地図アプリとカメラの距離計によると、ニシン岩までの距離は防波堤から約3キロだ。カタログ性能を信じるなら、4キロは電波が届くらしいが——最適な環境と言う訳ではないし、偶然に恵まれた最初のチャンスを逃す手はない。念を入れておくべきだろう。
そう提案するとコウさんは「ハイテクなドロンのピコピコはお前に任せる」と言って座布団を枕にするや、高いびきをかいて寝入った。
肩を一つすくめてノートPC内のドローン制御アプリを呼び出し、俺は作業に取り掛かった。出張前に斜め読みしただけのマニュアルと首っ引きで設定変更の方法を調べ、何度か失敗しながらも遅い昼食時までには完了することができた。
「……よし」
「手間取ってたじゃねえか。俺ァもう腹ペコだぞ」
いつの間に目覚めていたのか、寝ていたはずの背中から声がした。起きたならそう言えばいいのに、人が悪い。
「で、いけるのか」
「はい。ちょっと苦労しましたけど」
「まるまる二時間もピコピコやって、ちょっとだ? まあいい、メシにしようや」
「定食屋なんかありましたっけ?」
「目配りが足りてねえな。あったよ、漁協の斜向かいに一軒だけな」
「よく見てますねぇ……」
着古してくたびれたジャケットを肩にひっかけ、顎をしゃくって『行くぞ』と部屋を出ていく親父の後を小走りに追いかけた。
夜には居酒屋になるという定食屋には、昼間から酔っぱらっている中年男性が数人いた。だが俺たちが席に着くと会話がぴたりと止み、背を向けていても探るような気配が感じられた。そんな状況でもコウさんの『移住を検討している人好きのする老人』演技は呆れるほど人の心にすべり込んで、瓶ビール数本を対価に和やかな空気を得ていた。
「いやあ爺さん、引越して来るの待ってるよ! また飲もうや!」
「ええ、ぜひ。こっちのボンクラ息子より、よっぽど心強いですねえ。みなさんも消防団のお仕事は大変でしょうが、頑張ってくださいな。詰め所に差し入れ届けますね」
勘定を済ませ、定食屋の暖簾をくぐって戸を閉めるなり「兵隊だな、ありゃあ」と彼は吐き捨てるようにつぶやいた。
「お前、あいつらをどう思った」
「日焼けしてませんでした。漁師じゃないみたいに」
「それだけか?」
「いえ、何か臭いましたね。磯臭いというより、魚臭いというか……それも、一人じゃなく全員だったように思います。保冷倉庫で働いている……訳でもなさそうなのに」
「それだけか? 思い出せよ。全員やけに太いベルト巻いてたし、腰の左側にいつも『何か』を吊るしてたような跡もあったろ。一人は右側にポーチが着いたままだった。中身は何か分かるか?」
細長い筒——マグライトのような物を見たような気がする。俺がそう言うと、コウさんは低く押し殺した声で「ありゃ警棒だ」と言った。
「俺の知らないうちに青年団やら消防団ってのは、私兵か民兵みてえな組織になったらしいな。あん中の二人な、たぶん何人か殺してるぞ。昔ああいう目ェした奴を何人も見た」
「待ってくださいよ、それじゃあ……左側に何を吊るしてるって言うんスか?」
知りたくない気もするし、嫌な予感もするが聞かないわけには行かなかった。
「拳銃だよ。たぶん、な」
ヤクザが密輸拳銃で武装しているのは知っているし、そういう現場の撮影もニ、三回は経験した。しかし、消防団がそこまでのことをするのだろうか。それはまるで——
「まるで、私兵じゃないですか」
「だからそう言ってるだろ。聞き出した連中の詰め所には俺だけで行く。夕方までに戻らなかったら、お前はいったん逃げて札幌で警察に捜索願を出せ。ここの駐在は信用できねえ、たぶん……抱きこまれてる」
「一人じゃ危険ですよ!」
「でけぇ声だすんじゃねえよ。二人なら安全になるのか、ええ? お前、銃はどうやって、どこに保管するモンなのか分かってんのか? ありゃあな、映画なんかと違って手入れに手間がかかるんだよ。俺ァよく知ってる。撃たれたこともある」
言い返す言葉を探している俺にコウさんはタバコを差し出して言った。
「分かれるのは念のために、だ。保険は掛けといて損しねえもんだろ。おい、少しはオヤジ様を信用しろっての。上手くやるさ」
「……夕方になっても戻って来なかったら、スクープは俺が独占しますからね」
精一杯の減らず口を返すが、鼻で笑われた。
「そいつは困るな。社長賞は老後の貯えに回してえんだ……ああ、そうだ。あのよ、お前……『ゐどら』ってのに聞き覚え、あるか? ソッキ様もそうだが、そっちも調べておけ。じゃあ、頼んだぜ」
歩いて宿まで戻り、コウさんはクルマの中に忍ばせていた缶ビールのパックを提げて、消防団の詰め所がある坂を上って行った。部屋に戻るついでに女将に声をかけたが、老婆は手を擦りながら仏壇と神棚の中間のような木造の何かに念仏を唱えるのに夢中で聞こえていない様子だった。
ため息を一つついて、俺は部屋に戻って彼の帰りを待つことにした。
◇ ◇ ◇
午後四時を過ぎると、凪いでいた山風がそよそよと吹いてきた。海風の磯臭さに慣れた鼻には爽やかに思えたが、老婆の念仏が妙に耳障りなせいで気持ちを和らげるものではなかった。
『ゐどら』という神様について調べたが、何も検索にはヒットしない。『いどら』『イドラ』と検索ワードを切り替えても、哲学用語くらいしか見当たらない。念仏がうるさく、漠然とした不安が、ざわざわとした胸騒ぎに姿を変える気がした。
《……いーあー、いぃーああぁー。でごん、でぇごん、るーりぇ》
《いーあー、いぃーあぁあー。はいどら、いどら、るるーりぇ》
老婆の念仏が次第に大きくなり——文言の音が聞き取れるようになった。
《いあ! でぇごん、いあ! はいどら! おきよりこしかみ! にえとりめされや!
いあ! いあ! はいどら! おきよりこしかみ! にえとりめされや!
いあ! いあ! はいどら! おきよりこしかみ! にえとりめされや!》
言葉の意味は、何一つ分からない。
しかし、その念仏は——いや、絶叫に近い『なにか』は老婆の声だけでなく、宿の周辺の家々から——豊網にいる、俺以外のすべてが叫んでいるような、圧力と熱を帯びた唱和だと思えた。
この村は奇妙ではなく、異常だ。
涼を運ぶ風の中に、言い知れない気味の悪さを感じた。