「くぅ……すぅ……」
「すずか、寝ちゃったか……」
屋上で天体観測を続けていたが、しばらくしたらすずかが寝落ちしてしまった。寝る寸前まであの星座はなんという名前でー、と丁寧に教えてくれていたのだが、さすがにとうとう疲れがきたらしい。
それもそうだろう。昼寝していた俺とは違い、すずかは学校でテストを受けて、塾でお勉強して、帰りはアリサちゃんほどではないが普段よりもテンション高く遊んでいたのだから。なんならここまで起きていられていたことがすごい。
まあ、それよりもすごいのはすずかの視力だろうけれど。五等星までなら確実に、六等星でもぎりぎり眼視できる逸材だ。
俺なんかまったく見えなくて、
「よい、しょ……っと」
「んっ……んぅ……」
すずかが転げ落ちないように身体を支えながら起き上がる。俺の上に寝転がっているので抱えやすくていい。
床に敷いていたシーツを蹴っ飛ばしながら屋内に戻る。シーツはまた後日洗えばいい、近くに放置した。
二階に降りて、リビングに戻る。
足音を立てないように気をつけつつ、ゆっくりとすずかを布団に寝かせる。
「ぁ……とおぅ、さ……」
俺の名前を呼ばれた。横にさせるときの振動で起きてしまったのかと危ぶんだが、どうやら寝言らしい。
「アリサちゃ……と、まもりさん、が……ちか、く、に……」
「…………」
すずかの夢に俺が登場していることは確実なのだが、ストーリー展開がよくわからない。もしかすると夢と現実がところどころ
「だ、め……れす……」
「うお……」
すずかの手が俺の身体を押し退けるように突き出される。
一応すずかの頭は枕の上に置けたので、俺も抵抗せずに押し退けられた。
儚げに、妙に色っぽく吐息を漏らすすずかに、布団をかける。
「ふぅ、これで……」
「どこ行ってたの、徹」
「ぃっ?!」
背後から、俺の名前を呼ぶ声。心臓を槍で突かれたような気分だった。
すずかを起こさないように布団に戻すことばかりに意識が向いてしまっていて、まったく気がつかなかった。
「……あ、アリサちゃん、起きてたの?」
「……ええ。ふと目が覚めて隣を見たら、布団が空っぽだったわ。二人分ね」
おそるおそる振り返れば、鼻のあたりまで布団をかぶったアリサちゃんが、まるで責めるように俺を見ていた。
「ちょっと……あれだ、寝つきが悪くてな。夜風を浴びてた」
「すずかと二人で?」
「んぐっ……」
「すずかが寝るまで夜風を浴びてたの?」
「…………」
「わたしだけ仲間はずれ?」
「いや、そういうわけじゃなくて……寝てると思ったから」
「……寝てたけど。まあいいわ。よくないけど」
「……なんか、ごめん」
論理が破綻するほど眠たいのか、言語機能を揺るがすほど怒っているのか、どちらだろう。
この状況どうしようと考えていると、ぱた、ぱた、と小さく音がした。
アリサちゃんの布団の端から小さな手が出ていた。その手が俺の布団を叩いていた。
「寝て」
「お、おう」
言われるがままに、自分の布団に戻った。
指示に従ったが、アリサちゃんの瞳は変わらずに俺を見据えている。天体観測で多少は眠たくなったのだが、こうも横合いから視線を浴びていると寝るに寝られない。
「ねえ」
「な、なに?」
とうとう仲間外れにしてしまったことを叱責されるのか、と身を構える。
だが、二の句は予想外な言葉だった。
「そっち、行っていい?」
「……え?」
意表を突かれた。俺とすずかで夜遊びしていたことへの文句でなかったこともそうだが、なによりアリサちゃんが前もって『行っていい?』などと訊ねてきたことに意外さを感じた。普段なら布団に入ってきてから事後報告するか、それどころか何も言わずに気づいたら潜り込んでいる、という可能性まである。
「……だめなの?」
「い、いや、ごめん。俺は構わないよ。……こっち、くる?」
不安げに眉がゆがむアリサちゃんに焦りながら、掛け布団を持ち上げる。
アリサちゃんは一度こくりと頷いて、もぞもぞと俺の布団に移動した。
「……でまくら」
「……ん?な、なんか言った?」
「……腕枕、してもらっていい?」
いよいよおかしい。静かにしようとしているのか、それとも元気がないのか、声は力ない。
仮に腕枕がほしいのなら、例えばいつもの勢いなら『腕』とだけ一言で済ませそうなところを『してもらってもいい?』などと許可を得ようとするなんて。
寝る前とずいぶん態度が違う。ひどくしおらしい。
その態度が、良いか悪いかの二元論で判断するならば、それは今の礼儀正しいアリサちゃんのほうがいいはずなのに、なぜこうも違和感があるのだろう。
「お、おお……こんな腕でよけりゃ何本でもどうぞ」
「ふふっ……さすがに徹でも、腕は三本も四本もないでしょ」
気が動転するあまりに変な事を言ってしまったが、少しでもアリサちゃんが笑ってくれたので結果オーライである。
アリサちゃんが上体を起こしたので、その下に滑り込ませるように腕を伸ばす。
するとアリサちゃんは、片手を俺の胸の上に置き、二の腕あたりに頭を乗せた。さらさらと滑らかに艶やかな黄金色の髪が、腕を撫でて
「ベッドで男に腕枕されたら、とても落ち着いて気持ちがいいらしいけど……これはほんとね」
「……その体験談みたいな生々しい情報は、誰から?」
「…………女性向けの雑誌」
「……アリサちゃん、そういった雑誌読むんだね」
「っ……うるさい」
女性向けの雑誌はいやに生々しい事を記事にしていたりするから驚く。
というか購入するときに誰か止めろよ。そういう雑誌はアリサちゃんにはまだ早いだろうに。ともあれ色々経験したレベルの高いクラスメイトからの経験談とかではなくて一安心である。
「ほかにもいっぱい変なこと書いてたから、なんて頭の軽い女が書いてるんだろって思ったけど……」
「家に帰ったらその雑誌はすぐに捨てて、今後買わないように」
「こうして実際にやってもらうと、ほんとに気持ちいい……。あながち、てきとうばっかりじゃないのかもしれないわね」
「だからって鵜呑みにしちゃだめだぞ。ああいうのは話半分で流し読んで、覚えておくのはもう一回半分にしたくらいでちょうど良い」
「さすがにわたしでも……まだほかのは、はやいなって、わかったわ」
「全部忘れるべきかもな」
「ところどころわからない、専門用語みたいな単語があったから、全部は読んでないの。また今度持ってくるから、教えて?」
「遠慮しておくよ。あとアリサちゃんの将来のために忠告しておくと、それを他の誰かに質問することもしないほうがいい。歳を重ねればいずれわかることだから」
「ふふっ、残念ね」
雑誌については特別関心はないようだ。軽く笑って、腕に顔をこすりつけた。とてもむず痒い。腕だけでなく、心もなんだかむず痒い。
「ねぇ、徹。近づいてもいい?」
「……まあ、ご自由に。フリーペーパー取るくらいの気安さでどうぞ」
「あれっていざ取ろうと思うと微妙に取りづらいのよね」
「微妙に取りづらいけど決心していざ取りに行ったらもう全部なかった時に比べれば、どうってことはないよ」
「ふふっ、体験談?」
「雑誌に書いてあった」
「それもうやめてってば」
ちょっと明るさを取り戻したアリサちゃんの頭が、じわじわと腕を
「……すんすん」
俺の部屋でも鼻を利かせていたが、ここでもまた匂いを嗅いでいた。なんだろう、飼い犬が多すぎて影響を受けたのだろうか。飼い主がペットに似るパターンなのか。
「それ恥ずかしいからやめ……」
「すずかのにおいがするわね」
「……てほしいんだけ、ど……」
冷めた視線が、俺の顔のすぐ下から突き刺さっている。
「するわね、すずかのにおいが」
「…………」
どうやって俺の匂いとすずかの匂いを識別しているのだろうか。本当に犬なのか。
「まあいいわ。こんな夜更けに親友ががんばっていることはいいことよ」
「い、いや、距離が近かったのは確かだけど手は出してないから……っ」
「文脈でわかると思ったけど……ここで言う親友はすずかのことだからね」
「……さて」
「なにも言わないでおいてあげる。わたしは寛大なの」
「ああ……本当に寛大で寛容で器が大きいよ」
「くすっ、そうでしょ。徹はこんな寛大な親友を持ててしあわ……」
「身体は小さいのに」
「みんなに虚実おりまぜて丁寧に教えてあげるわね」
「ごめんなさい」
「なのはと
「ごめんなさい」
「恭也お兄さんには『同い年の
「やめて、やめて……」
「忍さんには『みんなが寝静まった真夜中に、徹がすずかを抱いてたわ』って伝えておくから」
「ごめんなさい許してください殺される……」
全部恐ろしいが忍へのメッセージが一番恐ろしい。ニュアンスが著しく歪められているけれどそこだけは嘘偽りない事実なのがなにより
「わたしは寛大だから、徹の失礼な言葉も許してあげるわ」
「寛大で寛容で器が大きくて身体も大きいアリサちゃんありがとうございます」
「だからって無理のある嘘をつかなくてもいいのよっ。くふふっ」
音を嚙み殺すように、アリサちゃんは小さく笑った。
俺の服を掴んで、顔を押しつける。それこそ、子犬が甘えるような仕草だった。
「ふふっ、あはは……徹としゃべってると、夜もさみしくならないわね」
「明日ちゃんと起きれるか不安にはなるけどな」
「とくに行く意味が見出せない学校を遅刻するくらいで夜がさみしくなくなるなら、それでも構わないわね」
「友だちに会いに行くっていう目的を見出してがんばって登校してくれ」
「……ずっとそういう気持ちでがんばってるわよ。なのはやすずか、今は彩葉だっているし……」
「そうか。えらいえらい」
「……ふん」
へそを曲げてしまったアリサちゃんの頭を、枕にしている肩が動かないように撫でる。指通りのいい、綺麗な髪だった。
しばらく撫でて、機嫌もなおったようなので手を離そうとしたら、重ねるようにアリサちゃんが手を置いた。
「どうした?」
「……もうちょっと」
「はは、わかったよお嬢様」
「…………」
壁に掛けられた時計が秒針を刻む。
短くはない時間、お互い無言が続く。
秒針が単調な音を二百と十三回奏でた時だった。
「……わたし、夜は苦手なのよ」
もう寝たのかと思い始めた頃、アリサちゃんはぽつりと語り始めた。
「家は大きすぎて、部屋は広すぎて、なのに人はいなくて……誰もいなくて」
「……ああ、それは……わかる気がするよ、俺にも」
昔の俺と、少し重なるところがあった。
静かな家。冷たい部屋。
ひとりぼっちの、痛み。
「ちゃんと頭ではわかってるの。……パパもママもお仕事をがんばってるから家に帰れないってことは」
「……そうだな。すっごく、家族のために一生懸命頑張ってるよ」
バニングス家は日米その他各国に関連会社をいくつも抱える大企業だ。極めて多忙で、アリサちゃんの口ぶりから察しても家にはなかなか戻れない。以前、アリサちゃんが誘拐されそうになった時も、お父様のバニングスさんは様子こそ見にきたが家には二時間とおらずに会社に戻ってしまったほどだ。
「……わかってるの。ちゃんと、わかってる。感謝もしてるし、尊敬もしてるわ。……でも、時々思うのよ。時々、叫びたくなる。もっと構ってよ、って。ご機嫌取りのプレゼントなんていらないから一緒にいてよ、って。そんなわがままを考えちゃうのは、わたしが子どもだからなのかな……」
「……賢すぎるってのも問題だな……」
それを、わがままとは呼ばない。
『もっと構って。一緒にいて』
それは、ささやかに過ぎる願いだ。子どもの当然の権利だ。与えられて然るべき愛情だ。
無論、アリサちゃんの両親にアリサちゃんへの愛がないなんて口が裂けても言えないが、気持ちだけでは伝わらない。言葉だけでは物足りない。
行動が伴って初めて、実感できることもある。実感が伴って初めて、心で満足できるのだ。
だが残念なことに、あるいは不運なことに、アリサちゃんは利口すぎた。お父さんとお母さんを困らせないようにと、ささやかな願いすら
「徹……
思わず、目の前の小さな身体を抱き寄せていた。
アリサちゃんの寂しさを拭うことは、俺にはできない。
この問題の根源は、アリサちゃんの家の事情によるものだ。バニングスさんにもっとアリサちゃんと一緒にいてあげてほしいと伝えることはできるだろう。できたとしても、それで何かが抜本的に変わるわけではない。そもそも、俺がお願いした程度でアリサちゃんに会いに行けるのなら、既に行っているはずだ。愛する娘と一緒にいたいと思わないわけがない。
「っ…………」
俺に、できることはない。
ない、のなら。
「徹……」
「両親に会えないのは寂しいかもしれないけど……アリサちゃんにはすずかやなのはがいるだろ?今は彩葉ちゃんだっているし、鮫島さんだって
解決するためにできることがないのなら、せめてアリサちゃんが寂しくならないようにしてあげたい。
明るく、笑っていられるように。ほんの少しでも寂しさを紛らわすことができるように。
「……ええ、そうね。それだけが救いだわ」
「すずかやなのはなら、きっと呼べば飛んできてくれるぞ」
なのはなら文字通りに
「ふふっ、自慢の親友だもの。当然ね。ところでわたしの大きな親友さん?」
「んあ?俺のことか?」
「あたりまえでしょ。他にいないじゃない。わたしの大きな親友さんは、呼べば飛んできてくれるのかしら?」
なので、答えた。
「俺は忙しいからなー」
「がうっ」
噛まれた。
Tシャツ越しに胸元をがぶっとされた。やっぱりアリサちゃんは犬だ、狂犬だ。ジョークを交えて明るくしようと思ったのに。
「痛いっ、わりと本気で痛いっ」
「呼んだらいつでもどこでもきなさいよっ。親友でしょっ」
「いや親友でも用事や予定はあるし」
「がうっ」
再び噛まれた。
「痛いっ、痛いっ」
「なによっ……ふん」
不貞腐れたように、顔の向きを変えた。
こういう素直な態度をご両親の前で見せられたなら、もう少し彼女を取り巻く環境は違ってくるのかもと、ふと思った。
「なぁ、アリサちゃん」
「うっさい。もう知らない。はやく寝なさい。徹が寝てる間に首元にキスマーク作って明日困らせてやるんだから」
それは朝からとんでもない騒動になりそうなので是非やめてもらいたい。
「いつでもどこでも駆けつける、なんて出来すぎたヒーローみたいなことは約束できないけどさ」
「ばか。うるさい。また噛むわよ」
「噛まれるのはやだな。だからアリサちゃんになにかあれば、その時は絶対に迎えに行くよ」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
「……必ずよ?」
「前に約束しただろ?『お姫様が困った時には助けに行く』ってな」
「……おぼえて、たんだ」
「当然だ。忘れない」
「っ……」
アリサちゃんは抱きつくように、顔をくっつけた。
「……約束、守りなさいよね。破ったら……また噛んでやるんだから」
「ああ、わかってるよ。もう噛まれたくはないからな」
*
明朝。
すずかとの天体観測やアリサちゃんとのおしゃべりで多少夜更かしはしたが、昼寝したこともあってすっきりと起きられた。
いつもはベッドで寝ているが、布団で寝るのもこれはこれでいい。これで床がフローリングとカーペットではなく、畳ならなおさらよかった。
「寝相いいんだな……アリサちゃん」
俺の腕を枕にしてくっついているアリサちゃんは、夜中に話していた時とほとんど位置が変わっていない。
寝にくくないのだろうかと疑問に思う。いつも彼女が使っている寝具とは品質の面でかなり劣るし、とくに枕なんて天地ほど差があるだろうによくぐっすり眠れるものである。
「んにゅ……ん、ぅ……すぅ」
「……寝てりゃ、ただの抜群に可愛い女の子だな……」
髪が顔にかかったのか、むず痒そうに俺の胸元にもぞもぞと顔を押しつけて、また夢の中に沈んでいく。夜中に俺に牙を立てたお口は規則正しく開いて閉じて、血色の良い柔らかそうな唇からは吐息が漏れている。朝日を浴びてきらきらと光を返す黄金色の髪は、まるでそれ自体が輝いているかのようだった。
まさしく、絵に描いたような美少女だ。起きている時は少々事情が異なるが。
「時間は……まあ余裕はある、か」
腕を動かせないため、首を違えそうになりながら時計を確認する。普段であれば家事を一通り片付けてもまだゆっくりできるような時間だが、今日はアリサちゃんとすずかは一度家に戻らないといけない。俺もそうだが二人も昨日と同じくテストがある。教科書やノートを取りに帰らないといけない。いやテスト前なんだから本来なら勉強しておかなければいけないくらいな話だが、二人とも賢いので大丈夫だろう。
ともあれ、まずは起こさなければ。女の子は朝の
「アリサちゃん、アリサちゃーん」
「……んぅ」
返事なのか寝言なのか判断つかない声を発するアリサちゃんを優しく揺すりながら、姉ちゃんとすずかを見やる。
かわいそうなことに、すずかは姉ちゃんにぎゅうっと抱きつかれていた。ちょうど腕に収まる絶妙なサイズだったのだろう。
決して寝相が悪いわけではないのだが、ただ一つ、姉ちゃんは寝ている時に温かいものにくっつくという習性があるのだ。
姉ちゃんの幸せそうな寝顔とは対照的に、すずかは悪夢に
姉ちゃんを足で揺すって起こそうとしていた時、むくりとアリサちゃんが起き上がった。
腕が自由になったので俺も起きる。
「んー……くぁぁ、あ、徹」
可愛らしいあくびをして、
「おはよう、アリサちゃん」
「んんっ……はぁ。おはよう、はやいわね」
寝相も良ければ寝覚めも良いらしく、ひとつ伸びをしたらいつものアリサちゃんだった。
伸びをした時にシャツがずれて首元から肩、腕まで露わになってしまっている。寝起きで乱れた髪がまた良い塩梅だ。
「俺が起きてなかったらみんなまとめて朝ごはん抜きになるからな。それより、よく眠れたか?」
「ひさしぶりにゆっくり寝られた気がするわ」
「俺の腕を枕にしてよく寝られるよな。首とか痛めてないか?」
「絶好調よ。たしかに柔らかくはないけど、そういうのとはちがう寝心地の良さがあったわ。抱き枕みたいな徹がほしいわね」
「俺みたいな抱き枕じゃないところがミソだな。どうする?シャワーとか浴びてくるか?」
「そうね、借りようかしら」
「そんじゃその間に朝飯用意しとく」
「ありがと。……なんなら徹も一緒にシャワー浴びる?」
「冗談言えるくらいに目が覚めてれば大丈夫だな。いってらっしゃい」
そうやって早く行くように促すと、アリサちゃんはくすりと笑んで一階へ降りていった。
アリサちゃんが口にする『親友』という俺のカテゴライズが、一体どういった立ち位置なのか未だに判然としない。なのはやすずかとの接し方と同種のものなのか、それとも別の枠組みなのか。
あまりに近いアリサちゃんの距離感と発言にどきまぎしながら、姉ちゃんとすずかを起こすために肩を揺する。
「…………起きねぇ」
姉ちゃんは毎度のことだが、すずかも目覚める気配がない。
天体観測で夜更かししすぎたか、とも考えたが、以前忍の家で勉強会をやった日にすずかを起こしに行った時もすんなりと起きてはくれなかった。姉である忍と似て、すずかも朝に弱いのであった。
「……ま、いっか」
まだ余裕はあるのだ。焦るような時間じゃない。姉ちゃんのバイトも今日は早朝からではないので急いで起こす理由はない。そう妥協して食事の準備に取り掛かる。
「あれ?お姉さんとすずかはまだ起きてないの?」
シンプルな和テイストの朝食ができあがったタイミングで、髪などもろもろを万端整えたアリサちゃんがリビングに戻ってきた。
呆れた調子で言いながら、アリサちゃんは席につく。
「起こしても起きないんだよなー」
「すずかは多少強引にやらなきゃ起きないわよ」
「そうなのか……。無理矢理起こすのはいやだけど飯の時間と準備を考えたら……」
「ギリギリ、っていうかわたしならアウトなくらいね」
「すぐ起こそう!」
すずかを姉ちゃんごと、ぐわんぐわんと大きく揺さぶる。
「おーい、起きろー」
「んみゅ……んっ」
「なかなかに頑固だな……」
瞼を固く閉じて、すずかは布団に潜ろうとする。
懸命に起こそうとしている俺の背後で、ずずっ、と
「ん、朝に熱い日本茶ってのもなかなかいいものね」
「そりゃよかった。……手伝ってはくれないんだな」
「一番おいしい状態で食べたいもの。そっちは徹に任せるわ」
優雅な所作で湯呑みを傾けて一息アリサちゃんだった。
「んゅ……あぇ、とおりゅ、さ……」
ぐらぐらし続けて、ようやっとすずかの目が開いた。覚醒には程遠いようだけれど。
「そうだぞ、徹さんだぞ。朝ご飯と準備の時間だ。そろそろ起きてくれ」
「……ぁい」
まだ相当に眠気が残っている頭をふらふらとさせて、すずかは一階の洗面所へ向かった。
姉が残ったが、これはもう楽だ。すずかがいないのなら、乱暴な手が使える。
「よっ……こいしょっと」
姉ちゃんの敷き布団の端を掴み、テーブルクロス引きの要領で引っ張ってフローリングに落とす。
ごん、と鈍い音がした。
「ぬあぁっ!?なにすんねん!」
「何やっても起きないからだ」
「やわっこい女の子を抱っこしながら寝んのは心地よすぎたんや」
言っていることはどこまでも犯罪的だが、気持ちはよく理解できてしまった。口にはしないけれど。
すずかの残り香に包まれるように布団を纏って、なかなか出てこない姉ちゃん。敷き布団だけではなく掛け布団も同時に剥いでおくべきだったか。
行動に移そうかと本気で考え始めた時、アリサちゃんが口を開いた。
「お姉さん、先にいただいてるわよ」
「あーっ!アリサちゃんずるい!」
がばっと布団をパージした。
憐れなくらい食欲に弱かった。
「ずるくねぇよ。アリサちゃんは一足先に起きてシャワーまで浴びて座って待ってたんだからな」
「徹の作ってくれた朝ご飯、すっごくおいしいわ。このままだとお姉さんの分まで食べちゃいそう」
「まって!?あかんでアリサちゃん!うちの食べたらあかんで!」
「約束は……ごめんなさい。できそうにないわ」
「わーっ?!すぐ顔洗ってくるからちょお待って!」
「洗面所は今すずかが使ってるから、ここで顔洗えば?」
「そうする!」
ばしゃばしゃと音を立てて、姉ちゃんは浴びるように水を顔にぶつけた。
うまい具合に姉ちゃんを誘導してくれたアリサちゃんを見る。こちらの視線に気づくと、実に可憐なウィンクをぱちっと送ってきた。
ありがとうという意味を込めて笑みを返す。
「うっし!目ぇ覚めた!」
「それはよか……びしょびしょじゃねぇか。目は覚めたかもしれないけど身体も冷めるぞ」
「そのうち乾くて」
顔を洗ったというよりも軽い水浴びみたいなものになっている。髪や服だけでなく、シンク周辺までびしょびしょだ。
シンク周辺はあとからどうにかするとして、とりあえず姉ちゃんにタオルを投げつける。
「せめて髪は拭いといてくれ」
「はーい。ご飯食べてから服着替えるわ」
「ぱぱっと着替えてくりゃいいのに」
タオルで顔と頭を拭った姉ちゃんが席につく。いただきます、と柏手を打って朝ご飯に手をつけた。
鮭の塩焼きをつまんでご飯をたらふく口に突っ込んで、それらを飲み込むと次は味噌汁に手が伸びる。
「んまっ!」
「本当にお姉さんはおいしそうにご飯食べるわね。それより……」
朝から食欲旺盛な姉ちゃんを、アリサちゃんがじっと見つめていた。
視線の先は顔、ではなく、顔からぐぐっと下にずれた部位。水を浴びてTシャツが張りついている胸元に、アリサちゃんの目は注がれていた。
「いったいどうすればそんなスタイルに……」
自分の胸に手を当てながらアリサちゃんが言う。
ちゃんと口の中のものを飲み込んで、お茶を含んでから姉ちゃんは答える。
「なにって、とくに変わったことしてへんよ?適度な運動と、充分な睡眠と、あとは徹のご飯やね。今日も今日とてご飯がおいふぃ」
「そう……やっぱり徹はうちにこさせるしかないってことね」
「アリサちゃん家には抜群の腕を持った料理人がいるだろ。きっとカロリー計算から栄養バランスまで、普段の食事から気を使ってくれてるはずだぞ」
「そうなのかしら。徹も気をつけてるの?」
「そりゃ台所を預かってる以上は、最低限はな。いつも完璧にとはいかないけど」
「おっきくなりたいんやったら、いっぱい食べていっぱい寝ることが近道やで、アリサちゃん。夜更かしし過ぎたら成長しにくなるし、朝ごはん抜いたりしたら成長するための栄養取られへんからなぁ」
「お姉さんもそうだったの?」
「せやな!」
「姉ちゃんは隙あらば俺の分まで狙うほどよく食うし、夜なんてついさっきまで話してたのに気づいたら寝てるとかあるからな」
「余計なことまで言わんでええ」
「でもそうやって聞くと太りそうなものだけど……」
「あむ、はむはむっ。……ん?どないしたん?」
「……なんでそんな生活を送って、スタイルいいの?昨日一緒にお風呂入ってびっくりしたんだけど。胸おっきいのにウエストはきゅって細いの」
「ふふんっ。せやろ」
「ちょっとは恥ずかしがったり謙遜したりしろよ」
「スタイルに関して、うちに恥ずかしいところはない!」
「よく気後れしないでそんなこと言えるな……」
「……わたしもそんなセリフ言ってみたい」
「こんな大人になっちゃだめだぞ、アリサちゃん。見てくれだけ良くても中身が伴ってなきゃ意味がないんだからな」
「ごはんおかわりっ!」
「もう食べたのかよ……ってか話聞けよ」
「たくさん食べることが成長の近道……でも、こんなに食べたらいらないお肉がつきそうだし……」
「成長期やねんから贅肉がどうとか気にせんと好きなだけ食べたほうがええ。お腹周りのお肉が気になったらうちがダイエット付き
「うう……徹、わたしもおかわり」
「……姉ちゃんの厄介なところは、間違ったことは言わないところなんだよなぁ」
苦渋の表情でアリサちゃんが茶碗を突き出してくる。その茶碗を苦笑いで受け取った。
姉ちゃんの言い方はどうかと思うが、考えとしては俺も同意見である。小さいうちは体重がどうとか体型がどうとか気にせず、いっぱい食べたほうがいい。それで好き嫌いもなければなおさらいい。
ぜひ俺のクラスメイト二人にも言って聞かせたいものである。奴らはめちゃくちゃ食べるが、いかんせん、好き嫌いが多すぎる。
一杯目よりも気持ち少なめにご飯をよそってアリサちゃんに手渡す。ちょうどそのあたりで、ぺた、ぺたと足音が下から上ってきた。
「おはようございます……ふぁ、あふ」
「おう、ちゃんと目は覚めたか?」
「すずか、遅いわよ。ちょっと急がないと」
「すずかちゃんおはよーっ!」
「姉ちゃんうるさい。そんな声張らなくても近いんだから聞こえるっての」
「あはは……」
小さくあくびもしていたが、目は覚めたようだ。
空いている席にすずかが座り、手を合わせた。俺も一緒にぱちんと手のひらを鳴らして、いただきます。
「ごめんなさい、徹さん。待っててくれたんですか?」
「んー、まあ。喋ってたから気にならなかったけど。それより、はやく食べよう。冷めちゃうぞ」
「ありがとうございます……あ、おいし……」
「よかった。野菜もちゃんと食べてくれるからこっちも作りやすくて助かるよ」
「ほんと、おいしかったわ」
「アリサちゃんはもう食べ終わってたんだね」
「え?……完食、だな」
驚きとともにアリサちゃんを見れば、たしかにお皿は綺麗になっていた。茶碗も含めて、綺麗になくなっていた。もうご飯食べたのか。
「……なに?なにか言いたげね」
「いや、おいしく食べてくれたんならうれしいなー、ってな」
「ならいいわ。ごちそうさまでした」
食べ始める時と同じように、アリサちゃんは手を合わせた。
すると、席を立って食器を持った。
「アリサちゃん、置いといてくれていいぞ。あとやっとくし」
「徹は食べてる途中でしょ。流しに持っていくくらい、自分でやるわよ」
「おお……ありがとう」
「……いったいなにに感動してるのよ」
「そうやって自主的に手伝おうとしてくれていることに」
「あはは、なにそれ」
笑いながら、アリサちゃんは自分が使った食器をシンクまで運んでいった。
アリサちゃんは俺が冗談を言ったと思っているのかもしれないが、わりと冗談ではない。手伝おうとしない奴もいるのだ。客人相手に俺が手伝わせないというのもあるけれど。
「あ、アリサちゃん、髪ツーサイドアップにすんの?」
「そう、ね。いつもそうしてるけど……」
台所から戻ってきたアリサちゃんは、頭の片側を手で纏めてヘアゴムを口にくわえながら戻ってきた。
チャンス到来とばかりに、姉ちゃんが目敏くアリサちゃんに声をかけた。
「せっかく綺麗な長い髪してんねんから、もっと遊ばな!」
「これが一番慣れてるし、楽だし……」
「ぱぱっと簡単にできるアレンジもあんで?今回はうちがやったる!」
「でも……」
アリサちゃんがちらと俺を見た。どこか申し訳なさそうというか、困った表情だ。
「姉ちゃんは言い出したら止まらないんだ。アリサちゃんがよければ付きあってやってくれ。俺も違う髪型見てみたいし」
どうやら迷惑なんじゃないか、と思っていたらしい。俺がそう言うと、アリサちゃんは安心したように頬を緩めた。
「そう……それじゃあ、甘えちゃおうかな」
「やった!もっと甘えてくれてええねんで、アリサちゃん!」
アリサちゃんから許可をもらい、姉ちゃんは喜色満面でアリサちゃんの後ろに回った。
取り掛かるや、サイドの髪を編み込み始めた。
普段、人の髪をいじるなんてできない分、それはもう気合を入れてやることだろう。
「と、徹、さん……」
「ん?どうした、すずか」
小さなお口でちょっとずつ慎ましく食べていたすずかが俺を呼ぶ。テーブルを見ると、ご飯は結構残ったままだ。
すずかは
「あ、あの……」
「量、多かったか?姉ちゃんや友だちがよく食べるから、いまいち加減がわからないんだ。多すぎたら残してもいいぞ」
「ち、ちが、量ではなくて……き、昨日、の……」
「昨日?……あ」
昨日、というワードともじもじするすずかで思い至った。
アリサちゃんと姉ちゃんに聞こえないように、すずかの耳元に口を寄せる。
「天体観測の話か?」
「そ、そうっ、ですっ。……それで、あの、約束って……」
「約束……次は夏の大三角を見たいなってやつだろ?付き合ってくれるんだよな?」
「は、はいっ。……よかった。……夢じゃ、なかったんだ……」
テーブルの下で、すずかが握りこぶしを作っていた。
どうやら夜の出来事が夢だったんじゃないかと思っていたらしい。星と星座講座の途中ですずかは寝落ちしたので、記憶は曖昧なのだろう。
「はは、夢じゃないぞ。ぜんぶ現実だ」
「そ、それじゃ……徹さんに腕枕してもらったことも?」
「そう、だな。腕枕っていうか、身体布団みたいなもんだったけど」
「部屋に戻る時……お、お姫さま抱っこしてもらったことも?」
「そうそう。戻る時に揺らして起こしちゃったのか?ごめんな」
「り、リビングに戻る前に……徹さんの部屋に入った、ことも?」
俺と目を合わせにくそうに、すずかは俯きがちに聞いてきた。
「俺の部屋?ああ、入っ……あれ?リビングに戻る時には入ったっけ?」
家の屋上に上がる前にはシーツを取りに俺の部屋に入ったが、リビングに戻る時にシーツを部屋に戻した記憶はない。
記憶を遡る前に、すずかの確認が続けられる。
「わ、わたしを……徹さんの、べ、ベッドに寝かせた、ことも……」
「いや、それは」
「そ、そこから……っ、わ、わたっ、わたしの服をっ、ぬ、脱がしたっ、ことも……っ」
「夢だ、すずか。それ夢だわ」
「こ、これは夢なんですか?どこから……」
「天体観測してからリビングに戻る時に俺の部屋には寄ってない。まっすぐリビングに戻ったんだよ」
「そ、そう、でしたか……」
「そう。だから安心してくれ」
途中から明らかにR18+指定の流れになっていた。
そのとんでもないことが夢だとわかって安堵するところのはずなのに、なぜかすずかの声のトーンは下がっていた。そういう諸々に興味を持つお年頃なのだろうか。
「わ、わたしっ……あんな夢みて……っ。は、はしたないです……」
「い、いや、夢なんてのは本人の意思で視る視ないを決めれるわけじゃないんだから……まあ、ほら、気にすんなよ」
「しかもそれを徹さんに確認するなんて、わたし……はずかしい」
「……んんー、いやー……」
どう励ますのが正解なのか俺にはわからない。
どう声をかけるのが正解かはわからないが、こういう時どう対処すればいいかは知っている。
「……そ、そういうのは誰にだって経験があるもんだから別にいいんだって。そ、それより、朝ごはん食べる時間なくなっちまうぞ」
下手に触れずに流す。
人間、忘れようと思えば嫌なことや恥ずかしいことだって忘れられるようにできているのだ。
「そう、ですね……えへへ、あはは……」
「…………」
すずかにはかなりの精神的なショックだったようだ。頭の大事なところのネジが外れそうになっている。
俺じゃあもう手に負えなくなっていたが、ここで救いの手が差し伸べられた。
「あ、すずかまだ食べ終わってなかったの?はやく食べないと学校行く準備間に合わないわよ」
姉ちゃんとお喋りしていたアリサちゃんが、準備が進んでいないすずかを急かした。
「あ、うん……ちょっと人生初くらいの恥ずかしさを味わってて……」
「どういうこと?ご飯を味わってるってこと?徹のご飯はおいしいけど、急いだ方がいいわよ」
なんだか微妙に話がすれ違っている。
「う、うん……徹さんの料理は前からおいしアリサちゃん髪型すごいことになってるよ?!」
「えっ?!」
「ふぅっ……ええ仕事したわ」
ちょっと目を離したすきに、アリサちゃんの髪型が大胆にアレンジされていた。
後ろの髪はお団子なのかシニヨンなのか大きく丸めて固められ、纏められたお団子を囲むように編まれたサイドの髪で巻かれている。
清楚さと華やかさが共存していて、お嬢様感が底上げされていた。
すずかの言う通りすごいことにはなっているが、この場合は無論、いい意味だ。
「わ!いつもと全然ちがうわ!首に髪がかからなくて気持ちいいわね!」
「すっごくかわいいよっ、アリサちゃん!」
「アリサちゃんは綺麗な黄金色の髪しとって気品あるし、こんな感じでもよう似合うわぁ。なんせ本人がかわええから、髪のインパクトにも負けへんし!」
美容師のように鏡を持ってきて頭の後ろがどうなっているのかアリサちゃんに確認させる姉ちゃん。どや顔の姉には多少いらっとくるが、その仕上がりには感服だ。
「こんな短い時間で、しかもおしゃべりしながらだったのに……お姉さんすごいわ!」
「えへへーっ!ちゃんとケアされとったからいじりやすかったわぁ。……ちら」
わざわざ自分の口で擬音を発しつつ、姉ちゃんは次なる獲物をロックオンする。
その標的はもちろん、食事を再開したすずかである。
「すずかちゃん、ちょっと髪跳ねとんで?」
「あ……髪長くてはねやすくて……ちゃんと整えられなかったんです」
髪を撫で付けるように手で抑える。ちらりと俺を見て、恥ずかしそうに目を伏せた。
「だいじょぶだいじょぶ!うちが整えといたるよ!髪長いと大変やんなー」
言っていることは理解ある優しい年上のお姉さんなのだが、にやにやとした顔とぬるぬる動く指は完全に変質者である。
姉ちゃんは了承も取らぬままヘアピンやヘアゴムを持って、すずかの背後に回った。
「絶対に整えるだけで済ますつもりないだろ」
「そらそうやろ!こんな綺麗な髪目の前にしてなんもせえへんとかもったいないわ!」
どこに隠し持っていたのか、寝癖直しのヘアスプレーを掲げて叫んだ。
「……はぁ。時間が迫ってるから、考慮してやってくれよ」
「任せとき!ほな、すずかちゃん。髪はうちがやっといたるから、ゆっくりご飯食べーなー」
「は、はい、ありがとうございます、真守さん」
ところどころはねている髪を整えてからいじり始めるらしい。食事の邪魔をしないようにスプレーを使って寝癖を直し始めた。
それを横目に見ながら、使い終わった食器をシンクに持っていく。
戻ってくると、姉ちゃんから鏡を借りていたアリサちゃんと鏡越しに目があった。
「どう?徹から見て」
ふ、とアリサちゃんは目を細めて、嬉しそうに聞いてきた。
「すごく上品で、でも可愛さもある。似合ってるよ」
「……ふーん」
唇を尖らせて不満そうな視線を送ってくる。
褒めているのにどうして不機嫌なのだろうと考えて、昨日の帰り道を思い出した。
「魅力的だよ、アリサちゃん」
「ふふんっ、それならいいわ!」
ようやく満足したように胸を張った。
さらに何か続けて言おうと、アリサちゃんは口を開いた。が、その前に、チャイムの音がアリサちゃんを遮った。
時計を確認する。
時間からして二人の迎えが来たのだろう。
すずかの寝癖直しを姉ちゃんに任せてよかった。でないと、朝ご飯をゆっくり食べる時間もなかったかもしれない。
「姉ちゃん、そろそろ……」
「完成っ!いやー、ぎりぎりやったなー」
そろそろ時間だぞ、と伝えようと姉ちゃんに振り向けば、寝癖直しどころかすでにヘアアレンジまで終わらせていた。我が姉ながらなんて早業。
しかも、早いだけでなくそのクオリティもすごかった。
「猫耳だ……すずかの頭に猫耳がついてる」
正確には、猫耳っぽい形に整えられた髪だけれど。
「すごいわ!すずかすっごいかわいい!」
「まだ見てないから自分じゃわからないけど、可愛いのは真守さんが結ってくれた髪で、わたしじゃ……」
「なに言うてんの、すずかちゃん!すずかちゃんに似合てるからアリサちゃんは褒めてくれてんねんで!」
「そうよ、すずか!自信持ちなさい!」
「う、うんっ、ありがとう」
「いや、ものすっごい似合ってんだけど……なんで猫耳?」
「すずかちゃんのお
姉ちゃんが恐ろしい計画を企てていた。きっと忍も喜んでくれることだろう。
「あとテスト受けてる時に邪魔にならへんように、サイドは後ろに持ってってローポニーテールにしてみてん!これなこれな、にゃんこのしっぽイメージしてんねんで!」
姉ちゃんはすずかに立つように指示して、手を取ってくるりと半回転させる。ふんわりとゆるめに編まれた髪は、遠心力でワンテンポ遅れてすずかの背を追うが崩れない。こなれたエア感と纏まりが絶妙のバランスを保っていた。
相変わらず、女の子を可愛くすることにはどんな手間も
「控えめに言って超可愛いな」
「愛くるしいわね。撫で回したいわ」
「う、うぅ……」
心の奥から滲み出た俺とアリサちゃんの本音は、すずかを耳まで真っ赤にさせた。
「お迎え来てるみたいやし、みんなで下りよか。すずかちゃんは一階の姿見で髪見てみぃなー」
一階に下りて、姿鏡を見つけると、アリサちゃんとすずかはぱたぱたと足早に走り寄った。
顔を傾けたり身体の向きを変えたりして自分の髪を眺める。
「わ、すごい……ほんとに猫耳みたいな形……」
「すずかの猫耳、すごいわね。どうやってるのかしら?」
「すごいよね。セットしてるところ見てないからどうやってるのかはわからないけど……」
「お姉さんにセットしてもらいながら朝ご飯食べてたしね」
「お、おいしかったんだもん……。そ、それより、アリサちゃんの髪もすごいよね。いつもと全然雰囲気違うね」
「大人っぽく見えるでしょ?中学生くらいに見えない?」
「中学生は無理があるような……」
「でも自分でやるには難しそうなのよね。自分じゃ手元が見えないし」
「真守さんはどうやってあれだけ短時間でできたんだろう?」
「まあ、あの徹のお姉さんだもの」
「ふふっ、それもそうだね」
俺と姉ちゃんへのリスペクトなのかどうなのかわからない会話も
「おまたせしましたー」
間延びした声で姉ちゃんが玄関の扉を開ける。
正面の道路にはお高そうな車が二台と、執事とメイドが一人ずつ。朝早くから執事服をばっちり着こなしている鮫島さんと、白を基調としたメイド服のノエルさんだ。
二人に軽く朝の挨拶をしていると、アリサちゃんとすずかが出てきた。
「おはよう、鮫島。ご苦労様」
「お待たせしました、お嬢様。おはようございます」
「おはよう、ノエル。出てくるの遅くなってごめんなさい」
「いいえ、すずか様。こちらこそ、昨日はお迎えに行けず申し訳ありません」
「すずかお嬢様、昨日の件については全て私の責任です。申し訳ありません」
「ううん、いいの、ノエル。鮫島さんもいいんです。おかげでいつもと違う一日が過ごせてとても楽しかったから」
「そう言っていただけると助かります。徹くん、ありがとうございました」
「こっちこそ、アリサちゃんとすずかが姉ちゃんの相手してくれたおかげで俺の負担が減ったよ」
「うちがなんやて?徹」
両側から肋骨の隙間に指を差し込まれた。痛気持ち悪い。いらない一言に対するお仕置きが地味に強烈すぎる。
「それにしても、二人ともおひさやね。あはは、鮫島さんは変われへんなぁ」
「真守お嬢様は大きくなられましたね。以前に拝見した際はまだ幼さを残していましたが、大変お美しくなられました」
「えへへ、ありがとー。せやけど、ノエルちゃんも相変わらず美人やんなぁ。びっくりするわ」
「ふふ、真守ちゃんも綺麗になりましたよ。昔は可愛さが強かったですけど、今はどちらも持ち合わせています」
「あははっ、嬉しいわぁ。そういや、今日はノエルちゃん忙しかったん?」
「ええ……少しばかり。なぜそんなことを?」
「いつもやったら外出るとき、もうちょいラフな格好するやん?着替える暇もなかったんやなーって。相変わらず仕事熱心なんやね」
「……真守ちゃんも相変わらずで安心しました。お恥ずかしい限りです」
「真守お嬢様の利発さに
「うん?うん!うちはいつも通りやで!」
俺と恭也、忍が幼馴染なので、その繋がりで姉ちゃんも家族ぐるみで両方と仲がいい。ノエルさんとも交流しているのは聞いていたが、想像以上に親しげだ。
「ノエルがすごく自然に接してる……あんな顔するんだ」
「ノエルさんとは付き合い長いみたいだしな。姉ちゃんの人間性もあるだろうけど」
姉ちゃんが鮫島さんとノエルさんに話しかけまくっているせいで、迎えにきてもらったお嬢様お二人が手持ち無沙汰である。
「姉ちゃん、挨拶もそろそろいいだろ」
「へ?あぁ、ごめんなぁ。久しぶりに顔見れて嬉しかったんや」
アリサちゃんとすずかの二人が待ってるんだぞ、ということを服を引っ張って伝える。
たしかに、姉ちゃんではこういう機会でもなければなかなか会えない二人ではあるけれども。
「ほらっ!二人とも見てや!アリサちゃんとすずかちゃん、めっちゃ髪可愛ない?!」
「違う、違うぞ姉ちゃん。二人の可愛い姿を鮫島さんとノエルさんに早く披露しろってことじゃない」
お迎えのために鮫島さんとノエルさんが来ているのだから、早々に雑談を切り上げてアリサちゃんとすずかを車に乗せてあげろと言いたかったのだが、姉ちゃんには伝わらなかったようだ。
アリサちゃんとすずかの背中を押して、姉ちゃんは鮫島さんとノエルさんに見せつけた。
ヘアアレンジのコンセプトを説明して、鮫島さんとノエルさんが二人を
問題は、その後だった。
「制服はどうなさったのですか?」
執事とメイドが異口同音で言った。
「あ……」
俺たち四人も、揃って言った。
全員、着替えていなかった。
*
俺の家で着替えるのは諦め、制服は持って帰って各々の家で着替えることとなった。パジャマがわりに着ていた服は後日返却するとのことである。
制服を渡してアリサちゃんとすずかを見送る、まさにそのタイミングであった。
鮫島さんが操縦する高級車の後部座席に座っているアリサちゃんが、窓を開いて手招きした。
忘れ物だろうかと思って車に近づいた俺の服を、アリサちゃんは、ぐい、と引っ張った。
窓から身を乗り出して、アリサちゃんは俺の耳元に顔を寄せた。
不意に、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「ちょっ、なに?」
「次の土曜日と日曜日、空けておきなさい」
「土日?なんで……」
「以前の貸し、返してもらうの。わかった?」
耳に唇が触れるのではと思うほどの近さだった。アリサちゃんが言葉を発するたびに、熱のこもった吐息が耳をなぶるせいで落ち着いていられない。
「あ、ああ……わかったよ」
「ふふんっ、それでいいのよ」
よく考えもせずに頷いた俺に、アリサちゃんは高飛車で高慢なお嬢様の典型みたいなセリフを吐く。声の高さと小柄な身体のせいで、つんけんした女の子にしかなっていないけれど。
「あと、一日ありがとう。楽しかったわ」
「うお……」
頬と頬をくっつけて、アリサちゃんは礼を言った。さらさらとしてあたたかく、柔らかな感触に、心臓がきゅっとした。
乗り出した身体を車に引っ込める際、長いまつ毛を瞬かせ、小悪魔な笑みでウィンクを決める。
度肝を抜かれた俺を置いて、静かに車は発進した。
「なに小学生にときめいてんの?」
呆然と高級車二台を見送る俺の脇腹に、姉ちゃんの肘が入った。
「ときめいてんじゃない。驚いたんだ」
「はいはい、そういうことにしといたるわ」
「なんだその含みのある言い方」
「ほら、徹。朝ごはん作って」
「もう食っただろうが!」
騒がしくしながら家に戻る。
俺も学校に行く準備をしなければ。