そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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『化け物』

 

「なんで……なんで、なんで!てめぇがここにいる!てめぇはトラックにっ……」

 

「ああ、死ぬかと思ったよ。わりと本気でな。……ま、そんな話の前に、だ」

 

そう言うと、破壊された大扉の付近にいた徹の姿がかき消えた。

 

「そこから退()けよ……くそ野郎」

 

疾風が、アリサの濡れた頬をそっと撫でた。倉庫の(よど)んだ空気ではない。外の、いっそ爽やかとすら思える新鮮な、一陣の風。

 

それをアリサが感じた時にはもう、恐怖の象徴でしかなかった野卑で下劣な大男はいなかった。

 

代わりに見慣れた顔の、聞き慣れた声の、感じ慣れた心地よさ。先の男とは真逆、安心感の象徴が、すぐ傍らに寄り添うように立っていた。

 

扉の近くにいたはずなのに、アリサは瞬きもしていなかったのに、コマ落ちしたように、今はもうすぐ近くに。

 

「ぁ……と、とお、る……っ」

 

「ちょっと待っててくれ、三人とも。すぐに片付けるから」

 

徹は額から、否、至る所から流れる血を気にもせず、アリサ、すずか、なのはと順に柔らかな笑顔を見せる。再びアリサを見て、ジャケットを脱いだ。

 

「ちょっと埃っぽいかもしれないけど、我慢してくれな、お嬢様」

 

「ぁ……」

 

ふわり、とガラス細工に触れるみたく丁寧に、それ以上に繊細に、アリサにジャケットを羽織らせる。

 

「ぅ、ぁっ……とおりゅ……ぅあぁっ」

 

「もう大丈夫、大丈夫だからな」

 

数十秒前までとは意味が正反対異なる涙が、アリサの目からあふれて止まらない。

 

ジャケットから伝わる体温と、安堵する匂い。

 

それらとともに、無数の擦過痕と乾いて固くなった黒い染み。

 

怪我を負っていても、迷わず躊躇(ためら)わず助けにきてくれた。その安心感と嬉しさに、温かい涙は止まらない。ぼろぼろのその身を案じたくても、救いにきてくれたことに感謝したくても、震える身体と声はアリサの言うことを聞かず、言葉は形を成さない。

 

アリサにジャケットを渡した徹はなのはとすずかに近づく。なのはとすずかを取り押さえていた男の手下は、気づいた頃にはすでに姿がなかった。二人の遥か後方で、よく見れば人に見えるかもしれないような影が二つ分、できていた。

 

「手、痛くないか?すぐ外してやるからな」

 

徹はなのはとすずかの後ろに回って、手や足を拘束していたロープを切る。アリサたちがいくら抜けようとしてもびくともしなかったロープを、まるで粘土でも扱っているような勢いで引き千切った。

 

「よく教えてくれた。助かったぞ、なのは」

 

「う、ううん……倉庫ってことしかわからなかったから……。で、でも、徹お兄ちゃんはどうやって……」

 

「後から話す。今はアリサを頼む」

 

「徹お兄ちゃんはどうするの?一緒に逃げないと……」

 

「いや、逃げなくていい。動ける状態じゃないだろ。安心しろって……すぐに、生ゴミを処分するから」

 

「な、生ゴミって……いえ、その前に徹さん、たくさん怪我を……」

 

「このまま逃がすなんて許せないだろ。これだけ好き勝手やってくれやがったんだ。相応の報いってのを、受けてもらわなくちゃな」

 

あくまでも、笑顔だった。底冷えするほど冷淡で、冷徹で冷め切った声。鋭い双眸(そうぼう)は冷酷に彩られ、口元は冷血に(ほころ)んだ。

 

万が一にも温情は与えないと言外に示すようで、なのに、あくまでも笑顔だった。

 

「徹お兄ちゃん……」

 

「と、徹……さん?」

 

「お前たち怖がらせたんだ。不安にさせて、泣かせて、悲しませて、苦しめて、辱めたんだ。けじめはつけてもらわないといけないよな。後悔、させてやらなくちゃいけない」

 

アリサたちに向けていたものとは比べるべくもない。温もりなど欠片もない。

 

視線だけで人を殺せそうな眼光が、とある一点へと移る。その先には、リーダー格の大男がいた。

 

「おっえぇっ……ぐぉうぶ、おぇっ……っ。クソガキっ、クソガキがぁッ」

 

横っ腹を押さえながら、男は立ち上がる。口の端から濁った液体を垂らし、血走った眼球を剥いて、黄ばんだ歯を見せるように口を大きく開いた。

 

「何ぼけっと突っ立ってんだ!そのガキぶっ殺せ!」

 

大声を張り上げて手下たちに命令を飛ばす。

 

一瞬戸惑った手下たちだが、ずたぼろの徹を見て、死に体だと判断したのだろう。各々凶器を持って徹を取り囲む。

 

「……先に。忠告しておくぞ」

 

そんな彼らに、徹は狂気を(もっ)て応じた。

 

「こっちは身内三人傷つけられて、とてもじゃないけど冷静とは言えない。なるべく死なない程度に手加減はするつもりだが……こんな状況だ。勢い余ってってことも、あると思う。しょうがないよな。だから……やるんなら覚悟を決めてからにしろよ。これからの長い人生、腕一本足一本減らして生きていきたくはないだろ」

 

軽い口調で相手に重圧をかける。

 

その重圧に耐えかねたのか、それとも若造の脅しだと思ったのか、手下の一人が床に転がっていた鉄パイプを拾い、振り上げて、振り下ろした。

 

ばぎぃっ、と重々しく、痛々しい音が倉庫に響いた。

 

「……そうかよ。それがお前らの答えか。……わかったよ」

 

たしかに腕は振り下ろされたが、徹の頭蓋骨が砕かれることはなかった。

 

代わりに、鉄パイプを振り下ろした手下の肘が、本来ありえない方向へと折れ曲がっていた。鉄パイプで殴りつけられる前に、徹が手下の腕の骨を打ち砕いていた。

 

手下が自分の腕をへし折られたと自覚するよりも早く徹は懐に踏み込み、手下が激痛で叫ぶよりも先に徹は拳を打ち抜いた。

 

肉を打つ音、骨を砕く音。

 

手下はトラックにはねられるよりも早く勢いよく、吹き飛ぶ。倉庫の端にまで到達し、どごぉん、と和太鼓でも打ち鳴らしたような音を倉庫内に響かせた。

 

徹を取り囲む男の手下たちが誰ともなく呟いた。

 

『化け物』と。

 

半狂乱になった手下たちは口々に何かを叫びながら徹へ向かう。

 

アリサたちを(かどわ)かした段階で既に敵対してしまっているのだ。

 

ならば。

 

たとえ『化け物』相手でも討ち取らなければ生存できない。

 

悲鳴とも取れる雄叫びを上げて、手下たちは凶器を振り抜いた。

 

「俺は忠告したぞ。精々後悔しろよ」

 

手下の一人が大柄のハンマーを振りかぶる。横薙ぎに振るわれるそれを、徹は足で止め、真上へ蹴り上げる。手下の手から、ハンマーが投げ出された。

 

不安定に宙を舞ったハンマーは、手下の頭上でヘッドを下に向けて落下する。

 

手下は落ちてくるハンマーを見て、逃げようとして、動かなかった。動けなかった。

 

「そこで潰されるのを待ってろ」

 

手下は知るべくもない。徹が鮫島から教授された『不動』という技。今まさに顔面に落ちてくるハンマーを前に手下が一歩たりとも動けなかった理由は、それを受けていたからだ。

 

動作の始端を押さえ、相手の動きを封じる。

 

徹自身、鮫島から直々に受けたことがあるからよく知っている。不思議なことに痛みはほぼなく、ただ、関節や頭が燃えるように熱くなる。思考は定まらず、筋肉は硬直し、一時的に動けなくなる。

 

それがたとえ、頭上から重量のある金属製のハンマーが降ってきていても。

 

断末魔と、ぐちゃりという水っぽい音を背中で聞きながら、徹は次の相手に向かう。

 

振り向いた先には、メリケンサックを拳に装着した手下がいた。

 

「……ばっかだなあ」

 

その手下は格闘技の経験者なのか、存外綺麗なフォームから右ストレートを放った。

 

「右手、もう使えないかもな」

 

その右ストレートに、鏡のように徹も右ストレートを合わせる。拳同士がぶつかった。

 

ぐちゅ、と肉が潰れるような音と、ぱきっ、と小枝でも踏んだような軽い音。

 

常識なら、素手で殴りかかった徹の右手が潰れたと考えるだろう。

 

手下もそう思ってほくそ笑んでいた。その笑みが、徐々に凍りつく。顔から血の気が引いていく。そして、悲鳴をあげた。

 

金属製のメリケンサックはへしゃげて、手下の指を押し潰していた。指を引き抜こうにもメリケンサックは変形してしまって外すこともできない。肉に食い込み、骨を砕き、血液を垂れ流し続けていても、もうどうすることもできない。

 

「……うるっせえよ」

 

右手を抑えて大声で泣き叫ぶ手下の男の腹に、大砲のような前蹴りを撃ち込んだ。まともに被弾した手下は数メートルも地面を削った。

 

どこまで転がるか、相手がどうなったかすら徹は見届けず、次の獲物を狩りに行く。

 

徹を包囲していた人数が半分以下になるまで、三十秒とかからなかった。

 

数多くの仲間が血反吐を吐きながら瞬く間に床に沈みつつある中、手下の一人が懐からナイフを取り出し、離れたところに避難していたアリサに背後から近づいた。細い首筋にナイフを這わせた。

 

その手下はおそらく、アリサや、近くにいるなのは、すずかなど徹の庇護対象を人質に取り、脅しをかけようと画策していたのだろう。

 

「……なんでわざわざ、逆鱗に触れようとするんだお前らは」

 

だが実際には、ナイフを持っていた手下が脅しの文句を発する前に、言葉を喋れなくなっていた。

 

ほんの数瞬前まで徹がいた場所。その床が、地雷でも爆発させたかのように破片を撒き散らしていた。

 

囲まれていたところから瞬時に移動し、アリサを人質に取ろうとしていた手下の元まで踏み込んでいた。万が一にもアリサに傷をつけないようナイフの刃を左手で握り締め、右手一本で手下の首を掴んで持ち上げた。

 

「一番傷つけちゃいけないもんを傷つけようとしやがったな、お前。これは……その礼だ、ゆっくり味わってくれよ」

 

宣言通り、徹はじわじわと時間をかけて、首にかけた手の力を強めていく。

 

「せいぜい噛み締めてくれ。精一杯味わってくれ。こいつらが受けた……苦痛と恐怖を」

 

首を絞めて呼吸できなくさせるなどという安直なものではない。指先に力を加え、首の後ろの頚椎(けいつい)を圧迫していた。

 

手下が感じている苦痛と不快感は並大抵のものではない。それは手下の表情からも推測できたが、抵抗は一切していなかった。手下の右手はナイフで塞がっているにしろ、左手が空いているのに、左手で徹の手を振り解こうともしなかった。

 

できなかったのだ。 頚椎を締められ脊髄(せきずい)を圧迫されることで腕が痺れて、腕だけでなく首から下ほぼ全てが痺れて、動かなかった。

 

呼吸困難と激痛。そして、おそらくは初めて感じているだろう意識と感覚を伴ったまま全身が麻痺していくという恐怖。肉体よりも先に精神が死んでしまいそうなそれらから、逃れる術はない。

 

徹が手を離すか、手下が命を手放すか、そのくらいしか解放される手段はないが、徹は離すつもりは毛頭なく、すぐに殺すつもりは微塵もない。

 

前もって明言した通り、徹の目的はアリサたちに危害を及ぼす輩に苦痛と恐怖を(もたら)すことなのだから、死などという安っぽい『お礼』など、始めからするつもりはない。

 

「徹、徹っ……もう、いいから。殺しちゃ……だめ」

 

頚椎を、その中に走る脊髄を致命的に傷つける。その間際に、アリサは徹の服を小さく引っ張った。

 

「……アリサ」

 

「……お嬢様、でしょ?」

 

「ああ……あはは、そうだった。まだ、執事だったな……お嬢様」

 

「徹。殺しちゃ、だめ」

 

「でもこいつらはお嬢様たちを傷つけようとした」

 

「それでも、だめ。そんなどうだっていい奴らのために、徹が誰かを殺める必要なんてないわ」

 

「…………」

 

「だから、殺しちゃだめ。わかった?」

 

アリサが繰り返し徹に言い聞かせる。自分たちは大丈夫だから、人を殺めるな、と。

 

納得できないという表情を暗に示していた徹だったが、誰あろうアリサに言われてしまうと従うほかなかった。

 

手下から、徹は手を外した。べしゃりと床に倒れ込んだ手下を蹴り飛ばしてアリサたちから遠ざけた。

 

少し前まで自分を取り囲んでいた奴らに視線を移す。徹の『お礼』に怖気づいて立ち呆けている手下たちへ言い放つ。

 

「最後に、チャンスをやる。こいつらみたいになりたくなかったら、倉庫の端の方で固まってろ。お嬢様の命令だから死なせはしない。ただ、逃げようとしたら足の骨から順に砕いていく。死なないところから、順に全部、へし折っていく。もう一度言う。死なせは(・・・・)しない」

 

返り血も自分の血も浴びて、それでも口許に笑みを浮かべて、徹は平然と通達した。冗談のような文言だったが、狂気を隠しきれない徹の佇まいに、手下たちはついに戦意を喪失した。

 

目の前にいる、血と肉に飢えた獣よりも残忍で凶悪な、復讐に燃える化け物をどうにか刺激しないよう、手にしていた凶器を精一杯音を立てないように床に置く。肩も視線も反抗心すら床に落として、倉庫の中で徹から最も離れた位置に手下たちは集まった。手下たちは集まって、反撃の手を考えるでもなく、ましてや逃げる算段を立てるでもなく、ただ皆が皆、青白い顔で呼吸の音すら響かせないように俯いて身動ぎもしなかった。

 

目立つことをして化け物の標的になりたくない。

 

無傷で生き残った手下たちの共通した認識が、それだった。

 

歩ける手下のすべてが倉庫の端へ退避したが、徹の最終通達を受け入れなかった者が、一人だけいた。

 

「こ、このっ、腰抜けどもがぁッ!相手はずたぼろのガキ一人じゃねぇか!やる前から負け認めて逃げてんじゃねぇよ!」

 

徹が入ってきて早々に吹き飛ばされたリーダー格の男。この一人だけが、けたたましく吠えていた。

 

「ならまずはお前が動けよ。手下に指示出して自分は高みの見物は通らないだろ」

 

「こ、の……死に損ないのぼろ雑巾がぁッ!」

 

男は血走った目を見開き、血の滲む唾を吐き散らした。

 

全力で走ってくる男に対して、アリサたちから離れるために徹も歩いて距離を詰める。

 

勢いと体重を乗せた男の大振りな拳を最低限の動きで躱して、踏み込む。

 

「ふっ……」

 

身体を捻る。コンパクトに、シャープに、内臓を抉り取るような、身体を内側から破壊するような、ボディブロー。

 

「ぐぉっ、おぇっ……」

 

「『殺しちゃだめ』って、言われたんだ」

 

突き刺すような左のショートフックを男の右腹に二連打。

 

「ぐっ、あがぁっ……こ、のッ」

 

「だから……」

 

振り払うような裏拳をサイドステップで危なげなく回避し、反対側、男の左脇腹に右のフックを刺し込む。

 

濁った息と赤い泡を吐く男に、徹が囁く。

 

死刑宣告の方が、まだ救いのある、一言を。

 

「頼まれたって、殺してはやらねえぞ」

 

「ひぎっ……ぁがあぁッ!」

 

一瞬、苦痛に歪む男の顔に悲愴の色が差された。だが、すぐに徹に腕を振るう。

 

ただそれは、すでに徹を害する動作ではなかった。男の手のひらは開かれていて、徹を捕まえようとしていた。これ以上殴られるのが嫌だから動きを止めようという、防衛的、あるいは逃避的行動だった。

 

「こふぅぶっ……かっぁ」

 

「触んなよ、汚ねえな」

 

捕まえることすら、触れることすら、叶わない。

 

男の腕は、徹に向けて伸ばそうとしたところで動きを止めた。『不動』による動作の強制停止だった。

 

「なん、だ……こ」

 

「その気持ち悪い顔を、こっちに向けんじゃねえよ」

 

急に動けなくなり呆然となっていた男の身体。前に突き出るような前傾姿勢になっていた男の顎を、徹は真上に蹴り上げた。

 

「ぐぎぃっ」

 

がぎん、と不快な音がした。歯と歯が勢いよく打ち合ったのだ。男の歯がいくつか欠けるなり折れるなりしていても不思議ではない、むしろ当然と思えるような音だった。

 

頭を縦に揺らされたことで男の身体が崩れ落ちる。

 

「おい。こんなもんで終わらせないぞ」

 

苦痛に(かし)ぐ男の身体を(すく)い上げるように、地面を舐めるような右のローキック。あまりの威力に男の両足が床から離れ、巨体が浮いた。

 

「まだ、アリサたちが受けた苦痛の礼を返し始めたばかりなんだからな」

 

無論、それだけに留まらなかった。

 

男の両足を薙ぎ払った姿勢から床に両手をつけ、まるでカポエラのような動きで足を振るう。宙に浮いた男の胴体を下から持ち上げるように足で突き上げた。

 

「ごぼぉぇっ」

 

「安心しろよ。『殺し』はしないし『死なせ』もしない。痛みと苦しみだけだから」

 

浮かび上がった男の下へ、徹はするりと入り込む。

 

頭上に無様にもがいている男を、殴って、殴って、殴って、殴った。腕が霞むような速さで、打ち上げられた大男が落ちてこないほどの威力で的確に致命傷を避け、精密に命に支障のない部位だけを、殴って、殴って、殴って、殴った。

 

一頻(ひとしき)り嵐のような殴打を叩きつけると、不意に徹は男の真下から移動する。位置的には男のすぐ横に立ち、するりと足を真上に伸ばした。

 

思い出したかのように働き始めた重力に従い、男は受け身すら準備せずに落下する。男がちょうど徹の腰あたりまで高度を下げた、その時だった。研ぎ澄まされた日本刀で斬り伏せるかのごとく、徹は真上に伸ばした足を真下へと振り下ろした。振り下ろした途中には、男の腹があった。

 

「っはがぁぅっ?!」

 

どばんっ、とおよそ人の身体を使って出る音とは思えない音が発生した。

 

徹の踵落としで落下の勢いを増した男の背中が床に強かに打ち付けられた。その勢いたるや、床に落下した男の身体が五十センチ以上もバウンドしたほどだった。

 

数秒ぶりの地面に横たわった男は身体を小刻みに震わせ、赤黒い吐瀉物(としゃぶつ)をぶち撒けた。

 

「はっ、あはは。芋虫みたいだな」

 

「ごぷぁっ……げほっ、いぎぃっ……てめぇッ、絶てぇッ……」

 

「はっは、芋虫がいっちょまえに人様を睨みつけてんじゃねえよ」

 

「ごぶぁっ!」

 

転がったまま睨みつけ、何か言おうとしていた男に徹は蹴り抜いた。

 

五メートルほど転がって、立方体の金属製の箱、コンテナと思しき箱にぶつかって座り込むような形で止まった。 そこでもやはり、血反吐を吐いていた。

 

「ごぼぉぇっ……クソ、クソガキがぁッ!絶テェ殺してやるッ!」

 

「……はあ。お前みたいな奴はなにがあっても反省しないんだろうな。なにを言ったって説得なんてできないんだろうな」

 

「はっ。反省?説得?するわけねぇだろできるわけねぇだろぉが、ぼけ!げほっ、ごぼっ……ぶは」

 

「やっぱり、あん時に消しておくべきだったんだ。そのせいでアリサも、すずかも、なのはも、負わなくていい傷を心に負って、受ける必要のなかった恐怖をその身に受けた。きっと、お前はいつまでもずっとそうやって付きまとうんだろうな。生きている限り、ずっと」

 

「ああそうだなぁ!ここを生き延びさえすりゃどうにだってできる!てめぇは俺を殺せねぇんだろ!なら、こっちはどうにだってできんだよ!おぶぇえっ、げほ、ごぶぉっ!は、がは、かははっ!次は、もっとうまくやってやるさ!」

 

エンドルフィンが出て痛みを感じていないのか、血に濡れていないところのほうが少ないというのに、あくまで男は不遜にして傲慢な態度で悪びれることもなく宣言した。どこまでもアリサを付け狙うと。

 

血の塊を口から吐き出しながら笑う男に、徹は侮蔑と諦念の視線を向けた。

 

「ならもう、仕方ないよな。いや、遅過ぎたくらいなんだ。ひと月前にお前を殴り飛ばした時に、こうするべきだった」

 

拳を固く握り締め、徹はゆっくり男に歩み寄る。

 

「お、おいおい、話が違うじゃねぇか」

 

『殺しはしない』

 

言っていたことと違う振る舞いをし始めた徹に、男は焦り、戸惑うようなそぶりをした。

 

しかし、どこか緊迫感が欠けていた。余裕があった。

 

「俺が常にそばについていられるわけじゃない。いつでもどこからでもアリサを狙うってんなら、今、ここで、リスクを排除する。安心してくれよ、お前みたいなゴミを処分したところで俺の心はまったく痛まないから。そこ動くなよ。こっちは忙しいんだ、手っ取り早くすませたい」

 

「……そうかよ。それなら仕方ねぇな」

 

一歩、また一歩と距離を詰める徹に対して、今や徹よりもずたぼろに成り果てた男は、しかし冷静だった。

 

冷静に、高慢に、笑った。

 

「それなら……俺も自分の身を守らなきゃ仕方ねぇよなぁッ!?」

 

男は赤黒く変色した歯を見せるように口を大きく開き、懐に手を入れた。その手には、黒く、重苦しく、鈍い光りを放つ物体。

 

人を容易に殺傷しうる凶器を。拳銃を、抜いた。

 

「てめぇを殺した後はあのガキどもをッ「動くなっつったろが」

 

銃口が向けられるより早く、引き金に指がかかるより先に、徹は男に接近し、拳銃が握られている手を蹴り飛ばした。かきゅ、と実に軽妙な音が鳴った。

 

「ひん剥いて……は?なん……あ、あぁぁあッ!?」

 

男の手は、銃を握ったままだった。ただ、肘がありえない角度と方向に曲がっていた。

 

「俺が気づいてないとでも思ったのか。あれだけお前をサンドバッグにして、懐に拳銃を隠し持ってることがわからないとでも思ったのか」

 

「ああぁぁッ?!俺の腕ッ、腕がッおえぇっ」

 

「撃たせるわけないだろ。お前の拳銃の腕なんか、たかが知れる。流れ弾でアリサたちにあたったらどうしてくれるんだ。危ないだろが」

 

「あがぁっ、がああぁぁッ!」

 

徹は男を見下しながら言うが、男の耳にはすでに届いていない。簡単に腕を潰され、切り札だった拳銃すら一発も撃てずに無力化され、錯乱状態に近かった。

 

「うるっさいなお前……いい加減黙れよ」

 

泣き喚いて叫びのたうつ男を前に、徹は拳を振りかぶる。

 

狙いは男の顔面。どれだけ暴れていても、まず外すようなへまはしない。

 

ぎゅうと拳を固く握り、振り抜く。

 

その寸前のことだった。

 

「徹っ!やめなさい!」

 

アリサの声が甲高く響いた。

 

だが、徹は拳を止めなかった。

 

がじゅ、と奇妙な音を立てて、男の背後にあった立方体の金属製の箱まで拳は貫いた。

 

「ひぎゅ……ひ、は……」

 

涙と鼻水と血と(よだれ)で顔面をずるずるにしている男は、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開いて、掠れた息をして、(しゃが)れた声をしていたが、まだ生きていた。見る者によっては死人と間違えるかもしれない無残な有様だが、一応生きていた。

 

「……っ、ふう。っ……はあっ」

 

徹の拳は、男の顔面のすぐ横を通り、男の顔の横にくっついていた小型のカメラを貫き、男の背後にあった金属の板を打ち抜いていた。

 

身体の内側で猛り燃える激しい感情をどうにか鎮めるように大きく深呼吸して、徹は男に告げる。

 

「……二度と顔を見せるな。次お前を見かけたら……アリサやすずかやなのは、俺の大事なもんの近くに姿を現したら……その時は両腕両足へし折って、腹を裂いて生きたまま内臓を引き摺り出してやる。その後に、全身の骨を丁寧にひとつずつ折っていく。死なないように注意してゆっくり殺してやる。容赦はしない。警告もしない。視界に入るだけで血管がぶち切れそうになるほど癪に障るお前の汚ねえ顔面を見つけた瞬間、手を下す。誰にもばれないように、誰にも見つけられないように、誰にも知られずに」

 

お前を消す。

 

一刀で首を落とすように、徹は言の葉で斬り伏せた。

 

「ぁ、あ……化け、物……」

 

不明瞭な発声で、男は呟いた。

 

トラックで轢かれたはずなのに未だ生きていて、事故現場から離れたこの港近くの倉庫まで単独で追ってきて、倉庫の内外にいたはずの数多くの手下を容易く屠り、拳銃にも怯まずに近寄ってくる。

 

そういった常軌を逸した行動も『化け物』と呼ぶに相応しいのだろうが、何よりもわかりやすいインパクトがあった。

 

常人とはかけ離れた『力』こそが、まさしく『化け物』じみていた。

 

男が顔に装着していた小型のカメラを徹に打ち抜かれた際、反動や衝撃で男の首の骨が折れていてもおかしくはなかったが、一切怪我はしていなかった。

 

破壊されたカメラの断面は、まるで発泡スチロールを熱で溶かしたように滑らかに抉られていた。そしてそのまま、背後にあった金属の板すらも貫いている。衝撃すら感じさせないほどの一撃だった。

 

トリックや誤魔化しが介在しない、ただただ純粋な『力』。

 

理解の外にある『力』を前に、矮小たる人間は平伏するほかない。

 

戦意など、敵意など、保てるはずがなかった。

 

がしゃん、と音を鳴らして拳銃が床に落ちる。

 

「『化け物』……っ、なんで……っ」

 

虚ろな瞳で力なく、男は呟いた。

 




がんばって暗い話を書いたかいがあるってもんです。悪巧みしてた奴らを滅多打ちにするという快感。

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