静かな室内で、紙をめくる音だけが響いていく。
一ページ、また一ページと本を読み進める音だった。他になんの音もない空間で、彼女……白金燐子は読書に没頭していた。
一つの章が終わり、また新しい章へと進んでいく。時間を忘れ、燐子は集中力の続く限り本を読み進めていた。
やがてガチャリとドアが開く音がして彼女はそこでようやく顔を上げた。ただいまとは言ったものの同居人が起きているとは思っていなかった彼は少しの驚きと少しの呆れを混ぜ込んだ表情で、もう一度だけただいまと呟いた。
「……おかえり、なさい」
「起きてたんだね」
「……はい」
静かな口調でまた本に没頭していたの? と苦笑され、燐子は少しだけむっとした表情をする。
本に没頭していたのは事実だけれど、自分は彼の帰りを待っていたのに、そんな不満を隠すことのない燐子に彼はごめん、と両手を広げた。
「待たせた?」
「……うん」
「ごめんね」
「……いい、よ? 忙しいの、知ってるから……」
けれど寂しいものは寂しいのだと言葉でなくめいっぱいに広げた腕の力加減で彼に伝えると、彼はしっかりと大きな手で抱き留めてくれる。
燐子はその腕が好きだった。その甘いぐらいの優しさが好きだった。
「あの……ごはん、用意するから、先にお風呂……入ってきて」
「そうさせてもらう。ありがと」
「……うん」
頬にキスをされ、燐子は頬を緩ませて鼻歌交じりにキッチンへと向かっていく。新しい生活、愛する彼と二人の生活が始まって、燐子の世界はまた一段と色鮮やかさを増していた。今井リサに教えてもらった料理を作り、夜の遅い彼の帰りを待つ。寂しさもあるけれど、その分幸せなことをも多く、燐子は充実した生活を送っていた。
「燐子」
「きゃ……っ、もう……あぶないよ……?」
「いつもキミにはしてもらってることばかりだから……少しこの気持ちをどうにかしたくて」
「そう……だね。ふふ……」
「おかしなこと言ったかな?」
燐子は首を横に振った。
おかしなことじゃない。自分もそうして彼に愛を伝える時には必ず、抱きしめるのだから。手や腕を使って愛を分け合う。それに、してもらってばかりだと彼は言うけれど、自分にとっての最高の報酬は彼の愛情だった。抱き締められた時点で、彼女はもう充分なほどに満たされているのだった。
「でも、でもまだ足りない。あげたりないよ」
「じゃあ……こっちにも……」
「うん」
身長差のある二人が視線を合わせ、頭の高さを合わせていく。
一度……一度では足りず二度、三度と点けられた火よりも熱く、二人は静寂だった世界に吐息と愛を吐き出す。それまで対面上は清い関係を保たなければならなかった二人が、それでもそんな目を盗んで言葉では伝えきれない愛を育んできたという事実のある二人が、二人だけの世界を作ってしまえばもう、止めるものはいなかった。
「ごはん……先、に、しないと」
「そ、そうだね……」
けれど暴走してしまいそうなくらいの愛情の分け合いも、まだ時間があるということがブレーキになることもあった。今のように、ご飯を先に済ませようと声を出すことで一時は抑制することもできた。
「と、ところで……仕事の方は、やっぱり大変……?」
「まぁね。でも、燐子とのデートは空けてあるよ」
「……無理は、だめ。どうしてもなら……また別の日でも……いいからね?」
それが我慢できるようになったのも、一緒に暮らし始めてからだった。以前は大丈夫と見送ろうとして堪えきれずに泣いてしまうこともあった。本音をぶつけていかないでと縋って困らせてしまったこともあった。
けれど、燐子は今、ホットミルクに口をつけながら本当に別の日でも大丈夫と口にするのだった。
「いや……それはダメだ?」
「どうして……?」
「燐子に甘えてしまったら今後も仕事を最優先にしそうで」
「……それは、困っちゃうね……」
だから甘えない、という決意を見せる彼に燐子は冗談交じりにくすくすと笑った。
一緒に暮らしてもちゃんと二人の時間を大切にしてくれる彼が、燐子は何よりも愛おしかった。燐子だってただ待っているだけではない。時にはRoseliaのキーボードとして舞台に立っている。その練習の量も並みではないため帰りが遅くなってしまうこともしばしばだった。そんな時には迎えに来てくれるのも、そしてデートの約束をきちんと履行する彼が、燐子が何よりも愛おしいと思える彼の誠実さだった。
「燐子」
「……ん?」
「ごちそうさま。今日もおいしかった」
「……よかった」
二人で皿を洗いながら、彼は満足げにうなずいた。日に日に上達してくる料理を食べるのが楽しみでもある彼は、乾かした手を彼女の頭に乗せてから、また抱き留める。艶のある黒髪を撫でつけ、燐子はそんな彼の暖かさに包まれ、うずもれ、頬を緩ませた。
「明日は、遅くまで練習だったよね?」
「うん……開始が、ちょっと遅いから……」
「なら明日はスタジオまで迎えに行くよ」
「……待ってるね」
なんでもない会話を繰り返していきながら、燐子はチラリと時計を伺う。まもなく日付が変わろうとするその瞬間を、彼女はソファの上で甘えながら過ごしていく。
──そして、日付が変わったことを知らせるスマホの振動が鳴り、彼は何事かと振り向く。
「ちょ、ちょっと待ってて……!」
「なにがあるの?」
疑問符を頭に浮かべる彼に向けて、燐子は冷蔵庫を開けてから白く四角い箱を取り出した。
以前なら家族ぐるみで祝っていたため大きなホールケーキだったが、今年からは小さな箱の中に切られたケーキが二つ、それが二人で暮らし始めて、初めての祝い事だった。
「誕生日……おめでとう……!」
「……燐子」
「あの……ね、いつも、いつも……わたしのこと、たくさん愛してくれて、ありがとう……」
「うん……こっちこそだよ。ありがとう、燐子」
「ふふ、うん……」
ケーキと共に、燐子はネクタイピンの入った箱を彼に渡す。母親に訊ねたところ自分が夫である彼女の父親にどうやって渡したかとロマンチックで盛大な惚気話とセットで時代が違うかもしれないけれどと薦められた品が、ネクタイピンだった。
「あ……バラ」
「うん……なんとなく、これが、いいなぁ……って」
金のピンの上に乗せられた黒いバラの装飾のネクタイピンに、彼はふぅん、と興味深そうに燐子を見つめた。
無意識だったのだろう彼の表情に疑問を感じた彼女が愛らしく、彼はおいでと彼女を後ろから抱きしめた。
「かわいいプレゼントをありがとう、ずっと大切にする」
「え……っと?」
「黒のバラ、燐子の髪の色と同じで、キミのバンドと同じだ」
「……あ」
黒いバラ、自分は名前と雰囲気から白、という言葉が多いけれど白と同じくらいに自分の髪と同じ色である黒も好きだった。
同時に、まるで自分を身に着けてほしいという独占欲のように感じてしまい、少しだけ後悔をしてしまう。浅ましい女だと思われただろうか、欲深いと思われてしまっただろうか、そんな風にチラリと彼の顔を伺うと、微笑みをたたえ、愛情を唇に乗せていく。
「ん……」
「独占欲も、嫉妬も、全部燐子の愛なんだから……もっとわがままでいていいよ」
「……でも」
「それが許せなきゃ、一緒に暮らせないよ」
二度、三度、キッチンの時よりも激しく、愛を与えていく。ねだられるよりも多く、濃厚に。やがて燐子も与えるだけでなく、与えていく。絡ませ合い、飲ませ合い……二人は二人の愛情によって呼吸をしていく。
「っ、はぁ……なら、これ……仕事には、いつも……つけていて」
「うん」
「絶対に……ほかの女の人に……見せて、もらいものだと……言って」
「わかった」
その気高き香り持つ華が彼という花に集まる
彼という花の
「浮気は……許さない、から」
「許してくれなくていい……キミのものだから」
「……うん、なら……いっぱい、わたしのアト、つけるね……」
見えないところを、彼女に独占されていく。時計も、彼女が選んだものだった。ネクタイピンに、ネクタイもこれがいいよと燐子が選んでいた。いつの間にか、身の回りがすべて彼女が選んだモノになっていることが、自分が彼女のモノになっていることが、彼は嬉しかった。
──自己主張の少なかった彼女が、今やこうしてゆっくりゆっくりと独占していく姿が、彼にはとてつもなく愛おしいものだった。
ベッドに寝転がり、意識を手放しそうになる最後の寸前に、燐子は彼の腕の中に飛び込んだ。言葉ではなく腕や手を使って愛を示していく。彼の大きな腕に包まれながら白金燐子は幸福感ある疲労のまま、そっと眠りの世界へと堕ちていった。