春眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く。
柔らかな日差しの下で青葉モカはいい詩だよね~、と中国古典文学の一文を諳んじてみせた。孟浩然が詠んだ春暁だったかという返答に、モカはそうそうと微笑みを浮かべて、朝寝坊ができる幸せ……春、と空を見上げていく。
「モカは朝寝坊しちゃダメだと思うんだけど」
「え~、ダメ~?」
「これから学校でしょうが」
麗らかな春の暖かさが心地よく、ついつい夜が明けたことも知らずに眠り込んでしまった。という意味を持つその漢詩を選んだのは共感できるからかと呆れる彼に、だってさ~あったかくて~ねむく~とモカはまた目を閉じようとする。
「こらこら。デート中に寝ないでよ」
「ん~、おうちでーとしたいな~おとまりでさ~」
「寝る気?」
「もち」
ふわふわと綿毛のような笑みを浮かべるモカに彼は何度目かわからない溜息をついた。
青葉モカはその実態を掴めない人物だった。飄々としていて言葉は嘘か本当か区別がつきにくい。言葉に真実としての重みが存在しない。好きも嫌いも、肯定も否定も、すべてが煙のように不確かで曖昧な重みしかなかった。
「うちでデートなら」
「ん~?」
「寝かせないけど」
「え~、えっちなんだ~」
「そういう言い方はよくない」
寝てほしくないだけだよと彼はまた溜息をつく。いつも本心のわからない彼女に振り回され、男女としての睦みあいであったり、ある種自然な欲求すらも、モカは睡眠欲を盾に躱していた。
「なぁモカ」
「……だって~、あったかくて~、ふあ~……眠くなっちゃうんだも~ん」
にへらと笑うものの、あからさまに拒絶をしたモカに彼の顔は曇っていった。
だがそんな彼の表情にも気づいてるのか気づいていないのか、曖昧な表情で彼の顔を伺っていた。大丈夫だと言いつつも、いま一歩踏み込ませない雰囲気があった。
「ごめんモカ」
「あのね」
「──いいよ。モカのこと、わからないんだ」
彼はそう言って、立ち上がり珈琲店を出ていく。恋人であるモカを置いて、会計だけは済ませてしまってから、少しだけ振り返って一人立ち去っていった。
その様子をはらはらとした面持ちで見ていた幼馴染の羽沢つぐみがじっと出入口に視線を向けているモカに近寄っていく。
「モカちゃん……」
「やっぱ、ダメだったのかな~?」
「えっと……その」
なにも言えずに戸惑うつぐみにモカが表情の読めない曖昧な微笑みのまま、けれど長年共に過ごした幼馴染の彼女には伝わるくらいの塩梅で少しだけ寂しそうな、悲しそうな顔で自分の想いを打ち明けていく。
「あたしね~本気でちゃんと好きだったんだ~」
「じゃあどうして?」
「わかんないんだもん。あの人が本当にあたしのことを好きか……」
遠くを見つめるようにモカはつぶやいた。
──彼女の周囲の人間関係は、いつでも幼馴染たちがいた。幼いころから、今までずっと五人が一緒で気持ちが通じていて、喧嘩もするけれどそれが当たり前の世界だった。けれどなんてことのないふとした時に恋をして、追いかけていたら相手から告白をされて……初めは世界がまるで華やぐような幸せを感じた。毎日のように彼に会いに行った、毎日のように彼の腕や身体に触れ、緩む頬が抑えきれなかった。
「なら……」
「だってさ、怖いんだ……本当は、ただ惰性で傍にいてくれるのかも、とか……もしかしたら、カラダだけが目当てだった、とか知ったら」
「そんなこと……っ!」
今まで関わってきた幼馴染たちにそんな恐怖を感じたことは一度たりともなかった。
だが彼との仲が深まり、自然とキスやその先……という場面が多くなるにつれてモカは愛していたはずの男性に僅かな恐怖と不信感を抱くようになっていった。
好きという言葉はまやかしではないか、男女としての行為ができないと苛立たれるのは彼の目的そのものがそれではないか。
最初こそそんなことはない、あるはずがないと否定してきたモカも、後から後から湧いて出てくる、まるで背中を何かおぞましいものが走るような不信感というものにいつしか疲れてしまっていたのだった。
「そんなこと考えるような人じゃないよ」
「……わっかんないよ~、だって最近すーぐああやってさ~、えっちなこと言ってくるもん」
「そんな」
さっきも寝かさないとか言ってたよ、と補足していく。つぐみはすぐさまモカの考えを杞憂だと否定しようとしたのだが、恋人であるモカとそれを傍から見ていただけのつぐみでは言葉で説得させることは至難の業だということに気付き、言葉がしぼんでしまう。
否定してあげたい。けれどできない。そんなもどかしさを感じている幼馴染にモカは眠そうな瞳をほんの少しだけ開いた。
「どうして?」
「えっ……?」
「どうしてさ~、つぐはそこまであの人を庇うの~?」
「だって……だって、わたしは」
わたしはあの人にも相談を受けていたから。そう明かしたところでモカはいまいちピンと来ていないようで首を横に傾げていた。
──付き合う少し前につぐみは彼から話を聴いていた。青葉モカの感情が読めないということを、そして彼女のことを好いているということを。
「だからわたしは、大丈夫ですよって……」
「それも演技かもよ~」
「じゃあ……どうしてモカちゃんは付き合ったの? そんな言い方なら、どうして……?」
どうしてあの人のことを信じてあげられないの? と目から大粒の涙をこぼし始めてしまったつぐみに、モカはいよいよわからなくておろおろとし始める。
なによりも大切な仲間の涙に、寂しさときっとこのまま別れてしまうんだと漠然と考えていたモカもほんの少しだけその涙につられて、感情を露わにしていく。
「あたしだってさ……信じてあげたいよ。大好きだもん……でもあたしは一緒にいるだけで幸せで、傍にいるとなんか眠くなっちゃうくらいあったかいあの人が好きで……それだけいいんだもん」
「うん」
「でも、最近ね……ちゅーしたがったり、その……脚とか、触ってきたりしてさ」
「……嫌だったの?」
つぐみの問いかけに嫌じゃなかったんだけど、とモカは自分の中に生まれた形容しがたいほどごちゃ混ぜにされた感情たちをそれでもどうにか伝えようと言葉を探す。
初めてキスをされた時も、初めて際どいところを触られた時も、まずモカが感じたのは恐怖ではなかった。
「熱かった」
「熱い……?」
「うん」
それはモカが考えていたよりももっと、真夏の日差しに照らされた砂浜を素足で踏みしめるほどに熱を持っていた。唇や触れられた部分、羞恥とそれに加えてまた別の感情が頭の中が火を放って、モカはそれが苦手だった。
恋も睡眠も、丁度春の麗らかさのような温度を快適と感じるモカが味わった熱は、手を引っ込めてしまいたくなるほどで……それ以来モカはそれを拒否し続けてしまっていたのだった。
誰も自ら火傷をしたくはない。それはつぐみを頷いてしまうくらいに至極、当たり前のことだった。
「そうしたら……なんかあの人のことまで怖くなっちゃって……」
「そっか」
だったらせめてわかるように、今みたいに言葉にすれば……そう思わなかったモカではない。だが、モカはどうしようもなく居心地のいいこの関係をできるだけ長く過ごしたかった。伝えたらもしかしたらそれが本当のことで、カラダで繋がれないのならと捨てられるのかもしれない。それがなによりも一番怖かった。
「じゃあ本当は」
「うん。やっぱり、ああやって離れられちゃうとね~、好きだったんだな~……って、おも、っちゃう……よねぇ~。大好きだったのに……あたし、バカだから」
「……だって言ってます」
「へ……?」
つぐみの、全く別の人間へ向けた言葉にモカは大粒の涙をそのままにしながら驚きと疑問が入り混じった表情で彼女を見る。そこには通話中になったスマホがあり、ゼロだった音量を少しづつ上げて少し待つと、そこからバカモカ! と声が響いた。
「なん……なんで」
「モカちゃんがちっとも本音を話してくれないから、騙すようで悪いけど……って頼まれたんだ。すぐ近くにいるよ」
「え……」
その言葉に慌ててモカが店を出てすぐ目の前、モカ行きつけのパン屋の前にそのパン屋の紙袋を手にした彼が怒りの表情で立っていた。
だがその怒りは絶対にモカを許さないというほどのものではなく、本当に何度目かわからないくらいの溜息のみで消化されていく。
「はい」
「……え」
「メロンパン。なにいらない?」
「う、ううん……」
そっけなく、けれど確かに怒りではないいつもの調子の彼に袋を渡され、モカはより困惑してしまう。
あれだけ怒っていた。そして話を聴かれたとはいえ自分だったらそれでも許せるほどのことではないのに、どうして彼はそんな簡単に許してくれるのだろうか。
「当たり前」
「……え?」
「モカのこと……好きだから」
「好き……」
モカにはその好きの真意がわからずに戸惑っていると、彼は再び今までよりも深く深くに溜息を吐き出した。
──モカの好きとなんにも変わりがない。特別でもなんでもないただの好きって感情になんの違いすらないのだと言い切った。
「変わんない……」
「変わんない。変わんないけど、モカはマイペースすぎ」
「……だって」
「言ってよ。それでいいならそれでいいって。なんか不満あるのかと思ってこっちは気が気じゃなかったんだから」
さ、おいでと彼はまだ涙の跡が残る腫れぼったい目許を拭う彼女に手を差し伸べた。今度は、別に暁は覚えなくてもいいからとモカの引き、帰路についていく。
そういうことならたっぷり寝ればいい、傍にいてくれるだけで自分も幸せだと彼はまっすぐモカを見つめて微笑んだ。
「あたし……あのね」
「もういいよ。モカのこと、わかったから」
欲しかった言葉たち、こんな簡単に手に入るとは思わなかった望むくらいにふわりと暖かな春の日差しに照らされ、モカはそっか~、とほほ笑んだ。疑うよりも信じる方が、こんなにも心が暖かくなるのなら、最初からわがままであればよかったのだと知ることができた。
「寝るって、添い寝してればいいんだよな?」
「……ふっふっふ~、いやいや~わかってないな~」
「なにが?」
「──寝かさないほうでも……いっかいくらいなら」
「……あ」
「え、えへへ~、あんまり熱いのは……だめだよ?」
善処しようとおどけた彼の言葉にモカは今度こそ誰にでも伝わる明らかな満面の笑みを浮かべてがんばれ~、と返事をした。
──その翌日はつぐみのために入浴剤を選ぶためショッピングモールへとやってきていた。二人を繋げてくれた頑張り屋の彼女に、ありがとうの気持ちを伝えるために。
作者にとっての青葉モカのイメージは本当に、知ってるヒトはよくご存知でしょうが、それを全部一話に集約した感じ、でしょうか。
マイペースで表情が読みにくいのは、本当の気持ちを隠しているから。その仮面の下にあるのは大切なヒトへの深くて、いっそ重たいと思えるくらいの感情。
なら、ともに歩めるのはやはり、海よりも深い器ですよね、ということです。