新進気鋭の実力派ガールズバンド、RAISE_A_SUILENのプロデューサーにしてDJを担当しているチュチュ……珠手ちゆはぼやける視界と曖昧な思考で周囲を見渡した。確か、夜中まで作業をしていたところで、と途切れてしまっている記憶を巡っていた。
近くに置いてあるタブレット端末で時計を見ると八時を少し過ぎたところで、彼女はふわぁと大きな欠伸をした。
「んんぅ……思ったよりも早起きしてしまったわね」
従者のようであり、そして彼女にとっての支えのような人物、
──それを見透かしていたかのように、来客のチャイムがチュチュの微睡を妨げていく。
「……もう、誰よ~……は? はぁ!?」
どこか夢と現が曖昧で、重たかった瞼が一気に現実へと、そして目を見開きバタバタと慌て始める。
画面の向こうにいたのは、チュチュにとって知らぬ人ではなかった。だが、RASのメンバーとは違いその人物が家の前にいるという事実は彼女に驚きと焦りを感じさせるものだった。
「おはよ、ちゆ」
「お、おはよ……じゃなくて、朝っぱらからなによ」
「なに……って顔見たくなっただけ」
「What? それだけ?」
「もちろんそれだけじゃないけど」
スラリとした、黒のジャケットに白シャツ、スキニージーンズの似合う茶髪を少しだけ伸ばした爽やかな青年に微笑まれ、チュチュは頬をほんのりと染めながらテキパキと
「パレオちゃん、学校でしょ? 偶には僕が何か作るよ」
「……そう」
ショルダーバッグから取り出したのはエプロン、そしていくつかの食材たち。それらと冷蔵庫からも食材を取り出し、ダイニングキッチンに立ち手早く調理をしていく。
その後ろ姿からはぎこちなさはなく、なおのことチュチュは気恥ずかしさすら覚えてしまうのだった。
「ん?」
「……なに?」
「いやいや、後ろからすんごい視線を感じるから」
「あ……ごめん」
「キライなものは入ってないよ、大丈夫」
以前からこうして彼女への世話を焼くのは彼の日課のようなものだった。だが最近……ことRASが本格的に始動してからは特に彼が突然やってくることが多くなっている。そして以前までのチュチュはそれを、邪魔だと眉根を寄せていたのだが。
「ありがと……助かるわ」
「──っ! うん、どういたしまして」
柔和な表情を喜びに変え、ダイニングテーブルに和食を揃えていく。欧米暮らしが長かったチュチュとしてはベーカリーとスープ、サラダ……は食べないものの朝食といえば洋風のイメージがあるのだが、彼は頑として朝は和食、譲れないと作り続けていた。
「この味噌汁、また薄味だわ」
「えー、そんなことないって」
「あとジャーキー」
「はいはい、言うと思った」
欠かせないのはジャーキー。食べるきっかけになったのは音楽活動の傍ら、手に取って食べられるものを探したことが始まりだった、いわば効率的な食事だったのだが、今ではすっかり好物としていかなる時も欲しがるようになっていた。
「……はぁ、ごちそうさま」
「おそまつさま、これからどうするの?」
「曲作り、そういうあんたは? ってか学校は?」
「それじゃあ僕はスタジオ借りてもいいかな? 練習したいし」
「ヒトの話聞きなさいよ!」
あはは、と笑うだけで結局学校がどうなったのかには答えずに家にやってきた時に右手に持っていた黒い楽器ケースと楽譜などが入った手提げをソファから拾い、慣れた足取りでスタジオに向かっていく。随分と背が伸びたのに後ろ姿から受ける印象は変わらない。チュチュはそんなことを思いため息をついた。
「なんでわたしなのよ……いつもいつも」
贅沢な悩みだということはわかっているつもりだった。それと同時にそんな贅沢がなければ自分はどういう生活をしていたのか、ということも。だがチュチュ様、と懐いて世話をしようとしてくるパレオや、彼がチュチュには時折、わからなくなる時があった。そのわからないという気持ちは、彼女の純粋な創作活動を阻害していく。
──そうなると決まってチュチュは、スタジオへ、彼がいる場所へと足を運ぶ。扉を開け、突如耳に飛び込んでくるふわりと甘く胸に響くような優しい音色にチュチュはフンと鼻を鳴らした。
「……excellent」
黄金の身体から流れる美しく滑らかなスイング、楽しそうに跳ねる指が奏でるレバーとキイの開閉する音すら、彼女の心を震わせる。同時に、同じところまで上り詰めることができなかった自分の手のひらを見つめ、悔しさに歯噛みをした。
「ちゆ、聴いててくれたんだ……どうだった?」
「雑味が多いわね」
「まぁね」
全体的にまとまってはいるが時折音が荒くなったりかすれたり、雑音が入ることを指しチュチュは腕を組んだ。そのサックスでは
「あるでしょう、クラシック用のサックス」
「あるね。アレホントにキレイな音が出るんだもん、驚いちゃった」
「なら」
「──でも、僕にとってのサックスはこれだ。この味が、サックスなんだよ」
ジャズでは彼の奏でるかすれなどの雑音も、立派な味として受け入れられる。だがことクラシックや吹奏楽では、それは致命的な灰汁となり受け入れられなくなる。それをわかっていながらもジャズ用に音の広がりを調整されたサックスを手放さない彼に、チュチュは厳しい言葉を向けた。
「認められなきゃ、音楽家に未来も価値もない」
「……そう、だね」
ズキリと胸を痛めるような言葉、自分に言い聞かせるような言葉。
──好きだから、両親は褒めてくれるから。それでは意味がない。ちゆがチュチュになるまでに経験してきた音楽への憎しみ、その炎を燃え上がらせる薪を彼にも投げ入れていく。
「だからあんたは
「ん……ちゆの言う通りだよね」
ジャズで、ソロで活動しているのならそれでもいい。その個人が持つ音楽に向き合う魅力を出すことは悪いことどころかいいことなのだが、彼は集団の中で演奏することを選んでいる。その矛盾に、ちぐはぐさに、チュチュは苛立ちすら覚えていた。
「いつもそう、あんたは……最初からずっと」
──僕はちゆといたい。だから、ごめん。
友人を大切にする、友情を大切にするクセに、最後には誰になんと言われようと珠手ちゆというたった一人のために、その友情すらあっけなく捨ててしまう。それがずっと、気にいらなかった。なにより、それを嬉しいと思ってしまう弱い自分自身すらも。
「でも、ごめん」
「なに」
「僕はこの音を捨てられないんだ。誰が、どう思ったとしても」
「why? なぜ?」
「これが
は? とちゆは意味がわからず訊き返す。だが、わざわざ訊ねるほどの意味はこめられてはいなかった。何が何でもちゆを優先した理由も、今のサックスの音色に拘る理由も、根っこは全く同じ思い出からきていたのだから。
「僕の全てはちゆのモノだって……約束したからね。ちゆが最高だと思ってくれる音楽こそが僕の音楽で、ちゆを愛することが、僕の存在理由だ」
「あ、あんた……そんなことで、じゃ、じゃあどうして部活なんて」
「それを言ったのもちゆだよ?」
「え?」
戸惑いつつも記憶を辿る。確かに、自分がRASの活動を通して、またぶつかり合ったことで彼女の考える最高の音楽への道が拓けたような感覚がしたことを彼に話した。その際、寝ぼけながら彼に偶には部活などでぶつかり合ってみれば、案外最高の音楽が見つかるかもと軽率に発言した……ということに思い当たり、漸く、彼の言っていることが納得できた。
「それで……結果は」
「あはは……ダメでした」
「そりゃそうでしょう」
誰もが自分のようにうまくはいかない。自分が集めたバンドのメンバーが強い絆で結ばれ、真の仲間になることなんて……まさしくヒトとの出逢いがもたらした奇跡のようなものだということ。チュチュはRASというものがそういう類だと改めて感じた。
「まぁ、わたしからアドバイスできることは……やめておくことね」
「はぁ……ごめんねちゆ。せっかくアドバイスしてくれたのに」
「そもそも! あんたは我が強すぎるのよ。わたしくらいのプロデュース力がないとソロだろうとアンサンブルだろうと、凡人にされてしまうわ」
「ふんふん……じゃあちゆが面倒見てくれると」
「なんでそうなるのよ!
だって、ちゆは理解してくれるし、僕の我の強さをなんとかしてくれるプロデュース力の持ち主なんでしょ? と純真な瞳で微笑まれ、言葉を詰まらせてしまう。同時に、面倒を見る、という単語が別の意味を持っているような錯覚さえありチュチュはそっぽを向いた。
「わたしは……カイショウのない男はノーセンキューよ!」
「甲斐性……なるほど甲斐性」
「なんの納得よ」
「つまり音楽で稼げるようになるまで結婚はお預けってことでしょ?」
「けっ──!」
さらりと、男女としての将来を指す単語を出され、今度は別の意味で言葉が詰まってしまい、チュチュは頬を染めた。ヘッドホンの下ではきっと耳まで真っ赤になっているだろうというくらい熱を帯びるのを感じながら、チュチュは半ばやけくそにそうよ! と肯定した。
「じゃあ、もっともっと頑張ろうかな」
「そ、そうしなさい……わたしは、そんなに、いつまでも……待って、ないわ!」
「それはそれとしてちゆ」
「な、なに?」
「フィアンセにご褒美をくれてもいいんじゃないかなーって?」
「う……あ」
──ヘッドホンを外され、距離がゼロへと近いづいていくのをまるでスローモーションのように感じながら、チュチュは、ちゆは彼にはその条件が難しいことではないことを知っていた。万が一にも、彼が夢破れることはない。それは誰よりも彼が自分の音を見つけるまでの努力やそして本気を信じている証拠でありそれは、彼が求める全てを許せる根拠でもあった。
「ここまでしたんだから、わたしに相応の結果を見せることね。中途半端なら、切り捨ててやるわ」
「任せて」
音楽家を目指し瞳に炎を燃え上がらせる彼、ちゆの世話をする柔和で温和な彼。そのどちらの背中を見ている彼女は、RASと出逢ったことでそこに一つの目標を見出していた。
後ろ姿ではなく、隣に立つこと、横に並ぶこと。昔は叶えられなかった小さな頃の約束を、今度はターンテーブルに乗せることを。