彼は兄弟を持たなかった。彼の両親は仕事を趣味として生きていたけれど、彼らは決して自分の子どもに愛情を注がなかったわけではなかった。
しかし、幼いころから、両親と何処かに出かけたという記憶がない彼にとって、その愛情が完全に彼に伝わっていたかと言えば、そうではなかった。
そんな彼にとって、たった一人、姉のような存在がいるとするならば、それは彼女──市ヶ谷有咲のことを指す。彼女は、彼と年は変わらないけれど、いつも同じく一人っ子であまり両親と一緒に過ごすことができなかった境遇から、まるで姉弟のように育っていった。
彼にとって祖母という単語が指す存在は、いつだって彼の両親の母親ではなく、市ヶ谷家に行くと、いつも和やかな表情でご飯を作って、一緒にお風呂に入り、寝てくれた、市ヶ谷万実だった。
──そして、有咲と過ごしていく中で急激に発達した精神は、いつしか当たり前の男女の関係として発展させた。どちらから告白した、というわけではなかったけれど、彼らは、恋人として、互いの欠損を補っていた。
「なぁ」
「ん?」
「そろそろ、どいてくんねぇ?」
「やだ」
「やだって……お前さぁ」
市ヶ谷家は質屋で、その敷地には大きな倉庫がある。普段は客のために開放されている、その地下に彼と彼女……そして彼女の大切な仲間たちにとっての、いわば秘密基地のようなものが存在していた。その地下空間で、二人きりの彼女と彼は甘い空気を醸し出していた。
「いい加減、足痺れてんだけど?」
「……しょうがない」
よっこいしょ、と上体を起こし、彼は同じ目線になった彼女に対してありがとね、と微笑んだ。
うるせーの一言くらい言おうとした有咲は、何も言わないまま少しだけ頬を染めながら、制服のプリーツの皺を直した。
「戸山さん」
「え?」
「今日も、来てた?」
「まぁなー、ライブも近いし、そうじゃなくても、日頃部活もやってねーんだから、香澄のヤツは特に」
一年で、有咲の周囲は随分と賑やかになった。戸山香澄、彼女がこの蔵で、真っ赤なギターに出会ったその日から、やめてしまったはずのピアノ、正確にはピアノじゃなくてキーボードだけどな、と有咲が注釈する、だが鍵盤を叩く姿。それに青いギターを持つ長身の女性、ピンク色のベースを抱える小柄な女の子、彼もよく足を運ぶパン屋の娘、そんな五人で一緒にいる姿を見ることが、いつしか当たり前になっていた。
「ってかお前さ、香澄たちが来てる時ってホント、姿見せねーよな」
「女の園に立ち入るような下種にはなりたくないからねー」
「そんなもんか?」
「そんなもん」
それでも気を遣って、顔見知りのパン屋の娘だけは、彼は? と、やまぶきベーカリーのロゴが入った紙袋を片手に探しに行くこともあった。女性五人の中で一人だけ、というのがやはり気後れするんだな、と結論を付けた有咲は、立ち上がった彼の腕を引いた。
「今日、泊ってくよな」
「そうするつもり」
「着替えは?」
「持ってる」
「ならよし」
有咲はそこでようやく、笑みを浮かべた。そして昔に比べて随分と身長に差のできた恋人兼弟分に抱き着いたのだった。
「もうしばらく、ここで……膝枕してやっても、いいけど?」
「それじゃあ……甘えさせてもらうね、有咲」
「おうっ」
ふにゃりと表情を崩した彼は、ソファに座った有咲の膝に頭を預けたまま、スマホを取り出して、有咲は有咲で本を読み始める。甘い雰囲気は維持したまま、日常のままでいられるのは、彼と彼女の過ごした時間の長さが根本にあった。
「そういや、今月のデートどこ行く?」
「んー、有咲、今幾ら持ってる? 僕は五万くらい? あるはずだよ、もうちょっとあるかも」
「お前……」
あっさりと告げられた金額に有咲は困り顔を浮かべた。彼の両親は彼が困らないようにと毎月の小遣いが過剰だという特徴があったが、それを貯めていたらしい額を、憂慮することなく有咲は行先に頭を巡らせた。
「……京都、とか?」
「いいね。ちょっと暑いかもだけど」
「あ、じゃあやっぱなし」
「あはは、有咲らしいや」
そんなやり取りをして、結局近くのショッピングモールでいいよ、という結論に至った二人は、お互いの空いてる日を確認していく。
「あ、その日もポピパがあるから」
「そっか、ライブ前だし、それだと、もうちょっと後の方がいいかな」
「その方が助かる」
「りょーかい」
その時、ほんのわずかに宿った彼の表情に、有咲は首を傾げた。いつも笑顔を欠かさない彼にしてはとても珍しい、まるで何かを憂うような表情だったが、問いかける前に彼が起き上がり、いつもの笑顔を間近に迫らせた。
「お腹減った」
「……んじゃあ、メシ食いに行くか」
「そだね」
立ち上がり、伸びをする彼はもう、変わらない彼だったため、有咲はその違和感と不安感を胸の奥に閉じ込めた。その日は、そのままいつもと変わらない日常を過ごして眠りについた。
眠り際に、何かを言っていた気がしたのだが、香澄に振り回され、充足した眠気の中では記憶に留めておくことは、できなかった。
喧嘩をした記憶は山ほどあった。幼馴染で姉弟のように育ってきた二人にとって小さな衝突は日常茶飯事だった。
けれど、彼はいつしか、有咲に対して不満を言わなくなった。そのことを、何故が不意に思い出してしまったのか、それを考えながらもいつものように、生徒会の仕事を含めて終えたところで、やってきた香澄と一緒に帰る。そうして帰れば彼が、と思ったところで蔵が無人であることに首を捻った。
「ばーちゃん。あいつは?」
それに対する祖母である万実の返事は、今朝学校へ行ったきり、顔を見ていない、という言葉。それに有咲はなんでだ? と焦りの表情を浮かべた。
「家に帰ってる、とかじゃなくて?」
「いや、あいつは基本はウチにいる。学校帰りに直帰した時なんてそれこそ、ずっと昔に喧嘩した……きり……」
そう、彼は有咲と喧嘩をしない限り、小中高全てで必ず学校帰りには市ヶ谷家へと足を運び、顔を見せてから帰るのだった。
だが、喧嘩なんてした記憶がない。昨日も……とても香澄には言えることではなかったが、少なくとも喧嘩をしていたら決して起こらなかった昨晩のことを思い返して、やはり喧嘩はしてない、という結論に至った。
「探しに行こう!」
「は──はぁ!? お前なぁ、もしかしたら怒ってるかもしれねーんだぞ?」
「だからじゃん! このままにしても、いいことなんてないよ!」
ほとぼりが冷めるまでそっとしておこうとした有咲に反して、香澄はいつもと同じ、何かに真剣になれる表情で、ダメだよ、と香澄は全力で訴えた。
全力で、香澄はまっすぐ、初めて会った頃と同じように有咲を突き動かそうと言葉を紡いでいた。
「あのヒト! なんで私たちを避けるのかな?」
「避ける……?」
香澄は、少しだけ寂しそうに、だってそうじゃん、と呟いた。まるでその現実に痛みすら伴っているような、そんな顔で、香澄は言葉を紡いでいく。
「誘っても、蔵にも来ないし、ポピパのライブにも来ない。普段顔を合わせてるはずのさーやがどんだけ言っても、絶対」
「……お前ら、そんなこと」
「当たり前だよ! 有咲の大切なヒトなんだもん、私たちにとっても大切だよ」
そんな優しすぎる、温かな言葉に有咲はじわりと泣きそうになってしまう。そうであってほしかった。自分を変えてくれた彼女たちを、彼と共有したいという想いが、有咲にもあったのだった。そして、共有というワードが、有咲の中で一つの閃きを生み出した。
「……そっか。わかったぞ香澄!」
「なにが?」
「あいつが来ねー理由だよ!」
「わかったの!?」
そう言って、頭を掻きむしって、有咲は衝動的に走り出した。まるでいつも星を、キラキラドキドキを追いかける、彼女のように。感情のままに、想いのままに。
──それは普段の有咲にはないものだった。理性的でいつも暴走しがちなバンドのブレーキとしての市ヶ谷有咲は、そこにはいなかった。
「待ってろ──!」
いつも一緒にいた家族が迷子になったのなら、自分が
「はぁ……はぁ……っくそ! 体力、ついてきたと、思ったんだけど!」
「有咲! どうするの? 家行っても、開けてくれなかったら?」
「ふ、ふん、あいつが、私ん家の、はぁ……合鍵、持ってるんだから、私だって、ふぅ、あいつんちの、合鍵、くれー、持ってる……つーの!」
辿り着いた、少しばかり大きな一軒家のドアに鍵を差し込み、カチャリという小気味いい音を立てて、息も絶え絶えの有咲は、玄関で香澄を待機させて彼の家へ足を踏み入れた。靴を脱ぎ、まっすぐに彼の部屋の前にやってきた有咲は、ゆっくりと三回、扉を叩いた。
「……なに?」
「なんだよお前、泣いてんのか? ホンット、ダッセーやつ!」
涙声の弱々しい声に、有咲は全力で明るい声を出す。姉として彼の不安を吹き飛ばすように、そして、恋人として彼を立ち直らせるために。
「そういや、昔もそんなことあったよな……私が花女の中等部に行ったとき、お前、わんわん泣いて、怒って、部屋に閉じこもったっけ」
「忘れた、そんなこと」
「嘘つけよ、ったく、強情なヤツだな、お前も」
お前も、と確かに有咲は言った。彼にそういうところがあるように、彼女にも確かに強情で、泣く時は誰にも見られたくないという意地がある。
──似た者同士。同じ環境で育ってきた、同じ境遇で育ってきた彼と彼女は、必然と似ていた。
部屋の扉を開け、布団にくるまっていた彼を有咲は優しく撫でた。
「私がポピパやってんの、嫌か?」
「嫌じゃ……ないけど」
「けど」
「ふと、有咲がこのまま、僕を置いていってしまうんじゃないかって思うんだ」
「そっか」
五年前のこと、成績優秀で、どこでも行けた有咲は中高一貫の女子校を選んだ。それは彼と同じ場所に通わない、という意思表示だと受け取ってしまった彼は、後にも先にもない大喧嘩をした。
その頃から、有咲は彼を段々と弟ではなく一人の男性として見るようになっていた。姉弟としてべったりするのではなく、恋をしたい。そんな有咲の勇気ある乙女心が、選択させた道だった。まだまだ思春期には至り切れていなかった彼には、伝わらなかったことだったが。
「あの時と同じだよ……私は、お前を嫌ったり、会いたくねーって思ったりなんか、絶対にしねー」
「そうだね」
「でも、それがヤキモチってんならさ……こんなところで拗ねるんじゃなくて、もっとあるだろ?」
私だってそうだけど、と有咲は笑った。彼はこうして有咲の前では子どものようになってしまうが、普段は温和で優しい、まるで祖母の暖かさをそのまま受け継いだような性格をしていた。それゆえに男女問わず、彼と仲の良いクラスメイトは多い。そんな人気者になってしまった彼に、あまり友人を作れなかった有咲は、大いに嫉妬したこともあった。
「お前といる時の私も、ポピパの私も……どっちも私なんだ。すっげー楽しくて、幸せで、満たされてる。私のタカラモノだからな」
「……有咲」
寝転がり、視線が合わさった。彼が見た有咲の瞳には、優しくけれども確かに、星が瞬いていた。輝いて、まるでその星一つ一つが脈打つように。それは以前の有咲にはなかったものだった。
「……僕も」
「ん?」
「僕も、有咲みたいに変われる、かな」
「大丈夫だろ、お前実は、めちゃくちゃ強いからな」
なら大丈夫かな、と彼は笑った。そして、変わろうという誓いと決意を込めて、いつも傍にいてくれた彼女の唇に、甘酸っぱい、まるで初めての時のような、キスをした。
「悪い! お待たせ!」
「ううん! 星見てたから~!」
「お前目いいな……」
玄関で待たされていた香澄は夜空を見上げていた。都会の空に星はあまり瞬かないのだが、視力のいい香澄にはしっかり見えているようで、有咲にあれが白鳥座でしょ~? と解説を始めた。そこに、彼は申し訳なさそうに項垂れた。
「ごめん、戸山さん……僕」
「香澄!」
「え?」
「香澄って呼んでくれたら、許す! ってことで!」
「とや……香澄」
「許した!」
ドヤ、という効果音が付きそうな表情の香澄に有咲はまた呆れ顔をした。そんな簡単でいいのかよ、と問えば香澄はいいの、これから仲良くなるんだもん、と返す。
あっさりと自分が受け入れられることに、彼はまた、少しだけ涙を流しそうになり、上を見た。
「あ」
──その時、ハッキリと彼には見ることができた。キラリと流れる淡い光の筋。流れ星。
そこに彼は願いを込めることにした。叶えてほしい願い、というよりも、一種の、有咲の唇に落としたような決意の想いを。
「何が見えたの!?」
「流れ星」
「え~、見逃した~! わたしも見たかった~! もう一回来ないかな!?」
「おいうるせーぞ香澄! 近所メーワクだっつーの!」
「有咲もね」
「わ、わかってるって!」
「有咲も怒られた~」
有咲のこの出逢いが、戸山香澄を初めとした、出逢いが一生ものなのならば、自分にとってもそうであってみせる。そんな決意を乗せて、流星は何処かへ向かった。
いつかこの青春時代が思い出になった時、その思い出を共有できるように、笑い合えるように。いつも一緒にいる、そしていつまでも一緒にいる、彼女の笑顔になるように。
「なぁ」
「なに?」
「土日、やっぱ遠出するぞ」
「急だね」
「仲直り記念ってやつだな、どこ行く?」
「なるべく暑くないところ、それでもって、おいしいものがあるところ」
「……決まりだな」
週明けのばあちゃんが出してくれる料理はカニ鍋だな、と有咲は笑った。そこに、どうせなら香澄たちにも、と提案した彼に、有咲はまた優し気な微笑みで、そうだなと同意した。
──そんな突発的な旅行先が、大人になっても足を運ぶ二人の思い出の場所であり、同時に有咲が指輪を受け取る場所になるのだが、それは、もう少しだけ先の話である。
案外一人っ子気質でありながら若干の末っ子気質なのが有咲というキャラなので、いっそ弟を追加してみよう! というコンセプトでした。素直になれなくても、素直に言葉にしなくても汲んでくれて、時には大切な人のためなら真っ先に行動する優しいヒト。甘えん坊だけど面倒見がいい、みたいなところも彼女の魅力ならばという一話でした。