そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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朝露に濡れる白百合のように清らかで、夕暮れの陽を浴びる鈴蘭のようにいたいけな

「そう、わかったわ。それなら通せそうね。こちらでも確認してみるわ。アリシアさんの様子はどうだったかしら?」

 

「思ったより体調も良さそうだった。というかめちゃくちゃ元気だった。こっちが驚くくらいに」

 

そう言うと、リンディさんは『元気なのはいいことよね』とふわふわ笑った。

 

俺は今、アースラ艦内のとある一室、リンディさんの趣味嗜好に彩られた部屋にいる。アリシアの発言から閃いた案を呈示するため、リンディさんを訪ねたのだ。どうやら休憩中だったようである。

 

俺のする規則すれすれの提案を、リンディさんは真剣に聞いてくれて、どうにか手を回してくれるそうだ。

 

「ところで、最近クロノと良く訓練しているそうね?時々噂も耳に入ってくるわ」

 

リンディさんは自分で点てたお抹茶を一口含んで、話を俺に振ってくる。そのお抹茶は例のごとく、ミルクとお砂糖がインしたものだ。

 

『噂』という単語には一抹の不安を感じたが、点ててもらったお抹茶と一緒に飲み込む。俺がいただいているものはもちろん、ミルクとお砂糖を入れる前のものである

 

「……まあクロノに稽古をつけてもらってるのは本当だけど」

 

「とっても精力的にやっているそうね。えらいわ」

 

い草ではなさそうな畳に膝をつけてすべらせ近づいたリンディさんは、するりと手を伸ばして俺の頭を撫でる。

 

いい歳していい子いい子されるのは限りなく面映ゆいが、撫でているリンディさんがすごい嬉しそうにしているのでやめさせるのはためらわれた。

 

仕方がないので撫でられたまま話を続ける。

 

「……クロノは自分も忙しいはずなのに時間を割いてくれてるんだ。そりゃあ精力的に気合を入れてやらないと、失礼ってもんだろ?」

 

「ふふっ。そう。徹君はそう思っているでしょうけど、クロノもあれで楽しそうにやっているわよ?」

 

「楽しそう……なのか?」

 

「ええ。徹君との訓練から戻ってきたクロノは柔和な顔で仕事に打ち込んでいるわ。いい息抜きになっているのでしょうね」

 

「たまの息抜きが俺との訓練って……。あの歳でどれだけ仕事人間なんだ……」

 

公私ともに仕事みたいなものなのだが、本人にとって息抜きになっているのなら、それでもいいか。ただ、俺をしごき抜くのが楽しくて、みたいな理由だといやだけど。

 

「たまにデスクの上に徹君用の訓練メニューを広げていたりするもの。楽しくなければそこまでできないでしょうからね」

 

「だとしても、だよ。俺の個人的な理由で付き合わせちゃってるから、ちょっと申し訳なくも思う」

 

「あら?本当にそうかしら?」

 

「……ん?どういう意味?」

 

されるがままの頭を上げてリンディさんを見やれば、ものすっごいぽやぽやとした微笑みを浮かべていた。母性や保護欲といった概念が視覚化されそうなほどである。

 

なのに、とてもいやな予感がするのはなぜなのだろう。

 

「私たちへ恩返しがしたい……だったかしら?」

 

「……はっ?」

 

最近どこかで聞いたようなフレーズである。

 

「仲良くなれた私たちや、フェイトさんたちとお別れしたくないとかって?」

 

「な、な……なんでそれを、リンディさんが……」

 

「クロノがね、言っていたの。腕を組みながら、眉間にしわを寄せて、なのに口元は緩めながら、嬉しそうに照れくさそうに、ね」

 

「ぐぉぉっ……っ!」

 

クロノがあの場での話をリンディさんにしやがったと、つまりはそういうことである。

 

「もうっ!徹君かわいすぎるわ!そっけない言い方してるのに!」

 

恥ずかしさとクロノのまさかの裏切りにフリーズしている俺の頭を、膝立ちになったリンディさんが抱きかかえる。暖かいし柔らかいしいい香りがするし安心感があるしで頭の中がしっちゃかめっちゃかだったが、やっぱりなにより恥ずかしかった。

 

「クロノの野郎っ……言いふらしてんじゃねえよ!」

 

「いいじゃない。私感動しちゃったもの!泣きそうになったんだから」

 

「俺は違う理由で泣きそうだよ……」

 

リンディさんに頭をぎゅうっとされているせいで、頭を抱えて羞恥に耐えることもできない。心中にわだかまるこのもやもやをどう発散すればいいのだ。

 

「あーもう、かわいいわねっ。クロノもこれくらい隙があればいいのに……」

 

「それは暗に、俺は隙だらけってことですか……」

 

「ふふっ、ごめんなさい。ちょっと舞い上がっちゃったの。許して?」

 

「否定はしないんだ……。いいけど、別に」

 

謝ってはいるものの、俺の頭を抱きしめながら撫でる手は止めない。

 

クロノが甘えないせいで、リンディさんは溢れんばかりの母性を持て余しているようだ。近頃、リンディさんと顔を合わせれば程度の差こそあれ、だいたいこんな感じである。

 

話が進まないことこの上ない。

 

「あ、そうだ。リンディさんにはまだ聞きたいことがあったんだった」

 

話が進まなさすぎるせいで失念するところだった。なのはから頼まれていることがあったのだ。

 

「なあに?なんでも言って?」

 

耳のすぐ近くで穏やかにして甘やかに、リンディさんが言う。

 

ともすれば全てを委ねてしまいそうになるほどの包容力だ。ぼんやりしてきそうな頭を懸命に奮い起こす。

 

「うん言うから、言うからこの腕はそろそろ離してくれ!」

 

「もうお終い?残念ね……」

 

いつまでも頭にひっつかれていては喋りづらいことこの上ないし、いつしか本当にリンディさんを頼って(すが)って寄りかかってしまいそうになる。この人の分け隔てない愛情には中毒性があるのだ。

 

もごもごと抵抗して、ようやく解放された。

 

されたのだが。

 

「あのさ、手が……」

 

「このくらいなら邪魔にならないでしょう?」

 

「いやそういうことを言ってるんじゃ……まあいいか」

 

頭は自由になったが、リンディさんは俺のすぐ真横に座って手を握っていた。距離も相当近いが、もう諦めよう。この人が俺を甘やかそうとするのは、もはや無意識下に刷り込まれているのだろう。

 

「えっと……フェイトやアルフのことはどうなってんのかな、って」

 

フェイトのことはもちろん気になっていた。またゆっくりとお喋りもしたい。自由に動いてもいいとなれば、なのはとまた顔を合わせることも、どころか今度は遊びに行ったりもできるだろう。

 

でも、それと同じかそれ以上に、アルフのことも心の奥で引っかかっていた。

 

約束を。大事な約束を、交わしていたのだ。

 

以前に海鳴市にあるフェイトたちのアジトでのこと。この一件が片付いたら、俺たちの関係をどうするかという話だった。あけっぴろげに言ってしまえば、一歩踏み込んだ深い仲になるかという、そんな話。

 

思い出しただけでも赤面してしまうような青臭いやりとりだったが、それでも俺はしっかりと覚えている。

 

だからこれは、なのはの約束のためでもあるが、アルフとの約束のためでもある。言い換えれば、俺自身のためとも言えた。

 

柄にもなく緊張と期待で心臓の律動を早めながら、リンディさんの返答を待つ。

 

「そうね……一月(ひとつき)もしないうちに結果は出るはずよ」

 

「その結果ってのは……」

 

「もちろん実刑判決ではないでしょうから安心して。ただ管理外世界で魔法を使用していることは事実だから、無傷の無罪とはならないでしょうね」

 

「でもそれは、ロストロギアを確保するためで……」

 

「そうね。徹君が練ってくれた釈明はよくできていたわ。必要に迫られた結果、魔法を使用したという点は認めてもらえるでしょう。だから実刑はまずつかないわ。一定の期間は保護観察処分を受けるでしょうけれど、身の振り方次第でそれもじきに解除になるでしょう。本人も入局を希望していることですからね」

 

「そうか……よかった。でも一応結果は待たないといけないんだよな?面会はできないか……」

 

「いいえ?できないことはないわよ?」

 

あっけらかんという風に、首を傾げてリンディさんが言う。

 

「え……で、できるの?」

 

「ええ。徹君はこの件に関しての現地協力者、そのグループのリーダーとしてすでに報告しているもの。何か突っつかれても聴取やその確認を取るのに徹君が聞きに言ったほうが都合がいい、という感じで説明すればいいわ。さすがに重箱の隅をつつくようなことをする人はいないと思うけれど……クロノから注意をされたのよ。一応反論できるよう体裁は整えたほうがいいって」

 

「どこから文句をつけられるかわからないからな……。難しいようなら裁判の結果を待ったほうがいい」

 

クロノがしていた進言に俺は賛同の意を示す。テスタロッサ家に配慮するあまりに無茶なことをしでかそうとしたら止めてくれ、と事前にクロノからも言われているのだ。

 

別にクロノの肩を持つわけではないが、その方針については同意する。

 

ただリンディさんは表情を曇らせた。

 

「本当なら今すぐにでもプレシアさんには娘さんに会わせてあげたいくらいだけど……」

 

「俺もそうは思うけど……だめ。なにかあったらリンディさんの責任になっちゃうんだから。俺、今クロノ先生の教鞭のもと、嘱託魔導師試験の勉強で法令関係も手をつけ始めてるんだ。条文の穴を探して考えてみるから、リンディさんは無理しないでよ。リンディ提督を慕っている人は多いんだから、ここで無理を通して経歴に傷をつけることない」

 

「徹君が法の抜け穴を探し始めたら、それはそれで大変なことになりそうだけど……心配してくれるのは嬉しいわ。この立場になると気にかけてもらうことも少ないから……ありがとう」

 

この人にしては珍しく照れたように微笑する。俺の手を握っているリンディさんのさらさらとした手が、かすかに温度を上げた気がした。

 

ただそのあとリンディさんが小声で『……嘱託試験にそこまで深く法令問題は出題されていたかしら……』と呟いていたのは、若干不穏ではあった。

 

 

何はともあれリンディさんからの許可を頂いた俺は、フェイトがいる部屋へと足を運んでいた。

 

扉を開く前にノックをしてしばし待つ。以前にアルフに充てがわれた部屋へと入る時に一度やらかしてしまっているのだ。同じ轍は踏まない。

 

「はい」

 

扉越しだからか、それともそもそも声量が小さいのか、壁を一枚隔てた向こう側からうっすらと了承の意が聞こえた。

 

聞き慣れたフェイトの声。繊細で、儚げな、線の細い声。アリシアとは似ているのに、やはり違う。

 

これが個性なのだろう。顔形どころか遺伝子情報レベルで瓜二つでも、ちゃんと個性が現れる。やはりフェイトもアリシアも、姉妹ではあっても別の人間だ。

 

そんな当たり前のことを嬉しく思いつつ、扉を開く。空気が抜けるような音とともに、扉がスライドする。

 

間取り自体はリニスさんの部屋と大差はない。扉を開けばすぐに室内の様子は見える。

 

フェイトはベッドの上で座っていた。

 

足をぷらぷらと遊ばせて、光沢のある華やかな金の髪を揺らしている。何か考え事でもしているのか、視線は斜め下に、床に向けられていた。

 

「もうアルフの番は終わったんですか?今日はずいぶんはや……っ!」

 

「よ、フェイト。元気だったか?」

 

「と、徹……」

 

フェイトは最初こちらを見ていなかった。俺がきたと気づかなかったのだろう。途中で目線を持ち上げて俺を視認すると、文字通りに目を丸くして驚いていた。

 

ゆうるりと立ち上がると、フェイトは手をこちらに伸ばしてゆらりゆらり左右に身体を揺らして実にゆっくりと歩み寄ってくる。

 

いろいろな感情をないまぜにしたフェイトの瞳がこちらをまっすぐに射抜くものだから、動こうにも動けず俺はただじっと立ち惚けていた。

 

「徹……だよ、ね?」

 

とうとうすぐ間近にまで近づいたフェイトは、不安げな色を顔に浮かべながら確かめるように指先で俺の服をちょこんとつまんだ。

 

慎ましく控えめであまりにもフェイトらしい所作を見て、アリシアの無邪気で賑やかな振る舞いを思い出してしまった。この対比は、姉妹の性格を過ぎるほど的確に表していた。

 

「他の誰かに見えるのか?」

 

「ううん……徹だ、ほんとに……」

 

俺だと確認が取れたことで安心できたのか、指先でつまんでいたところから手のひらで服を握りしめるような形に推移した。

 

しかしいったいフェイトはなぜ今更になって確認なんて取ったのか。エリーとアンサンブルしてる時の姿や、もしくは眼帯をしていたりすればそれはもちろん分かりづらいだろうが、今日はそのどちらでもない。あかねが庭の手入れをしたいということでお留守番を申し出て、エリーはそのお目付役として家に残っているし、早くコンタクトに慣れるために眼帯もつけていないのだ。

 

久しぶりに会って俺の顔を忘れてたとかだと悲しいどころの騒ぎではないが。

 

「時の庭園から出る時……徹、意識なかったから……。服もいろんなところに血がついてて……すごく、心配で……っ」

 

あの現場の状況は、それはそれは惨憺たる有様だったろう。

 

手も足も動かず、目も(かす)んでいた。気持ちの悪さや苦しさはあったが、痛覚は(おぼろ)げで、触覚すら曖昧だった。あの場でいったい何回血の塊を吐き出したのかもわからない。週末深夜の駅前で転がっていそうな酔っ払いみたいなものだっただろう俺を運ばなければいけなかった誰かには、大変申し訳ない限りだ。

 

「あー、そうか、俺はそこからの記憶はないけど、フェイトたちは見てるんだもんな……。情けないところ見せちゃったな、あはは」

 

「そんなことないっ!」

 

照れ隠しに苦笑いしていると、フェイトは俺の服を握り締めながら、爆ぜるようにそう叫んだ。

 

急に大声を出したことにも驚いたが、なによりもこれまで聞いたことがないくらいのフェイトの声量に驚いた。

 

「そんなこと……ない。あんなに……あんなに血をいっぱい吐いて、意識を失うほど魔力を使って、がんばってくれた。徹にとっては他人なのに、あんなにぼろぼろになるまでがんばってくれた。それを情けないなんて……言わせない。徹本人にも、絶対言わせない」

 

「は、はは……。ごめんな、フェイト。ありがとう」

 

小さな身体を抱き寄せる。触れただけで傷がついてしまいそうなほど細い身体を抱き締める。

 

ただ純粋に、嬉しかった。フェイトがそう思ってくれていることが、そう言ってくれて心配してくれていることが、俺以上に俺の身を案じてくれていることが、ただただ、嬉しかった。

 

しかし、それはそれとして。ひとつ、訂正しなければいけない点がある。

 

「だけどな、フェイト。他人だなんて言い方は聞き逃せないな。俺は特別優しい人間でもないんだ。他人のためにあそこまでできない。親しくなれたフェイトたちの力になりたかったからこそ、あんなに頑張った……あんなに頑張れたんだ。そこだけはわかっててほしいな」

 

「……徹は、優しいよ。優しくて、優しすぎて……どうやって恩返ししたらいいかわからないくらい」

 

「恩返しなんて考えなくていいんだ。ただ幸せになってくれたらそれでいい。笑顔でそばにいてくれるだけで、それだけでいいよ」

 

ぴくり、と俺の服を握るフェイトの手が震えた。俺のお腹にあてていた顔を離して、ちらちらと俺を見ては、また目をそらす。

 

「そんなこと……言わないで。どうしたらいいか、わからなくなるから……」

 

朝露に濡れる白百合のように清らかで、夕暮れの陽を浴びる鈴蘭のようにいたいけな、はにかんだ笑みを咲かせた。

 

「…………」

 

フェイトのそんな笑顔を見れただけで死力を尽くした甲斐がある。

 

だが同時に、後ろめたさもあった。こうまで真摯に俺の身体を気にかけてくれて、俺の行動に感謝まで示してくれるフェイトに隠し事をしていることが、心苦しくもあった。

 

俺が時の庭園でずたぼろになっていただけでも、フェイトは気に病んでいる。今でこそ代用できる技術を構築したとはいえ、後遺症があるなどと知れば、フェイトに更に心配をかけかねない。余計な罪悪感を抱かせかねない。

 

やはりすべてを話してしまうわけにはいかない。

 

クロノやリンディさん、エイミィたちにはテスタロッサ家の人たちとなのはには教えないようにと言い含めてある。俺がそうお願いした時にクロノはどこか不服そうな顔をしていたが、この判断は間違っていなかった。

 

結局押し切られる形でリニスさんには口を割ってしまったが、他の人たちには隠し通さなければいけない。無用で、不要な重荷になる。

 

腕の中にいる繊細な少女には、より一層の負い目を抱えさせることになってしまうだろう。ならば、わざわざ知らせることもない。

 

平和な世界で、平穏な世界で、この子たちには幸せになってほしいから。

 

「すぅ……はぁ」

 

一呼吸置いて落ち着く。

 

フェイトに見られないよう金色の頭に手を置いて、ひくつきそうな頬に笑顔を形作る。違和感なくできているかわからないが、自分の中での笑みを浮かべながら、フェイトに話しかける。

 

「ほら、フェイト。立ちっぱなしだと話しにくいだろ?座って話そう。話したいこと、たくさんあるんだ」

 

「うん、私も。徹と話したいことたくさんある」

 

頭の上にある俺の手を取り、フェイトは再び仰ぎ見る。可憐な微笑を(たた)えていた。

 

手を離すかと思いきや、フェイトはそのまま俺の手を握ったままベッドのほうへと移動する。

 

「ちょっと待っててね」

 

俺をベッドに座らせると、フェイトは小型の冷蔵庫へと向かう。もしかしてアースラ艦内は全室エアコン冷蔵庫完備なのだろうか。なんとも贅沢なことである。

 

「水とオレンジジュースがあるけど、徹はどっちがいい?」

 

どうやらフェイトの部屋とリニスさんの部屋では、冷蔵庫の中身のラインナップに違いがあるらしい。こちらの部屋にはミルクはないようだ。あえてミルクを選ぶことはないから別に構わないけれど。

 

「水でいいぞ。ありがとうな」

 

「いいよ」

 

厳密にペットボトルなのかどうかはわからないが、それに近しい容器に入った水を取り出して両手で持ちながら、フェイトが戻ってくる。

 

およそ五百ミリリットル程度だろう。それをベッドサイドの小さなテーブルに置く。そしてフェイトは俺の隣にちょこんと座った。

 

「あれ?フェイトのぶんは?」

 

「私も水でいいから」

 

「そうなのか。……コップは?」

 

「……一人ぶんしかなかったから、一緒でいい」

 

リニスさんの部屋には紙コップが置かれていたが、こちらの部屋にはなかったようだ。どちらかというとマグカップとは別に紙コップまで置かれているリニスさんの部屋が充実しすぎなのだろう。基本的に独房(という名の一人部屋)なのだから、そこまで用意する必要性も本来ない。

 

「フェイトに会いにくる前にリンディさんから聞いたんだけど、やっぱりフェイトも管理局に?」

 

「うん。みんなでまた一緒に暮らすのに、それが一番近道だから」

 

それが一番近道。これが現実なのだ。

 

俺としては危ないことからは遠ざかってほしいが、入局したほうが刑は断然軽くなるし、そもそもこれからは住むところも生活費も必要になる。金銭面においても、管理局で働いたほうが都合がいいのだ。

 

「フェイトなら立派な魔導師になれるだろうな。……いや、今でもわりと立派だな……」

 

「そんなことないと思うけど」

 

「そんなことある。俺はフェイトに勝てたことないしな」

 

「初めて会った日のことだよね。魔法を知りたてであれだったんだから、きっと今やったら私が負けると思う」

 

「そうか?なのはとの戦い見たけど、あの大規模術式はかなりすごかったぞ。ファランクスって言ってたよな」

 

そう褒めると、フェイトは頬を染めながら照れくさそうに視線を逸らした。なんともいじらしい。

 

これがなのはなら『すごいでしょっ、がんばったんだよっ、ほめてほめて!』となるのが目に見えている。まあそれはそれで可愛いので、芸を覚えた犬にするみたいにべた褒めするけれど。

 

「うん。フォトンランサーのファランクスシフト。リニスが教えてくれた魔法だよ。発動すれば回避することも防ぎきることもできない、って言ってくれてた。ちゃんと使えるようになるまで、苦労したんだ」

 

謙遜しながらフェイトが説明してくれる。どこか嬉しそうなのは、おそらく気のせいではない。

 

「結局なのはには防がれちゃったけど」

 

「あれはなのはの気持ちの入りようが半端じゃなかったからな……。フェイトとちゃんと向き合いたいって言ってたから」

 

「あの時、私はなのはにひどいこと言ってたのに……」

 

「あれぐらいじゃなのははへこたれない。案外頑固で、イメージ通り一途だからな」

 

二日前に会いに行った時のなのはの顔を思い出す。フェイトのことを心配していたあの表情を。

 

「なのはが会いたがってた。フェイトと話したがってたよ」

 

「私も、はやくなのはに会いたいな……」

 

なのはの気持ちを知ったフェイトは嬉しそうで、でも少し寂しそうでもあった。

 

仲良くなった途端に会えなくなったのだ。当然のことだろう。

 

フェイトに伝えればこうなることは予想できていたが、言わずにいるわけにはいかない。なのはとの約束でもあるし、なによりフェイトには知っておいてほしかったのだ。もう一度会いたいと思ってくれる人がいることを、知っておいてほしい。

 

「管理局に入ってある程度働けば自由に過ごせるようにもなるそうだ。がんばろうな」

 

「うんっ。……うん?徹も一緒に管理局に?」

 

「おう。といっても、まだ嘱託魔導師試験に挑もうってところだけどな」

 

「それじゃあ、また一緒にいられるの?」

 

期待の色を滲ませて、フェイトが瞳を向けてくる。少しだけ不安げにこちらを窺うような仕草をしていて、それがまた奥ゆかしさを醸し出し、庇護欲を掻き立てる。

 

「そうだぞ。だから、これからもよろしくな」

 

「うん、よろしくね、徹」

 

雲が晴れた夜空を仄かに照らす月明かりのような、人の目を惹きつけてやまない魅力を伴った笑みで言う。一瞬、心臓を締めつけられたみたいな感覚があった。

 

その上フェイトは同時に白魚のような指を俺の手に、(たお)やかに絡めてきた。狙ってこういうことをやっていないぶん、たちが悪い。大人になったら、フェイトは知らず知らずのうちに多くの男を惑わして、無自覚に手玉に取って振り回しそうだ。こちらは無駄に緊張しているというのに。

 

「お、おおう……。あー……水、もらうな」

 

この様子だと、下手すると大人になる前でも多くの人を魅了してしまうかもしれない。俺はすでに半分くらいその魔法にかかってしまっている気がする。

 

緊張で乾いた喉を潤して、片手でミネラルウォーターのキャップをしめていると、細っこい腕が伸ばされた。フェイトの片方の手は塞がっているので俺がいる側とは反対側の手をミネラルウォーターに向けていた。

 

「私もほしい」

 

「おう。ちょっと待ってくれ、拭くから」

 

男同士ならそれほど気にはとめないが、女の子は嫌がるだろうと思い、飲み口を(ぬぐ)おうとしたが、片手はフェイトの手に捕まっていてできなかった。どうしたものか先程よりも強く握られていて、手を解こうにも解けない。

 

どうしようかと悩んでいると、フェイトが止めた。

 

「そのままでいいよ」

 

「ん、そうか?そんなら、ほい」

 

他人が使ったものは使えない、回し飲みなどに嫌悪感がある、どころか電車のつり革にさえ忌避するという人は一定数いるものだが、フェイトは違ったらしい。これまで家族としか顔を合わせておらず、それ以外の人と接してこなかったから身内とそれ以外の境界線が曖昧なのかもしれない。

 

「ん……っ」

 

片手は俺のそれに重ね合わされている(というより絡み合わされている)ので、フェイトは必然、片手でボトルを受け取り、そのまま片手で飲もうとする。が、ここで思わぬアクシデントが発生した。

 

「あ、危ない、かも……」

 

フェイトの手が小さすぎた。ボトルの直径が通常よりも太いタイプだったということもあるが、それにしたってフェイトの手は小さかった。片手では満足に持つことができず、飲むことが難しかったのだ。

 

これまで華麗に軽やかに長柄のバルディッシュを操り振るっていたのに、ボトルを持てないというのは盲点だった。子どもらしからぬところばかり見てきていたが、こういう点は年相応でほほえましい。

 

「コップあるんだろ?コップ持ってきたらどうだ?」

 

こういうことを見越していたのか、局員さんはちゃんとこの部屋にもコップを用意してくれている。どこに置かれているのかは知らないが、厚意を無下にすることもないだろう。

 

「…………」

 

持ってくるように促すと、フェイトは無言でボトルを俺に返してきた。コップを取りに行くから持っておいてくれ、という意味なのかと予想したのだが、違っていた。立ち上がらないし、手も離さない。

 

逆転の発想で水を飲まないことにしたのかと思いきや、フェイトは俺をじっと見つめながら、小さく首を傾けて言う。

 

「飲ませて?」

 

ある意味逆転の発想だった。

 

「いや……コップ取りに行ったらいいじゃん……。その前に、この手を離したらもっと早く簡単にすむ話だけど……」

 

「……いや?」

 

「いやってわけじゃないけどさ。ただ、食べ物と違って飲み物を人に飲ませるってけっこう難しいし、誤嚥(ごえん)とか怖いし」

 

「徹の、飲みたい」

 

「ぶふっ……」

 

アリシアといい、テスタロッサ家の姉妹は二人そろって、俺の理性にダメージを与えることを生業(なりわい)としているのだろうか。それとも俺の想像や発想が汚れきっているのか。

 

とりあえず確認してみる。

 

「……俺の手で飲みたいってことでいいのか?」

 

「……?そう言ったけど」

 

言ってません。

 

「フェイトがそれでいいんなら、俺は構わないけどさ……」

 

「うん。いいよ」

 

こくんと頷くなり『あー』とフェイトは小さな口を開く。

 

「……っ」

 

ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

横に座ってはいたがフェイトはこちらに向いているので、口腔(こうくう)がよく覗けた。桃色の薄い唇と真っ白な歯、唾液でぬらぬらと妖艶に光を返すピンク色の舌、赤い内頬。

 

人の口の中をこれほどまじまじと凝視したことはない。そこはかとなく、性的なニュアンスを感じさせた。

 

(ほおう)早く(はあう)

 

なかなか手を動こかそうとしない俺に、痺れを切らしたようにフェイトが催促する。

 

口を開きながら喋るせいで、柔らかそうに形を変える唇や、それ自体が生き物のように動く舌がよく見えた。見えてしまった。

 

「……お、おう。……すまん」

 

小鳥の(ひな)。小鳥の雛だと思えば、大丈夫。大丈夫なはずだ。

 

そう言い聞かせるが、もう俺の目は俺のコントロール下を離れていた。フェイトの口元に、口の中に釘付けになっていて視線を外せないでいた。

 

「ん、ん」

 

「わかってる、わかってるから……」

 

握っている手をくいくいとフェイトが引っ張り揺らす。

 

お願いを通す手腕と言うのか、こういったところは姉であるアリシアと共通している。演技ではない自然体でそれができてしまうのが、実に困る。

 

「それじゃ……やるぞ。やめるときは合図してくれ」

 

こくり、とフェイトは頷く。金色(こんじき)の髪が小さく波打った。

 

ボトルの飲み口がフェイトの唇に触れる。むにゅりと柔らかく形を変える唇の感触が、ボトル越しでも伝わってくる。そのまま徐々に傾けていく。透明のボトルなので、今水がどの辺りまで来ているのかは把握できた。

 

「は……ぁむ」

 

目の前に屹立(きつりつ)するボトルを見ればいいのに、フェイトはじっと俺の顔に視線を合わせていた。おかげでやりにくいことこの上ない。

 

「れぅ……」

 

「っ……」

 

水が唇に触れたことで、もうすぐ口の中に注がれることを察したのだろう。ピンク色の舌が出迎えた。

 

「んっ……んく」

 

フェイトの口腔が満たされる。予想よりも口は狭く小さく、俺も気が急いて勢いよくやりすぎたせいで一部がフェイトの口から溢れた。

 

「んぶっ……あっく……」

 

唾液と混じった透明な液体がフェイトの口の端から垂れる。身長差により上を見上げる格好になっているため、あふれた液体は滴ることなくきめ細かな頬を流れ、シャープなあごを濡らし、細い首筋を伝う。いくらかは飲み込んでいるのだろう、喉が不規則に動くのが見て取れる。

 

「ん、んぐっ……ふぶ……」

 

首から伝う液体は襟元から服を濡らし、フェイトの身体に張りつき、透かしていく。鎖骨の輪郭を、仄かに服を押し返す胸元が、浮き出ている。

 

フェイトの顔に目を戻せば、視線が交錯した。ずっと俺のほうを見ていたらしい。

 

開かれた唇は弱々しく震え、かすかに見える舌は小刻みに前後していた。苦しいのか目元はうるんでいる。

 

フェイトの頬はなぜか上気していたが、かくいう俺も顔がなぜか熱い。冷静さを残している思考の一部がもうやめるようにと命令発しているが、大部分は霧がかかったように麻痺している。甘く酔ったような感覚だ。どうにも現実味が感じられない。

 

「あぐっ……ぷはっ、あぶっ……」

 

俺の指を取るフェイトの手はか弱く震えてはいるが、止めるようにという指示には思えない。もう片方の手もボトルを持つ俺の手に添えられていたが、その手は力なくただ添えられているだけ、触れているだけだ。

 

涙目で俺をじっと見つめるフェイトの表情は、苦悶に彩られている。

 

「ぅ……ぁ……っ」

 

今俺は不思議な、とても不思議な情動に襲われている。

 

守ってあげたくなるような、どこか庇護欲(ひごよく)をそそるフェイトが苦しげな様子を見せているのに、なぜか。本当になぜか。無性に嗜虐心(しぎゃくしん)を掻き立てたられる。いや、嗜虐心というほど深刻なものでもハードなものでもない。

 

ただほんの少し、ほんのひとつまみ程度だけ、いじめたいと思っている自分がいるのだ。

 

守ってあげたい、でもいじめてもみたい。相克する真逆の感情の境目で、俺は浮遊していた。

 

「けふっ、と……とおりゅ……」

 

「……っ!」

 

名前を呼ばれてはっと意識が浮上する。

 

フェイトに押しつけていたボトルを急いで離す。離した際に水がいくらかこぼれたが、そんなものどうだっていい。

 

「けほっ、こほっ……」

 

「だ、大丈夫か、ごめんな……」

 

ボトルをベッド横のテーブルに置いて、咳き込むフェイトの背中をさする。ちらとミネラルウォーターのボトルを確認すると、残りはわずかになっていた。おそらく、ほとんどまともに飲めていないように思う。

 

「う、ううん……私もとめてもらうタイミングがわからなくなっちゃったから……」

 

「タイミングって……手を叩くなりしてくれればよかったのに。いや、俺が止めなかったのが悪いんだ。ごめんな、苦しかったよな」

 

濡れてしまいそうだった長い髪を手櫛で首の後ろにまわす。首筋にくっついてしまっている髪をかきあげた時、フェイトはぴくぴくっと震えた。

 

濡れてしまっている口元を手で拭う。湿った唇はやたらに柔らかく、やけに熱かった。

 

「けほ、けほっ……もう、大丈夫だよ。……ちょっと苦しかったし、徹、ちょっといじわるな顔してたけど、見たことない顔を見れて……すこし嬉しかったから」

 

俺は俺でおかしくなっていたが、フェイトもフェイトでちょっとおかしくなっている。場の流れというか空気というか雰囲気にのまれていた。

 

手にあたるフェイトの吐息は荒く熱がこもっていた。

 

「意地悪って……そんな、こと……なくもないけど……。俺も度が過ぎてたからどの口がって感じだけど、苦しかったんならそう言ってくれよ」

 

「えへへ、ごめんね。けほ……」

 

ふたたびこほこほと咳き込み始めたので、抱きかかえるように腕を回して小さな背中を撫でる。

 

今日もエリーとあかねがお留守番してくれていて、本当によかった。こんな光景を見られたら怒髪天を衝くことは確実だっただろう。

 

「俺……変な趣味に目覚めたとかじゃねえよな……?」

 

間違ってもフェイトに聞かれないよう、限りなく小さな声で呟く。

 

このような倒錯的(とうさくてき)な情念が、これ以上悪化しないことを祈るばかりだ。

 

 

 

 

 




もうろりこんでいいや

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