「うう……さむっ」
白い息を吐き出し、少しだけ赤くなった鼻を鳴らした彼女は、分厚い雲に覆われているであろう夜空を見上げた。マフラーに顔を埋めて息を吐くと眼鏡が少しだけ曇り、彼女……朝日六花は冬の訪れを如実に感じていた。
「こういう時は……やっぱりお風呂や~」
実家である岐阜から上京したての頃はお世話になっている、という気持ちが強かった旭湯も、今ではすっかり第二の家としての居心地を得ていた。広いお風呂にゆっくりと温まることを想像するだけで寒くて一歩も動けないくらいだったのに足は確実に帰路を歩んでいく。
「あ、おかえり六花」
「……はい? なんでおるん?」
「え、なんで?」
「うちが訊いとるんやけど」
そんな帰り道、もう少しで家に着く、というところで暗がりでも見慣れた後ろ姿が180度回転し、コンビニで買ったであろう肉まんを頬張る、恋人の姿に驚く。
──付き合って数年経ち、確かに一緒に住む家をと考え始めている関係ではあるものの、それはまだ未来形の話。彼の家は近辺にあるはずもないため六花は訝しげに眉根を寄せた。
「いや、ライブで汗掻いたし風邪引く前に風呂~と思ったら六花の顔が浮かんでさ」
「……だからそんなラフなんだ」
「そそ、食べる?」
「食べかけやない?」
「うん」
よく見ると冬だというのにジャケットの下はスウェットとサンダルで、既に客としてお風呂から上がり、小腹が空いたからコンビニへと向かったのだろうと予想ができた。問題なのはその姿でどうしてまた旭湯に戻ろうとしているのかということなのだが。
「まさか……」
「うん。六花の部屋通してもらった」
「なんで!?」
「カレシだからね」
ドヤ、と効果音が聴こえてくるような態度に六花は深い、それは深いため息を吐いた。そしてまだ僅かにしっとりとしている街灯に照らされた長い前髪を睨みながら、私がおらんのに部屋入ったらあかん、と頬を膨らませた。
「なぜ」
「かたしとらんもん。今特にえらいことなっとるのに……」
「あーそういえば下着落ちてた、青色」
「わーわー!」
さらりと爆弾発言をした彼に六花は真っ赤になりながら抗議をする。最近は特に色々と忙しく、また半分一人暮らしのような状態であるため片付けをする余裕もなく部屋が荒れていたため、しばらく彼を呼べていなかった。
「し、下着をほうっておいたのは確かに悪いけど……それは見ないフリをするもんやろ」
「ごめん……でも六花の見慣れてるし」
「そーゆー問題やない!」
本格的に怒りだしてしまった六花に、彼は素直にもう一度だけごめんと謝意を示した。それと同時に、コンビニのレジ袋を差し出していく。底を持つとほんのり温かく、彼が肉まんを一つではなく二つ買ってきていたことはすぐにわかった。
「あんまん」
「え?」
「それ、あんまんだから」
「あ、あんまん……って、それって」
彼は甘いものが好きではなく、あんこは特に苦手……そんなことは六花にとってもわざわざ確認するまでもないことだった。
──つまり、レジ袋の中にあるあんまん、そして微糖のホットコーヒーは自分のために買ったものではなく、六花のことを思って買ったものだと気付くのも、そう時間はかからなかった。
「六花が最近部屋を片付けられないくらい忙しいこと、わかってる。わかってるから、ここにいるんじゃない」
「あ、ありがと……え、じゃあ」
「片付けも終わったから、コンビニ行ってたんだよ」
それはつまり散らばっていた下着などを見られていたということであり、恥ずかしさがこみあげてはくるのだが、それ以上に何も言わず優しくフォローをしてくれる彼に対して、今度は彼女の方がごめん、と下を向いた。そうとは知らず暢気に銭湯を利用して部屋に来たものだと決めつけ、非難したことへの、下着を見られることとはまた違った恥ずかしさだった。
「オレは」
「え?」
「
RASの一員として、高校を卒業した後も半ばプロのようなものでメンバーと共にチュチュが持ってきた依頼をこなしたり、dubで定期的にライブをしたりと活動を続けてきた。そんな道の途中で、彼とは出逢っていた。同じ世界にいたはずの彼、そこで恋人という関係を結んだ彼。だが道は別々になってしまった彼だった。
「……そんなことない。なんて言えんけど……でもうちは、キミを
「六花……」
「さ、せっかくだし泊まるでしょ? ちょっと待ってて」
彼を部屋に通し、背負っていた楽器を置いて、マフラーと手袋などの防寒具を彼に任せて六花は浴場へと消えていった。
肩まで浸かり、六花はゆっくりと思考を巡らせ、思い出に浸っていく。もうずっと前のことにすら感じる、彼の音楽を。
「──やっぱり、ずうっと音楽をやっていくのは、難しいんやろか」
かつて、
──そのどれもが、今や過去のものとなり始めている。それぞれの夢や目標に向かって、未来に向かって、枝分かれした道をそれぞれ歩んでいった。
「ハロハピさんは……まだ活動しとるみたいやけど、Roseliaさんも、Afterglowさんも、パスパレさんも……ポピパさんも、みんなもう……無くなってしまった」
今でも目を瞑れば、ロック~という元気な声が聴こえてくる気がした。大好きだった戸山香澄とも、もう何年も会っていなかった。
まだ地元に残っている人も、今では普通の人のように生活をしている。まるで最初から、楽器を持ってキラキラと輝いていたのが……夢だったかのように。それは彼も、同じだった。
「永遠はないからね」
「……うん……うん?」
「おじゃましまーす」
「ちょ、ちょっと!? なんで!?」
思考の海に没しかけていたところで、意識が現実の銭湯へと戻ってきた六花はやってきた彼に驚き後退る。そんな驚きをよそに彼は六花の隣に二度目の入浴をして、いつもの笑顔を浮かべてきた。
「……なにしとるん?」
「六花が寂しそうだったから」
「うち?」
「今も」
指摘され、六花はそうだよね、わかっちゃうよねと苦笑いをする。
あの時点でも彼は帰ろうと思えば帰れた。だが六花は彼に泊まるよねと引き留めた時点で、何か思うところがあったのだろうということはわかっていたのだった。以前にも何度かそういうやり取りがあり、彼は六花にそういうパターンだよねと教えたことがあった。
「もうそろそろ大学も卒業だからさ、なんか昔を振り返っちゃいがち、というか……ふと」
「先輩たちが恋しい?」
「……そりゃあね。でも、うちが会いたい先輩たちは……今の先輩たちじゃないんよ」
「そうだなぁ……この間羽沢さんのところ寄ったけど、やっぱ違うんだよね」
「うん」
大ガールズバンド時代と呼ばれた過去は、もうない。ガールズバンドも飽和状態になり、目新しさがなくなり……徐々に衰退していった。現在普通に生活していく上で名前を聴くガールズバンドは六花の所属するRASとMorfonicaというバンドの二つだった。
「終わりは、必ずあるよ」
「……うん」
「きっとRASにも、いつか終わりは来る」
「だけど……怖い」
小学生の頃、憧れたギタリスト。そして上京するきっかけをくれた、キラキラでドキドキなバンド。それを目指してガムシャラに走ってきた彼女が直面していた終わりの瞬間に、だが彼は優しい声を掛けていく。
「でも、オレの世代なら誰だって歌えるし知ってるよ。きっと、十年経てば懐メロにでもなってるんじゃないかな?」
「……だから?」
「音楽って、辞めたらそこで終わりじゃないってこと。残り続けるんだよ、例え流行りもの扱いだったとしても、本っ当にいいものは……何年も、何十年も」
それが音楽でしょう? と来春からレコード会社へ勤めることになった彼は笑った。例えそのヒトが楽器を置いても、歌わなくなっても、キラキラもドキドキもなくなるわけじゃない。むしろ、残り続ける。
──そしてそれを手に取った誰かがまた、その音楽を、キラキラもドキドキも愛していく。消えることなく、ヒトの心を揺さぶり続ける。
「オレも……そうだったらいいなーとは思うけど、やっぱインディーズじゃあね」
「そんなこと、ないよ」
「え?」
「だって、誰かが覚えてれば、消えないってことやんね?」
「ん、まぁね」
「……うちはずうっと忘れんから。キミが音楽やっとったことも、キラキラしとったことも、音楽も」
彼は一瞬だけ驚いたような顔をしてから、そっかと柔和な笑みを浮かべた。街を眺めても、メインストリートに流れる映像を眺めても、そこに自分の知っていたものは無くなっているのかもしれない。
そうだったとしても、胸の中に流れるメロディーは、知っていたもので溢れていく。それは青春の記憶だったり、友情の記憶だったり、出逢いの記憶だったり。
「じゃあオレも絶対に忘れない。ロックってめっちゃカッコいいギタリストがいたことも、それが最高にかわいくて愛しい六花だってことも。みんなが忘れても、オレは絶対に」
「……そっか、ありがと」
自然と唇を重ね、湯気の中に見えるお互いの笑顔にますます心を暖めていく。甘く、時には少しだけ苦く、長いようで、一瞬のような時間を掛けて育てたそれぞれの愛のカタチは、二人にとって掛け替えのない記憶となっていく。
──そこにあるたくさんの音楽たち、彼女らが流れ星のような一瞬の時間を掛けて駆け抜けていった、夢を撃ち抜いていった、青春の一ページと共に。
これで、最終話です。そして、並び替えれば法則的に言うなら六花は32話目になるはずですが……彼女は最後に読むのにふさわしい内容、のような気がするのでここに置かせていただきます。
自分にとっての音楽は、大人になってもメロディーが口ずさめてしまうものですから。終わっても、終わらないのが音楽のよいところですよね。