少し、安心から離れてみたくなった。冒険をしたくなった。友人たちにはそう伝えたけれど、実のところは全て、その全てが嘘であることに、彼女、上原ひまりは重い溜息を吐いた。
どんよりとした気分なのに、空は高く、薄い筋状の雲が楽し気に泳いでいることが、腹立たしいと思えるほど美しい夕焼けだった。
そんな気分を払いたくて、彼女が頼ったのはゼミが同じ二つ年上の先輩だった。今年四年生で、既に就職も決まって、今は卒論に追われながらものんびりとした生活を送っている彼に対して、まるで友人たちについている嘘の分の鬱憤も吐き出すかのように、その先輩に全てを暴露した。
「父親と喧嘩した?」
「そーなんですよー!」
「それで?」
「それでママに頼んで避難先のアパート借りたんです」
「……お前んちマジ金持ちだな」
ママとお兄ちゃんがすごいんだもん、ママとお兄ちゃんが! と胸を張るひまりを宥めるように彼は足を組み替え、机に肘をつけてひまりの前に手のひらを見せた。先輩の指がなんか好きなんです、と豪語するひまりはその指を目で追って、だらしなくにやけながら自分の手のひらを重ねて指の間に自分の指を絡めていった。
「どこのアパート? 近く?」
「うーん、大学まで歩いてニ十分くらいです」
「……それ、遠くないか?」
確かに汗ばんじゃうんですよーとまだ目線は手に集中したまま、ひまりは表情を崩した。指同士が触れ合い繋がり合う空間の中で、彼はそんなに大変だったら、と車の鍵をひまりに見せた。
「明日も講義あんだろ、ついでに迎えに来てやるし、帰りも送ってってやる」
「え? いいんですか!?」
「もちろん」
ゼミで関わって、再履修では色々と教え、ディスカッション等では異学年として馴染むために立ちまわってくれたり、関わりが多い仲であるが故の提案に、ひまりもぱっと笑顔の花を咲かせて見せた。
「今日は友達来るんで、また明日お願いします!」
「おう、任せとけ」
「えへへ、約束ですよ! 寝坊したからとか言ってサボっちゃダメですからね!」
わーってるよ、と彼は手を振って講義室を後にした。
心臓が苦しかった。ひまりはただひたすらに痛いくらいに張り裂けそうな鼓動を抑えるようにして、手を振り返した。
恋をしたのだという自覚はあった。だがその恋心をどうすればいいということは何もわからなかった。ましてやそれを相手に伝えるとなるとどうにも勇気が出なかった。
「でも確実に、距離は縮まってるんだ……大丈夫、大丈夫」
そう言い聞かせたところで、またひまりの胸に分厚い雲がかかっていくのを感じた。雨こそ降ることはないのだが、胸を苛む鈍色の痛みにひまりは顔を歪め友人との待ち合わせに向かった。
翌日の朝、ひまりが鏡の前を行ったり来たりしながらそわそわとしていると、スマホが着信を示した。
「お、おはようございます!」
『ん、おはよひまり。えっとあと十分くれーでそっち着くけど大丈夫?』
「大丈夫、です!」
電話を繋ぎながら五分してからワンルームの部屋を出て、月極の駐車場に誘導する。ひまりの母が借りている場所でもあるため、昨日の夜に相談し、使ってもいいと許可を出してくれたところだった。
「あれがひまりんち?」
「そうです!」
「いいとこ住んでんだな」
「一番上の角地なんですよ~」
「セレブ風に言うね」
そんな雑談をしながらひまりは助手席に乗り込む。何度か乗せてもらったことはあるけれど、家まで来てもらうというのはまた違ったドキドキがあるのだと、大学への道を眺めながら考えていた。
「一人暮らしできてる?」
「いちおーできてますよ! 近くにスーパーもあるんでお買い物もできるし!」
「そっか」
こう見えて料理もできるんですよ! とアピールすると彼がオーバーリアクションで驚く。そうじゃなきゃママも家出を許してなんてくれませんって、と笑うひまりに、彼はでもさ、と少しだけ静かなトーンで呟いた。
「ひまりって寂しがり屋だから、それは心配だよ」
「……あ」
スカートを握りしめた。本当は寂しい。父と喧嘩をして、どうしても許せなくてそれならいっそ一人暮らしをしてみたらと言われて母に言われるがままアパートを借りた。家から少し遠かったし、近くなって朝早くに起きなくていいと笑ったのは最初の一週間だけだった。
寂しい、誰もいない。幼馴染たちもそれぞれの道に進んでいて、夏休み以降は会えてない。唯一の友人はヘッドホンに繋いで奏でるベースくらい。
──それでも強がって、へーきですよへーき! なんて笑うひまりに、彼はそっかと微笑みを浮かべた。
「お待たせ、先輩……ってあれ?」
講義が終わり、ゼミ室に入ったひまりはそこで机に突っ伏して寝ている彼を見つけた。教授は講義に出かけており、彼の顔の横には書きかけの論文の最期に、大量のfを並べていた。
裕福でない彼はアルバイトと、卒論、両立させなければいけないというのに、その上朝早くにひまりを迎えに来てくれた。それどころか、独りで寂しい思いをしてないか、なんて声までかけてくれた。
「どうして、先輩の方がぼろぼろなのに」
「……ひまりが、ちゃんと笑えてねーからな」
「……バカですよ、先輩は」
ゆっくりと目を開いた先輩に対して、ひまりは自分が涙脆いことを恨みながら彼の手を握った。
キレイな指、音楽をしていたんじゃないかと思ってずっと聞けなかった手入れされた爪、けれどひまりは、こんなに寄り添ってくれる彼に対して自分の想いを隠すことができなくなっていった。
「先輩」
「ん?」
「私のおうちで寝ませんか?」
「は? ん? ごめんなんて?」
処理落ちをした彼に対して、ひまりは通じなかった照れを隠すようにだーかーらー! と声を上げた。
机で寝ると身体が痛くなるから、ベッドでゆっくり寝たらどうですか? という言葉に彼は少しだけ驚いた顔をした。
「いいのか?」
「そのコンディションで事故起こしたら泣いちゃいますからね!? 私だって最近車校で習いました! 車の運転にはベストコンディションじゃないとダメなんですよ!」
「そっか、じゃあひまりの家まで車どうすんの?」
「先輩が運転するんですよ? 私ペーパーなので」
「めちゃくちゃ言ってんじゃねーか……」
だがそのくらいの距離なら問題ないと彼は立ち上がった。異性の後輩の家に上がりこみ、あまつさえ休憩所に使うという状況はどうかと思ったが、それ以上に思考、判断力ともに限界に達していたのも事実だった。
「おじゃまします」
「はい! ちゃんと片付いてるので大丈夫ですよ!」
そうみたいだな、と笑われ、ひまりは少し頬を膨らませながら部屋のドアを開けた。小さなテレビ、レポートや課題をやっているであろうノートPCが閉じられている机、コルクボードには同年代の女性五人が集合している写真。そして、ベース。
「お、ベースだ」
「わかるんですか?」
「そりゃ俺もベース持ってるから」
「やっぱり!」
予想があっていたという喜び、同じくベーシストという喜び、そして彼がこの部屋にいるという甘酸っぱい鼓動、全てがひまりの心をまるで綿のように軽くしていた。分厚い雲を吹き飛ばして、キレイな雨上がりの秋の空に変えてくれた彼の手を握った。
「ここが、私のベッドです……ゆっくり寝てていいですからね」
「ん……おお、ふわふわ」
「そーなんです。私のお気に入りなんですよー」
近くに小さな机を出してきて、PCで作業をしながら笑うひまりは形容しきれない幸せを感じていた。やがて小さな寝息を立てる彼の寝顔を見て、ひまりはその髪を撫でた。
いつも頑張り屋な先輩、明るくてカッコいい先輩、優しくて頼りになるのにちょっと頼りないところもある先輩。近くでかわいい寝顔をしている先輩。
──大好きな先輩。
「私、やっぱり先輩が好きです……」
今はまだ、夢の中だけで聞いていてほしい。直接伝えることはできない。けれど、いつか、いつかこの寝顔を間近で、一緒のベッドの中で見ることができたら、そんな彼にキスをできたら。
ひまりはそんな恋の先を考えながら、再びパソコンに向かいあった。夕焼けは優しく、まるでひまりの恋を見守るように、薄い雲の間を破り、窓から赤い光を差し込ませていた。
いつかの子どもの頃、無邪気に話していた。私にいつか王子様が私を迎えに来てくれるんだって。お姫様の夢を見たんだって。キレイな馬に乗って、私のベッドで眠る王子様がいる。そんな夢を。
「ホントだったんだ、あの夢……子ども頃思ったのとはちょっと違うけど」
いつも洗車されてるキレイな車に乗って、今ここで寝息を立てる。ちょっとだけ頼りのない王子様に、いつか愛される日のことを夢見ている。それは子ども頃と同じだとひまりは投げ出され、こちらを向いていた大きな手を握った。
もう、ひまりの心が曇ることはなかった。あの日見た空のように、どこまでも続く青空を赤く照らす、キレイな夕焼けのように、輝いていた。
ひまりはなんというか全体的にメンバーに対してお母さんめいた口うるささとか、騒がしいという印象でしっかりもの、というよりはふわふわしているかなぁと考えながらこの話が出来上がりました。