そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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愛らしい蕾が花開くように

「お前がなんでッ……ここにいるッ!?」

 

 光が収まった後、俺の視界に映ったのは唖然と驚愕の色に染まるクリムゾンの表情。万に一つも予想していなかった展開に、驚きのあまり動きが停止する。

 

 俺は成功の喜びに浸る間もなく、身体を捻り腕を振りかぶった。

 

「お前のおかげでもあるんだ。思い出させてくれたから、この転移魔法をな……」

 

 俺が生きているのは、奇跡でもなんでもない。記憶の底に残っていた転移魔法の術式を掘り返し、使ったに過ぎない。

 

 クリムゾンに、フェイトと船に残っているべきだったと言われ、その事から紐付いて思い出したのだ。

 

 俺の素質的に転移魔法は発動させることができるか危ういラインではあったが、魔力による強引な方法で展開させることに成功した。

 

 俺の魔法適性値で最低だったのが飛行魔法だ。少なくとも飛行魔法以上の適性があるのなら発動はしてくれるだろうと推測してはいたが、やはり憂慮する点ではあった。しかし、その賭けには勝った。

 

「俺から距離を取ったのは……躱すためでも、防ぐためでもねぇ。その魔法の演算のためだったってのか……」

 

 クリムゾンの推測は正解であって、不正解でもある。テストであれば三角といったところだ。

 

 俺が距離を取ったのは、演算するための時間が欲しかったのともう一つ、大槍を放つタイミングを計りたかったという理由がある。

 

 転移魔法の演算が完了していざ使う場面になっても、彼女が大槍を放つ前に転移してしまっては元も子もない。クリムゾンから離れる前では近過ぎて、発動された瞬間に身体が消し飛んでいた。大槍の影響が及ぶ範囲から出て、転移魔法を使うタイミングを見計らいたかったのだ。そしてできるならば、揺さぶりを考慮して、大槍に隠れて俺を見失うぎりぎりまで待っておきたかったというのもある。

 

 行使するにあたっての一番の難所は演算にあった。自分の位置と転移先の座標の計算だけでも難解。短距離でかつ障害物もなく、高低差も気にしなくていいという条件下においてでも一苦労だった。

 

 消費魔力という点も難関ではあるが、普段の俺であればともかく、エリーの加護に与ることができる現状、その問題をクリアするのはさほど難しくはなかった。

 

「諦めなければなんでも叶うなんて、そんなことは言えない。どれだけ頑張っても報われないこともある。どれだけ努力しても実らないこともあるだろう。諦めなければ立ち行かない状況だって、きっと……。痛いし苦しい、辛いし悲しい。諦めないで頑張り続けるってのは難しいよ。でも、でもな……逃げたら何も残らないんだ」

 

 力任せならぬ魔力任せなやり方で展開させたため転移魔法の構成が不完全だったのか、身体の各所に違和感や痛みを感じる。頭だってくらくらする。気分が悪い。

 

「立ち止まって、投げ出してしまったほうが楽になる。頑張ってきた時間が長ければ長いほど、報われなかった時はどうしようもない。心が砕けそうになる。絶望する。そんなことを考えただけで怖くなるよ。でも、叶えたい願いがあったのなら……苦痛を背負ってでも手を伸ばさなきゃ駄目なんだ」

 

 だが、まだ動く。足は震えるが、しっかりと地面を掴んでいる。

 

「諦めなければなんでも叶うなんてことはない。どれだけ頑張っても報われないこともある、どれだけ努力しても実らないこともある。それでも……血反吐を吐いてでも頑張らなきゃ叶えられないんだ」

 

 重心はぶれていない、力を溜めることができる。拳を打ち放つことができる。想いを込めて、クリムゾンにぶつけることができる。

 

「運命には抗えないと思っているのなら、俺がはっきりと否定してやる。運命なんてないって、未来は変えられるって、俺が証明してやる……ッ!」

 

 俺はまだ、こんなところで終われない。終わらせない。

 

 クリムゾンの正面、至近距離で構えて、思いの丈を込めて、放つ。

 

「この一撃が俺の……全身全霊だァッ!」

 

 思いも寄らなかった魔法、流れが変わる戦況、隠せない動揺。クリムゾンは動転し、障壁を張らずに杖による防御という選択を取った。

 

 度重なる大魔法による演算で酷使された彼女の杖には疲労が蓄積されていた。内部からの消耗で脆弱化していた杖はもう、外部からの衝撃に耐えられない。無数の亀裂が深く刻まれた杖には、頑強だった以前の威光は見る影もなくなり、杖の半ばに接した俺の拳は大した抵抗も感じずに真っ二つにへし折った。

 

「かっ……はっ……っ」

 

 最後の壁を破壊した。この勢いは止めさせない。そのまま俺の拳はクリムゾンの腹部に深々と突き刺さる。身体強化の類の魔法の手応えは感じられなかった。

 

 リニスさんの頭脳があれば、デバイスがなくても魔法の展開はできるだろう。しかし、今身体を操っているのはリニスさんではなく、クリムゾンだ。術式の演算と魔法の維持を担っていたデバイスが破壊されれば、すぐには対処できない。

 

 纏っていた身体強化系魔法も消失している。ダメージは間違いなく通った。

 

 彼女の苦悶の表情は演技ではない。これが最後の好機。これを逃せば、後はない。速やかに次の段階にシフトする。

 

 打ち抜いた右手でクリムゾンの服を掴み、左手で彼女の右腕を拘束し、足をかけて引き倒す。馬乗りになって複数の拘束魔法を展開する。

 

 魔法陣から伸びる鎖はクリムゾンの手足や胴体など全身に巻きつく。自由を奪い、動けなくする。時間を稼ぐことが目的の拘束魔法。

 

 リニスさんを意識を取り返せるかはこの拘束魔法にかかっている。すぐに破壊されればハッキングは失敗する。作戦の成否の大部分はここに占められていた。

 

『エリー、こっちは頼んだぞ。お前にかかってるんだからな』

 

『主様は、本当に……凄いです。もはや畏怖の念すら覚えるほどに……』

 

『おい、エリー! 聞いてるか?!』

 

『私は最後の最後で、主様を疑ってしまいました。主様ならどのような絶望的な状況でもひっくり返すと、知っていたはずのに……』

 

『……俺がエリーの立場なら、一も二もなく逃げ出してた。たしかにお前は最後に無理だと諦めてしまったのかもしれないが、それでも俺を守ろうとしてくれてたろうが。エリーへの信頼は変わらない。お前のそれは裏切りじゃない、気にすんな』

 

『ぁ……主様っ……』

 

『そんなことより、お前が自分を犠牲にしてでも俺を守ろうとしたことの方が問題だ。次は絶対するなよ。お前が死んで俺が生き残りでもしたら、俺は後を追いかねないからな』

 

『はいっ、わかりましたっ。ありがとうございます……私はもう、疑いません。和合(アンサンブル)を解きます。拘束はこちらにお任せください』

 

 エリーの頼り甲斐のある強気な発言を聞き届け、とうとう和合(アンサンブル)を解除する。胸の真ん中から空色の結晶が排出された。同時に俺の身体は男のそれに戻り、バリアジャケットもなくなり元の服装に戻る。

 

 拘束魔法は展開したままエリーに委任する。魔力を供給し続けることでクリムゾンを縛る鎖を維持させ続けた。

 

 深く繋がって魔力が供給されていた状態が急になくなったので、その落差が激しく、体調は(かんば)しくない。全身が極度の倦怠感(けんたいかん)に包まれ、リンカーコアの働きにも違和感を感じる。左目が白く(かす)んでいるのはアンサンブルの前に攻撃を受け、左目に血が入ってしまったからだろうか。怪我こそ治ってはいたが、身体能力の急落からくる気怠(けだる)さときたら苦痛で仕方ない。

 

 できることならば疲労感に慣れてからが良かったのだが、時間は待ってくれない。拘束魔法がいつまで持つかわからないのだ。

 

 そもそもエリーに任せている拘束魔法の維持だってかなり無理矢理プログラムを改変して使っている。付け焼き刃の術式では魔力のロスは激しいのに、時間の経過とともに確実に強度が下がっていく。真っ当なプロセスを通していない不完全の拘束魔法では、クリムゾンであれば仮に魔法が使えなくたって魔力を込めれば力尽くで破壊できる。

 

 いずれエリーの尽力如何(いかん)(かかわ)らず、拘束魔法が破壊されるのは目に見えている。その前に、リニスさんを取り戻さなくてはいけない。

 

 長期戦の精神的肉体的疲労感を押して、クリムゾンの腹部に跨がった俺は彼女の胸の中心に右手をあてる。

 

 胸の奥から湧出する魔力の動きに神経を注ぐ。体内を通して移動させていく。胸の奥から肩、肩から腕に、肘を通過して手のひらへ到達し、更にその先へと。

 

「がッ!? ああアアァァッ!! やめ、ろ! はいってッ、くんじゃねぇ!」

 

 全身に絡みつく鎖と他人の魔力が侵入してくる不快感から抜け出そうともがきながら、クリムゾンが吼える。彼女が暴れるたびに鳴り響く鎖の軋む音と擦過音(さっかおん)が、俺の不安を煽ってくる。

 

 押さえつけている右手に力を込めながら、俺は目を閉じて集中する。目に飛び込んでくる情報を遮断し、耳を叩く音も意識から排除する。

 

 クリムゾンはエリーが押さえてくれている。心配することも恐れることもない。俺はただ一つ、ハッキングにのみ心魂を傾ける。

 

 魔力が手のひらを伝って彼女の身体へ、その奥深くへと潜行していく。

 

 魔法にではなく、リニスさん本人へのハッキングはこれが初めてではない。海鳴市の倉庫で経験がある。あの時の光景を思い出せば、這入(はい)ること自体は難しくない。

 

 どんどん深く潜っていき、目的の位置にまで到着した。魔法を扱う者にとって、文字通りの意味での心臓。魔力を作り出す器官、リンカーコアに。

 

「くッ、ぁ……ッ! やめろ、やめろぉッ! 俺の邪魔をすんじゃねぇ!」

 

「……暴れるな。手元が……狂う」

 

 最奥部まで侵入を許してしまったのが不快さを伴う感覚でわかるのか、一際激しくクリムゾンが抵抗する。手負いの獣のように暴れ狂う。

 

 あまりの暴れように、早速彼女の右腕を縛りつけていた鎖の一本が爆ぜ散る。

 

 エリーも必死に魔力を送り込んでいるが、なにぶん力が違いすぎた。俺を介さずにエリーだけで維持できるよう改変した効率の悪い拘束魔法では、巻き返すことなど望めない。時間をかけて食い下がるのが関の山なのだ。

 

 想定していたよりも状況は困窮(こんきゅう)の色が濃い。タイムリミットは逼迫(ひっぱく)している。

 

 焦燥がちりちりと神経を焼く。焦って取り返しのつかないことになっては目も当てられない。後悔してもし尽くせない。

 

 かといって必要以上に時間をかければクリムゾンは拘束から脱出し、俺を殺すだろう。その後は全てが灰燼(かいじん)に帰す。

 

 作業を早くして雑になってはいけないけれど、後の影響を憂慮するあまりに緩慢(かんまん)になってもいけない。あえて焦燥の火は消さずに、自分を()きつける材料とする。スピードと丁寧さが均衡する処理速度を目指し、リニスさんのリンカーコアと正対する。

 

「なんだ、これは……」

 

 リンカーコアを一目して、以前視た時とは大幅に変容していることを実感した。

 

 リニスさんのもともとの魔力色は淡褐色だ。前に魔力を通して視た時も、リンカーコアは薄い茶色に輝く球体だった。

 

 しかし今は、淡褐色のリンカーコアが赤黒い木の根のようなものに覆われつつある。赤黒い根っこ、その濁った赤色がクリムゾンの魔力なのだろう。

 

 防御魔法や拘束魔法なんかとは情報量が桁違いに多いリンカーコアに侵入し、濁った赤色をした根を取り払うことを考えると気が遠くなる。

 

 それでも俺は、手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

「……っ、んぐ……くっ」

 

 がりがりと、神経が削れていく音を聞いた。

 

 極限の緊張と疲労で気分は悪いし、演算で酷使されている頭はオーバーヒート寸前。体調は(かんば)しいとは、とてもではないが言い難い。

 

 しかし、進捗(しんちょく)状況は悪くない。このまま何事もなく進めば、じきにクリムゾンとリニスさんを繋ぐ魔力の線を引き剥がすことができる。

 

 不安要素は俺の魔力の残量と、(ほころ)びが目立つ拘束魔法だった。

 

 ハッキングは射撃・拘束・防御魔法等のように、一回発動することで既定の魔力量を消費するわけではない。言うなれば時間単位だ。拘束目的の鎖や捕縛輪、障壁などであれば、侵入と内部プログラムの破壊を速やかに行うので、演算による疲労を度外視すれば大した消耗もない理想的な手段といえる。

 

 しかしハッキングし続けるとなればその評価は一変する。その対象が人ともなれば一入(ひとしお)だ。維持するだけで魔力は垂れ流され続ける。侵入する深度が深くなればなるほど、魔力を届かせるために送り込む量を増やさなければならない。複雑な工程になればなるだけ魔力の消耗率は跳ね上がるのだ。

 

 一体化してからの戦闘は、その殆どをエリーの魔力に頼っていたのでまだゆとりはあるが、だんだんと底に近づいているのを感じていた。

 

 魔力の残量と同格、下手すればそれ以上に危ぶんでいるのが鎖の損耗だった。随分と重たくなってしまった瞼をこじ開ければ、クリムゾンの徹底抗戦により、大量に展開した鎖は現在では半分以下にまで減少している。彼女の右腕を押さえる鎖など、あと一本しかないほどだ。

 

 慎重に、かつ大胆にペースを上げなければまずい。俺が作業を完遂する前に、クリムゾンが抜け出してしまう。

 

 そう考えていた時だった。

 

 クリムゾンの咆哮(ほうこう)(とどろ)く。雄叫びとともに輪をかけて一際激しく抵抗し、ついに右腕を縛りつけていた鎖が弾けた。

 

「俺からッ、離れろ! 邪魔すんじゃねぇよ!」

 

「かっ……ぁぐっ。っは……」

 

 自由を得た彼女の右手が閃く。霞むほどの速さで伸ばされた右手は俺の首を掴み、締め上げた。

 

 俺は空いている左手で彼女の手を剥がそうと試みるが、ハッキングに魔力も意識も集中させているため力を込められない。

 

「邪魔すんなッ、俺の邪魔すんなよッ! この女が繋いでる線を切られたら、俺からは繋ぎ直すなんてできねぇんだ! これが最後なんだ! やらせねぇよ、絶対やらせねぇ!」

 

 (かす)れ始めた視界の端で空色が明滅していた。まるで力が及ばなかった自分を責めるような光。エリーのことだから、鎖を破壊されたことに罪の意識でも持っているのだろう。

 

 不完全なプログラムの拘束魔法でよくこれまで凌いでくれた、と口に出して慰めたいところだが気道を圧迫されてくぐもった声しか出せない。エリーへの慰労は後回しにせざるを得なかった。

 

 左手での抵抗はささやかであるが、それでも効果はある。右腕以外、依然として鎖に縛り付けられ、上半身を動かせないクリムゾンは力を入れ辛いという体勢的な利もある。息苦しさを堪えてリニスさんから切り離せば、クリムゾンはもう手出しができない。

 

 ハッキングを再開する。淡褐色のリンカーコアのおよそ半分を超える面積を覆っていた赤黒い根はもう、残り僅かとなっている。ここを踏ん張れば、逃げ切れる。

 

「そうかよ、そう出るのかよ……ッ! あんま舐めてんじゃねぇぞ!」

 

 クリムゾンは追い詰められて頭に血が上っていたが、それで目の前しか見えなくなるほど感情的ではなかったようだ。それは俺にとって不幸でしかなかったが。

 

 俺の首に喰らい付けさせていた右手を離れさせる。クリムゾンは右手の拳を握り込むと、俺の手を振り払って己の左腕へと狙いを定めた。左腕に巻きついていた鎖に拳を打ち込み、残っていた拘束魔法を粉砕し、解放した左手と右手で俺の首を絞めに掛かる。

 

「がっあ……もう、少し……だってのにッ」

 

 左腕の拘束が解かれても、エリーが維持してくれている魔法はまだある。足や胴体はまだ縛り付けているままだし俺が跨っていることもあって、クリムゾンの姿勢は変わらない。力は入りにくい筈だ。

 

 だが、使える腕が一本から二本になった変化は大きかった。俺の右手はハッキングを継続させるために必要不可欠で動かせない。左手一本では彼女の攻めにまともに抵抗できない。

 

 ほんの少し、あとほんの少しの時間があれば分断は完了するのに、その時間がない。空気を吸い込めず、酸素が足りなくなる。集中力が霧散する。ハッキングを進めることができない。

 

「あんたを苦しめて殺すなんて方法は取りたかなかったよ。だけど、今さらいやとは言わねぇよなぁ……。俺にこんなことをさせたのはあんただもんなぁッ!」

 

「がッ……ッ! か、は……ぁ……」

 

 視界が暗くなっていく。視野が狭くなっていく。意識は、遠くなっていった。

 

 空気を取り入れようと躍起になる喉は喘鳴(ぜんめい)を起こす。俺の抵抗を嘲笑(あざわら)うかのように絞首する手の力は強く、どれだけ足掻いても離れない。

 

 薄れ始めた意識の中で、クリムゾンの声が細く聞こえた。怒りに打ち震えたものではなく、言い聞かせるような穏やかと寂しさに溢れた声音。

 

「恨まないでくれよ。なにも叶わなかったんだ、最後の望みくらい果たさせてくれ」

 

 クリムゾンは一度息を吸って、手を緩める。力を溜めて一気に絞め殺すための一瞬の余白。

 

 一秒の半分にも満たないその時間では、ハッキングは終わらせられない。クリムゾンの魔力の根を取り払うことはできない。それでも、意識が途切れるその瞬間まで俺は俺のやるべきことに専念した。

 

「っ…………?」

 

 いつまで経っても、首を絞めるクリムゾンの手は強くならない。俺の首筋に添えているだけのような、力を抜いた状態が続いていた。

 

 恐る恐る、そろそろと視線を胸の中心から上にずらしていくと、クリムゾンは渋面をつくっていた。

 

「こ、この女ッ……こんな大事な時にッ!? どこまでも俺の足を引っ張るつもりかよ!」

 

 彼女の両手が俺の首のすぐ近くでふるふると揺れる。天秤が振れるように、時折力が込められたり、かと思えば手が離れそうにもなる。

 

 クリムゾンは俺を殺そうと(はや)っていた。彼女がここで迷う理由も、恐れる理由も、躊躇(ためら)う理由もまた、ない。

 

 クリムゾンのセリフとふらふらと中空を漂う手を合わせて考えれば、答えはすぐに出る。

 

「そういえばお前が言っていたな。『この女は抵抗している』って。お前に身体を支配されてからも、リニスさんは諦めていなかった。再び主導権を取り返すために抗い続けた。諦めるか否か、その気持ちの差が……ここで出たんだよ!」

 

「ふざけんなッ……ふざけんなぁッ! 俺をさんざ利用するだけしといて、いらなくなったら手のひら返しかよ! このくそ女が!」

 

 首を絞める力が緩んだこの時を逃さず、ハッキングの処理を進める。表出する意識こそクリムゾンが握っていたが、処理が進むごとに身体の統制は離れていく。首筋に添えられていた両手は小刻みに震えながら離れていった。

 

 しかし気を緩めればクリムゾンにコントロールを奪われかねないのか、リニスさんの意識は俺の頭を抱き締めるような形で両手を回す。引き寄せられるので自然、前屈みに傾く。俺の顔のすぐ隣に、彼女の体温を感じられた。

 

 荒い息遣いが耳を撫でる。熱い吐息が首筋を撫でた。緊迫した状況だというのは理解していたが、女性特有の柔らかい感触と香りに脳髄を溶かされそうになった。

 

 煩悩を振り払い、意識を集中させる。リニスさんのリンカーコアに根付いた赤黒い色は、もうほぼなくなっていた。精神が擦り切れる前に、魔力が搾り取られる前になんとか終わらせることができそうだ。

 

 あと一つの操作でリニスさんはクリムゾンの魔力から解放される。あと一つの操作でクリムゾンはリニスさんの身体から放り出され、また冷たく暗い魔導炉の中枢に囚われることになる。

 

 か細い声が、俺の耳元で囁いた。

 

「なぁ……頼むよ、見逃してくれよ……。俺……まだ消えたくねぇよっ。こんなところで……なにも残せねぇで……誰にも知られねぇで消えるなんていやだっ……」

 

「だからって、みんなを傷つけていい理由にはならない。自分がどれだけ不幸だとしても、その不幸を他人に押し付けていい理由にはならないんだ」

 

「待って……待ってくれ。ここで消えちまったら……俺っていう存在はなにもなくなる。いなかったことになっちまうんだ。だから……」

 

「だからここで殺し回って、たとえ悪名だとしても記録に残したい。そんな戯言(たわごと)をほざくつもりか? ふざけんなよッ……」

 

「っ……」

 

 どうしようもなく苛立つ。クリムゾンの発言は腹に据えかねる。

 

 本人の言では、元は人の役に立つ為に、人の幸せを守る為に作られた存在が彼女だ。それが心ない所有者によって不幸をばら撒かされ続けた。その所有者がクリムゾンを使って過去に何をしたのかまでは知る由もない。クリムゾンの魔力で魔法を行使したのか、それとも魔導炉に取り込むのと同じような仕組みで兵器に転用したのか、詳しいところはわからない。ただ、悪意を持って非道の限りを尽くしたのは所有者でも、実行するための魔力を供出(きょうしゅつ)させられたのはクリムゾンだ。本人の意思はどうあれ、クリムゾンも悪事の片棒を担がされていた。それは変え難い事実だ。

 

 本来の役目とは真っ向から反する悪事に心を痛め、責任を感じる気持ちはわかる。抵抗したかっただろう。拒否したかっただろう。こんなことに力を使うのは間違っていると、声をあげて反対したかっただろう。それでも所有者に協力していたのは、自分の心を守るためだ。強制的に吸い取られる自分の魔力で災いを引き起こす光景を見て、自分の心が壊れないようにするために、これは人間の役に立つという目的に沿っている、と誤魔化していた。

 

 そうやって自分に嘘をつき、偽らなければもはや自分としていられないほどの罪悪感をクリムゾンに科し続けていた歴代の所有者たちに、腹が立つ。生み出された理由と逆行する願いをクリムゾンに抱かせた劣悪な環境に、腸が煮えくり返る。

 

 中身が伴っていない空虚な復讐心に囚われているクリムゾンが、不遇で、不憫(ふびん)で、悲哀にあふれていて、遣る瀬なかった。

 

「そんなことをしても、お前の心は満たされない。心の底からの願いじゃないのに、満たされるわけがないんだ」

 

「なら……俺はどうすればいいんだ……。どうすれば俺は、こんなに狂っちまわなくてすんだんだ……」

 

「……お前の周りにいた人間は、信用に値しないやつばかりだったんだろう。人間に対して、疑惑や疑念でいっぱいなんだろう。疑心暗鬼になっているんだろう。でも、でもな……そんな人間ばっかりじゃないんだ。世の中には悪人ばかりがいるわけじゃない。真っ当な人間も同じだけ……いや、それ以上にいるんだ。これが最後だって、幕を閉じる覚悟を決めているのなら……諦めて投げ出してしまう前に、信じてくれないか」

 

「『真っ当な人間』、か。先に言っとくけどよぉ……あんたはその『真っ当な人間』にはカテゴライズされねぇよ」

 

「……俺を見定めるのはお前だ。取り繕ったりはしない。言い訳もしない。お前が俺をどう評価しようと、俺は後悔しないために動くだけだ」

 

「かはは、勘違いすんなって。ほんと、あんたはおもしれぇよ。……俺みてぇな道具をここまで気にかけてんだからな。そんなやつは『真っ当な人間』なんて言えねぇ。まともじゃねぇもん」

 

「そう言われるとたしかに俺はまともじゃないかもしれない。けど……道具なんて言い方するなよ。聞いてて悲しくなるだろ」

 

「……そんなちょっとおかしいやつだからこそ、同類の青いのはあんたを信じたのかもしんねぇな。最後の最後だし、もう一回信じてみんのもいいかも、しんねぇな……。なぁ……俺も、あんたを信じてみていいか……?」

 

「ああ……信じてくれ」

 

「こんだけやっといて図々しいのはわかってんだけど……っ、ぁ……あんたをたよって、いいか……?」

 

「俺はお前より図々しいし図太いぞ。なにせ、ほぼ確定されたある程度の幸せを蹴って最善の結末を追い求めてるんだからな。……気にすんな。辛かったら、誰かを頼ればいいんだ。重荷は誰かに押し付けるもんじゃない。けど、たまにな、いるんだよ。手伝ってくれる奇特なやつがいるもんなんだ。そんな変わったやつがいたら、手を借りればいいんだよ。一人で背負いきれなかったら、手を借りればいい。まあ、それを知ったのは俺もついさっきだけどな」

 

「かはは、ほんとおもしれぇよ、あんた……っ。そんじゃ……悪い」

 

 すぐ隣にあった顔が近づき、触れ合う。熱い雫が俺の頬に伝ってきた。

 

 声を震わせながら絞り出すように、けれどはっきりと、クリムゾンは俺に求めてくれた。

 

「たよらせて、くれ……っ」

 

「すぐ迎えに行く。ちょっとだけ待っててくれ」

 

「わかった……待ってるよ」

 

 クリムゾンは一言囁くと、瞳を閉じた。いつの間にか、目に宿っていた赤黒い輝きはなくなっていた。

 

 俺はリニスさんのリンカーコアに再び意識を戻す。リニスさんとクリムゾンの魔力的繋がりを、完全に()った。

 

 変化は速やかに、そして如実に現れた。長く伸びていた髪は元の肩に触れるくらいになり、獣を彷彿(ほうふつ)とさせる鋭利な牙や爪も人間のそれに戻る。

 

 服は最初の頃と比べると少しあられもない感じ、有り体に表現すれば肌の露出面積が広がっていた。服装に関しては俺が破損させたわけではなく、黒の魔力に覆われていた時に焼けてしまっていたのだ。

 

 服装を除いた外見だけならば、クリムゾンの魔力を取り込む前のリニスさんに回帰している。しかし、重要なのは中身だ。膨大な魔力にあてられた時の粗暴で暴力的なリニスさんでは、交渉のしようがない。

 

 ハッキングはミスなく成功したのか、リンカーコアを傷つけなかったか、後遺症を残さずに済んだのか、クリムゾンから切り離してちゃんとリニスさんの人格が戻ってくるのか。気がかりがとても多く、焦る気持ちを抑えきれない。首に回されたままの腕は如何とも離し難いのでそちらを解くのは諦め、お互いの顔の距離が近いままでリニスさんの頬を優しく叩く。

 

 ぺちぺちと痛くない程度の衝撃を与えるが、リニスさんに反応はない。もしやハッキング中に致命的なミスを犯してしまったのでは、と考えて一瞬血の気が引いたが、しばらくしてリニスさんの唇がふる、と動いた。同時に小さく漏れる声。

 

 閉じられていた瞼が開かれる。猫のように縦長に変質していた瞳孔も、赤っぽく変色していた瞳の虹彩も元に戻っていた。安堵の念を抱きはするが、しっかりと言葉を交わすまで絶対的な確信は持てない。

 

 リニスさんは二度三度ぱち、ぱち、とゆっくり瞬きをする。まるで寝起きのようだ、と益体もないことを思った。ゆるゆると口が開かれる。

 

「と、おる……徹、れすか?」

 

「リニスさんっ! そうだ、俺だよ……逢坂徹だ。よかった……」

 

 ちゃんと舌が回っておらず呂律(ろれつ)が怪しいけれど、リニスさんだ。今はどこかぼんやりとしていて、疲労感から眠気に襲われてるのか瞳はとろんと(うつ)ろだし、舌が(もつ)れるのか幼い口調になってはいるが、この穏やかな眼差しと優しい声音は紛れもなくリニスさん本人のものだ。

 

 未だ意識がはっきりと覚醒していないのか、リニスさんは何度かゆっくりと瞼を開いて閉じてしながら、俺の首に絡ませていた腕を外した。

 

 寝惚け眼のまま、俺の顔を両手で確認するようにぺたぺたと触る。人差し指の先で俺の額にかかった前髪を払ったり、手のひらで輪郭に沿って撫でたり、親指で鼻や唇に触れなぞったり。子ども扱いをされているようで少し面映(おもは)ゆいが、不思議と悪い気はしなかった。

 

 再び感じることができたリニスさんの体温は、とても心地良かった。

 

 と、穏やかな気持ちでいれたのも束の間だった。

 

「ぁむっ……んっ、ちゅ……」

 

「んっ……っ!? んんっ?!」

 

 両手で俺の頬を挟むと、リニスさんは元から至近距離にあった顔をさらに近づけ、唇をあてた。

 

 リニスさんとこういう行為、露骨な言い方をすればキスをするのは、これが二度目になる。一度目は戦闘の最中。魔導炉からの、ひいてはクリムゾンの魔力を取り込む寸前のことだった。

 

 ただ、キスはキスでも一度目とは大きく異なる部分がある。一度目は本当に軽く触れさせるだけだった。だが二度目である今回は、なんというべきか、深かった。

 

 貪るように、などと言うとあまり聞こえが良くないが、唇で俺の唇を挟んだり、舌と舌を絡めたりとディープなものだった。

 

 瞳を潤ませ、唇を求める。くちゅ、と水気を含む艶美(えんび)な音が漏れた。激しく迫って、長く唇を重ね、途切れる短かな合間合間に呼吸をする。必然、呼吸の頻度が減り、互いの吐息は荒くなった。

 

 どれほどの時間そうしていたのかわからない。案外短かったのかもしれないし、存外長い時間甘美な悦楽(えつらく)耽溺(たんでき)していたのかもしれない。取り敢えず、宝石状態のエリーの丸みを帯びた下端が俺の背中に刺さっていることは認識できた。

 

 長い間触れ合っていた唇を離す。別れを惜しむように、銀の糸がひかれた。

 

 リニスさんの上気した頬と熱っぽく潤んだ瞳。寂しげに震える唇。乱れた服装と悶えるような仕草。荒れた息遣い。

 

 その光景は実に(なまめ)かしく、情欲を掻き立てた。理性が吹き飛びそうになったが、時と場合と場所と相手のコンディションを考慮して半ば自分に言い聞かせ、なんとか踏み(とど)まれた。背中に食い込む鈍い痛み(エリー)が思考を正常に引き戻してくれたことも大きい。

 

 とりあえず目の前のリニスさんがこのような状態なので、エリーへの感謝と慰労は申し訳ないが後に回すこととした。リニスさんの肩を押して距離を取り、会話が成立する位置を確保する。

 

「リニスさん、リニスさんちょっと待って……いや、顔に手を伸ばすのもちょっと待って。目覚めてくれたのは嬉しいんだけど、どうしたんだ? どこか調子がおかしかったりするの? いきなりこんな、こと……」

 

 こんなこと、のところで唇の感触を思い出してしまい顔が熱くなる。自分で言ってて恥ずかしくなり、口籠ってしまった。

 

「私は、夢現(ゆめうつ)つを彷徨(さまよ)っていました。自分の身体なのに……勝手に手足が動く。魔法を使う……。薄ぼんやりとした意識の中でも、徹のことを傷つけていたことは覚えています……」

 

 仰向けに押し倒されたまま俺を仰ぎ見るリニスさんの(まなじり)から、一筋の雫がこぼれ落ちた。まだ滑らかにとは言えないが、口は幾らか復調しているようだ。震える唇を抑えて、一言一言区切りながらはっきりと発音しようと努めている。

 

「まるで、深い海に沈んでいくような感覚でした……。最初は明るくて、自分の身体を自分のものとしてコントロールできていましたが……沈んでいくにつれ、周りは暗く冷たくなっていって、私の身体はどんどん遠くなるんです……っ。自分で覚悟したことだったのにっ……とても、怖くてっ……」

 

「大丈夫、聞いてる。俺はここで、リニスさんの言葉を聞いてるよ。もう大丈夫だから」

 

 リニスさんの言葉、沈んでいく意識と鈍麻する感覚、視たイメージ。それらに似たものを、俺も感じた。エリーと和合(アンサンブル)で一つになって、実際の肉体をエリーに任せた時に得た感覚。それと酷似している。

 

 しかし、それはただ似ているというだけであって方向性は真逆だ。鏡写しの類似性。似てはいても性質がまるっきり反対だった。

 

 おそらくはクリムゾンの魔力を自身のリンカーコアに繋いだことが原因だろう。徐々に支配されて、権利を奪われていき、乗っ取られていったのだ。

その時の恐怖を思い出したのか、リニスさんの呼吸が喘ぐように浅く、早くなる。手は(すが)りつくみたいに俺の腕をしっかりと握り締めていた。まるで、未だに魔力の海で溺れて喘いでいるようだった。

 

「深く……深く沈んで、次第に自分の身体を感じられなくなりました。自分が何をしているのか、どう動いているのか……そんな感覚すら薄っぺらく、朧気なものになって……。自分の役目を果たすために望んでやったことなのに、意識が沈んでいくたびに……自分が小さくなっているようで……怖くなりました。光も差し込まない真っ暗な空間で、凍えるほど寒く冷たい水底で……一人でいるのがとても、不安で……っ」

 

 クリムゾンの話と、似通っている点がある。クリムゾンがリニスさんの知識などの情報にアクセスできたことと同じように、魔力という線で繋がったことで、リニスさんはクリムゾンの記憶を垣間(かいま)見たのか。実際の自分の状況と照らし合わせて、追体験のような現象が起きたのかもしれない。

 

「このまま私という存在は押し潰されて消えてしまうのかと諦めかけた時に……徹の声が聞こえました。私の名を呼ぶ徹の声が……。行くべき道も、指し示す光もなにもない空間で……徹の声だけが、私の希望でした。もう、絶対に会えないと……思ってましたっ……。いっぱい酷い言葉をぶつけて、たくさん痛い思いもさせて、挙句守ろうとしたもの全てを自ら破壊しそうになったのに……それなのに、徹は助けに来てくれた。ほんとうに……嬉しかったんです」

 

 両手を俺の指に絡め、リニスさんは俺をまっすぐと見詰めてきた。次から次へとあふれて止まらない涙で顔を濡らしながら、それでも微笑んだ。

 

「徹、ありがとう……。……愛して、います……」

 

 強がりや見栄など一切取り払って、リニスさん本来の少し幼さを残す少女らしい表情で、愛らしい蕾が花開くようにふわりと微笑んだ。

 

 その笑顔に胸を貫かれた俺はなにも言えず、黙って彼女の身体を抱き締めた。






前半と、後半の、落差!

お疲れ様でした。これにてリニスさん戦『は』終わりです。リニスさんとの戦闘を解決させるためにどれだけ話を使っているのでしょう。まだついてきてくれている人がいるかどうかはとても不安ですが……好き勝手やってしまったのにここまで読み続けて頂いてありがとうございます。話自体はもう少し続きます。

あと、もうお気づきの方もいらっしゃるでしょうけど、メインヒロインの一翼を担うのはリニスさんです。前々からそんな気配はありましたけども。

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