「うっく……えぐっ……」
ハルケギニアを照らす二つの月が一つになる『スヴェル』の月夜。
ヴァリエール公爵の屋敷の中庭、重なる月から紫紺の月光が差し込む小さな池。
そこに浮かぶ小舟の上で、幼いルイズは一人毛布に包まり嗚咽を漏らしていた。
ルイズは魔法が使えない。しかしそれは彼女が努力していない所為では無い。
むしろ同世代において、今のルイズに匹敵する努力をするものなど居ないだろう。
『ルイズ、まだお説教は終わっていませんよ!』
だが何事にも厳格であった母には通じなかった。
母にはルイズの努力よりも目に見える成果の方が重要だったのである。
その上、二人の姉の出来の良さがルイズの不幸に拍車を掛けた。
『ルイズお嬢様は難儀だねぇ』
『上の二人のお嬢様はあんなに魔法がお出来になるって言うのに……』
母から逃げ出し、植え込みに隠れたルイズを探しに来た使用人達の何気ない会話。
使用人達からすら哀れまれていた事を知り、彼女の自尊心は脆くも砕け散った。
そんな時、彼女は『秘密の場所』と呼ぶ中庭の池に逃げ込む。
誰も居ない此処でなら、ルイズは誰に憚る事なく泣く事が出来るから。
仄紅く照らし出された中庭で、ルイズが暫く啜り泣いていると……
「泣いているのかい、ルイズ?」
いつの間にか立ち籠めた霧の向こうから声が掛けられる。
白い石で作られた東屋が建つ池の小島に、マントを羽織った貴族が立っていた。
「子爵様、いらしていたの?」
ルイズは慌てて居住まいを正し、先程まで頬を濡らした涙を拭う。
彼の事は良く知っている。最近自領を相続したばかりの将来有望な少年であり、同時に彼女にとって憧れの存在でもあった。
両親の覚えもめでたく、特に父と彼の間に交わされた約束はルイズの胸をほんのりと熱くさせた。
「今日は君の父上に呼ばれたのさ。『あのお話』の事でね」
「まあ! ……いけない人ですわ、子爵様は」
「僕の小さなルイズ。君は僕の事が嫌いかい?」
頬を染めて俯くルイズに子爵は戯けながら尋ねて来るが、彼女は小さく首を振った。
「そんな事はありませんわ! ……でも、私、まだ小さいし、よく解りません」
その答えに子爵は小さく笑みを浮かべると、小舟のルイズに手を差し伸べる。
「ミ・レィディ。手を貸してあげよう。ほら、つかまって……」
「でも……」
「また怒られたんだね? 安心して、僕からお父上に取りなしてあげよう」
差し伸べられた手はまだ六歳のルイズには大きく感じられた。
たった十歳違いの少年のそれは、力強い自信に満ちあふれている。
ルイズの小さな手が、子爵の手を取ろうとしたその時、
「何やってるのルイズ! 置いて行くわよ!!」
背後から掛けられる、聞き覚えのある声。
思わず振り返ったそこにあったのは、見慣れた中庭の光景では無かった。
天高くそびえ立つ、重厚な意匠の黒く巨大な扉。
到底人の手では開きそうも無いそれが今、一人の男によって少しづつ押し開かれていく。
そしてその扉の前で、どこか見覚えのある人々がルイズを手招きしていた。
メイド服の上に白銀の軽装鎧を着けた黒髪の娘が居た。
長大な突撃槍を抱え、緊張に強ばる表情にはほんの少しだけ期待感が浮かんでいる。
褐色の肌も露な扇情的で艶かしい衣装を纏った紅い髪の女性が居た。
その手にあるのは長距離用のライフル銃、その手つきは長年使い慣れた達人を思わせる。
黒いマントに同じく黒いとんがり帽子を被った青い髪の少女が居た。
大きな杖と謎の書物を何冊か抱えており、幾つもの傷が刻まれた立派な風竜を従わせている。
他にも何人か居るらしいが、逆光になっていてよく判らない。
そして今、門を開き切った人物が鮮やかな緋色の陣羽織を翻して振り返った。
背に大太刀を、腰に二本の刀を佩いたその男が、普段からは想像もつかない満面の笑顔を浮かべてルイズに手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう『大迷宮』へ! この先で待つ『神』に挑むために!!」
ルイズは迷う。
子爵と共に父の元へ向かうか? それとも……?
迷いは一瞬。ルイズは─────
***
目覚めたルイズが見たものは、部屋の窓から見える二つの月だった。
寝ぼけ眼でそれを眺めていた彼女は、その月が普段よりも接近している事に気付いた。
「……ああ、もうすぐ『スヴェルの月夜』だったっけ。だからか……」
幼き日のあの頃、ルイズの味方は優しい下の姉と『彼』だけしか居なかった。
そしてその日々は、丁度こんな夜に魘される程度には彼女の心に傷を残している。
それでもこんな夢を見たのは久々である。随分懐かしくて寂しい夢だったなぁ、と夢の内容を思い返していたルイズはあれ?と首を捻った。
夢の最後に、子爵ではない誰かが出て来たような気がする。
彼女の悪夢に出て来る面子はほぼ同じ、あの頃ルイズの回りに居たのは『彼』を除けば身内しか居ないのだから当然ではあるが。
けど夢の終わりに出て来た人々に、彼女は確かに見覚えがあった。
しかし何分夢の中の出来事、朧げな印象しか思い出せない。
そして、最後の選択でルイズが選んだのは果たしてどちらの手だったのか。それさえも霞み行く記憶の向こうへ置いて来てしまったらしい。重要な決断だったような気がするが、それがどうしても思い出せないので彼女は早々に諦める事にした。
時刻は夜半過ぎと言った所だが、妙に目が冴えてしまったために寝直す事も出来ず、何とはなしに月夜に照らされた風景を眺めるルイズ。その視界の端を見慣れた外套姿が翳めた。
「……ん?」
そこに居たのは異界から来たと言う『冒険者』、トモであった。
愛剣たるデルフリンガーで素振りをしている姿は最近良く見掛けるが、流石にこんな夜遅くまで鍛錬をしていたとは思わなかった彼女は驚くものの、同時に納得もしていた。
冒険者になった直後にルイズに呼び出されたため、彼の冒険者としてのキャリアはルイズ達と大して変わらない。しかし彼は冒険者に憧れ、長年にわたり修練を積んできたと言う。
「そこが私達と彼の違いなんでしょうけど……」
ある意味『棚ボタ』で冒険者の道を選んだルイズ達との決定的な違いはそこしか無い。
逆に言えば、その一点において彼女達はトモに及ばないのだ。
「……最近、距離をおきたがっているのもその所為かしらね」
あの手合わせの日もそうだったが、最近のトモはルイズ達から距離を置く様になっていた。
もっともそれはルイズがそう察しているだけだ。一緒に鍛錬もするし、使い魔同伴が暗黙のルールとなった授業にもきちんと付いて来ている。なにより一緒の部屋で寝泊まりしているのだ。
ただ、彼女の考察力がトモの異変を嗅ぎ取っただけに過ぎない。
「う〜ん、シエスタに相談する訳にはいかないし、あの色ボケには知られたくないし……」
素直なシエスタでは腹芸は出来まい。かといって最近妙な勘違いをしているキュルケに相談しようものならどうなるかぐらい、推理しなくても考察出来てしまう。
こう言う時、ルイズは自身の交友関係の狭さに呆れ果てる。けれどすでに異端である身には今の状態が都合が良いので、結果としては痛し痒しであろう。
気付けば夜も大分更けていた。トモも鍛錬を終えたらしく、剣を収めて本塔に向かっている。
ルイズもようやく訪れた睡魔の誘惑に屈し、船を漕ぎ始める。意識を失う寸前、彼女が思い浮かべた疑問は誰にも悟られる事無く、夢の世界に解けて消えた。
(……何で、あんなに、鍛えているのかしら? まるで、これから、戦いに赴く、みたいな……)
***
学院で最も人気のない教師を上げろと言えば十人中五、六人が必ず挙げる名前がある。
その教師の名はギトー、長い黒髪に漆黒のマントを纏った冷たい雰囲気を持つ男だ。
だが、彼の不人気の原因はそれだけではない。否、むしろそちらの方が問題であった。
「知っての通り、私の二つ名は『疾風』。疾風のギトーだ」
教卓に立つなりそう名乗るギトー。
静まり返った生徒達の反応をどう受け取ったのか、彼は満足げに教室を見回す。
しかし彼の目が『ある二人組』を捉えるや否や、その表情が渋面に取って代わった。
そこに居たのは『魔法も碌に使えない劣等生』と『生意気な平民の使い魔』の問題児二人、言うまでも無くルイズとトモの主従である。
あの『フーケ襲撃』事件で家柄と立場を盾に脅迫されて以来、ギトーは彼女達を苦手にしており、あからさまに避ける様になった。とは言えルイズが生徒である以上、いつかはこうして面と向かわなければならない。
苦々しく思いつつもギトーは彼女達の傍に陣取っていた女生徒に質問した。
「最強の系統は知っているかね? ミス・ツェルプストー」
「『虚無』じゃないんですか?」
「伝説の話をしている訳ではない。現実的な答えを聞いているんだ」
突然名指しされたキュルケが混ぜっ返すが、ギトーはにこりともせずに切り捨てた。
何とも癇に障る物言いが、情熱的な彼女の琴線に触れる。
「『火』に決まってますわ。ミスタ・ギトー」
不敵な笑みを浮かべつつ、キュルケは己の系統こそ最強とあえて言い放つ。
彼女の自信に満ちあふれた宣言は、けれど予想外の反応をギトーから引き出した。
「残念ながらそうではない。試しに、この私に君の得意な『火』の魔法をぶつけて来たまえ」
その言葉に目を剥いたのはキュルケだけではない。すぐ傍に居たタバサやギーシュ、モンモランシーは元より、その場に居た生徒達は皆ギョッとした事だろう。
そんな中、トモとルイズだけは少々違う反応を見せた。
ギトーの発言を聞いたルイズはトモに何事かを囁き、彼はそれに頷きを返す。
二人の遣り取りを余所に、キュルケとギトーの挑発合戦は佳境に入っていた。
「どうしたね? 君は確か『火』系統が得意なのではなかったかな?」
「火傷じゃ済みませんわよ?」
「構わん、本気で来たまえ。君の、有名なツェルプストーの赤毛が飾りでないのならば」
その言葉を聞いた途端、キュルケは胸の谷間に差していた杖を引き抜きルーンを詠唱。
そのまま杖を振ると彼女の掌に小さな炎の玉が生まれ、見る見るうちに膨らんでいく。
慌てて机の下に隠れる級友を尻目に、キュルケは1メイル程の火球を放つ。けれど唸りを上げて迫り来る業火にも物怖じせず、ギトーは冷静に己の杖を振るう。
たちまち舞い上がる烈風。それは向かい来る火球を掻き消したのみならず、そのまま呆然と立ち尽くすキュルケをも吹き飛ばした。
これがギトーの不人気の理由である。彼は毎年、他系統の生徒を挑発しては叩き伏せ、自らの系統である『風』が最強だと言う持論を無理矢理証明していたのだ。
今年の生贄であるキュルケが吹っ飛ぶ様を見て、ギトーの口元に笑みが浮かぶ。
けれどその笑みは盛大に引き攣った。
「大丈夫ですか?」
「え? ……あら?」
キュルケが暴風に跳ね飛ばされたと思った次の瞬間、彼女は何事も無かったかのように自身の席に座っていたのだから。
確かに吹き飛ばされた筈、と首を捻る彼女と級友達。トモとルイズは会心の笑みを浮かべる。
種を明かせば何の事は無い、ギトーが大人げなく弾き飛ばしたキュルケを、トモが受け止めて元の席に戻しただけだ。
単にそれが目に止まらない早さで行われた、それだけのこと。
何が起きたのかさえ見えなかったギトーは一瞬だけ呆気にとられるが、すぐさま威厳を取り繕って講義を続ける。
「『風』は全てを薙ぎ払う。『火』も『水』も『土』も、試したことは無いが『虚無』すらも吹き飛ばすだろう。故に『風』こそが最強なのだ。目に見えぬ『風』は時に盾となり、時には矛となって全てを薙ぎ払う。従って……」
「そのご意見には異議がありますわ、ミスタ・ギトー」
段々熱が入っていく彼の独壇場に誰かが水を差す。
そこに居たのはピンクブロンドを優雅に掻き上げる少女。
ルイズ・フランソワーズ・ド・ラ・ヴァリエールその人だった。
「……どういう意味かね、ミス・ヴァリエール?」
「どうもこうも、最強が『風』と言うのは間違いだと言いたいだけですわ、先生?」
怒りを押し殺しているのか頬を引く付かせて問うギトーに、ルイズはあくまで慇懃な態度を崩さない。その余りに堂々とした態度に、ギトーはおろかキュルケ達でさえも気圧されていた。
「先程、風は全てを薙ぎ払うと仰られましたが、どんな風とて山は崩せませんわ。燃え盛る業火に風を当てても煽るだけですし、海が風で吹き飛ばされたなんて話も聞きません。なにより、そんな嵐のような風を生み出せるメイジなんて極少数しか居ませんわ。数少ない例外を例に出して『風は最強』なんて言っても、説得力はありませんわよ?」
「ぐっ……!」
ルイズの指摘にギトーは言葉を詰まらせた。
そもそも『風』とは大気の流れ、即ち運動エネルギーを伴った空気を指す。
元が空気であるだけに大質量相手にはいささか分が悪く、まとまった質量を相手取ることが出来る風メイジなぞトライアングル以上に限られる。
ギトーの言う通り『全てを吹き飛ばせる』メイジは非情に希少だった。
「何より、『風』系統の優位性はその早さにありますわ。四系統中最速であるが故に対人戦闘では優位に立てますでしょうが。ミスタ・ギトー、一体どんな状況を想定して『風は最強』と仰られたのかしら? 無学な私にご教授くださいますかしら?」
「ぬぐっ……!」
ルイズの容赦ない追い打ちにギトーは口籠った。
彼女の言う通り、『風』は対個人戦でこそ真価を発揮する。国内外から怖れられた『烈風カリン』のような例外こそあるものの、並の風メイジでは対集団戦闘はこなせまい。
しかし此処で引き下がっては教師としての沽券に関わる。
自らの持論をこき下ろされたギトーは声を張り上げて反論を開始した。
「……確かに、風で城壁や河川を吹き飛ばすことは出来ん。それでも『風』が最強である事に変わりはない! 何故なら『風』は変幻自在、如何なる戦場にも適応出来る唯一の系統だからだ。だからこそ最強……」
「何も戦うだけが戦争じゃありませんよ?」
自らが信じる『風』の優位性を挙げて自己弁護を始めたギトーを遮る声。
ルイズの後ろに控えていたトモが割り込んだのだ。
ギトーの機嫌が目に見えて悪くなる。先程のルイズは曲がりなりにも貴族で生徒であったが、トモは平民で使い魔と言う身分である。取り合う必要は無い。
あからさまに無視を決め込むギトー。だが空気を読まなかったのか、それともギトーに対する当てつけなのか、隣に居たギーシュがトモに疑問を呈する。
「どう言う意味だい? 戦争って戦う為の物だろう?」
「簡単ですよ。直接戦う人間だけでは戦争は勝てないってことですから」
「……戦争で必要なのは戦力だけじゃない。食料などの兵站、傷病者を治療する水メイジなどの衛生対策、陣地構築に必要な工兵、そう言った後方支援なしでは戦えない。そう言うこと?」
トモの答えを補強したのは、それまで黙っていたタバサであった。
その言葉に頷き、彼は言葉を重ねた。
「例えば『風』で百人の敵を薙ぎ払うより、『土』で城壁を築いて千人を阻んだ方が効率が良いでしょう。一騎当千の『風』メイジを新しく集めるより、戦える者を『水』で癒した方が戦力を減らさずに済みます。密集している敵を倒すなら『風』よりも『火』の方が適任です。中心に油でも撒いて火を着ければ勝手に燃えてくれますから。状況によって必要とされる技能は変わります。『風』に拘る必要はありません」
それを聞いた生徒達の表情に理解の色が浮かぶ。
だがギトーのこめかみには青筋が浮かんだ。
「何を言う、『風』に優る系統など有り得ない! 事実、先程のミス・ツェルプストーの火球は私に届かなかったではないかね!?」
引き合いに出されたキュルケの笑みが強ばる。けれどトモは呆れた様に指摘した。
「……どんな攻撃が来るのか、予め判っているなら対策だって容易でしょう? キュルケさんは『火』のメイジですし、『火』系統の攻撃魔法で来るのは判っていた筈です。あそこでギーシュ君のワルキューレが出て来たら、ミスタ・ギトーはどうされていましたか?」
「むぐぐっ……!」
そう、キュルケに狙いを定めたのは彼女が『火』系統であったからである。
『火』の攻撃魔法として第一に上がるのは『ファイヤー・ボール』、即ち先程の火球だ。
攻撃魔法として一般的であるが故に、対抗手段は研究され尽くしている。
当然、ギトーもそれを熟知していた。
「それにあの火球以外にも攻撃手段はあるでしょう? 今回はキュルケさんの工夫が足りなかっただけです。力押し一辺倒では余りに芸がなさすぎますから」
「……確かに力押しで行こうなんて思っちゃったのは失敗だったわ。他にもやりようはあったもの」
トモの言葉に頷くキュルケ。
敢えて乗った挑発だったが、思い返してみれば余りにもギトーの思惑通りに過ぎた。
まんまと踊らされたことは腹が立つが、ルイズ達の意趣返しで溜飲は下がっている。
後はこの二人がどうやってギトーをへこませるかを見物するだけだ。
そのギトーは火を噴かんばかりに顔を真っ赤に染めてルイズ達を糾弾に掛かっていた。
「ええい、黙れ黙れ! 平民の分際で貴族に意見するとは何事か!」
「ふむ、まともに答えられない所を見るに、図星だったようですね」
「ぐぎぎぎぃ……っ!!」
相手はオスマンすら丸め込んだ詐欺師だ。ギトー如きでは口論にすらならない。
追い詰められた彼は最後の手段に出た。
「ならば見るがいい、風が最強たる所以を! 『ユビキタス・デル・ウィンデ……』」
己が使える最高の魔法を繰り出さんとルーンを詠唱し始めたギトー。
丁度その時、教室の扉が音を立てて開き、時ならぬ闖入者を迎え入れた。
「あややや、ミスタ・ギトー! 失礼しますぞ!」
「ミスタ・コルベール! 授業中です……ぞ?」
折角の見せ場を遮られて不快な表情を隠そうともせず、乱入して来た同僚に抗議しようとしたギトーのしかめっ面が呆然とした表情に取って代わる。いや、彼の姿を見た生徒全員が呆気に取られていた。
薄い頭頂を大きな金髪をロールさせた鬘で覆い隠し、幾重ものレースや刺繍に飾り付けられたローブを纏ったコルベールの姿に。
はっきり言おう。似合っていない。
まるで洒落っ気の無い独身中年男性が初めての見合いに合わせて精一杯着飾ったかのような、非情にいたたまれない空気が漂う。
ギトーと生徒達が一斉に沈黙した意味に気付かず、コルベールは重々しく告げた。
「おっほん。今日の授業は全て中止であります! ええと、皆さんにお知らせが……」
もったいぶった調子でのけぞるコルベール。
その拍子にサイズの合っていない大きな鬘が外れて床に落ちた。
微妙な空気が教室を満たす。沈黙を破ったのはなんとタバサであった。
「……滑り易い」
教室が爆笑に包まれた。
直前まで不機嫌だったギトーでさえ明後日を向き、肩を振るわせている。
キュルケに至っては笑い過ぎて腹がよじれたらしい。引き攣る腹を押さえながら「貴女も言うわね!」とタバサの肩を叩いていた。
当の本人だけがにこりともせず、いつもの鉄面皮を保っていた。
「ええいっ、黙りなさい小童共が! ミスタ・ギトーも!! 大口を開けて笑うとは……」
「ミスタ・コルベール、何かあったのですか? 着飾っていらっしゃると言うことは、どなたか貴人がお見えなのでは?」
いや、もう一人だけ爆笑に混じらなかった異物がいたようだ。
先程のギトーもかくやとばかりに顔を真っ赤に染めて怒鳴りかけたコルベールに、トモは至極冷静に用件を尋ねる。隣のルイズすら爆笑していると言うのに一人だけ冷静沈着なその姿に、コルベールは此処を訪れた理由を思い出した。
「ええ、おほん。皆さん、本日はトリステイン魔法学院にとって降臨祭に並ぶめでたき日であります。恐れ多くも先の陛下の忘れ形見、アンリエッタ姫殿下が本日ゲルマニアご訪問からのお帰りに、この魔法学院に行幸なされます。急なことですが、今から学院の総力を挙げて歓迎式典の準備を行います。生徒諸君は正装して門に整列すること」
その台詞が発せられるや否や、先程までとは違う理由で教室がざわめく。
皆、馬鹿笑いしていたのが嘘の様に緊張した面持ちになる。
それを見たコルベールが重々しく頷くと、目を見開いて告げた。
「諸君が立派な貴族に成長したことを姫殿下にお魅せする絶好の機会ですぞ! お覚えが宜しくなる様に、しっかり杖を磨いておきなさい!」
コルベールの言葉が終わると同時に、生徒達が一斉に寮室へ向かう。
慌てて身支度を始めるルイズに苦笑しながら、トモは窓の外に広がる空を見上げた。
どこまでも広がる蒼穹の空。そのどこかに浮かんでいるであろう運命を睨み付けるように。
***
トリステイン魔法学院に続く街道を、四頭立ての馬車が粛々と進む。
沢山の花々で飾られた街道沿いには大勢の人々が立ち並び、歓呼の声を上げて出迎える。
馬車に掲げられた紋章には水晶の杖とユニコーンが刻印され、馬車を引く馬達の頭にも立派な角が生えていた。
無垢なる乙女にしかその背を許さぬ聖獣に引かれた馬車の主。それに当て嵌まる人物はこの国に一人しか居ない。
馬車の窓を覆い隠すレースのカーテンが開き、うら若き女性が顔を覗かせた。その気品ある顔立ちを目の当たりにした人々から一際大きな歓声が上がる。
しかしカーテンを閉じて再び人々の目から隠されると、女性は優雅な微笑みを引っ込めて憂いも露に深い深い溜め息を吐く。そんな彼女を、隣に腰掛けていた初老の男性が咎めた。
「……王族たるもの、無闇に臣下の前で溜め息なぞ吐くものではありませぬ」
「王族ですって! まあ、このトリステインの王様は貴方でしょうに!」
女性の名はアンリエッタ・ド・トリステイン、現トリステイン王国第一王女である。
そして隣に座る初老の男性は前王亡き後トリステインの政治を一手に握るマザリーニ枢機卿、通称『鳥の骨』であった。
瑞々しく若さ溢れるアンリエッタとは対照的に、まだ四十そこそこであるにも拘らず髪も髭も真っ白に色が落ち、痩せぎすの身体は骨張っている。
けれど無理は無い。政治を一手に握るなどと言うと聞こえはいいが、実際は彼以外まともに政治を行っていないだけなのだから。故に国政を預かる心労が彼に集中し、実年齢よりも十歳以上も老ける羽目になったのだ。なのに本来王位に就くべきマリアンヌ大后は夫の喪を理由に頑に即位を拒否し続けており、その娘は……
「枢機卿、今、街で流行っている小唄はご存知かしら?」
「……存じませんな」
「それなら聞かせて差し上げますわ。『トリステインの王家には美貌はあっても杖は無い。杖を握るは枢機卿、灰色帽子の鳥の骨……』」
……この調子だ。少なくとも、話題にしていいものの区別がつかないようでは話にならない。
彼が後続の馬車を降りて王女の馬車に乗り込んだのは、こんなどうでもいい話をする為ではない。
彼らがわざわざゲルマニアまで出向いた事情の再確認の為である。けれど肝心の王女はずっとこんな調子で、マザリーニの話をのらりくらりと躱していた。
(……まあ、仕方が無いと言えば仕方が無いのだが……)
忸怩たる内心の思いを表に出さず、マザリーニは咳払いをして話を戻した。
「街女の歌うような小唄など、口にしてはなりませぬ」
「いいじゃないの、小唄ぐらい。私は貴方の言いつけ通りにゲルマニアに嫁ぐのですから」
憂いに陰った表情でマザリーニに反論するアンリエッタ。
これが彼女がずっと不機嫌だった理由である。彼女は隣国ゲルマニアとの軍事同盟の見返りとして、一回り以上年の離れたゲルマニアの皇帝と結婚しなくてはならないのだ。
政略結婚は政治における常套手段であることはアンリエッタとて理解している。
しかし納得はしていない。まして先王より蝶よ花よと育てられた箱入りの身ではなおさらだ。
王族らしく外面には出ないものの、近しいものには不満を漏らしまくる毎日。
それが普段から口煩いマザリーニであるなら皮肉の十や二十も出てこようと言うものだ。
けれどマザリーニはそれを咎めない。彼にしても今回の縁談は苦渋の決断であったのだから。
「仕方ありませぬ。ゲルマニアとの同盟はトリステインにとって急務なのですから。殿下もご存知でしょう? かの『白の国』アルビオンの革命とやらを」
「そのくらい、私だって知っていますわ! 礼儀知らずのあの人達の、恥知らずな行為のことは!」
このハルケギニアに始祖ブリミルが降臨してより続く王家の一つ、アルビオンで起きた謀反は瞬く間に王家を圧倒し、伝統あるアルビオン王家は今や風前の灯と化した。
蜂起した貴族達はハルケギニア統一を謳い、堕落した現王家を滅ぼして新しい国家を建設することを夢見ている。故にアルビオンの次に狙われるのは、その親戚たるトリステインとなるのは自明の理。それに対抗する為に打ち出されたのがゲルマニアとの同盟であった。
ゲルマニアは始祖に王権を授けられた四王家とは違い、優れた技術力と軍事力でのし上がった新興国家である。最高元首が王ではなく皇帝を名乗っているのもその所為だった。
また金さえあれば平民であっても公職に就ける、すなわち貴族になれると言う実力主義の国でもあり、平民の地位もそう悪く無い。それが他国には『成り上がりの野蛮人』として受け取られているのだ。その成り上がりの国に、小国ながら始祖以来の歴史を誇るトリステインの王女が輿入れする─────アンリエッタを憂鬱にさせていたのはそれだった。
マザリーニにも思うところはあるのだが、歴史はともかく国力の劣るトリステインを存続させる為にはこの方法しか考えつかなかったのだから仕様がない。
「先を読み、先手を打つのが政治なのです、殿下。ゲルマニアと同盟を結び、近いうちに成立するであろうアルビオンの新政府に対抗せねば、トリステインは生き残れませぬ」
何度も繰り返し言い聞かせた台詞を再び聞かせるマザリーニ。けれどアンリエッタは溜め息を吐くばかりでろくな返事もしない。
トリステインの行く末に不安を抱きつつ、馬車は一路魔法学院に向かって進んで行く。
***
魔法学院の正門に整列した生徒達が一斉に杖を掲げる中、王女の馬車は本塔前に止まった。
オールド・オスマンが立つ本塔の玄関と馬車の間に緋毛氈の絨毯が敷かれ、カチンコチンに緊張した衛士が大声で王女の到着を告げた。アンリエッタの名が高らかに響き渡る中、馬車の扉が開かれる。けれどそこから現れた人物を見た途端、生徒達は一様にがっかりした顔になった。
だがマザリーニ枢機卿はお世辞にも歓迎しているとは言えないその視線にも動じず、扉に向かって手を伸ばす。その手を取って現れたのは、可憐な微笑みを浮かべるアンリエッタであった。
一際高く響き渡る生徒達の歓声に、優雅に手を振って応えている。
「成程、確かにお姫様ですね。温室育ちの薔薇みたいです」
「……それは褒めてるのかしら? 貶してるのかしら?」
トモの人物評に、隣に立つキュルケが首を捻る。その隣には我関せずと座り込んで本を読むタバサの姿もあった。そして今の発言に一番食いつきそうなルイズはと言えば、呆然としながら王女の護衛に立つ貴族に見入っていた。
見事な羽根帽子を被った口髭も凛々しい好男子である。幻獣グリフォンに跨がっていることから、魔法衛士隊の一つであるグリフォン隊の所属であろう。
魔法衛士隊と言えば貴族の子弟が一度は憧れる騎士の花形だ。王女の護衛ともなればおそらくは隊長クラスであろうことは容易に想像出来る。しかしルイズはそんなところに注目していた訳ではない。その風貌が、昨晩の夢に出て来たある人物そっくりだったからであった。
「……ワルド、さま?」
「どうしましたご主人、何か気になることでも?」
「……何でも無いわよ」
思わず漏らした呟きを聞きつけたのだろう、トモが心配そうに覗き込んで来る。
慌てて取り繕うが、その視線を辿ったキュルケが例の貴族に気が付き、混ぜっ返す。
「あら、中々いい男じゃない? あらやだ、一目惚れ?」
「何でもそっちに結びつけるんじゃないわよ、この色魔!」
「ご主人、声! 声が大きいですよ!?」
慌てて口を押さえるルイズ。幸い、周囲の歓声に紛れて王女一行まで彼女の怒鳴り声は届かなかったらしい。失態を咎められなかったことに安堵しながら、ルイズは口を押さえていた手を離した。
「あ、危なかった……!」
「全く……、キュルケさんもあんまりご主人をからかわないで下さいね?」
「善処するわ。うふふっ」
どう見てもからかう気満々のキュルケを牽制していたルイズの肩が叩かれる。
何事かと振り向けば、そこには先程まで本を読んでいた筈のタバサが居た。
「……結局、誰を見ていた?」
「……別に、昔の知り合いが居たから吃驚していただけよ。一目惚れとかじゃないわ」
「納得した。……キュルケもこれでいい?」
「何だ、つまんないの」
どうやらキュルケを宥める為だけに話し掛けたらしい。彼女が詰まらなさそうに口を尖らせたのを見て、再び読書に戻る。ルイズが意外な援護射撃に目を白黒させていると、今度はトモが話し掛けて来た。
「ところで、最初の男性はどなたですか? どうもあまり好かれていなさそうでしたが」
「……ああ、そう言えば知らないのよね貴方。あれがマザリーニ枢機卿、今このトリステインを仕切っているお方よ」
「ふむ、あれが……胆力のある御仁ですね」
「あら、どうしてそう思ったのかしら?」
感心した様に何度も頷くトモの台詞に、興味を引かれたキュルケが尋ねる。
「いえ、あれだけ嫌われていながら眉一つ動かさないなんて、凄いとしか言いようが無いでしょう?」
その答えにはっとなるルイズ。
現在のトリステイン貴族で、平民の血が混じっているとも噂されるマザリーニを快く思っている貴族なぞ居ないと言っても過言ではない。それにも関わらず、国王不在のこの国が機能しているのは彼の尽力あってのもの。
マザリーニは圧倒的な敵意をものともせずに国政に邁進しているのだ。
それを考えると彼の凄さが良く理解出来る。
大多数の貴族の例に漏れず、ルイズもマザリーニのことは嫌いだ。
けれど考えてみれば彼の置かれた立場は、この学院におけるルイズの立ち位置そのものではないだろうか? 彼女も少し前までは圧倒的な悪意に晒され、孤立していた。だがあの『使い魔召喚』以降、彼女はそれを嘆く事は無くなった。
それは言うまでも無く隣に立つ彼と、『冒険者』の道との出会いがあったからだ。
運命に挑む覚悟と、何より大切な仲間との邂逅が彼女を変えてくれた。
では、マザリーニにはそんな『仲間』が居るのだろうか?
「……確かにね。それだけは尊敬出来るわ、心から」
ルイズの呟きは誰にも届かないまま、吹き抜けるそよ風に溶けていった。
***
最近、ルイズの部屋は彼女の愉快な仲間達の溜まり場と化している。
ルイズとトモは言うに及ばず、彼女の専属になったシエスタや冒険者の事を聞きに来るタバサとお供のキュルケ、たまにモンモランシーに夜這いを掛けて撃退されたギーシュが混ざったりする。
けれど今日は流石に誰も訪れなかった。シエスタは本職が忙しく、ギーシュも王女が居る間は夜這いを自粛したらしい。タバサとキュルケも今夜は自室に篭っているようだ。
そんな訳で、この部屋の主は久しぶりに静かな夜を過ごしていた。
錆落としの為に鞘から抜き放たれたデルフリンガーも空気を読み、大人しくしている。
磨き粉を付けた布で擦られる度「おうっ……」だとか「も、もっと優しく……」とか悶える剣と言う気持ち悪いものを、何とはなしに眺めているルイズ。
扉を叩く音が聞こえて来たのはそんな時だった。
始めに長く二回、続けて短く三回。
それはルイズにとって特別な意味を持った音だった。
はっとした顔になり、慌てて身だしなみを整え、トモにデルフリンガーをしまう様に言いつけると、ノックされたドアをそっと開ける。
そこに立っていたのは黒い頭巾で顔を隠した少女。
辺りを伺い、誰も居ないことを確認した少女は部屋に入り込んで後ろ手に扉を閉めた。
何かを言いたそうなルイズに人差し指を立てて口を噤ませ、杖を出してルーンを唱える。
そして水晶の飾りの付いた杖を振ると、室内を光の粉が舞った。
「……ディティクトマジック?」
「どこに目や耳があるのか判りませんからね」
そう言って頭巾を払いのける少女。
栗色の髪がこぼれ、薄いブルーの瞳がルイズを捉えると、その目が笑みを形作る。
「お久しぶりね、ルイズ・フランソワーズ」
そこに居たのはアンリエッタ王女その人であった。