集中状態の極致。
視界の端から灰色に染まっていく。雑音も、時間の感覚も遠ざかっていく。情報を処理する脳の回転速度が跳ね上がる。
タキサイキア現象。
一部のスポーツ選手やF1レーサーが体験するという『ゾーン』と呼ばれる状態に近い。いや、俺の場合は身を守る時にしか使えた試しがないので、どちらかというと『走馬灯』のほうがより正確かもしれない。
呼び名はなんだっていいのだ。対処できるか否かが重要なのだから。
「っ……ふぅっ……っ!」
クロノのスティンガー・レイを
この人の動きは、次元が違う。
「くっ……ぐ、っ……」
この超高速演算状態ーー効果に即してテンポルバートとでも呼んでおくが、これは性質上、長時間続けられるものではない。絶体絶命の窮状を脱するための、あくまで瞬間的な防衛行動だ。命を守るという一点のみに重きが置かれ、それ以外への負担は考慮されていない。
以前
障壁で掌打を弾く。続いて放たれるコルティノーヴィスさんの拳を右の手刀で叩いて逸らす。
だんだんと処理が追いつかなくなる。もう、保てそうにない。
追いきれなかった一打が俺の左頬を掠めて切った、その時だった。
ドォンッ、と。腹の底に響くような爆発音と、全身に叩きつけられる衝撃。巻き上がる砂煙。
「次はなんだよっ!?」
コルティノーヴィスさんの背後で地面が爆ぜた。
また目の前の優秀が過ぎる魔導師が何かやらかしてくれたのかと危惧したが、どうやらそうではないらしい。
動揺したのか、それとも俺よりも近くで爆風を浴びて煽られたのか、表情には現れなかったが動きが拙くなった。俺に当たらない角度で拳を突き出したり、距離が空いているのに変わらず攻撃してきたりと、動きに精彩を欠いている。動きに繋がりがないのでフェイントという線はないだろう。
俺も俺で解けかけていたテンポルバートが爆発の影響を受けて完全に解けてしまっていたが、相手に隙が生じているのならこの機を逃さず反攻に転じるべきだ。
「めちゃくちゃ気分が悪くなるとは思うけど……それはお互い様だからな。恨まないでくれよ」
俺とコルティノーヴィスさんの距離は、両の手が届くか届かないか程度。踏み込んで手を伸ばせば、胸の中央に手が届く。嵐のような連撃は、一瞬でもいい、拘束魔法で縫い止める。
「リンカーコアから直接……」
ハッキングによってリンカーコアへ直接的に影響を与える。
異状をきたしたり、最悪の場合後遺症が残る可能性もないとは言えないのであまり魔導師相手に使いたくはない技術だが、俺も切羽詰まっている。気遣いやら良心やらは、この際引っ込めておく。
「な、んだ……これは……」
『…………』
何本も拘束のための鎖をコルティノーヴィス氏に巻き付ける。俺が最初に顔合わせした時に仕込んだ拘束魔法の束はいつの間にか一瞬で破壊されていたので安心材料になるかはわからないが、こんな形だけの拘束魔法でも大量にあればさしものコルティノーヴィス氏といえども多少は動きを封じることはできるだろう。
実際、ハッキングには成功した。
成功した、はずである。
確信が持てないのは、いつもと手応えが違ったからだ。
これまでの感覚と同じ部分だってある。リンカーコアに到達する前に、コルティノーヴィス氏が身体中に走らせていると思われるいくつかの魔法を覗き視た。ハッキングを使えばその術者が現在使用している魔法は把握できる。俺が初めて視た魔法もあったが、そのあたりの感覚は同じだった。
ただ、自分の魔力を相手の内側へと潜らせる感覚、ここに違和感があった。魔力の穂先がリンカーコアに到達した際には、違和感は倍増した。
本来なら魔導師が持つ魔力色、その一色で視えるはずのリンカーコアが、濁って見えたのだ。時の庭園で、あかねがリニスさんを乗っ取ろうとしていた時の塩梅にも似ているが、その時ですら色は二色で視えた。今のように濁って視えるなんて、常態ではありえない。
「まあいい……調べればいいだけのことだ」
「…………っ」
理解できない部分があるのならこれから精査すればいいと考え、とりあえず今発動している魔法を停止することにした。先程の嵐のような連撃で抵抗されて俺の腕がコルティノーヴィスさんから離れてしまえば、ハッキングが途切れてしまうからだ。
コルティノーヴィスさんが俺の拘束魔法にかかっている間にやらなければいけないので、速度最優先で魔法の停止に取り掛かる。初めて手をつける魔法が多かったが、それが魔法である以上手順は似たようなものだ。術式に手を加えて改悪し、問題なく術式の展開を中止させられた。
問題があったのはここからだった。
『…………』
「うおっ?!な、なんだ!?」
「……っ……けほっ、こほっ」
コルティノーヴィスさんが使っていた魔法をすべて強制的に停止させると、急に彼の姿勢が崩れた。
どうにも自然な倒れ方ではなく、完全に脱力した様子に俺は慌てた。もしかしたらコルティノーヴィスさんのリンカーコアに致命的な傷をつけてしまったのではないかと動揺した。
焦ったあまりに、俺はこちらに倒れ込んできたコルティノーヴィスさんを抱きとめる。ボクシングのクリンチに近い体勢だ。
「ちょ、ちょっと!おい!なんだってんだよ!」
しかしよくよく考えてみると、俺が手をつけたのは発動していたいくつかの魔法だけで、リンカーコアにはまだ一切触れていない。リンカーコアからの魔力供給がなくなって気を失う、なんてことにはならないはずなのだ。
だというのに、相手には意識がない。俺が支えていなければ倒れてしまう状態だ。
完璧に、この人はどこかおかしい。
脈絡のない動き、感情の読めない表情、思考パターンの乖離、目的の不透明性。そして、あれだけ人間離れした動きをしていたというのに魔法を強制終了しただけで失神。
こんな人間を相手にするのは初めてだ。
「くそ……。とりあえず、司令部まで連れて行くしかないか……」
「…………っ」
倒れかかっている状態から、コルティノーヴィスさんを肩に担ぐ。俺よりも恰幅がいいので本来なら相当な苦労をするところだったが、循環魔法で身体強度が底上げされている今は簡単に担ぐことができた。
米俵でも担ぐようにコルティノーヴィスさんを担ぎ、視線を先に送る。
「君、大丈夫だった?自分で歩けないんなら君も担いで行くけど……」
コルティノーヴィスさんもそうだが、コルティノーヴィスさんと同行していた少女も一緒に連れていかなければならない。
突然の爆発で舞い上がった砂煙が徐々に晴れてくる。薄茶色のカーテンの向こうに少女のシルエットが見えてきた。立ち姿でシルエットが見えるので、どうやら爆発によって重い怪我を負うということはなかったようだ。
ふと、強く風が吹く。砂煙が払われた。
「けほっ……ごほっ」
「怪我はしなかったか?少しなら俺も治癒魔法使えるけど……っ!?」
俺は思わず、息を呑んだ。
薄汚れてしまっていた民族衣装がさらに埃っぽくなってしまっていることとか、爆発の際に小石でもぶつかったのか額から血が流れていることとか、大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど目を見開いてこちらを睨みつけていることとか、両手を口に当てて苦しそうに咳をしていることとか、そんなことが一気に意識から飛んでいくほどの、異質な光。少女の身体から発される異様な魔力を、左目が視たのだ。
「なん、だ……なにをしてるんだ……」
『…………』
変化はすぐに訪れた。意識を失い、加えて拘束していたはずのコルティノーヴィスさんが弾かれるように突然動き出した。
コルティノーヴィスさんの身体、特に腕あたりが霞む。高速機動時の動きを小刻みに使うことで、拘束魔法に損傷を与えているのだ。
幾重にも念入りにかけた拘束魔法が次々壊れていく。俺が初めに仕掛けた拘束魔法も、同じ手法で破壊したのだろう。
「つっ……っ!」
無論、氏を肩に担いでいた俺に影響がないわけがなかった。右側の上半身にいくつか拳を打ち据えられたような激痛を感じ、反射的にコルティノーヴィスさんを放してしまう。
『…………』
「こっの……倒れそうになったところを助けてやったってのに!」
疼痛を訴える右肩を押さえながら前を見れば、もう既にコルティノーヴィスさんはかけられていた鎖を全て砕き、拘束から抜け出していた。
だけに留まらず、俺に肉薄してくる。
顔のすぐ近くに、氏の膝が迫っていた。
「
気を失っていた余波が残っているのか、速さは防御が間に合う程度だったが、やはり相変わらず打撃の一つ一つが重い。かち上げるような膝蹴りに、身体がわずかに浮く。左腕から鈍痛とともに、ピギッ、という不快な音がした。
追撃を恐れて跳躍移動に襲歩まで使って距離を稼ぐ。
『…………』
「っ、つぅ……ん?なんだ?」
痛みと痺れを残す左腕を頑張って持ち上げて迎撃の構えを取るが、予想に反してコルティノーヴィスさんは踏み込んではこなかった。どころか、じわりじわりと足を後ろに下げ、数歩下がると俺に背を向ける。
地面を蹴って勢いよく走り出し、背後にいた少女を抱きかかえた。
「っ!ま、待て!その子は置いてけよ!」
コルティノーヴィスさんは少女を横抱きに抱えて走り去る。方角としては司令部と反対側だ。つまりは、撤退。
「ああっ、くそっ!」
この際コルティノーヴィスさんの確保は諦める。そもそも今の俺に対処できるような相手ではない。
しかし、少女のほうは別だ。あの女の子が何を考えていて、何をしようとしているのかは判然としないが、外見から察するだけでも体調が悪そうだった。あの子は速やかに保護しないといけない。
「一歩出遅れたけど……まだ間に合う!」
コルティノーヴィスさんが戦闘中に見せたような高速機動で離脱していれば到底追いつけそうにないが、今は少女を抱えている。どうしたって足は重くなるし、少女を気遣ってか、慣性が激しすぎる高速機動は使っていない。
まだ、間に合う。
力強く一歩を踏み出す。と同時に、俺の間近で再び爆発が起こった。当然、歩みは止まる。
「なっ?!またかよ!」
『徹ちゃん、後退するわよ』
頭の中に美しい低音ボイスが響いた。ランちゃんからの念話だ。
『後退?……ってか今の爆発はランちゃんの射撃か?』
『ええ。手荒でごめんなさいね。念話だけで足を止めるような人間じゃない、ってユーノちゃんが言ってたものだから』
『ちっ……ユーノめ』
『とにかく、一旦下がるわよ。味方部隊の撤退に粗方目処がついたのよ。敵魔導師たちも周辺から姿を消しつつあるわ』
『だめだ。まだ下がれない』
『どうして?』
『コルティノーヴィスさんと一緒にいた女の子は体調が悪そうだった。女の子はすぐに保護しないとまずい』
『……その子のことだけど』
言いづらそうに言葉を濁しながら、ランちゃんは口にする。
『きっとあの女の子は人質なんかじゃないわ』
『……助けに来たって言っても俺に近寄ってこなかったし、薄々はそうだろうなと思ってた』
『私、コルティノーヴィスさんがこっちを確認していない時を見計らって援護射撃してみたけど……』
どうやら俺とコルティノーヴィスさんが睨み合いしていた時の爆発も、ランちゃんの射撃魔法だったようだ。射撃魔法一発であれほど衝撃波を撒き散らし砂煙を舞い上げるとは、末恐ろしい。
『私が撃つまで彼はこっちをまったく見ていなかった。なのに回避したわ。そして……女の子のほうは空を見上げてた。あの女の子は敵の存在や敵弾をコルティノーヴィスさんに報告しているのかもしれないわ。それなら、これまで一発も当たらなかったことにも筋が通るのよ』
『……だとしても、あの子は保護しないといけない。あの女の子はこの街の住人だ』
『どうしてそんなことがわかるの?もともと敵側の組織の人間だった、っていう考えのほうが、監視って役割もあって理に適っていると思うけれど』
『着ていた服がこの土地のものだった。倒壊していた家にも似たような趣向の服があったしな。……この街の住人の生き残りを探して保護するのが、俺たちの任務だろ』
『そう……。だとしても、このまま追いかけたら返り討ちにあうわよ』
『別にコルティノーヴィスさんと正面切って殴り合おうってわけじゃない。女の子を保護できたらすぐに尻尾巻いて逃げるつもりだ』
クロノやレイハは俺のことを冗談半分に人間離れしているなどと茶化してくるが、コルティノーヴィスさんはまさしく人間としての境界線を割った化け物だ。
近接格闘だけで他を圧倒する。
悲しいことだが、今の俺では明らかに押し負ける。手札が足りない。
ならば、直接的に戦わなければいい。コルティノーヴィスさんには拘束魔法の効果が薄いが、破壊されても絶えず展開させ続ければ数秒程度は足を止めることができるだろう。
その間に少女を救出し、あとは逃げの一手だ。
『それでもあの子を助け出すのは困難よ。散らばっていた敵魔導師たちが、コルティノーヴィスの撤退する方向に集まりつつあるわ』
『ああ……なるほど。返り討ちってのはそのことか……。四人五人ならまだしも、十人二十人と固まってりゃ、いくらなんでも躱せないしな……』
『ええ。それに徹ちゃん……怪我してるでしょ』
『うっ……』
なぜ上空から見ているだけでわかるのだろうか。どんな視力と観察眼をしているんだ。
『左腕を庇うような動きが多くなってるわ……最後の一合の時ね?そんな状態じゃあコルティノーヴィスさんだけでも難しいでしょ?その上普通の魔導師も群がってるとなれば、救出に行くのはちょっと現実的じゃないわねぇ』
『くそ……。俺程度でも、戦力の低下は避けるべきか。戦闘不能になれば、これからの作戦がもっと厳しくなる……無茶するわけにいかないか』
『そうしてくれると助かるわぁ。……今現在、最前線で戦えているのは徹ちゃんくらいだから』
最前線で戦えるのは俺くらいというのは、他の魔導師さんたちが浮き足立っているからなのか、みんな後退してこの戦域には誰もいないという意味なのか、それとも戦闘要員はみんな負傷してしまったからなのか。三番目だとしたら致命的すぎるので、せめて一番目か二番目であることを祈る。
『まじかよ……はっは、立派だなあ、管理局。……とりあえず合流するか。もう敵さんはいないんだよな?』
『ええ。少なくとも姿は見えないわ。味方部隊が挟撃されていたT字路にまだユーノちゃんたちがいるから、そこで合流しましょ』
『おっけ、わかった』
念話を切り、天を仰ぐ。
上空にいたランちゃんが移動しながら高度を下げているのが見えた。
そのさらに遠くの空はだんだんと薄暗くなりつつあり、太陽はオレンジの色味を強めて傾いている。もうすぐ日が沈んでしまいそうだ。
早くユーノたちと合流し、完全に暗くなる前に司令部に戻りたいものだ。
*
「
「なんでわざわざ呼び方を変えたのかわからないけど、まあ、うん。無事だったよ。なんとかね」
T字路まで引き返してきた俺に真っ先に声をかけてきたのは、デバイスを握り締めながら周辺を警戒していたアサレアちゃんだった。ユーノが治療に専念できるよう、ちゃんと守ってくれていたようだ。
俺の顔を見た時、アサレアちゃんは顔に安心したような笑みを一瞬浮かべた気がしたが、すぐに唇を尖らせてむすっとした不機嫌そうな顔を作った。
「無事だったんならもっとはやく戻ってきなさいよ!心配するでしょっ……っ。スクライアくんが!」
「なんと悪意のある倒置法……うっかり感動しちゃうとこだったぜ……」
「感動しても大丈夫ですよ、兄さん。アサレアさんは兄さんのことをすっごく心配していましたから」
「ちょっ、ちょっと、スクライアくん?!な、なに言ってるのよ!」
俺が救援に入った味方部隊のうち、治癒魔法に覚えのある女性隊員さんが一人いた。その人と一緒に負傷していた味方魔導師たちを治療しているユーノが、これまでのアサレアちゃんの様子を教えてくれた。
アサレアちゃんは顔を真っ赤にしてユーノに反論しようとしているので、なんと事実らしい。
「しし心配なんてしてないわよ!あんたもっ、変なふうに勘違いするんじゃないわよ?!」
「こんな感じで強がっていますが、逢坂さんより一足早く撤退してきた魔導師二人を見た時はかなり怒っていました。『逢坂さんを一人残してあんたらはなんで逃げてんのよ!』……と。これでもアサレアなりに逢坂さんの身を案じていましたので、失礼な物言いを許してください」
「おおう……まじか」
「クレインもてきとうなこと言うな!嘘だからねっ?!スクライアくんの言うこともクレインの言うことも嘘だから!わたし心配なんてぜんぜんっ、ぜんぜんまったくこれっぽっちもしてなかったんだから!」
なぜか否定しようとアサレアちゃんは必死に俺に言い募る。きっと俺と言い合いをしていたりもしていたので、俺を心配していたとばらされることが恥ずかしいのだろう。頬を紅潮させながら、身振り手振りも交えて否定と照れ隠しを続ける。
そんな仕草に、俺は笑いを抑えられない。可愛すぎるだろう、この子。
しかし、笑っているところを見られでもしたらまたぞろアサレアちゃんに噛みつかれること必至なので、俺は右手で口元を隠しながら顔を背ける。
「そっかー。アサレアちゃんは心配してくれなかったのかー。がんばったんだけどなー、悲しいなー」
「えっ、あっ……」
冗談で言っていたのだが、弁解しようと慌てふためいているアサレアちゃんには通じなかったようだ。
口をぱくぱくとさせて、アサレアちゃんは眉を曇らせる。
くいっ、と俺の右手の袖をつまんだ。
「うぅ……。ちょ、ちょっとだけ……ほんとうにちょっとだけだけど、心配したわよ……。無事で……よかったわ」
目を逸らしながらではあったが、アサレアちゃんはそう言った。熱があるんじゃないかというくらい顔を赤くして照れくさそうに、でもちゃんと言葉にしてくれた。
やっぱりこの子は、棘はあっても根は優しくて、いい子なのだろう。
「ありがとう、心配してくれて。嬉しいよ」
「……ふんっ」
感謝を述べると、アサレアちゃんは一回だけ俺の顔を仰ぎ見て一歩離れ、腕を組んだ。本当にまあ、愛らしい子だ。
「アサレアがこんな顔するなんて、珍しい……」
「まーた兄さんの悪いくせが……」
クレインくんは驚いたように、ユーノはじとっとした目を俺にぶつけてきた。
「ユーノ、それ以上変なこと口走ったらその口縫っちまうぞ」
「そんなこと言っていいんですか?なのはにちくりますよ?」
「本当に怖い脅迫をしかけてくるんじゃねえよ。なんかよくわからんうちに俺が悪いことにさせられるだろうが」
まだぼそぼそとユーノが呪詛のような言葉を呟いていたように思えたが、意識して聞かないことにした。知ることで不幸になることもあるのだ。
「良かったわ。思ったより徹ちゃんが元気そうで」
そうこうしているうちに、ランちゃんが降りてきた。
ランちゃんの手には馬鹿でかいケースはなく、代わりに大柄のライフルを握っていた。狙撃銃に通じる形状はしているが、心なし大きく、どことなく太く、そこはかとなくぶ厚い。
よく見るとランちゃんの腰の後ろあたりに長方形の箱とおぼしき物体がくっついてあった。これまでに持っていたケースと同じ色なので、おそらく戦闘時は折り畳んだりして小さくできるのだろう。持ち運ぶにはいいだろうけど戦闘中は邪魔だしな、収納ケース。
「ランちゃん、おつかれ。援護助かった」
「援護って言っても結局まともに撃ったのは一発だけで、それも命中はしなかったわ。……悔しいわね」
「それでも、だ。なによりあの一発から流れが変わったからな。おかげで今回は久しぶりに血を流さずに済んだ」
「……いつもどんな死線をくぐってるのかしら」
ランちゃんが苦笑を浮かべた。外見だけなら中性的な長髪高身長の美男なので、苦笑でも実に様になる。
「ランさん、お疲れ様です」
「ランちゃんさん、兄さんのカバーありがとうございます!」
「ありがと、クレインちゃん。いいのよ、ユーノちゃん。二人もご苦労様」
「ランドルフ!あんた敵の頭押さえてたのにぜんぜん支援射撃してなかったじゃない!ちゃんとここから見てたんだからね!」
「あら、お嬢ちゃんいたの?小さくて見えなかったわ。あと私のことは敬愛の念を込めて『ランちゃん』と呼びなさいな」
「うるさいわよランドルフ!誰が小さいか!あんたがむだに大きいだけでしょうが!」
「普段からさっきみたいに物静かでお淑やかなら、多少可愛げもあるのに……残念ねぇ」
「本気で哀れむなぁっ!ていうか見てたのっ?!」
なんだか賑やかになってきた中、俺は治療を続けているユーノに歩み寄る。
「そっちの進捗はどうだ?」
「もう少しかかりそうですね……なんせ人数が多いですから」
「そうか。それならその人たちの治療を続けてあげてくれ。……ずっと魔法使いっぱなしだけど、疲れてないか?」
「はいっ、まだまだ大丈夫です!それより兄さんのほうは……」
「俺のほうは……ちょっとした打撲だ。司令部付近まで後退したら
「……兄さんの怪我を優先します」
眉を寄せて、ユーノがそう言った。
また色々俺のことを気遣ってくれているのだろう。その気持ちは嬉しいしありがたいが、俺には寄りたい場所があった。
「……ありがとな。でも本当にもうそれほど痛みはないし、それにちょっと回収しに行かないといけないから後でいい」
「回収って……なにをですか?」
「敵の魔導師」
このT字路に救援にやってきた時は時間がなかったのでほったらかしにしていたが、司令部まで戻るとなれば一人二人回収しておいたほうがいいだろう。情報を引き出さなければならない。
いやなに、拷問禁止条約に抵触するような行為はしない。ただ、
「でも敵の部隊はすべて撤退したんですよね?もう兄さんが無力化させた人たちも引き連れて撤収してるんじゃないですか?」
「何人かはそうかもな。でも戦闘不能にした数は俺だけでも結構な人数になる。全員は回収しきれないだろ。自分たちが逃げるのに精一杯だろうしな」
「なるほど……わかりました。僕は隊員さんたちの治療に集中します。兄さんは戻るまで我慢できますか?」
「一応俺も治癒魔法は使えるからな。痛み止めくらいにはなる。後でよろしく頼むわ」
「はいっ!」
元気よく返事をしたユーノの頭を撫でて、敵魔導師を殴り倒した場所を思い出す。移動しながら敵戦力を削っていたのでばらけているが、まあすぐに見つかるだろう。場所は記憶している。
ただ殴り倒してから少々時間が経っているのでもしかしたら意識を取り戻している可能性もある。念のため、誰かについてきてもらうとしよう。
「ランちゃん。ちょっといい?ついてきてほしいところが……」
選んだのはランちゃんだ。コルティノーヴィスさんや、氏と行動を共にしていた少女のことで話もしたかった。
のだが、ランちゃんはちょっと込み入っている様子だった。
「……ゃんはまだ大目に見てくれているけれど、そんなに小生意気なお口を叩いてるとそのうち嫌気がさして愛想を尽かされるわよ」
「そっ……んなこと、ないわよ。あんたとちがって寛容だもの!」
「今日初めて顔を合わせた人間に寛容さを求めてることが、既におかしいのよ?大人になりなさいなんて言わないから、せめて常識と節度を持ちなさいな」
「わたしは大人よ!今日は制服だけど、私服なんて胸元とか開いてたりして色気があるんだから!」
「お嬢ちゃんの貧相な胸を開いても……」
「誰のなにが貧相よ!」
「とりあえずスタイルは諦めておくとして……」
「かってに諦めてんじゃないわよ!ここから成長するんだから!大きくなるんだから!」
「色気がどうこう言ってるけれど、色気と布地の面積に関係性はないわよ。肌を晒すのが大人だって思ってるなんてもう、プレティーンの発想ね」
「うぐぐぐぐっ……」
「アサレア……もうやめなよ、勝てる相手じゃないのはわかってたでしょ?」
「うっさい!クレインが口出すな!」
なんとも割り込みにくいお話の最中だった。初めて会って数分で殴られた時と似たような流れということもある。さすがの俺でもデリカシーとかいう概念は知っているのだ。
なので、念には念を入れて少し離れたところからランちゃんに念話を入れることとした。
『ランちゃん、忙しいところ悪いんだけど』
『あら、平気よ?井戸端会議みたいなものだもの』
『アサレアちゃんはそうは思ってないだろうけど……。これから敵魔導師を回収しに行くんだ。ついてきてくんない?』
『ええ、わかったわ』
お嬢ちゃんとの四方山話を打ち切るわ、とランちゃんは楽しそうに念話を返し、そして切った。
「お嬢ちゃん」
「なによ?!ていうかお嬢ちゃんって呼ばないで!」
「これから徹ちゃんとこのあたり見てくるから、お喋りはお終いよ。ごめんなさいね」
ランちゃんは口元に手を当てて、アサレアちゃんを見下ろすように顔を傾けて上品に笑った。
いや、アサレアちゃんとの身長差を考えるとどうしたって見下ろすような形になるのはわかるのだが、なぜそんなに相手の神経を逆撫でするのか。振る舞い自体はお上品なのに、的確に苛立ちを与える言い方だった。どこで学んだの、そんな芸当。
「なんでよ!ランドルフでいいならわたしでもいいじゃない!こらー!どこにいるー!」
アサレアちゃんがぷんすかしている。名前は呼ばれていないのに、なぜか俺を呼んでいることはわかるというのは不思議である。
絡みづらい話題からはレールが変更されたようなので、口が滑ってうっかり猫の尻尾を踏むことはもうないだろう。なので、やっぱり気乗りはしないが仕方なく輪に入る。
「はいはい、なに?」
「あんた!この付近の警戒ならわたしでもいいでしょっ!なんでわたしを誘わないでランドルフを誘ってるのよ!」
アサレアちゃんを連れて行ったらアサレアちゃんのよく響く声で敵魔導師が起きそうだから、というセリフが早速口をついて出そうになったが堪えた。それこそ再び殴られる羽目になる。
「あらお嬢ちゃん、徹ちゃんに誘って欲しかったの?存外大胆ね」
「は?なに言って……あ。いや、ちが……っ」
「ランちゃん」
「ふふ、ごめんなさい、徹ちゃん。控えるわぁ」
おそらくランちゃんは、アサレアちゃんのことを結構気に入っている。リアクションのいいアサレアちゃんを手玉にとって遊んでいるのだろう。噛み付いて口火を切っているのはアサレアちゃんだが、そこから延焼させているのはランちゃんなのだ。
アサレアちゃんの精神衛生上はよろしくないかもしれないが、仲間同士でコミュニケーションを取ることは大事である。
「ちちちがっ、ちがうから!勘違いするんじゃないわよ!?ランドルフが勝手にてきとうなことのたまってるだけでっ!」
「わかってるって。ランちゃんがからかってるだけなんだよな」
「そっ……そうよ。わかってるんならいいわよ……」
「それじゃ、アサレアちゃん、クレインくん。俺たちが戻るまでまたユーノの護衛よろしくな」
「あ……えっ、ちょっと……」
「わかりました。お気をつけて」
「うぅーっ……はやく行ってさっさと帰ってきなさいよ!遅かったら置いてくんだから!本気なんだからね!」
「置いていかれるのはいやだから、なるべく早く戻ってくるよ」
なんとか穏便に言いくるめることができた。
アサレアちゃんは、まだ一言二言文句を言いたそうにしていたけれど。