時計を見る。まだ時間は来ない。また時計を見る。そんな風にそわそわと繰り返していることに最初に気づいたのは倉田ましろだった。せわしないのはいつもの彼女の特徴ではあるとしても、何かを待っているような雰囲気にましろは首を傾げた。
「透子ちゃん、どうしたの?」
「へ? えっ、なんかあたし、変だった?」
「ヘンっていうか……挙動不審?」
「あ、あはは、シロに言われたくないっしょ」
「ひどい!」
桐ヶ谷透子はそんな風に言いながらもそわそわと視線を彷徨わせた。彼女にバッサリと言葉の刃で切り裂かれどんよりとした空気を漂わせるましろを介抱する二葉つくしと広町七深を後目に見ながら、確かに妙ねと八潮瑠唯が顎に手を当て鋭い視線を向けた。
「あまり集中もできていないように見えるわね。何か心配ごと?」
「いや、ほら~アレだよアレ! え~っと」
「誤魔化したいなら考えてから発言した方がいいわよ」
「ぐ、と、咄嗟にいー感じの出るわけなくない……?」
「なら事前に考えておくことね」
なんか指摘がズレてない? ズレてる……んだよね? とましろ介抱組が二人で囁きあっているがそれは完全に無視した状態で、何かやむを得ない事情があるのだったら今のうちに言っておいた方がいいわよと瑠唯がさらに問い詰めていく。
「いや、家庭の事情とかだったらルイに言えなくない?」
「……確かにそうね」
「納得しちゃった!?」
すかさずつくしがツッコミを入れる。そしてようやく復活したらしいましろがでも家の事情だったら逆に言えることじゃない? と首を傾げた。だがこれはまさかの瑠唯によって否定される。
「割とあるあるだよね~」
「わ、私は……ないけど?」
「つくしちゃん……私、もうつくしちゃんしか……」
「ちょいシロ? なんであたしら悪者みたいな扱いなん?」
そんなコントのような一幕はあれど練習は練習としてきっちりとこなし、そして解散となった瞬間にそれじゃあまたね! と透子はまるで飛び出すように教室から出ていく。その様子はインフルエンサーとして流行を追いかけるものとしての忙しなさとは違うものだった。
「……透子ちゃんなら、SNSに理由乗ってる気がする」
「確かに、ちょっと見てみようか」
二人がその答えに辿り着いて仰天の声を上げる頃、透子は夕焼けの校舎を背に駆けていく。息が切れるのも構わず家までの道を走っていく。
そして、家の前に着いた透子は息を吐きながら、髪や息を整えてから少しだけそっと声を潜めてからただいま、と家の中へと入っていった。
「透子ちゃん」
「あ! えっと、いらっしゃいませ」
「うん、おじゃましてます」
客間の廊下にいた男性に声を掛けられ、透子はパッと花が咲くような表情をした。そんなリアクションの彼女に彼は少しだけ苦笑いを含みながらも口許を緩ませた。
透子にとって彼は小さな頃からの知り合い、兄のようでもあり憧れでもあり、同時に親同士に決められた、将来を共に歩くことを定められた相手でもあった。
「本日はどうされたのですか?」
「いやいや、少し寄っただけだよ。透子ちゃんはバンド?」
「う、あ、はい」
「そっか、最近名前を聴くようになってきて、僕としても誇らしい思いだよ」
「──っ!」
穏やかな微笑みを浮かべられて、透子は瞳を輝かせた。普段の彼女とはかけ離れたような仕草でお茶お持ちしますねと荷物だけ置きに行く。昔はこそ何事にも興味津々で明るいグループの中心である普段の彼女のまま接していたのだが、年齢が重なるにつれて
「うん、おいしい。これ、透子ちゃんが淹れてくれたの?」
「はい、お口に合いましたか?」
「いつの間に」
「将来のためですから」
学校ではいつも通りの桐ヶ谷透子として明るく振舞い、だがその一方で親戚や客の前では桐ヶ谷呉服店の娘として、淑女としての振舞いを身に着けていた。それが桐ヶ谷透子の処世術でもあった。
「透子ちゃんは」
「はい?」
「……透子ちゃんはそれでいいの?」
「それで、とは?」
「将来のこと」
将来、という言葉、自分が放ったものとは重さが全く違う同じ言葉を使われ、透子はややたじろいだ。それはまるで本当に将来のことを考えてるの? そんな不安や疑念の声にも聞こえた。そしてなにより、透子自身がそれを即座に否定できないのが問題だった。
「僕はね、今のまま透子ちゃんと一緒にいても、いずれ破綻するんじゃないかなって思ってる」
「……破綻、ですか?」
「だってそうでしょう?」
全てを見透かしたような目に射貫かれ、透子は肩をわずかに上げた。にこやかでありながらひやりとした冷たさと鋭さを感じる目、彼が怒りの感情を表すのに使う顔をされ、彼女は慌てたように、頭を下げようとする。だけどそれは途中で、立ち上がった彼によって阻まれてしまった。
「謝罪よりも、忌憚のない言葉が訊きたい」
「それは」
「もっと言い方を変えよう。
「……っ」
──それは彼女の祖母に口を酸っぱくするほどに禁止されているものだった。桐ヶ谷の娘として会話をせねばならない時はそれ相応の立ち振る舞いをせよ、という言葉を破るものであるため、少々戸惑いながらもやっとのことで首を横に振った。
「……できません」
「どうして?」
「あたしが
透子自身としても時代錯誤もいいところだと思わなくはなかった。女性が下がって男性を立てるもの。だがそれに逆らっても透子にとってなんのメリットにもならない。逆に学校で自由にさせてもらっている背景にはそういったことをマジメにこなしてきたという実績からなるものだった。
「なるほど」
「ですから」
「なら単に許嫁ではなく幼馴染として問う。透子ちゃんは、僕と一緒という決められた未来で満足するの?」
まっすぐに、幼いころからの知り合いとしての言葉に、まだ彼を知り合いのお兄ちゃんとして慕っていたころのような表情で問われ、透子は……彼も驚くことに泣きそうに顔を歪めてしまった。
「と、透子ちゃん?」
「……あたしと一緒じゃ、嫌、なの?」
「えっ?」
「だから、そうやって将来を問いかけて……あたしとの約束をなかったことにしようとしてるんじゃん」
「いや、そういうことじゃなくて……」
決壊し、泣き出してしまった透子に対して次に狼狽えたのは彼の方だった。実は彼女が奔放で明るく、有り体な言い方をすればギャルのような性格であることを知った彼は、こうして顔を合わせる時に透子から出る言葉たちがまるで嘘のように聞こえてしまっていた。だからこそ、将来の言葉を彼女が口に出す度に、実は嫌なのだと信じて疑わなかった。
「……確かにさ」
「うん」
「将来とか、ぶっちゃけ……よくわかんねーってなってたよ。でも、あたしは言われたから、じゃなくて好きで傍にいる……つもり」
「嫌いってわけじゃなかったんだ」
まるで子どもの頃、転んでしまって泣いてしまった彼女を宥めていたように、客間のソファーに座った彼女の頭を撫でつけながら、彼は気づかなかった事実に息を吐いた。
彼女は、彼のことを好いていた。他に男がいなかったからと言われればそれまでなのだが、それでいても透子は彼のまっすぐな生き方が好きだった。
「あたしさ、すぐ流行りだからとか、そういうノリだからってのに流されやすいんだよ」
「みたいだね」
「でも、
「そっか」
透子の知らなかった言葉たちを受けて、彼は自分の中にある彼女への気持ちが保護欲だけではないことを確信した。それが確信できていなかったからこそ、彼はそんな厳しくまた勘違いではあるがこのまま将来を決めてしまっていいのだろうという疑念を持ったのだった。
「──というか、お兄ちゃんって久しぶりに呼ばれた気がする」
「久しぶりに呼んだ。いっつもあなた、だからさーなんか恥ずかしいね」
「名前呼びでもいいよ」
「二人きりの時は、ソッチのが楽だし、そうする」
砕けた口調で、でもいきなりはハズイなーと目を細めて笑う彼女に、彼は熱を上げていく。自覚するとこんなにもキレイに、女性らしくなった妹のようだった存在に、彼は勇気を持ってじゃあ僕から、と息を吸った。
「透子」
「……ん、なんですかー旦那様、なんちゃって」
「そこは返してよ」
「や、だってさ、透子ちゃんから透子はまだハードル低くない?」
そんな気の置けなくなった彼と透子は、恋人同士のようにくっついたまま、しばらく二人きりの時を過ごして、やがて時間になりそろそろ帰るねと言う彼を玄関まで見送る。そこでは決して二人きりというわけではないため、また外用の顔をする透子に彼は少しだけ残念そうに笑った。
「それじゃあ、また」
「はい、お待ちしております」
「……次はいつ会いたい?」
「毎日」
「ふふ、じゃあ寂しくならないうちにね」
「あはは、毎日連絡するから」
だがすぐに崩れ、透子の母親が一瞬だけぎょっと目を見開き咎めようとするが、なんとそれを留めたのは、いつもは厳しいはずの祖母だった。
いつもの透子のまま、元気よく手を振り、花が咲くように笑う彼女に彼もまた同じように花が咲くように笑顔を返していくのを見た誰もが、それを咎めることなどできるはずもなかった。
「透子」
「なーに、おばあさま」
「このご時世、せめて高校卒業までは避妊せぇ」
「ぶっ、な、なにそれ! あたしまだいちおー処女なんだけど!?」
なんだまだだったのかとでも言いたげな目線を送ってくる祖母に透子は顔を真っ赤にしていく。
そしてそのタイミングで透子のSNSを探してお茶を飲む許嫁の後ろ姿を隠し撮りしたものを発見したましろとつくしによって翌日、根堀り葉堀り問い詰められることになる。
「え、シロだってカレシいなかったっけ?」
「なっ、えっとそれは……」
「ましろちゃん、聴いてないんだけど!? 二人とも、もっと月ノ森生としての自覚を──!」
「あたし許嫁だからセーフだし」
「許嫁……やっぱお金持ち、すごい」
「許嫁でも、隠し撮りはいいのかしら」
「ルイはホンット頭カタい」
モニカの一員として過ごす、騒がしい日々。そして新しく過ごせることになった彼との静かな日々。桐ヶ谷透子にとって、どちらも自分の青春を、人生を彩り豊かにするうえで欠かせない一つのピースだった。