遠き暁   作:Bingo777

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第六話 これから②

 念仏かと思っていたが、その認識は根本から間違っていた。あれはそういうものではなく、呪いの文句でもない。『なにか』に向けた呼びかけだ。その言葉の意味をくみ取れなくても、その『なにか』は疑いようもなく不吉なものだと感じた。

 

 鬼気迫る老婆の絶叫が止み、さわさわと風に吹かれた風鈴が鳴る音で我に返る。数分も経過していないのに、どれほど脂汗をかいたのだろう。シャツには汗染みができていた。

 

 まだ震えが収まらない手でタバコを咥え、苦労して火をつけ、煙を深く吸い込んで溜息のように吐く。それを数度繰り返して、やっと人心地ついた。

 

 できる事なら、いますぐ東京に戻りたい。始末書を書くだけでこの異常な場所から遠ざかれるなら、喜んで何枚でも書ける。仕事も機材もどうでもいい。知らないうちに、何の覚悟もないまま、常識が通用しない世界に踏み込んでしまった。

 

 怖い。恐ろしい。嫌だ。どうして俺はこんな場所にいるんだ。帰りたい、帰りたい、帰りたい! 落ち着いたはずの震えが戻り、呼吸が浅く早くなり、視界が暗く落ちていく。それは過呼吸で、その対処方法を知っている。それなのに、体が言うことを聞いてくれない。

 

「おう、戻ったぜ……おい、どうした? 真っ青だぞ」

 

 くたびれたジャケットを肩に引っかけたヤニ臭い息を吐く悪人面の顔を見て、これほど嬉しく思えるとは思わなかった。

 

「……あてられた、と言ったところです。とにかく気味が悪くて……」

 

「まあ、落ち着け。病人みてえなツラしてんぞ、お前」

 

「そっちの首尾はどうでしたか」

 

「そうだなァ……色々、分かったぜ。詳しいことは後だ、とにかくお前は休め」

 

「お願いですから、おいて行かないでくださいよ」

 

 一人になると、また震えが来そうだ。だがコウさんは別の意味にとったのか渋面を作った。

 

「お前な、俺がドロンだのパソコンだの、いじれるわけねえだろ。時間になったら首に縄くくってでも連れてくから安心しろ」

 

「はは……ですよね」

 

 良かった。いつものコウさんだ。この人が平気なら、俺もまだ耐えられそうだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 村の夜は、西日が山に隠れると平地よりもずっと早くやって来た。雲は北西に流れていくのに、冷えた風は反対に山から降りて来る。それは気象学的に何の不思議もないのかもしれないが、異常な体験をしたばかりで過敏になった神経には、肌を撫でる空気の流れすら恐ろしかった。

 

「念仏なんかでビビりやがって、意気地ってもんがねえのかお前」

 

 言い返したい気持ちもあったが、俺は文字通りの意味で臆病風に吹かれた状態だった。面倒くさがるコウさんからカメラとレコーダ、速記メモをむしり取って画像や音声データをすべてネット上のクラウドストレージにアップロードした。

 

「保険ですよ。かけておいて損はないんでしょう?」

 

「チッ……まぁ、いいけどよ」

 

 俺たちは漁港の船着き場を囲む防波堤の一角、打ち捨てられた漁網や木箱が乱雑に積まれた場所に隠れていた。廃船だと思っていた船に大漁旗を飾り付け、何も模様がない白いだけの法被(はっぴ)を着て熱気を帯びた男たちが俺たちのすぐ前を何艘も過ぎて行った。

 

 船上の村人たちを撮影し、後日の資料にする目的らしいが正直な話、夜通しハンドルを握っても構わないから祭事の撮影が済んだら尻尾を巻いて空港に直行したい気持ちだった。

 

 それでも習い性というやつは厄介で、カメラのレンズを通せば幾分か恐怖感が和らぐのを感じる。

 

「どうだ、そっちは撮れてるか? 俺の方は後で補正しねえと光量不足で良く見えねえ」

 

「こっちは増幅して、まあまあ撮れてます。肉眼で見るよりかマシですね」

 

 通り過ぎる漁船の列の最後に、白い法被ばかりの中に——赤いガウンのようなものを着た姿があった。カメラを左から右にパンしてそれを追うと、色は赤というよりは黄味がかって緋に近い。着ているものはガウンではなく、浴衣や和服の襦袢(じゅばん)のようにも見えた。

 

 そして、それを着ているのは男ではなく少女だった。

 確か今朝会った、深緒という名だったか。だが海岸で見た、溌溂とした『生気』とも言えそうなものが何も感じられない。男たちの熱と正反対に冷え切った目をしていた。

 

「コウさん、ちょっと……見てくれますか」

 

 カメラとケーブルで接続しているノートPCで、撮影したばかりの映像を再生し、秒間60コマ、60fpsで撮った深緒の姿を静止画で拡大表示し、簡易的な光量補正を加えると——モニタには人形のように無表情で、虚ろな目をした彼女が浮かび上がった。

 

「なんだこりゃあ……昔話の人身御供にされる娘ってやつじゃねえか。薬でも盛られたみてえな目ェしてんぞ。薬……」

 

 言い淀む彼の言葉尻を掴み、彼が思い浮かべた言葉を続けさせようと詰めた。

 

「直接じゃねえ。それに日本でもねえし、もう四十年も前の話だ。関係ねえだろ」

 

「関係あるかどうか分からないすよ。話してください」

 

「嫌だ」

 

 普段なら、嫌なら無理に聞き出そうとは思わない。しかし今は、この場所では知れることは全て知っておかないと、何か隠されているままだと、俺の中で彼への信用が崩れてしまう。もし、コウさんが消防団の詰め所で連中の仲間になっていたら? 考えたくもない!

 

「なんで!?」

 

「思い出したくねえからだよ!」

 

 互いに歯を剥いて襟首をつかみ合い、頬を痙攣(けいれん)せさながら目の奥を覗き合った。

 

「チッ……いいよ、分かったよ。話しゃ良いんだろ。他の奴にゃ漏らすんじゃねえぞ。俺は墓まで持ってくつもりだったんだ。お前もそうしろ、いいな」

 

「約束は聞いてからにします」

 

「ふん。まあ、いい。おい、ドロン飛ばすの忘れんなよ」

 

◇ ◇ ◇

 

 三機のドローンのうち一号機はニシン岩とPCの中間地点に配置して、残り二機の操作や撮影データを中継するように設定した。機体にもメモリカードを付けているが、日が落ちてから強くなってきた風に煽られて墜落したり、バッテリーを使い果たして帰還不能になることも視野に入れた結果だ。

 

 宿で大まかに作った飛行ルートを調整し、三機並べたドローンが一号から順にふわりと離陸するのを見届けてからコウさんは話し出した。

 

「あいつらがニシン岩に着くまで5分ってところか。年寄りの昔語りにゃ足りねえが……俺ぁな、見たんだよ。この村とよく似た連中を、カンボジアでな」

 

 彼が東南アジアに位置するカンボジアに行ったのは四十数年前、ある独裁者が国を乗っ取り、数十から百万もの自国民を虐殺し、その果てに隣国のベトナムと戦争を始めた頃だった。

 

 ——俺ぁ東北の生まれでよ、冬が厳しいのは慣れっこだが夏が苦手でな。バケツをひっくり返したみてえな雨が何度も降って、蒸し暑くてなぁ…何でこんなところで戦争するんだよって思ったよ。

 

 若かったんだろうな。キャパに憧れてよ、沢田サンに痺れてよ、俺もひと旗揚げるんだッてな。会った事はねえけど、一ノ瀬君にゃ負けねえぞってな。英語もロクに喋れねえガキのくせに、特派員の募集にゃイの一番に手ぇ挙げたよ。飛行機の切符だけもらえれば、あとは捨ててくれて構わねえッて部長に啖呵切ってな。

 

 ——そんでな、戦争ってのを見たんだ。

 親父や周りの大人から、太平洋戦争の話は飽きるほど聞いた。あんなものに近付くのは正気じゃねえとも言われた。だけど、見たかったんだ。自分の目ン玉で、人間がどんだけひでぇ事ができんのか、そいつを見ねえと俺ァ……ヒトってのは上等な生きもんだと思ってたからよ。

 

 まあ、そう大して上等じゃなかったんだけどな。

 俺が見たのは、膝から腰から砕けちまうようなもんだった。大砲か何かでぶっ壊された寺にゃ、黒コゲんなった坊主の死体がごろごろしててよ。連中、坊主どもを縄で縛って、生きたままガソリンぶっかけて燃やしてやがった。

 

 俺ぁ……撮ったよ。ナンマイダぁナンマイダぁって念仏唱えながら撮った。だけど、それが一番ひでぇものじゃなかった。

 

 ——お前、さっき念仏聞いてビビってたろ。

 あれな、俺も詰め所から帰る途中で聞いたんだよ。『いあ、いあ』ってよ。あれと同じやつをな、俺ァ……四十年前にも聞いたんだ。得体の知れねえムカデやゲジゲシみてえなのがワサワサしてる夜の森ん中でな。

 

◇ ◇ ◇

 

 コウさんの話は、少しずつ核心に近付いていく。それと合わせるように、海の上を飛ぶ二機のドローンもニシン岩に近付いていく。搭載カメラを起動し、数秒のタイムラグを置いてPCに映像と音声が届く。

 

 モニタに映ったのはオレンジではなく、緑がかった篝火に照らされた男たちが綱引き競技のように太く長いロープを海から引き上げながら、あの言葉を唱えている光景だった。

 

《いあ、はいどら。いあ、いあ、はいどら。おきよりこしかみ、にえとりめされや》

 

「なあ、信じられるか? 森ん中で兵隊の連中と俺ぁな、見たんだよ。でかくて、ねじくれて苔なんかも生えた黒い木がよ、のしのし歩いてたんだ。あれは象みてえに太くて、岩みてえなヒヅメの足だった……!」

 

 いま、この時以外でそんな話を聞いたなら、顔には出さずとも一笑に付す話だ。誰だってカウンセラー気取りで『強いストレスを受けて、一時的に精神が変調したのでしょう』なんて慰めにもならない言葉をかけるに違いない。

 

 しかし、いまの俺には——PCのモニタに目を釘付けにされている俺には、その話が本当の事だと信じられる。疑うことなど論外だ。

 

 なぜなら、白い法被の男たちが引くロープの先、海中から、ひどく損傷した水死体のような、蛙と魚と人をかけ合わせたような、なにかが顔をのぞかせた。

 

 火口に溢れ赤熱する溶岩を見て、それに触れることが死につながると容易に分かるように、『それ』はカメラ越しでも異常さと悪意、そして人外の狂気を感じさせる。

 

《おきよりこしかみ、にえとりめされや》

 

 沖より越し神、贄取り召されや

 

 ああ、ああ。

 意味を掴めなかった念仏の音。あれの意味が、いま、分かった。

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