熱を込めた演奏を終えた女性は、汗を拭った。いくら空調で涼しさを保っていても集中していればそれだけで汗は出る。それを自覚したのなら休憩時だと水筒をカバンから取り出し一気に煽った。喉が鳴り、身体の中が冷えていく。そこで漸く彼女はふうっと短く息を吐いた。
「あともう少し……」
「もう少し、じゃなくてそろそろ時間だけどな~」
ギターを構えなおした彼女、氷川紗夜に対して、水を差す一言が投げかけられた。そろそろ時間とは言うがあと一回くらいできる、という無言の圧力を青年はまるでことなきことのように受け流して、まぁあと一回ね、と笑った。
「……もういいです」
「そう? じゃ、片付け手伝うよっと」
「余計なお世話……って聞いてませんね?」
彼と紗夜の関係は恋人同士、ということになっていた。なっていた、というのはお互い、厳密に言えば紗夜の方がどうしたらいいのかわからずに距離感が変わらないことを言い表していた。
「あなたというヒトは」
「まぁまぁ、怒んなって」
「怒ってません」
「怒ってんじゃん」
「怒ってません」
「はいはい」
「もう、話を聞いて!」
笑い流され、紗夜は憮然とした表情でもう、と唇を尖らせた。今日も本来は一人での学校帰りだったはずなのに連絡をしていたら急にそっちに行くよという返事とともにやってきた。それが恋人と一緒にいたいという思考だとわかっていても、音楽ばかりの自分に彼が笑顔を浮かべてくれるのは何故かと考えてしまうこともあるのだった。
「帰ろうか」
「……はい」
そんな時間が過ぎて紗夜は隣に立つ同学年の彼を見上げた。ひょんなことから関係が始まり、それこそ告白をされた時には泣いてしまうくらいに嬉しかった。バンド仲間である今井リサや白金燐子に、相談を持ちかけたこともあった。だが、恋人であろうとすればするほど、紗夜は彼への気持ちの表しかたがわからなくなっていった。
「はぁ……」
「溜息はひでーな」
「す、すいません」
「謝る必要はないんじゃない? ほら、寄り道しないか?」
そう言って、彼はいつも彼女が利用するファストフード店のスマホクーポンを見せた。ポテトの割引券に紗夜は釣られ、心がほぼファストフード店へと向かったところではっとした表情をした。
──恋人の距離がわからない紗夜だったとしても、彼女は彼女なりに恋人らしいことをしてみたいと考えていた。だからこそ、今日はファストフード店を選択するわけにはいかなかった。
「あ、あの……今日は別の寄り道をしませんか」
「別の……? どこかアテでもあるの?」
「はい……こっちです」
紗夜はそう言って彼の手を引いた。事前に調べて現地のもの見ていたため、場所は把握している。
彼は戸惑いながらも初めて彼女から自発的にどこかへ行きたいと言い出したという喜びが勝り口許を緩ませていた。
「ここです、前から花女でも話題にあがってたので……」
「ここって……タピオカジュースの店?」
「はい、タピオカです」
彼女の言葉通り、向かった先はタピオカジュースを取り扱う店だった。夕方の時間帯であっても若い女性客でにぎわう、まさしくトレンドの中心のような場所を指定してくるとは流石に思いつかなかったため、彼は少しだけ驚きの表情をした。
「意外だよ、紗夜が、タピオカだなんて」
「今井さんが、流行りだから、と」
「今井さんが」
「私も、気にはなっていたのです」
そう言いながら紗夜は直立不動で列に並んだ。思い思いに雑談をしたり、スマホを見せあっている集団に混ざるそれはあまりにも異質で、彼は思わず腹を抱えて笑いだした。紗夜だけでなく周囲が怪訝そうな顔をするが、彼は構うことなく笑い続け、そして紗夜の手を握った。
「いや、やっぱ俺、紗夜のこと好きだ」
「──っ、や、やめて……こんなところで」
「あはは、だってさ、紗夜は他とは違う魅力がある。俺が惚れた通りの紗夜だから」
「……それ、褒めてますか?」
「ふふ、褒めてる褒めてる。ベタ褒めだよ」
あまり自分の言葉を語ることがすくない彼からもたらされたふとした本音。俺が惚れた通りの紗夜、という言葉で、紗夜は少しだけ納得することがあった。
──彼は氷川紗夜という人物に惚れ込んだ。それが例え不器用で、距離がうまく測れないような女だったとしても彼は楽しそうに傍にいてくれる。彼女のパーソナルスペースをきちんと踏まえて接していてくれる。そんな賢さを持つ彼に今までずっと甘えていたのだということ。
同時にそれは、結局つまらない女であるということも、紗夜は理解することができた。
「んで?」
「はい?」
「紗夜のことだからタピオカってなんなのかーとかめちゃくちゃ生真面目に調べちゃったんだろ?」
「う、うるさいわね……その通りだけれど」
そもそも聞き慣れない単語の食べ物を調べようとするのは当然では? という返しに彼は首を横に振りながらあっけらかんと笑った。
誰もそんなこと気にしてないだろ、と。だからこそ紗夜は好きなんだと。
「それで? どうだった?」
「……タピオカについて、ですか?」
「そ」
「そもそもタピオカというのはキャッサバデンプンのことであって──」
つらつらと語りながら、彼が楽しそうな顔をして頷いてくれていることで、紗夜はますます熱を帯びて語っていく。普段は寡黙な印象のあると自負しているのに、ここまで話を聞いて居心地がいいということ、それが自分にとっての恋だと気づくにはタピオカドリンクの行列は長かった。
「……ふふ」
「どうした? 楽しそうだな」
「楽しいのよ、あなたといることが」
「……そうか」
「今、照れましたか?」
「気のせい」
「照れてますよね?」
「紗夜……」
「ふふ、あなたのそんな顔が見られるなんて、嬉しいです」
彼といるとつい饒舌になる。彼とがいると思うとつい音楽に熱が篭る。彼といることが紗夜にとっては途轍もない幸せを呼んでいることに初めて気づくことができた。いくら距離が変わらなくても、自分は恋をしているのだと。
「タピオカミルクティー二つ、お待たせしましたー」
「ありがとうございます」
「どーも」
「……ストローがずいぶん大きいのね?」
「そりゃ、タピオカを吸い取らなきゃならないからな?」
「なるほど」
そんな聞けば何を言っているんだというような会話ですら、二人は充実していた。ファストフード店に寄り道をしても、喫茶店に寄り道をしても感じることがなかった恋人らしさというものを、二人はついに実感していた。
──それを先に言葉にするべきは自分だ、と感じた紗夜は彼に向かって頭を下げた。ちゃぽんとタピオカが跳ね、ストローでタピオカを吸い上げていた彼が怪訝そうな顔をした。
「ごめんなさい……私、これまであなたに好きと言われてきたことを忘れてしまっていたわ」
「いいよ、紗夜は不器用で生真面目なの知ってるし」
「ですが」
「そーゆーとこ、俺は好きだから」
「……もう」
さり気ない好きの二文字に、紗夜は顔を赤らめた。だが今までの紗夜ならばその好きという二文字に思考停止し、彼女から返すことはできなかったが、その言葉の意味を理解することができたことで、素直に彼女からも言葉を返した。
「私も……好きです」
「紗夜……」
「これまではあまりあなたに応えられなかったけれど……こんな私でもいいなら、傍にいて」
「こんな私でもいいなら、はいらないな」
「……カッコつけるのね」
「紗夜がかわいくなるからな」
「傍にいて……」
夕暮れの街を、タピオカミルクティーを片手に持った二人が歩く。もう片方の手でお互いの手をしっかりと握って、影を伸ばしていた。
──この日、氷川紗夜の恋は始まった。今度は誰かに流されるわけでも、誰かの声に耳を傾けているわけではなく、自分の意思で、自分の音楽で。