街中のとある喫茶店で、八潮瑠唯は苛立っていた。余りにも整っていて、人形のような……いっそ無機質さすらある彼女の顔は一見無表情に見えるものの、同じバンドのメンバーである倉田ましろが見れば怯えて近づいてこないほど、内心は怒りに満ちていた。
──呼び出しておいて、遅れるとはどういうことかしら。しかも連絡もない。
スマホを見てから、腕時計を見て、ため息をなんとか深呼吸で抑えて足を組み替えた。
「いらっしゃいませ、おひとりですか?」
「あ、えっと待ち合わせで……あ! 八潮さん、すみません!」
バタバタと慌ただしくやってきたのは寝癖を跳ねさせるいかにも寝起きというような風体の男だった。そんな彼の登場に瑠唯が抱いた感情は安堵ではなくより激しい苛立ち。眉間に皺が刻まれるほどの呆れだった。
「遅れてしまい申し訳ありません、八潮さん」
「……外での集合は基本約束の時刻から五分から十分前、と私はそれを常識だと考えていたのですが、今は何時でしょう?」
「うっ……十時、半前です」
「正確には十時二十六分、それともあなたの常識ではこれくらいが適切ですか?」
「……遅刻です、すいません」
今度はこらえることなくこれ見よがしにため息を吐く。思った以上に怒っているなと下を向いた彼に、だがそれは悪手だったことを伺わせるのは瑠唯の表情の変化だった。未だどうして怒られているのか真に理解していないことが伝わったが故の落胆のようにも感じられる苛立ちだった。
「まず」
「……はい」
「寝坊だ、というのはあなたの身なりを見ればわかるけれど……もしかしてあなたの持っている携帯端末はゲーム機か何かかしら?」
「あ……その、すぐにと思って」
「私も完璧ではないから予定してきたよりも遅くに起きたことはあるわ。そういう時こそ冷静に、まずは現状を相手に伝えることが先決ではない? 現に私は来るか来ないかもわからず三十分以上待たされて、帰ろうかと二度、考えたわ」
「うぐ……」
マシンガンのように、あるいは爆弾の雨のように放たれる正論という言葉の暴力にうちのめされ、彼の肩がさらに小さくなる。教育実習で初めて顔を合わせたその時から、彼の中にある八潮瑠唯への畏れが大きくなるようだった。
「それで? 何か言葉はないの?」
「あの、えーっとですね……」
跳ねる寝癖を触りながら、眼鏡のブリッジを持ち上げながら、彼は言葉を必死に探した。だが、こういう時の瑠唯は何かを言えば説教が飛んできてそれで赦してくれる。何度か怒らせたからこその自慢にもならない経験値が彼の口を素直に開かせた。
「待っててくれて、ありがとう……瑠唯ちゃん」
「……既にコーヒーを二杯余分に飲んだわ」
「その分は払うよ」
「必要ない。誠意というものはお金で買えないものだわ」
それは表情の変化に乏しい瑠唯なりの感情表現であり、彼は自分に対してはとことんルーズであるのに、そういう機微を見逃さない人物でもあった。
ほんの、ほんの少しだけの声の揺れから、呆れでも苛立ちでもない別の感情を読み取った彼はそうだね、と頬を掻いた。
「それじゃあ、今日は何処へ行こうか?」
「決めていないの?」
「いや、瑠唯ちゃんの気の向くままでどうかなって?」
「それは決めていないってことではないのかしら」
そんなことないよ、と彼は一応の計画を白紙にするようにスマホをスリープモードにする。遅れた分、彼女のわがままに付き合うという姿勢を、言い換えるならお金ではない誠意を見せた彼に視線を合わせた瑠唯は、ならばとスマホを差し出した。
「水族館……?」
「ええ、昔の友人が……最近、恋人とデートをしたらしいの。普段はあまり表情を変えない印象があったのだけれど、その時ばかりは……とても幸せそうだったわ」
「それで……なるほどね」
訊くところによるとその友人はおっとりとしていてお淑やか、それでいて普段は図書室にいるなど静かなところを好むらしく、ゆっくりと過ごしたいならオススメと紹介されていたらしい。騒がしいところを好まない瑠唯はそういったレジャーやヒトの集まる場所を避けていただけに、興味を惹かれたという印象が彼には強く残った。
「よし、じゃあ行こうか、というか水族館って行ったことない?」
「そうね。記憶にある限りは」
「それじゃあたぶんないね」
決まりだね、と彼は立ち上がり、瑠唯もそれに合わせて無言で立ち上がる。だが瑠唯がお金を財布から出そうとする前にスマホをかざしながら会計を済ませてしまっている彼の背中を眺めていたがすぐにはっとしたように小走りで彼の隣に追いついていく。
「誠意はお金ではないと言ったはずだけれど」
「別にそういうのじゃないよ。ただあそこで分けるよりも一括の方が効率的ってだけだし」
「けれど」
「それより、瑠唯ちゃんもスマホ決済使わないの? 時間効率いいよ」
「……確かに、財布からお金も出さずにどうやって支払っていたのか、気になるわね」
道中はスマホ決済の方法を話しながら電車に揺られていく。そんな中で瑠唯は便利だろう? と子どものように笑う彼の横顔を盗み見た。
──去年の初夏、中学生だった彼女の前で自己紹介をした時から、変わらない彼の屈託のない笑顔と生徒の機微を汲む姿勢は瑠唯の心を揺らした。
「よっと、思ったより混んでるね……瑠唯ちゃんだけでも座れてよかったよ」
「……ええ」
恋人を気遣うことが男性として当然だったとしても、それを自分に向けられていると意識すると、瑠唯は自分の頬が僅かに熱を帯びていくことに気づいた。
甘い、クセの強い感情。持て余してしまうようなさざ波。だがそれこそがまるで、これまで歩んできた人生に意味をもたらしているような感覚が、雰囲気も言動も大人びた彼女を年相応の少女に変えていた。
「……ん? どうしたの?」
「いえ、なんでもないわ」
「ああ、この体勢だとしゃべりにくいよね」
座席に座っている瑠唯とその前に立つ彼、頭の高さからあまり声を張るのも憚られる状況にある、というほんの少しの不満を掬い、彼はごめんと苦笑いをする。そのたびに彼女は彼の飾らない姿が眩しいと感じる。彼の笑顔が自分の笑顔であるような気さえしてくる。
──またひとつ、彼を愛しいと思っていく。
「手を」
「うん?」
「手を繋いでいて。それなら、黙っていてもいいわ」
「……わかった」
きっと知り合いが見たららしくないと笑い飛ばされてしまうのだろうと瑠唯は心の中で苦笑する。まさか自分がここまで誰かに甘えたいと思ってしまうだなんて、彼女自身ですら知らなかった一面なのだから。
「電車は公共交通機関としては優秀だけれどこういう時不便ね」
「確かに不便というか快適ではないよね」
「元来ヒトにはパーソナルスペースがあるのだから、混み合ってしまうとどうにも」
会話をしながら、手は離さず二人は人の流れに沿って歩いていた。購入したチケットを係員に見せながらやや暗い空間へと向かっていくのを、瑠唯はきょろきょろと辺りを見渡していく。
人がたくさん入っていくのにもかかわらず、静かな雰囲気であることへの驚き、そして水槽を見上げるという不思議な感覚だった。ふと彼を見るとそのリアクションが面白かったのか、珍しかったのか、悪戯が成功した子どものような笑顔を浮かべていた。
「どう?」
「……想像した以上ね。幻想的、というのかしら」
「連れてきた甲斐があったよ」
「それは最後に言うものではないかしら?」
それもそうか、と彼は瑠唯の手を引いていく。周囲が暗いせいかより、握られている右手に意識が向いてしまう。デートらしいデートは初めて、ということもあり指先が熱くなるような気がしていた。
「ペンギンというのは……本当に水を飛ぶように泳ぐのね」
「だね、なんか俊敏で地上とはイメージ変わるよね」
「……そうね」
「誰かを思い浮かべた?」
「ええ……まぁ」
「そっか」
普段はおどおどして、歩行すら覚束なさそうでありながら、ステージで見る姿は力強く羽ばたいている。水槽の中を、地上の姿とは比べ物にならない速度で自由自在に泳ぎ回るペンギンの姿が彼女の中でいつも顔を合わせる少女と重なっていた。
「やはり」
「うん?」
「……素直に表情を出せるほうが、かわいげがある……のよね」
「男性から見て、ってこと?」
瑠唯は言葉ではなく首の動きで肯定する。桐ヶ谷透子や倉田ましろ、二葉つくしや広町七深……いつの間にか一緒に行動することが増えた、同じバンドのメンバーはみんな、色々なことに表情を変え、お互いに感情や思ったことを共有していっている。誰から見ても彼女たち
──なら、私は? 一歩引いてそれが自分の役割だからと大人になった気でいる自分は……本当の意味で
「付き合った時から、瑠唯ちゃんに向けた言葉に嘘はないよ。どれだけかわいげがなくたって、大人になりたくて背伸びの仕方を間違えていたって、恋人はただ一人、瑠唯ちゃんだけだから」
「けれど」
「仮定なんて意味を成さないよ。これは八潮瑠唯という個人に対する、愛情なんだから」
「……どうして?」
その問いかけに彼はマジメに答えることはなかった。さぁね、といたずらっぽく笑われた瑠唯はむっとして……表情に出ることはなかったが、問い詰めようとする。だが手を放して先に歩いていって彼に追いすがるように待ってと歩みを早めた。
「──はい」
「あ……?」
気づいた頃にはもう遅く、止まれず勢いのまま彼女は優しさと悪戯心の中に飛び込んで包まれていく。
暗がりとはいえあまりに大胆で人目を憚らない抱擁に、瑠唯はまず困惑してしまう。彼は何をしているのだろう……その答えは、彼女の頭上から優しく降ってきた。
「ほら、瑠唯ちゃんが今自分で証明したよ。どうして愛してるのか、って問いかけに答えがないってこと」
「……私?」
「そう……どうして待ってって追いつこうとしたの? って訊かれた答えは突き詰めるとそうでしょ?」
追いつこうとしたのは、彼女が彼と隣を歩く関係だから。なぜ隣を歩いているのか、それは彼に対して特別で唯一の愛情を持っているから。
──なぜか、という問いには、答えることはできなかった。強いて言えばなんとなく、タイミング、そんな曖昧でありどれも問いかけに満足な回答は出せない。だが
「好きって気持ちに理由はない。好きになったんだから、一緒にいたいって思ったんだから……それ以上を求めるのは逆に効率が悪いよ」
「恋をすることや特定の誰かを愛することの方が、感情に振り回されるし、こうして二人の時間を費やしてしまうし、効率は悪いと思うわ」
「じゃあ、別れる?」
「……いいえ。別れない……別れたくない」
彼といることは、効率が悪いことなのかもしれない。無駄で、将来の道を歩むうえで何も残らないものなのかもしれない。
──それでも、例えそうだったとしても、彼女はこの感情に振り回されることを選んだ。彼の手を取って、彼の腕の中にある温もりに触れ、心に触れ、理屈ではない愛情を確かめあう。そしてますます、彼のことを深く愛していく。
「──るいさん?」
「倉田さん……どうしたの?」
それから数日後、月ノ森の空き教室では、またいつものようにMorfonicaの練習が行われていた。その休憩中に、珍しくスマホを見ていた彼女の口角の僅かな変化に気づいたのは、ましろだった。
「う、ううん……あ、えっと……なんかるいさん、スマホ見てる時、嬉しそうだなぁって」
「え、シロ! あのルイが嬉しそうってそれ目の錯覚じゃね?」
「……失礼ね。私はロボットではないのだけれど」
「いや~、ロボットっしょ!」
「と、とーこちゃん……」
そこからまたお互いの声に騒がしくなっていく中で、七深がこそこそと瑠唯の袖を引いた。
七深がいた角度からは、彼女がスマホで何を見ていたのかわかっていた。そして、彼女がとある教育実習生に恋をしたことも。
「るいるい、どこか出かけたの?」
「水族館に。記憶にある限り初めて行ったから、思い出してしまったのかしらね」
「そっかぁ~、ふふ、よかったね」
「……ええ、本当に」
今度は明確に、四人の前で微笑みを浮かべた瑠唯を見た透子がまた一段と騒がしく、教室を驚きと興味と、様々な感情で埋め尽くしていく。
騒がしくて、感情豊かで、自分にはない魅力とエネルギーを持った仲間たち。そんな四人に対して、瑠唯はいつものように冷静に、時計を眺めてからもう休憩は終わりじゃないかしら? と問いかけていった。
──首元、セーラー服に隠れたネックレスのチェーンの音が自分だけに聴こえることに喜びを感じながら。
ラブラブちゅっちゅな瑠唯ちゃんでした。普段大人然としていますが高校一年生、バンドリキャラ内で言うと宇田川あこちゃんや朝日六花ちゃんと同い年なんですよね。香澄やはぐみより年下なんだよ……うん。
あの風体ですからね、きっと色々苦労してるんだろうなぁと思いながら書いているので、読み返す時はそんな感じで瑠唯の発言を見返していただければ。
これにてモニカ五人が出そろいました。最後はRASとなりますので、またお楽しみに!