そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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改めて宣言する

 しかと目を開く。いつかの空色が、白も黒も、濁った灰色も切り裂いて、視界いっぱいに広がっていた。

 

 その中央に、人の形をしたなにかが浮いている。見覚えがあるような、ないような、そんなあやふやな記憶が脳裏を掠めた。

 

 ――主様。我が主様。気を強くお持ちください。主様の願いは、夢は、まだ終わっておりません――

 

 青白く光る半透明の肢体。妖艶な女性とも、幼気な少女とも取れる顔貌。特徴的な、空色の長い髪。そして身体の中心、胸の奥でゆっくりと回転しながら光を放つひし形の宝石。

 

 その宝石を俺はよく知っている。その光の温もりを、俺はよく知っている。

 

 知っているからこそ、驚きもより一層深い。

 

「ま、さか……エリー、か……?」

 

 混乱の坩堝に陥りながらも、俺は空色の彼女に問いかけた。

 

 俺はもう、既に死んだのだと思い込んでいた。灰燼さえも残さず、全てを焼き尽くすリニスさんの魔法によって俺の身体は消し飛ばされたのだと、そう思っていた。

 

 じきに暗く冷たい黄泉の世界へ旅立つのだろうと覚悟していたのに、なにもないこの世界で、俺はよく知る輝きを視た。包み込んで凍える身体を温めてくれるような、エリーの光を。

 

 思わず飛び出た俺の質問に、彼女は蕾が花開くような可憐さを彷彿とさせる柔らかい微笑みを返した。

 

 ――その呼び名。『エリー』という呼称。主様が御自らつけてくださった、私の、名前。私はとても、大好きです――

 

 彼女の口は動かない。空気は震えず、音は発されていないのに、その言葉は俺の心まで明瞭に伝わった。

 

「ごめんな、エリーも巻き添えにしちゃって……」

 

 ふと、思い至る。エリーはネックレス状態で俺の胸元にいた。当然リニスさんの攻撃を防ぐことも、回避することもできなかった。俺がエリーを持っていたせいで、リニスさんの尋常ならざる魔法群の掃射を浴び、ともにこの世を去った。そういうことなのだろうか。

 

 ――まだ主様は御逝去召されておりません。もちろん不肖私とて同じです。主様の夢も願いもまだ終わっていないと、私はそう申し上げましたーー

 

 俺の推測を、しかし空色の彼女はばっさりと否定する。その明確な打ち消しの言葉は、俺の心を大きく揺るがした。

 

 しかし、エリーの言葉を真実だとするのなら、ならば一体ここはどこなのだ。最初は白、徐々に黒ずみ、今は鮮やかな空色に変貌を遂げたこの世界は、なんなのだ。

 

 そう尋ねると、エリーはまたもはっきりと答える。

 

 ――ここは、そうですね。少し抵抗はありますが、(はばか)(なが)ら申し上げますと、私の力の加護が届く世界、といったところでしょうか――

 

「力の……加護。言ってしまえば、エリーの世界、みたいなもんなのか?」

 

 ――恐れ多いですが、そう捉えていただいても間違いではありません――

 

 風は感じないのに、彼女は艶やかな空色の長髪をなびかせながら俺に教えてくれた。

 

 この世界を左見右見(とみこうみ)して確認してみる。晴れ晴れとした解放的な気分を誘う空色以外に、この世界には何もない。あるのは俺という存在と、この世界の管理者たるエリーのみ。

 

 記憶の片隅に、ぱちっ、と火花を散らすような感覚が走った。ぼやぼやとして不明瞭ではあるが、この世界には見覚えがある。俺はこの空間に、何度も来たことがある。

 

「エリーはずっと、俺を助けてくれてたんだよな。……ありがとう」

 

 戦いで大怪我を負った時、虚ろな意識のまま俺はこの世界に誘われた。その度に空色の彼女は俺を優しく包み込み、癒してくれていた。

 

 エリーは俺のそばでいつも、健気に献身を尽くしてくれていた。

 

 ――い、いえ……お、恐れ多きことです。何も、何もお役に立てない私ができる唯一のことが、この程度でしたので――

 

「この程度なんてもんじゃない。お前がいなきゃ、俺なんて最低二~三回は野垂れ死んでる」

 

 ――元はと言えば私が厄介ごとを、恥じ入るべきことに己の力を制御しきれずに暴走状態に陥ったことが原因です。責められる(いわ)れこそあれど、お褒めのお言葉を(たまわ)る資格など――

 

「暴走したのはなのはとフェイトが無茶し過ぎたからであって、エリーに責任はないよ。それにお前自身プログラムを改悪されてたみたいだし、どうしようもなかったって」

 

 俺がそう言って宥めると、エリーは突然神に祈りを捧げる修道女のように(ひざまず)いた。

 

 俺があたふたしていると、脳内にエリーの凛とした声が響く。

 

 ――その御恩に報いたいと、常々思っておりました――

 

 ただならぬ雰囲気を感じ、俺は黙って言葉の続きを待つ。

 

 ――無秩序に破壊を振り撒くだけだった私を、主様は御身を(かえり)みず助けてくださりました。永遠に等しい時間、黒く冷たいいばらの牢獄に閉ざされていた私を御救いくださったその日より、主様のことを常に想い続けてまいりました。私はこの御恩に報いたいのです。いえ、報わなければなりません――

 

「報いる、って……。エリーは充分俺を助けてくれただろ。俺がどうしようもなくなった時、いつだってお前は助けてくれた。もう充分に礼は尽くしてくれたよ」

 

 いつだってエリーは俺のそばで力を貸してくれていたのだ。協力を惜しんだことなど、ただの一つもありはしない。

 

 仲間を売るような真似に複雑な心境はあっただろうにジュエルシードを探す手助けをしてくれたし、重傷を負った時は怪我も治してくれた。九つのジュエルシードが融合した九頭龍を封印する時、九頭龍からぶつけられる魔力を引っ張って、俺が力を発揮できるように尽くしてくれた。プレシアさんからの雷撃から守ってくれて、墜落しかけていた俺を抱き上げてくれた。数時間前、次元跳躍攻撃からフェイトを庇いに向かった時も、紙一重の差で間に合わなかった俺を空色の魔力で覆って、背中を押してくれたのもエリーだ。

 

 エリーの頑張りを数えだしたらきりがない。枚挙に(いとま)がないほどだ。

 

 だが、エリーはそれでは気が収まらないらしい。首をふるふると振って、否定の意を示した。右に左に、柳髪(りゅうはつ)が躍る。

 

 ――永遠に続くと諦めていた悲しみと不幸の連鎖を主様に断ち切っていただいたおかげで、私は今こうしてこの場にいるのです。御恩はそれだけではございません。彼奴(きゃつ)に力を悪用されそうになった際にも助けていただきました――

 

「んー…………」

 

 『彼奴』とは、もしやリニスさんのことを指しているのだろうか。そう仮定すると、悪用されそうになった際というのは倉庫での一件ということになる。

 

 薄々感じてはいたけれど、リニスさんは相当にエリーから敵意を向けられているようだ。

 

 ――傷つけられても、血を流すことも厭わず、魔手から私を救い出してくれました。いばらの檻から解き放ってくれた。その恩義に、私は応えたいのです。た、たまに、シードモードの私の身体をお手入れしてくれたという恩にも、報いたいのですが、そ、それはま、またの機会です――

 

 シードモード、という聞き慣れない単語が出てきたが、文脈から察するにひし形の宝石の状態のことだろう。何度かお手入れしたことがある。

 

 その話題に触れた途端、ほとんど変わらなかった表情が、まるで夕暮れの空のように赤くなった。今の超然とした印象のエリーがそんな顔したので、心臓がどくん、と少し跳ねた。

 

 深く切り込めば話が脱線するだろうことは目に見えているので、俺は気づかなかったふりをして、彼女の言葉を待つ。

 

 ――私の力は、きっと主様のお役に立てるはずです。主様の願いの為に、私を、私の力をお使いください。私の全ては、主様の御為に――

 

「恩……力……使う、ね……」

 

 エリーは、報恩に責任を感じているのだろう。半ば強迫観念に囚われている。

 

 まるで刷り込みだ。雛鳥が初めて見たものを親だと認識するように、エリーは助けてくれた人をなによりも大切な恩人だと感じている。尽くさなければいけないと、そう信じて疑わない。盲目的に、そう信じて疑わない。

 

 ここで恩返しのためだと称して、良心につけこんで彼女の力を借りるのは容易だろう。ロストロギアとしての力を貸してもらえれば、絶体絶命の窮地を脱することができるかもしれない。

 

 なんといっても、ジュエルシードが保有する魔力は莫大だ。人が内包する魔力なんて塵芥に、次元転移を可能とする魔導炉でさえも路傍の石に見えるほどに、その存在は強大で、かつ絶対的。人の身では到達し得ることのない境地だ。

 

 そして俺はその力を、喉から手が出るほど望んでいた。

 

 俺は周囲の人たちより明らかに素質が欠けている。

 

 努力と閃きで補おうとしても、補えきれない『才能』の差。埋めようにも埋め難く、近づこうにもかけ離れていて、這い上がろうにも這い上がれぬほどの高み。そんな世界で戦う人たちの隣に立ち、共に戦う力を、俺は欲していた。熱望し、切望し、渇望していた。

 

 そして、その力が今、俺の目の前にある。決して届くことはないと諦めていた天上の星が、掴もうと思えば掴める位置に下りてきたのだ。

 

 肺の中の空気を吐き出し、新しい空気を吸い込む。半透明な姿の彼女をではなく、胸の中心で浮遊するひし形の石を見定め、俺は口を開く。

 

「使うとか、使われるとか、恩に報いるとか、俺たちの関係ってそういうものだったのか? 違うだろ、そうじゃなかったはずだろ……」

 

 自分の力を使って欲しい、利用して欲しいというエリーの気持ちを、俺は断固たる決意で拒否する。

 

 口に出して言ってしまうことで、俺たちの関係が決定的に変わってしまうかもしれないが、それでも言わずにいられなかった。

 

 ――あ、主様、そ、それはどういう意味で……――

 

「使う側と、使われる側。それって所有者と道具、みたいな関係じゃないか。俺はそんなつもりでお前を傍に置いていたわけじゃない」

 

 エリーの助力を取り付けることができれば、現実世界でまだ続いている絶望的な窮地を打破打開するきっかけになるかもしれない。それでも俺は、空色の彼女の気持ちを、力を、便利な道具として使いたくはなかった。

 

 ――主、さま……――

 

「俺はそんなんじゃなくて……。もっと、こう……。なんなんだろうな、こんなに難しいことじゃないと思ってたんだけど、うまく伝えられない……」

 

 俺は苦々しい気持ちで拳を握り締め、目を伏せる。

 

 エリーがどうすればいいかわからずに戸惑っているのが感じられるが、俺自身まだ心の整理がついていなかった。

 

 一方的に魔力を提供するだけ、一方的に魔力を搾取するだけの関係なんて、俺はいやだった。そんな寂しくて薄っぺらい繋がりならいらないと、そう思ってしまった。

 

 俺にとってエリーは、ジュエルシードじゃない。力の象徴ではないし、エネルギー結晶体でも、ましてや便利な道具でもない。

 

 この空色の世界ではなく現実の世界では、エリーは話をすることはおろか、動くこともできない。気持ちを百パーセント齟齬(そご)なく伝えることはできないかもしれないが、それでも宝石の身体を点滅させることで、なんとなく分かり合えていると思っていた。分かり合えていると、俺は信じていた。

 

 街の中心部で暴走状態から落ち着かせ、エリーを引き取ったその瞬間からここまで、ほとんど肌身離さず一緒にいたのだ。物だなんて、力だなんて、ましてや利用するだなんて、そんな感情を抱くことなどできない。

 

 やはり、エリーの言うような関係は、俺は承服できない。そんな伽藍堂の絆は、いらない。俺が切に願った力だとしても、エリーにそんなことはさせたくない。

 

 ここまで誰よりも俺の近くで一緒に戦ってきた存在を、相棒と呼べる存在を利用するなんて考えはできなかった。

 

 『相棒』。その一言は、俺の心にすとんと落ちる。俺とエリーの関係性を語るにおいて、最も的確な表現が、きっとこれなのだ。

 

 伏せていた顔を上げ、エリーの輝くような空色の瞳を見詰め、言う。俺のあらん限りの本心を言の葉に込めて、エリーへ贈る。

 

「たぶんさ……恩だとか借りだとか、そんなの俺たちの間には最初からなかったんだと思う。助けたことはある。でもそれは一方的にじゃない、助け合ってきたんだ。そうやって戦ってきたんだ。俺たちの関係は利用とか、利害とか、そんな乾いたものじゃない。協力とか、助け合いとかっていう、もっと温かいものだったと思うから。だからさ、『相棒』……使ってくれだなんて、そんな悲しいこと言うなよ」

 

 エリーは瞳を見開き、ゆっくりと瞼を閉じ、目線を下げた。俺からでは表情は見えず、気持ちが伝わっているかの判断もできない。

 

 ただ俺は、伝わってほしいと思った。届いてほしいと願った。エリーが俺の気持ちのすべてを受け止めた上での結論であれば、たとえどんな答えでも、俺は良しとできる。

 

 ――こんな、私でも、いいのですか?――

 

 ぽつり、ぽつりと途切れさせながらも、彼女は言った。

 

 それは永劫を苦痛と悲哀に耐え忍んできた彼女の、助けを求める精一杯の叫び。

 

 ――惨禍を招き、紅血に塗れ、罪科に穢れたこんな私でも、貴方の隣に立って、いいのですか?――

 

 美しい髪で目元は隠れている。だが、頬を伝う雫は見えた気がした。この空色の世界で、彼女の世界で唯一の、無色透明。

 

 滴った雫が地を打つ。その音は、俺の耳に強く残った。

 

「当たり前だろうが。エリーは俺にとって、相棒で、相方で、パートナーで、家族だ。家族ってのは、ずっと近くにいるもんだ。前に、俺の意見も聞かずに独断で勝手に離れようとしたけど、もうあんなことすんなよ……頼むから」

 

 ――はい……っ、離れません。永遠に、離れません……っ。いつか死が別つとしても、決して……っ――

 

 地に落ちた涙は波紋となって、世界を覆う。優しく温かい空色は透明感を増して、この世界に広がり続ける。

 

 変化は、まだ終わらない。

 

 俺の目の前で手を組んで頭を垂れる彼女の全身が、眩い光を放つ。光が収まった頃には、半透明に透けていた姿が、くっきりと形を成していた。

 

 長い睫毛(まつげ)、すらりと通った鼻梁(びりょう)。淡く色づく唇に、シャープな輪郭。細い首筋、薄く浮き出た鎖骨。白く、しかし健康的で扇情的な肩。質感がありながらも華奢な体躯。白魚のような指、しなやかに伸びる足。

 

 朧に霞んでいた身体がはっきりとし、長い髪の一本一本に至るまで鮮明で、俺は思わず目を奪われる。優雅さと可憐さを併せ持つその姿は、まさしく息を呑むほどだった。

 

 俺は尻込みしそうになりつつも、未だ膝をつき、祈りを捧げる聖女のような挙止のエリーへ手を差し出す。

 

 たわやかに、俺の手を取って彼女は立ち上がる。

 

「これから頼むぜ、エリー」

 

 エリーは端整な顔を綻ばせ――

 

「はい、我が主様。常に傍らに寄り添う相棒として、愛方として、人生のパートナーとして、粉骨砕身誠心誠意尽くす所存です。不束者ですが、末永くよろしくお願い致します」

 

 ――深々と頭まで下げてそう言った(・・・)

 

 俺のセリフに、言った覚えのない言葉が飾り立てられていたり、ニュアンスが異なっていたりした気がしないでもなかったが、それよりも驚いたことがあった。そのインパクトに押されて、それ以外は頭から抜け落ちた。

 

「エリー、お前……喋れたのかよ。脳みそにじかに聞こえる声もよかったけど、やっぱり生で聞くほうが綺麗であったかいな」

 

 今まで鼓膜を仲介せずに直接脳内に送られていた声が、空気を震わせて俺の耳に届けられている。

 

 エリーの口から発されるエリー本来の声は、庇護欲をくすぐるほどに繊細で、それでいて一本芯の通った力強さと頼もしさがあって、乾いた心の奥底を潤す包容力と優しさに満ちていた。

 

「お、お褒め頂きっ……光栄です。し、しかし、何故でしょうか。私の力が及ぶこの世界といえど、言葉を交わすなどできる道理が……ないのですが」

 

「俺に訊かれてもな。半透明だったエリーの身体がはっきり見えていることが、なにか関係してたりすんのかな?」

 

「私の……身体……?」

 

 エリーはぺたぺたと自分の身体を触診する。不用心というか無思慮というか、それとも軽率というべきか、俺の目があるというのにそんな仕草を取るので視線の行き場に大変困った。

 

 あらかた自分の身体を確認し終わると、次はなぜか俺に手を伸ばす。

 

 ぴと、と壊れやすいものにでも触れるように、俺の上腹部に指先をあてる。いや、あてる、というよりも、添えると表現したほうが余程的確か。

 

 こそばゆく感じると同時に、背筋にぴりっと電気が走ったような感覚を覚えた。

 

「私……触れます。主様のお身体に……触れます……」

 

 当初()れている箇所は人差し指と中指の先端だけだったが、触れることが可能だと認識してからはそれが五本の指先となり、手のひら全体へと推移していった。

 

 そしてその柔らかい手のひらは、俺の身体をおもむろに登攀(とうはん)していく。腹部から胸部へと移動し、胸部から首筋に上り、首筋からとうとう俺の頬にまで達した。

 

 ここでようやくつかえていた俺の喉に自由が戻った。

 

「エリー、エリー……? なにか……わかった、か?」

 

「い、いえ……あの、えっと」

 

 我を取り戻したエリーはしどろもどろになりながら一歩退いた。

 

 手のひらをぼう、と眺め、二~三度開いて閉じてを繰り返した。

 

「た、逞しい……ですね」

 

「そういうことじゃあないな」

 

「あ、はい、申し訳ありません」

 

 エリーは、こほん、と一つ咳払いで話を区切った。

 

「自分でもよくわからないのですが、停滞していた力の栓が外れた、と言いますか……。ちょっと違いますね。なんと表現すれば良いか悩むのですが……魔力流の方向が定まった、ような……。申し訳ありません……適切な言語が見つかりません……」

 

「あんまり気を落とすな。俺も考えてみる」

 

 エリーは肩を落として目を伏せた。

 

 落ち込んだ様子の彼女の肩をぽんぽんと叩き、慰める。原因究明のため、そのまま俺は思考の海へと潜った。

 

 大きく分類して、変化は二つある。この世界の色彩の変質と、エリーの姿の鮮明化だ。

 

 正直どちらとも自信を持って手がかりといえるような情報はないが、一つだけ、その二つの変化の共通点がある。変化したタイミングだ。二つの変化は同時に発生した。

 

 俺とエリーが心の内を曝け出し、お互いの存在を認め、確かめ合った時に、それは起きたのだ。

 

 しかし、それが何になる。俺とエリーの今後にとって、重要な分水嶺であることは確かだろうが、それで魔力がどうたらという彼女の話には繋がりそうにない。

 

 思考の先が閉塞していく。これだけではまだ、足りない。

 

 深呼吸し、視野を広く持つことを意識する。

 

 目線を上げて、辺りを見渡す。

 

「主様、我が主様。眉間に皺を寄せて如何(いかが)しましたか? も、もしや、私が至らぬばかりに何か粗相を……」

 

「違うから、エリーはそのままいてくれ」

 

 俺の手には心地よい体温が伝わり、周囲は透き通るような淡い青空が広がっている。

 

 そうだ、この世界。エリーが手綱を握るこの世界の仕組みは、一体どのようなものなのだろうか。

 

 俺は自分の身体がここにあると認識してはいるが、現実世界からこの世界へ実際に身体を運んできているわけではない。現実ではまだリニスさんの砲火に晒されかけていて、俺の肉体を貫くまでの時間が延びているだけだ。精神だけが、こちらの世界に訪れていることになる。

 

 つまり、エリーの魔力を下敷きにして、俺の精神とエリーの、どう表すべきか、自意識や自我がともに存在しているのがこの世界なのだろう。

 

 現実の世界と空色の世界でどれほど時間の縮尺が違うのか気を揉むところではあるが、まだこうして俺があれこれと推考できている以上、身体のほうは焼き尽くされていないようだ。

 

 なるべく早く現実に戻らなければ、と不安は焦燥を呼び寄せるが、しかし今戻っても寸刻生き永らえるだけで、結末は変わらない。

 

 エリーと協力してリニスさんと戦うといっても、その協力する方法論が現状皆無に等しい。エリーの宝石体――本人曰くシードモード――から魔力流を放出する手を考えたが、魔力流は術式で型取られていない素のものだ。俺でも障壁を重ね張りすれば耐えられた魔力流の放射では、魔改造状態のリニスさんを抑えることなど到底できそうにない。

 

 エリーともっと効率的に一緒に戦える方法か、なんらかの術式を編み出さなければ勝ち目はない。

 

 だからこそ今は、この空色の世界の謎とエリーの明視化について解明しなければならない。俺の勘でしかないが、この二つの変化の原因の先に、俺たちの望むものがある。そんな予感がしている。

 

 予感はしていても、答えまで辿り着けない。あと一歩踏み込んだ解釈が、発想の飛躍がいる。

 

 解答に繋がっている糸はないだろうか、と探していると視線を感じた。すぐそばで、エリーが俺を見上げていたようだ。深刻そうな顔をしながら沈思黙考する俺を心配しているのだろう。

 

 不安感や確実に近づいている死への恐怖、頭を熱く鈍らせてしまうような焦燥。そういったネガティブな感情が、不思議と和らいでいく。心が温かくなるのを実感した。

 

「主様、それほどまでに熱く見詰められると、何故か胸の奥深くがぎゅっ、とします……」

「…………」

 

 エリーは頬を染め、胸の中心あたりの服を弱々しく掴んだ。生地が薄いようで、豊かな双丘の形状がとてもはっきりと浮かび上がってしまっている。

 

 彼女自身はすごく真面目な顔で言っているので、よしんば冗談や遊びでやっているわけではないのだろう。奇妙な感覚に襲われているだけなのかもしれないので、あまり語調厳しく突っ込むわけにもいかなかった。

 

「ん、胸の奥……心?」

 

 一つの単語が幾つもの情報に掠める。これが欠けていたピースだったのだ。

 

「よくやった、エリー。お手柄だ」

 

「は、はい。恐悦至極でございます……?」

 

 この世界は、実際の肉体は置いてけぼりになっていて、精神だけが入り込んでいる。それはエリーも同じだ。世界の構成自体はエリーの魔力によって行われているが、実体となるひし形の宝石は今も変わらず、現実の俺の胸元にネックレスとなってかかっている。

 

 身体は動かず、俺もエリーも心だけが跳躍している。

 

 すなわち、この空色の世界は、俺とエリーの心が交差した世界。心が重なり合った世界だ。

 

 だが最初、エリーの姿は半透明だった。心が密接に関わるこの世界において、姿形というのは相対する者への信頼感、または不信感の(あらわ)れなのかもしれない。身体が明瞭なほど心から信じており、逆もまた然り。

 

 朧気だったエリーの容姿が完全に明視化したということは、エリーが俺に心を開いてくれた、気を許した、信頼してくれたということだ。

 

「もうちょっと、待っててくれ。もう少しでわかりそうだ」

 

「はい、お待ちしております。……主様の手、心地良いです……」

 

 エリーの姿が鮮明になったと同時に、この世界の色も変化した。鮮やかな空色に透明感がプラスされた。

 

 持っている魔力の色が世界の色だと仮定したら、エリーの中に俺が溶け込んだということになる。魔力が溶け合い、絡み合った。それも踏まえて、この世界は心の距離の縮図でもある。色が重なったことは、心が重なったのと同義だ。

 

 俺とエリーの心が一つに繋がったことで、この世界とエリーの姿に変化を与えたのだ。

 

「主様の温もり……もっと、近くで……」

 

「ああ、もっと寄ってこい」

 

 課題の究明は果たした。しかし、本題のリニスさんへの対抗策が閃かない。この謎を突き詰めていけば、きっと何かを掴めると、そう思ったのだが、天啓はおりてこない。

 

「もっと、もっと……深くで、主様と……」

 

「ん…………ん?!」

 

 ふと気がつけば、エリーが俺の身体に手をまわして抱きついていた。考え事に集中していたことで、エリーとのやり取りへ反応処理のリソースが振られていなかった。以前のリンディさんに対してと丸っきり同じだ。

 

 下手に意識をエリーに戻してしまった分、身体の感触が鋭敏に感じ取れてしまう。

 

 細い癖に肉付きのいい肢体が、俺に余すところなく引っ付いている。男を虜にする弾力性のある二つの山が、俺の上腹部から胸部にかけて押し付けられ、形を変えていた。割と性格は純朴で純粋なのに、足まで俺に絡みつけている。これまでの永遠に等しい時の流れで(つちか)ってきたわけではなく、おそらくは天性のものなのだろう。

 

 いや、何を冷静に分析しているのか。エリーがこのような、魅力的な女性の姿になった途端に手をつけるなど、それはあまりに見境も節操もなさすぎる。

 

 ひとまず距離を取ろうとするが、俺は俺でエリーの体温に安らぎを覚えてしまって、肩を掴んで離すことができなかった。

 

 俺という人間は、こんなに意志薄弱な男だったのだろうか。手のひら返しのような無節操さではないか。

 

 と、ここまで考えてふと、思考の矛先がずれる。俺の意思の弱さはもはや折り紙つきかもしれないが、エリーの豹変ぶりはどういうことか。

 

 最初話している時はまだ落ち着いていて、会話が成立していた。だが心を開け放ってからというもの、なんだか己の本心も開けっぴろげになってしまっている気がする。

 

 俺もエリーも、精神状態の変化の兆しは、エリーの姿がはっきりと見えるようになって、世界の色が透明感で彩られてからだ。

 

 そういえばエリーが言っていた。要領はいまいち掴めなかったが、『停滞していた力の栓が外れた、魔力流の方向が定まった』と。

 

 かちり、と歯車が噛み合うような感覚。

 

 そして夢現の境界線をふらふらと彷徨(さまよ)っているかのように、エリーが呟いていた言葉、『もっと近く。もっと深くで』。

 

 加えて俺の、沸騰しそうに熱い血の流れと、反転するような心拍の穏やかさ。脆そうなエリーの身体を、肺の中の空気が空っぽになるくらい強く抱き締めたい。限りなく近づいて、その無償の愛に抱かれたい。一つになりたいという激情と、柔らかな腕で包み込まれたいという宿願――表裏一体の思い。

 

 これらが指し示す、意味。これらが紡ぎ出す、答え。

 

 既に、俺たちのナカにあった。

 

 左手をエリーの腰にまわし、右手で彼女の肩を抱く。現実の空よりも鮮やかなスカイブルーの髪に、口づけをする。

 

「エリー、俺のこと……信じてくれるか? 願い事ばっかり大層で、成し遂げる力なんてなにもない。こんな無力な俺を……」

 

「何を仰っているのですか、主様。いくら温厚な私でも、些か看過できぬお言葉です」

 

 俺を抱き締める力が、きゅっ、と強くなる。エリーは俺の心音に耳を傾けるように、頬をつけた。

 

「私の主様を貶す言葉は、誰であろうと許しません。それがたとえ、主様本人といえど」

 

 突拍子もなければ、確信もない。そこに至るプロセスも、ロジックだって不明だ。理論も理屈も、一足飛びに跳び越えている。

 

 それでも俺は、できると思った。

 

「信じています。血と悲しみの呪縛から解き放って頂いたあの時から……あの時より、ずっと。なにがあっても、私は信じています」

 

 エリーとなら、できると思った。

 

「俺も……お前を信じてる」

 

 俺とエリーの心が、一つの糸で繋がった。

 

 俺の中にエリーの心が、エリーの中に俺の心が入り、溶け合い、一つになる。身体の隅々まで、心の奥底まで沁み渡り、浸透する。

 

「こんな(くびき)は、もう……俺たちには必要ない」

 

 ジュエルシードに科された封印を解く。厚い殻に抑えつけられていた彼女本来の力が、戻っていく。

 

 束縛から解放されたエリーの力は、雨粒の一滴一滴が天から大地へ降り注ぐが如く、俺とエリーの心身へ流れ込んでくる。

 

 この大きな、大き過ぎる力は、決して俺だけのものではない。俺だけのために行使していい力ではない。これまで悲しみを作り出してしまった数と同じだけ、いや、それ以上の数の幸せを築くための、守るための、俺とエリーの力なんだ。

 

 ――行くぞ、エリー――

 

 ――はい、我が主様――

 

 俺とエリーの意識が、完全に重なった。

 

 次第に空色の世界が遠ざかっていく。

 

 代わりに視界に挿し込まれるのは、灰色に染まった時の庭園、魔導炉へ続く巨大なホール。眼前には砂埃と瓦礫、そしてごくゆっくりと接近する射撃魔法の魔力弾と、太い砲撃、逃亡を許さぬ鎖の鳥籠。

 

 世界に色が戻り、猛スピードで殺到してくるそれらを、透明感を伴った空色の魔力で薙ぎ払う。魔力はリニスさんの射砲撃を消し飛ばしたあとも竜巻のように俺の周囲を駆け回り、足元の瓦礫や煙も一緒に掃き除けると別れを惜しむように足の間を吹き抜け、消えた。

 

 窮屈だった光景は、魔力弾や砲撃がなくなったおかげで随分とすっきりした。弾幕で遮られていた前方では、リニスさんが茫然自失というふうに立ち惚けていた。デバイスである杖まで手から落としてしまいそうな動揺っぷりである。討ち取るには充分すぎる魔法群を簡単に払われたのだから、動揺のほども窺えるというものだ。

 

 愕然とした状態のリニスさんへ、俺は改めて宣言する。

 

「まだ終われないよ、リニスさん。みんな揃って、笑顔で帰るまで……俺はもう諦めない」

 

 澄んだ音がホールに反響する。

 

 死闘の第三幕が、切って落とされた。


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