そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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アリサの心

リーダー格の男が、足を引きずりながら、肘から先をぷらんぷらん揺らしながら、戦意喪失した手下たちが集まっている倉庫の隅っこまで歩いていくのを見届ける。よしんば何もできはしないと思うが、念のためだ。

 

「……はあ。……あーあ、せっかくもらったっていうのに……」

 

深呼吸を一つついて、ぼやく。せっかく頂いたお高いスーツが血や砂や埃で汚れてしまった。

 

陰鬱な気持ちと誘拐犯たちへの怒りを溜息に込めて吐き出す。

 

誘拐犯たちを無力化する際、頭に血が上ってしまった。まだ顔が強張っていそうで多少不安だけど、それ以上に不安であるはずの女の子たちがいる。

 

アリサ、すずか、なのはのもとへ駆け寄る。

 

「三人とも、怪我はないか?どこか痛いとことか……」

 

皺ができるほどジャケットをかき抱いているアリサが一番心配だが、まだ話ができる状態ではなさそうだ。

 

どうなっているのか説明してもらおうと、すずかとなのはに視線を向ける。まっさきに、なのはが口を開いた。

 

「アリサちゃんがかばってくれたから、あたしたちはなんともないの。でも、アリサちゃんが……」

 

目を伏せがちのなのはに、すずかが言い淀みながら引き継いだ。

 

「さっきの大きい男の人に……その、服を……破かれて」

 

言いづらそうにしながらも、二人は教えてくれた。倉庫まで駆けつけた時は近くにいる大男を排除しなければと必死になっていてそこまで頭が回らなかったが、あの男が頭にバンドで小型カメラをつけていたのはそのためか。

 

そうか、なるほど。

 

「三人とも。ちょっと目を閉じて、耳を塞いでいてくれるか?」

 

「え……と、徹お兄ちゃん、どこ行くの?」

 

「ははっ、なんてことはねえよ。ただあいつの四肢を()いでくるだけだ」

 

「っ!だ、だめっ!」

 

すっくと立ち上がり、(きびす)を返して倉庫の端っこへと足を向けた俺を、アリサが制した。

 

久し振りに聞いた気がするちゃんとしたアリサの声に、振り向く。渡したジャケットは未だに強く握りしめているが、とりあえず顔を見せてくれただけでもありがたい。

 

ありがたいけれど、それとは別に、あの男を血祭りにあげたい。あげなければ。

 

「あいつは……」

 

「……言ったじゃない。殺しちゃだめって。さっきも約束破ろうとしてたでしょ」

 

「でもな……」

 

「もういいのよ。徹が懲らしめてくれたから、もういいの」

 

泣き腫らした赤い瞳で、潤んだ声で、しかしアリサは気丈にそう言った。

 

「…………」

 

俺個人の感情としては複雑だが、アリサが『もういい』と許すのなら、これ以上は手は出せない。個人で裁くだけの大義はない。後の償いは法に任せ、俺個人の怒りは呑み込むこととしよう。

 

それよりも、俺には言わなければいけないことがあった。

 

「徹、あのっ……」

 

「……俺、言わなきゃいけないことが……あ」

 

こんなタイミングで被ってしまった。

 

「……なに?言わなきゃいけないことって……」

 

ぴくっ、と肩を跳ねさせたアリサが、どこか不安げに俺を見た。

 

「いや、アリ……お嬢様からどうぞ?」

 

「っ……いいから、先に言って」

 

必死さが垣間見えるその瞳は、さっきよりも心なし水気が増している。唇を噛み締めるようにして、目元に涙を蓄えていた。そんな状況の女の子を相手に、()を通す根性などない。緊張しつつ、切り出す。

 

「えっと、まずは……助けにくるのが遅れてごめん。そのせいで三人には余計に怖い思いをさせた。本当なら連れ去られることこそ阻止しないといけなかったのに」

 

路地裏で俺は一度、気を失った。

 

かなり切羽詰まった状況だったが、使い慣れた魔法なら使えるタイミングだった。

 

しかし、トラックに突っ込まれて無傷はさすがにまずいんじゃないかなどと保身が脳裏をよぎった。魔法の使用を躊躇(ためら)ってしまった。

 

俺は、優先順位を間違えていたのだ。

 

無傷で済んだら不審がられるんじゃないかだとか、こちらの世界で魔法を使えば責められるかもしれないだとか。

 

何よりも優先すべきはアリサたちの身の安全だったのに、他の些細なことに気を取られてしまった。

 

その結果、魔法の保護なしに正面から衝突され、気を失った。

 

前日に鮫島さんから衝撃を受け流す『風柳』を教えてもらっていなければ助けにくることすらできなかったかもしれない。

 

意識が途切れたせいで時間の感覚は曖昧になってしまっていたが、おそらく一分も気絶していなかっただろう。頭に響くなのはからの念話で目を覚ました。

 

そこからは逐次念話で送られてくるなのはからの情報と、付近一帯にばら撒いたサーチャーで場所を把握したが、人に見られないように建物の屋上を飛び回って移動していたせいで時間がかかってしまった。

 

もっと早く助けに行く方法はあっただろうし、そもそもトラックに適切な対処ができていれば問題にすらならなかった。俺がうまく立ち回っていれば、難しくはあっても不可能ではなかったはずだ。

 

「すぐ(そば)にいたのに、守れなかった」

 

ごめんな、と続けようとして、続けられなかった。アリサが俺の口に手をあてて、言わせてくれなかった。

 

「……な、んで?」

 

精いっぱいの力で絞り出したことがわかる掠れた声で、アリサが言った。

 

言い訳も誤魔化しもできない。

 

アリサの小さな手を優しく掴み、口元から動かして正直に話す。

 

「……油断してた。気が緩んでたんだ。一緒に出かけて、お喋りしながら買い物するのが楽しくて……警戒が届いてなかった。はは……どうやら俺は、荒事には向いてても執事には向いてなかったみたいだ」

 

最初はどうあれ結果的に鮫島さんの代役として、俺を抜擢(ばってき)してくれた。その上、制服としてスーツまでオーダーメイドで仕立ててくれた。それだけ期待してくれていて、信頼してくれていた。

 

だが、蓋を開ければこのざまだ。

 

俺は期待と信頼の(ことごと)くを裏切った。責められても、返す言葉はない。反論の余地などありはしない。

 

「っ……う、でしょ……っ」

 

「え?」

 

囁くような小さな声に聞き返すと、アリサは大きな瞳を()いて、俺を睨みつけた。

 

「ちがうでしょぉっ、ばかぁっ!」

 

ぽろぽろと、大粒の涙を流しながら。

 

「な、え、ちょっ……」

 

アリサは唐突に声を張り上げ、俺の襟元を掴んだ。

 

「なんでっ……怒らないの!恨まないの?!わたしのせいで徹は大怪我したのにっ!?わたしのせいでっ……みんな、っ、巻き込んでっ……」

 

「は?な、なんの話してるんだ?」

 

「わたしのせいなんだから、わたしを責めなさいよ!なんで自分を責めてるの!なんでっ、なんでっ……ぐすっ、わたしたちを命がけで助けてくれた徹が……あや、まるの……っ」

 

服を掴んで涙を(あふ)れさせながら、アリサは懸命に気持ちを伝えようとしてくれていた。しゃくり上げながらも嗚咽を殺して、必死に。

 

「……そっか。心配させちゃってたんだな……」

 

「当たり前でしょっ?!徹が死んじゃうって……頭の中、ぐるぐるして……っ」

 

「約束、したからな」

 

初めて出会った日。一週間前に俺の家に泊まりにきた日。

 

その時に交わした、約束だ。

 

「ぐしゅっ……約、束?」

 

「『お姫様(アリサ)が困った時には助けに行く』……ほら、ちゃんと助けにきたぞ。ちょっと遅れちまったが」

 

笑いながら、そのセリフを暗唱したことでアリサも思い出したようだ。ピンク色の唇をぽかんと開き、涙に濡れて光る大きくて綺麗な瞳はまん丸になっていた。

 

「お嬢様が困った時、危ない時にはちゃんと迎えにくる。アリサを助ける前にくたばったりしないって。だから、安心してくれ」

 

「あんな、口約束で……冗談みたいな、約束を……」

 

「憶えてるし、守るよ」

 

「ぅ、ぁっ……うぇ、ひっく……っ」

 

一度は治まりかけたアリサの涙が、再び勢いを増してしまった。

 

長い睫毛(まつげ)を濡らして、柔らかそうな頬を伝い、シャープな顎から(したた)る。

 

次から次へとこぼれ落ちる涙を拭う。と、ついでに勢いよく俺の胸ぐらを掴んだせいで落ちかけたジャケットを羽織らせ直す。

 

詳細は知らないが、俺がこの倉庫に突入した時、アリサはあの男に組み敷かれていた。すずかやなのはが教えてくれたところによると、その時に服を破り捨てられてしまったらしい。

 

羽織らせる際に、ジャケットの内側が少し見えてしまった。アリサの格好は、下はともかく、上はほぼ下着姿に近かった。

 

つまり、肌の露出面積が増えていたせいであって、決してわざとではない、ということを言いたかったのだが、ジャケットを肩にかけ直そうとして、俺の手がアリサの肌に触れた。

 

「ぴゃっ」

 

明らかに、俺の手が触れたことが原因で、アリサが悲鳴をあげた。

 

「…………」

 

決して、誓って、わざとではないし、この機に乗じて悪戯を働こうと思ったわけでもない。手が触れたことは、本当に偶然だ。

 

本当に偶然ではあったが、もしかしたら大男に組み敷かれたことがトラウマになって、男という生き物全体に対して恐怖や嫌悪といった感情を抱いていたとしても、まったく不思議なことではない。

 

俺はあの下衆野郎みたいな乱暴な男じゃないよと言外に示すように、可能な限り柔和な笑みを浮かべる。

 

これでアリサに怯えられるようになったら死にたくなるなあとか考えながら、おそるおそるアリサの顔色を窺う。

 

「っ!?」

 

恥ずかしがっている、のだと思う。

 

腕の中にいるアリサは、顔はもちろんのこと耳まで真っ赤に染め上げていた。明らかにいつものアリサとは様子が違う。

 

いつもならこの距離感でも顔色一つ、どころか態度も声のトーンすら変わったりしない。呼吸を整えるのに苦労するほど顔を真っ赤にして羞恥心を見せることなど、今までなかった。

 

男性恐怖症的なそれかと脳裏をよぎったが、そういった拒否反応ではないようだ。拒絶という雰囲気ではない。

 

今のアリサは、恥ずかしそうに照れているといった印象だった。それこそまるで、恋に恋する可憐で純情な乙女のように。

 

こういった女の子っぽいリアクションは知る限り、俺の前では見せてこなかった部分だ。新鮮に感じるとともに、不謹慎ではあるが胸を少々ときめかせるものがある。

 

「と、徹……ちょっと」

 

「どうした、お嬢様。大丈夫か?」

 

「だっ、だいじょうぶ、だから……ちょっと離れて」

 

「…………」

 

ちょっと傷ついた。

 

「っ……はっ、ふぅ。はぁ」

 

俺の話を先にしてしまったが、そういえばアリサも話があるようなことを言っていた。傷心している場合ではなかった。

 

ジャケットを羽織って深呼吸するアリサに切り出す。

 

「お嬢様も話があるみたいだったけど、その話は?」

 

「わ、わたしの話は……もう終わったわ。えっと……助けてくれてありがとう、巻き込んでごめんなさいっていう……そういうこと」

 

「助けるのは当然だし、巻き込んだっていうのは見当違いだから謝る必要ないけどな。お嬢様の話が終わってたんなら、俺からもう一つ……言っておかないといけないことがあるんだ」

 

「いっ、言っておかないといけないこと?……っ、な、なに?」

 

アリサはどこか期待するような声音で、ちらちらと上目遣い気味に俺を見た。

 

何を想像しているのか知らないが、確実にアリサの期待を裏切る話になってしまう。いい話ではないのだ。どちらかと言えば悪い話で、もっと詳しく言えば、とっても悪い話なのだ。

 

下手をすれば、俺の人生が詰むくらいの、深刻な話。

 

「……せっかく作ってもらったスーツ、ぼろぼろにしちゃったんだ……ごめん」

 

「……そんなこと?」

 

「そんなこととはなんだ!」

 

あっさりと切って捨てたアリサちゃんに俺は憤慨した。

 

オーダーメイドの高級スーツを、たった二日でぼろぼろずたずたの血まみれ砂まみれにしてしまったのだ。どれだけ怒られるだろうと俺は戦々恐々だったというのに。もし弁償しろと言われたら、高校中退してバニングスさんの会社で汗水垂らして働かなければならないと本気で悩んだほどだ。

 

「それこそ徹のせいじゃないわよ。謝ることない」

 

「で、でも、これ高くないわけないだろ?」

 

「それなりの品って程度だから、気にしなくていいの。安心して、また用意してあげるわ」

 

「いや……それはそれで申し訳なさが二倍三倍になるんだけど……」

 

「ただ次のは安物になると思うけど、いい?」

 

「安物だろうがなんだろうがプレゼントは嬉しいよ。……いや、やっぱり申し訳ない気もするけど……」

 

「あの……あのね、徹。わたし、一応自分の銀行口座持ってるの」

 

「……ん?いきなりなんの話?」

 

「でもわたし、あんまり使うことってなくて、自分のお金を使う時ってだいたいゲームくらいなのよ」

 

「へえ、そうなんだ。ん?あれは?服とか、あとヴァイオリンとか」

 

「買いに行く時は車で行くから、結局親のカードで払ってて自分のお金は貯まる一方なのよね」

 

「いいところのお嬢様ゆえの苦悩だな」

 

今ひとつ話の先が見えないが、考えてみればそうだ。大きな買い物に行く時は基本的に鮫島さんがついているだろうし、学校の帰りに寄り道して遊ぶ、ということも習い事の多いアリサには難しい。あのお父様(バニングスさん)なら、お小遣いもたくさん渡していそうだが、当のアリサは使う暇とタイミングがないということか。

 

お金はあるけど使う機会がないって、まるでワーカーホリックのような状態である。アリサの歳からそれって、少なからず危機感を覚える。

 

「だから……だからね。ありがとうの気持ちを込めて、次はわたしのお金だけで、徹に贈るから」

 

「えっ……いや、それは……っ」

 

アリサを制止する前に。俺が固辞する前に。

 

アリサは頬を染めながら、とびっきりの輝かんばかりの笑顔を俺に見せてくれた。

 

「だから、また今度……い、一緒に見に行くわよっ」

 

この笑顔を目の前にして拒否できるほど、俺の心は強くなかった。

 

 

 

 

 

 

アリサ、すずか、なのはが誘拐された事件は、ニュース等には一切取り上げられなかった。取り上げられていたのは『大型トラックがアクセルとブレーキの踏み間違いでビルに突っ込んだ』という事故ともう一つ。よくわからない事件(・・・・・・・・・)の二つくらいなものだ。コメンテーターが首を傾げていた映像が印象に残っている。

 

「……もう、暗くなってんな……」

 

窓の外を見れば、とっぷりと日が沈んでいた。

 

少し寝てしまっていたようだ。部屋の電灯をつけていないので、光を放っているのは寝る前につけていた無声のテレビだけである。

 

「くぅっ、はあ……腹減ったな」

 

ソファから立ち上がり、伸びをする。ぱきぱきと鳴る背中をさすりながらテレビを消し、ゆっくりと扉を開いて静かに部屋を出た。目指すは厨房だ。

 

倉庫跡でひと暴れしてから、すでに数時間が経過している。昼食は摂っていたが、そこから予想外の運動量と失血により、エネルギーを消費しすぎた。

 

日付も変わりそうなこんな時間ではバニングス邸の料理人、北山さんもすでに帰られているだろう。何かしら食材はあるはずなので、自分で作ることとしよう。

 

「すずかやなのはは大丈夫かな。トラウマとかになってなきゃいいけど……」

 

誘拐犯どもを叩きのめしたあと、倉庫跡でしばらく待っていると、迎えの車がきてくれた。運転手は鮫島さんではなくノエルさんだったことから、三人が誘拐されたという情報は至極当然に月村家まで渡っていたようだ。あの様子ならば高町家にも連絡が回っているだろう。心配性ななのはの兄には、学校で話をすればいい。

 

普段からあまり感情が外に表れないノエルさんのアリサたち三人を心配する顔と、俺を見た時の血相の変え具合は、場違いながら良いもの見れたなあ、と感慨深かった。

 

今頃は、すずかもなのはも、アリサと同様精神的肉体的疲労から眠っていることだろう。

 

二人とも、俺がいる間は割といつも通りというか平気そうには見えたが、それらは気を張っていただけで実際はとても傷ついているのかもしれない。後になって恐怖がぶり返すというのはよく聞く話だ。親しい人に話を通して、しばらくは寄り添ってもらうよう伝えておくべきだろう。

 

「ま、それで言うなら一番ショックを受けてるのはアリサ、か……。シャワー浴びるくらいの余力はあったみたいなんだけどな……」

 

すぐに休むべきだと一応進言はしたのだが、砂にまみれた身体でベッドに入りたくなかったのか、アリサはシャワーを所望した。正直なところ、俺も砂やら土やら血やらが身体に張り付いているので、シャワーは浴びたかったのだ。

 

シャワーを浴びて綺麗になったアリサは、やはり疲労が溜まっていたのか浴場から上がったところで電池切れになっていた。脱衣所にバスローブが用意されてあったので、なるべくアリサの湯上がり姿を直視しないように努力した結果半ば巻きつけるようにバスローブに着替えさせ、彼女のベッドへ運んだ。

 

俺もシャワーを浴びて、アリサの部屋のソファでニュースを確認している時に寝落ちして、今に至る。

 

いかに誘拐された直後でシャワーを浴びる余裕があったとしても、それは強がりの可能性もある。アリサが強がらずに済むような人が、もしくは本音を晒け出せるような人が、しばらくの間、少なくとも今日一日くらいは寄り添ってあげるべきだろう。父親や母親が、本来なら寄り添ってあげるべきなのだろうけれど。

 

「……はあ。俺が考えても仕方ないよな」

 

それができないからこそ、今のアリサの精神が醸成されたのだ。親に頼らない、甘えないという、子どもらしからぬ精神が。

 

俺には手出しのできない領域の話だ。頭を回したところで解決の糸口は見えない。

 

そうこうしているうちに、厨房へ到着。

 

「勝手に食材使って怒られないかな……ま、あとで謝っとこ」

 

明らかに家庭用ではない。どころか業務用よりも一回り大きな冷蔵庫を開いて、使えそうな食材を見繕う。

 

「…………」

 

作るのは自分の分だけなので適当なメニューを思い浮かべながら、違うことを考える。否、反省する。

 

よく研がれた包丁を握って、野菜を切る。

 

今回は本当に危ないところだった。トラックに激突され気を失っていた時間がもう少し長ければ、間に合わなくなるところだった。なのはがいなければ、誘拐された場所もすぐに見つけられなかった。そもそも、アリサをつけ狙う存在を知っていたというのに、買い物に浮かれて警戒を弱めるという失態もあった。

 

記憶を掘り返しながら、あの場面でこうしていれば、あの状況でこういう手を打っていれば、と後悔しながら手を動かしていると、いつのまにか料理が完成していた。

 

さっそく一口食べてみる。

 

「……味気ない」

 

食材がいいのでまずくはないが、ネガティブな考え事をしながら作ったせいか、それとも一人で食べているせいか、おいしくない。

 

それでもお腹は空いているので、腹を満たすためだけに口に放り込んでいく。

 

皿に乗った料理がだいたい半分ほどなくなった頃、厨房の扉が開いた。

 

「いい匂いがすると思えば……ここにいましたか」

 

「あ、鮫島さん。戻ってきてたんだ」

 

疲れた様子の鮫島さんが、苦笑いで立っていた。

 

その後ろから、もう一つ人影が現れる。

 

「……やあ、逢坂くん」

 

「あ、バニングスさんも」

 

アリサのお父様、バニングスさんが顔に影を作りながら鮫島さんの隣に並んだ。

 

「…………」

 

「えっと……娘さんは無事ですよ?今はぐっすり眠ってます。大きな怪我もありませんし……心のほうはまだなんとも言えませんけど」

 

「そういうことではないんだ。……いや、それも含めて、ということもあるだろうが。君には謝りたくてね……」

 

「謝る、というのは……」

 

目を伏せながら喋るバニングスさんの話は、いまいち要領を得ない。

 

助けを求めるように鮫島さんに視線を送る。

 

「私から説明いたします。少々長くなりますので、場所を移しましょうか。立ちながら話すことでもありませんから」

 

厨房から食事をするホールのほうへと移動し、席に着く。すぐに鮫島さんがお茶も用意してくれた。

 

憔悴(しょうすい)しているバニングスさんは気がかりだったが、下手に口を(さしはさ)むこともできないのであえて触れずに鮫島さんの話に耳を傾けた。

 

どうやら俺がソファで眠りこけている間に誘拐犯たちの事情聴取を済ませていたらしい。あらかたの顛末が、明らかになっていた。

 

明らかにされた情報は、俺の中ではだいたい二種類に大別できた。想像通りだった部分と、想像以上だった部分の二種類だ。

 

「バニングスさんの会社に『(フウ)』っていう犯罪者組織の構成員が潜り込んでいた。……それは予想してたけど、まさか世界規模の犯罪組織とはね……」

 

「…………」

 

ひと月前の誘拐未遂といい、一週間前のストーカー疑惑といい、今回の未成年者略取と傷害事件といい、あまりにもアリサの行動を把握しすぎていると思っていた。

 

加えて、ボディガード役を兼ねている鮫島さんをアリサから引き離した原因である会社での重要案件における人為的ミス。

 

アリサに関連する個人情報の流出も、重要案件の人為的ミスも、バニングスさんの会社に潜入していた構成員が故意に行なっていた。

 

構成員から流れてきた情報を利用してリーダー格の男がアリサを誘拐し、アリサの身柄を手札にしてバニングスさんを脅迫。同時に会社で不祥事を引き起こし、それを理由にバニングスさんを含めた現在の経営陣を退任させ、潜入していた構成員が会社の牛耳を()ろうと画策していたようだ。

 

バニングスさんの会社は日本はもちろん、世界各国に支社がある。そんな大会社の資金力、ネットワークを利用して『(フウ)』という組織は規模を拡大させる計画だったらしい。

 

「でも、本当によかったよ。防ぐことができて。しかも芋蔓式(いもづるしき)にバニングスさんの会社に潜伏していた構成員を引っ張れたんでしょ?」

 

「ええ。今回の騒動の構成員を率いていた大男が驚くほどあっさりと吐いてくれましたので」

 

まこと恐ろしい話だが、今回その計画を挫き、リーダー格の男以下構成員数十名を(満身創痍の死に体ながら)捕らえることができた。そいつらは全員が全員、何かに怯えるように、実に軽快に口を割ったらしい。

 

特に、俺が殺める寸前までいったリーダー格の大男。あいつは日本国内にいる『(フウ)』の構成員の中でも上のほうだったらしく、会社に潜伏している構成員の情報まで吐いたのだという。

 

何が彼らをそこまで怯えさせているのかは取り調べでもわからなかったらしいが、ともかくそのおかげでバニングスさんの会社に浸潤している『(フウ)』のメンバーの人数・部署・名前・役割までご丁寧に判明したわけである。

 

おかげで獅子(バニングスさん)身中(会社)に入り込んでいた(構成員)を綺麗に取り除くことはできた。できたのだが、それは同時にいくつか問題も露見させていた。

 

「もとを辿れば、ちゃんとした調査もせずに構成員を雇い入れてしまった僕の責任だ。……すまない」

 

その一つがこれである。

 

そもそも、バニングスさんの会社に構成員が入り込んでいなければ、これまでの誘拐計画は立ち上がらなかっただろう。アリサの情報が漏洩することもなかっただろうし、社内で問題を引き起こすこともできないのだからボディガード役の鮫島さんを引き剥がすことも、そこからバニングスさんを退任させ会社を乗っ取ることもできない。

 

この一件が発生してしまった根因は、会社に侵入させてしまったことだ。

 

だとしても、それを強く非難することはできない。

 

なぜなら。

 

「徹くん。これは言い訳にしかなりませんが……大きな会社では社員の一人一人にまでは目が届きませんし、出自などの身元調査も万全とはいかないのです」

 

つまり、こういうことだ。

 

世界に広げれば何万人、日本国内だけでも何千人いるかわからない社員を個別に深く詳しく調べるなんて不可能だ。『(フウ)』の構成員だって少なからず調べられるだろうという前提で採用試験に臨んでいるのだから、隠蔽や改竄などの裏工作はするはずだ。あまりにも現実的ではない。

 

「……はあ。バニングスさん、謝るのなら俺じゃなく、娘さんと、すずかやなのはにどうぞ」

 

いっそのこと、今回の一件で浄化できたと開き直って、これからどうやって持ち直していくかを考えてたほうが生産的だ。

 

「しかし、僕の管理が甘かったばかりに、逢坂くんが大怪我を……」

 

「トラックにぶつかっただけです。それほど大事(おおごと)ではありません」

 

「……取り調べの中で、大型トラックと正面衝突した上、ビルに挟まれたと聞きましたが?例の大男が『こんな街にも化け物がいた』と震えながら茫然自失に喋っていました」

 

「鮫島さんに教えてもらった『風柳』で受け身取ったから大怪我はしてないよ。さすがに血は出たけど」

 

「受け身で大型トラックの衝突を軽減できるのか……武道に精通している人がやると違うのだな」

 

「旦那様、徹くんが特殊なだけですので鵜呑みにしてはいけません」

 

完璧に無傷だとあらぬ疑いをかけられそうなので、大きな傷口は治癒魔法で塞ぎ、比較的軽いものは放置した。おかげでシャワーを浴びた時はちくちくと痛かった。

 

あまり怪我の程度について突かれるとぼろが出そうなので、質問で話題のレールをずらす。

 

「それより、また鮫島さんが後始末してくれたんだよね?ありがとう。ちょっとやり過ぎちゃったみたいだから不安だったんだ」

 

「そちらは(つつが)なく。月村様も力を貸してくださり、結果として反社会的勢力の抗争、という構図で処理致しました」

 

ニュースで取り上げられていた反社会的勢力の抗争(よくわからない事件)は、やはり鮫島さんが手を回してくれていたようだ。

 

「やっぱり忍のとこも手伝ってくれてたんだ」

 

ノエルさんが迎えにきてくれていたことから情報は共有されているのだろうと思っていたが、メディアへの対処も協力してくれていたとは。また今度、お礼を言わなければ。

 

「まあそれなら一件落着、大団円だね。よかったよかっ……」

 

「まだ逢坂くんへのお礼が残っているよ」

 

「…………」

 

うやむやにして誤魔化してしまおうと思ったが、先回りされてしまった。

 

そもそも、と前置きをして、バニングスさんはテーブルに手をついた。前のめりになりながら俺に話してくる。

 

「僕は、愛する娘と、愛する娘の大切な友人を助けてくれたことへのお礼をするために帰ってきたんだ。アリサと一緒に逢坂くんも帰ってきているはずなのに、どこを探してもいない。帰ってしまったのかと諦めて、食事をとり損ねていたから鮫島に何か軽食でも作ってもらおうかとキッチンへ向かえば、廊下にいい匂いが漂っている。北山がまだいたのかと思って扉を開けば、なぜかここに逢坂くんがいた。正直とても驚いた……驚いたよ!」

 

俺はその大きな声に驚きましたよ。

 

「あー……すいません」

 

「大型トラックに激突されて生きていたことにも、病院に行っていないことにも、部屋で休んでいないことにも、君には驚かされっぱなしだ」

 

「怪我が軽かったんで……でもお腹空いてたし血も流したし、なにか軽く作らせてもらおうかなー、と」

 

「なにも自分で作らなくともいいだろうに。北山なら、呼べばすぐ来て作ってくれるさ」

 

「いやさすがに悪いですって。それに誰かに頼むより、自分で作るほうが慣れてるんで」

 

「そういえば逢坂くんは自炊してるんだったね。……おいしそうだね」

 

「旦那様」

 

「いや、違うぞ鮫島。別に僕は逢坂くんのご飯を奪う気などさらさらない。……ただ、おいしそうだな、と」

 

まだ半分くらい残っている俺が作った料理を、バニングスさんが物欲しげに眺めていた。

 

話に出てきていたが、厨房にきたのはお腹が空いていたかららしい。会社でのごたごたに奔走して、食事を摂る暇もないほど忙殺されていたのだろう。

 

それならば、と申し出る。

 

「軽いのでよかったら作りましょうか?準備もしてないので、簡単なものになっちゃいますけど」

 

「いいのかい?」

 

「しかし、徹くんもお疲れでは……」

 

「ついさっきまで寝てたから体力は戻ってるよ。それに、鮫島さんにご飯作るっていう約束……まだ果たしてなかったからね」

 

心配そうにする鮫島さんを押し切り、俺は厨房へ。

 

お腹を空かせたバニングスさんは、なんなら俺が食べていた冷えかけのご飯に手をつけそうな勢いだったが、さすがにあんな大雑把に作った粗末なご飯を食べさせるわけにはいかない。手っ取り早く簡素な夜食を作るほうがまだまともな料理になる。

 

餓えたバニングスさんが残飯に向かってしまう前に、スピード優先でちゃちゃっと作る。

 

「はい、手抜きトマトリゾットと時短クラムチャウダーです」

 

「おお!こんなに早くできるとは!」

 

「実に美味しそうで……三人分ですか?」

 

「足りなかったから自分の分も作ったんだ」

 

「若さ、だね」

 

「バニングスさんも若々しいですけど」

 

「もう若くないさ。だんだん無理がきかなくなるのだよ。では、いただきます」

 

「ほお……短時間で作ったとは思えない味です」

 

「ああ、空っぽの胃袋に染み渡るようだ……それはそうとお礼の話だが」

 

ここまでやっても流せなかったか。

 

返事を考えながら、食べかけだったご飯を口に放り込む。今のほうがご飯は冷えているのに、一人で食べていた時よりも少しだけ、おいしく感じた。

 

「お礼と言われましても……誘拐を防ぐことはできてませんし」

 

「アリサも含めて三人もいたんだ。トラックから三人を守り、自らが怪我をしてもなお助けに向かった。充分すぎる活躍だよ」

 

リゾットを口に含んで頬を綻ばせながら、バニングスさんが言った。

 

「……あの場には一応アリサの執事としていたので、なるべく職務を全うしようとしたまで、なんですけど……」

 

「逢坂くんが執事をするということは聞いていたが、それはアリサがお願いしただけなのだろう?それで給料が出るわけでもないじゃないか。執事として働いたと逢坂くんが言い張るのなら、いっそのことお礼は即物的に給料として支払うという手もあるが」

 

クラムチャウダーをすすりながらバニングスさんに提案された。

 

もちろん、首を縦に振るわけにはいかなかった。

 

「いやです。お金のために命張れないんで」

 

「……かえって格好いいな。しかし、ここまで僕の申し出をきっぱりと拒否する人もいない」

 

「こればっかりはすいません」

 

「そうだ、うちの会社でポストを用意しておくよ」

 

「それ現金と遜色ないです」

 

「旦那様。縁故採用を徹くんへの礼とするのは、ほぼ不可能かと」

 

「む、鮫島、僕の邪魔をするか」

 

なにやら鮫島さんが俺の側に立ってくれている。その調子だ、その調子で断ってくれると俺としては超助かる。

 

「徹くんにはアリサお嬢様の執事に……つまりは私の後任となって頂かなければいけませんので」

 

「ほう、ならば仕方ない」

 

「そうそう、仕方な……っていや違う!俺が望んでた展開と違う!」

 

どうにか話の切り口を変えなければ、なし崩し的に俺の将来が決まってしまう。逃げ道がなくなる前に、矛先を変える。

 

「そ、そうだ。バニングスさんは大丈夫なんですか?最近ずっと忙しいんですよね?そろそろ日付も変わってしまいそうですし、休まれたほうが」

 

「そうだね。通常業務と『(フウ)』の奴らが仕掛けていたミスの修正。連日の残業に加え、社員の人数が減ってしまって負担が増えてしまっているが、逢坂くんの案件を済ませなければ僕はゆっくりと寝れそうにないよ。なんせ、愛する娘の恩人、なのだから」

 

「そんなに恩を感じられても……ん?人がいない?」

 

一つ、ひらめいた。

 

「社員が減って、大変なんですよね?」

 

「うん?まあ、そうだね。他の社員も精一杯やってはくれているが、さすがに穴埋めには限度があるよ。足を引っ張る構成員たちが抜けたぶん、解決の目処は立ってきているがね」

 

「人手が足りていないってことなら、一人紹介したい人材がいるんですけど。それがお礼ってことで。前回の分のお礼もまだ有効なら、重ねてお願いします」

 

「紹介か……君なら一も二もなく、なんなら今からでも我が社に迎え入れるほどだが……」

 

「大学は中退しちゃったんですけど、頭の回転は引くほど早くて、分野によっては俺よりも知識が豊富です。行く先々で相手側に問題を起こされて職場を転々としてるんです」

 

「もしや、その方は……」

 

「そう。俺の姉だよ、鮫島さん」

 

「なんだ鮫島、知ってるのかい?」

 

「はい。お若い時分から大変聡明なお方です。つい最近、再びお顔を拝見しましたが、その怜悧(れいり)さは(かげ)ることなく、さらに輝いておりました。徹くんのお姉様だけあって人格も素晴らしく、その気性は曇ることのない太陽のようなお方です」

 

いろんな意味でうまいことを言う。

 

「ほう、逢坂くんのお姉さん……しかも鮫島がそこまで絶賛するとは。いいだろう。だが一応、面接と筆記試験だけはさせてもらってもいいかな?でないと他の社員に示しがつかなくてね」

 

「いえ、面接とかの試験をやらせてもらえるだけでもありがたいです。普通なら書類選考で落ちてるでしょうし」

 

心の中でガッツポーズする。

 

行き当たりばったりだったが、いい方向に舵が切れた。これで姉ちゃんの就職先とお礼の二つが同時に消化できた。

 

なんだか姉ちゃんをいいように使っている気がしないでもないが、悪いことではないので構わないだろう。

 

「正直に話すと、こちらとしても戦力が減ってしまい困っていたんだ。それほど優秀な人物であれば、僕としてもありがたい話だよ。……さて、僕はそろそろ休ませてもらうとするよ。明日も仕事に追いかけ回されることが決まっているからね」

 

「はは……お疲れ様です」

 

椅子を引き、バニングスさんが立ち上がる。

 

そのままホールを出るのかと思いきや、立ち上がったまま、俺をじっと見た。

 

どうしたのかと思えば、バニングスさんは(おもむろ)に、そして丁寧に、深々とお辞儀をした。

 

「改めて礼を言うよ。ありがとう、()くん」

 

「ちょ、もういいんですってば。……えっと、どういたしまして?」

 

バニングスさんはしどろもどろな俺をくすくすと軽く笑って、続けた。

 

「なにか困ったことがあれば、気軽に相談したまえ」

 

「え?貸し借りのお願いは全部使っちゃいましたけど……」

 

「そういった貸し借りは関係なく、僕が、デビット・バニングス個人が、逢坂徹くん個人に、友人としてなにかしてあげたいと、そういうだけさ」

 

バニングスさんは、照れくさそうに目をそらした。その仕草は、笑ってしまいそうになるくらいアリサと瓜二つだった。

 

「だから、まあ……そういうことだよ。じゃあ後はよろしく頼んだよ、鮫島」

 

「かしこまりました」

 

ホールからバニングスさんが退出した。

 

鮫島さんは、バニングスさんの大きな背中を扉が閉まるまで見送ってから、肩を(すく)めた。

 

「仕事では大胆に振る舞えるのですが、プライベートでは照れ屋なのですよ」

 

「はは、そうみたいだね」

 

アンティーク調の柱時計を確認すると、バニングスさんも言っていた通り、もういい時間だ。

 

「どうしますか?お部屋の準備はできておりますが」

 

俺が口にする前に鮫島さんが切り出してくる。こういう気配りは経験の為せる技なのか。

 

「あー、悪いけど帰るよ」

 

「……家に、ですか?」

 

「え?もちろんそうだけど……むしろほかにどこに帰ったらいいの」

 

「調子が良いようでしたらこちらで、もし痛みがあるようなら病院へ送ろうというつもりで伺ったのですが……」

 

「いやいや、大丈夫だって。明日も学校あるんだから、帰らないと」

 

「…………」

 

「え、なに?」

 

「学校……行くつもりだったのですか?」

 

心底驚いた顔で、なんなら信じられないという顔で尋ねてくる。

 

そりゃまあトラックで潰された人間が病院行かずに学校行くとか言い出したら、たぶん俺でもそんなリアクションになるだろうけど。

 

「出席日数やばいんだ。恭也や忍の後輩にはなりたくないからね」

 

「そ、そうですか。いえ、徹くんがそれでいいのでしたら無理にとは言いませんが……どこか少しでも不調があるようでしたら、すぐお医者様にかかってください」

 

「おっけおっけ、了解。……そうだ、アリサの寝顔を見てから帰ろうかな」

 

「ふふ、では車を回しておきます」

 

鮫島さんと手分けして使った食器や調理器具を片付けて、ホールを出た。

 

途中で鮫島さんと別れてアリサの部屋へと足を向ける。

 

「起きてるかもしれないし、一応……」

 

十中八九寝てるだろうけど、念のため控えめにノックする。無断で入ってませんよ、という言い訳作りな気もするけれど。

 

「……寝てる、よな」

 

咳払いくらいでかき消えてしまいそうな音量のノックには返答がなかったので、緩やかにドアを開けてお邪魔する。なるべく音を立てないように気をつけていたが、質の高い絨毯のおかげで静粛性は完璧だった。

 

ベッド脇にまで移動して、顔を覗き込む。その時だった。

 

長い睫毛(まつげ)がふわっと開いた。金色の髪と大きな瞳は、闇夜に浮かぶように輝いて見えた。

 

「徹、でしょ」

 

「っ?!」

 

大声を出さなかったことは奇跡に近い。心臓が口から出てきそうなほど驚いた。

 

起きていたのか、はたまた、俺が起こしてしまったのか。

 

「どうしたの?家に帰らなかったの?」

 

「あ、ああ、いや……これから帰るとこ。顔見てから帰ろうと思って」

 

「……そう」

 

窓から月光が差し込む。

 

アリサの横顔が淡く照らされた。

 

気品と高貴さ、今はそれらに憂いを帯びていた。

 

「起こしちゃったか?」

 

「ううん、眠れなかったの。目を閉じたら、あの男の顔が浮かんで……」

 

「……そうか」

 

強烈な記憶やトラウマなどは、似たようなシチュエーションでフラッシュバックすると聞いたことがある。今は月の光はあるし清潔さもまるで違うが、この部屋の暗さだけは倉庫の中と酷似している。状況を重ねてしまって、思い出してしまったのだろう。

 

俺の視線を感じてか、アリサは自嘲するような乾いた笑みを浮かべた。

 

「情けないわ。明日は学校があるのに」

 

「……さぼっちゃえよ。勉強なら困らないだろ」

 

「勉強には困らないけど、ずっと皆勤賞とってるし、それに……休んじゃったらなのはとすずかが、心配するじゃない……」

 

「……自分のことだけ考えてろよ」

 

「そんなの、徹には一番言われたくないわね……」

 

アリサは目を伏せ、かけていた布団をきゅっと握り締めた。

 

「寝なくちゃいけないのに、怖くて寝れないの……だから」

 

アリサには珍しい表情だった。

 

弱々しく揺れる瞳、不安げに下がる眉尻、月明かりでもわかるほど上気した頬。乱れた髪が一房、目元に重なり影を作る。凍えるように震える唇が、儚げな声を紡ぐ。

 

「となりに……いて、ほしい……」

 

形容しがたい衝撃が、名状しがたい衝動が、身体の中央でどぐんと爆ぜるように走った。熱された血液が、全身を駆け巡った。

 

「っ……わ、かった。ただ、ちょっと待っててくれ。鮫島さんが家まで送ってくれる予定だったんだ。必要なくなったって伝えてくる」

 

「そう……はやく戻ってきてね」

 

「あ、ああ。わかった」

 

寂しそうに微笑んだアリサの了承を得て、部屋を出る。

 

「……なんだあれ、なんだあれ……」

 

心臓がやけにうるさかった。

 

前までのアリサとは根本的に違っている。なのに、違和感や異物感はない。

 

これまでとは明らかに態度が違うのに、自然体だった。ということは、あれは演じているわけではないのだ。

 

あれはきっと、アリサが意識的にやっているわけではなく、無意識のうちに弱みを見せているのだろう。

 

「これまでがしっかりしすぎてたんだよな……」

 

そう。今になって考えればこれまでが強すぎた(・・・・)のだ。なのはやすずかの前で示すようなリーダーシップもそう。俺の前で振る舞うような気品や誇り高さもそう。

 

勉強も運動も完璧にこなす。父親のバニングスさんに付き添ってパーティなんかも出席すると聞いた。マナーや大人に対する会話も同年代とは比較にならない。

 

「まだ小さいのに、強くなきゃいけなかったんだ」

 

決してそれらがアリサの仮面であるとまでは言わない。なのはやすずかや、口幅(くちはば)ったいが俺と一緒にいる時も本当に楽しそうにしていた。

 

もう、自分の中で折り合いはついていたのだろう。仮面ではなく、アリサという人間にいくつかある面のうちの一つなのだ。

 

ただ、それらの顔と、弱みを晒せないということはまた別の話だ。

 

気を張っていて、気が抜けない。いつまでも強くあり続けられる人間なんていない。

 

「なら、今のアリサは……」

 

今のアリサは、前と変わったのではない。

 

強くて気高いアリサも、弱くて(たお)やかなアリサも、どちらも前から存在したのだ。どちらも見る角度を変えただけで、アリサの心を形作る一つの面だ。

 

これまで見せてこなかった、見せられなかった顔を見せてくれるようになった。

 

その、真意は。

 

「信用、してくれてるってこと、か……」

 

弱い部分を見せても失望したりしない。情けないところを見せても見放したりしない。

 

そうアリサが思ってくれるようになったということ。

 

それはきっと、信頼と呼んで差し支えないはずだ。

 

「いつも頑張ってるんだから、たまには甘えさせてやんないとな。よし……落ち着いた。まずは鮫島さんに連絡を……」

 

「お呼びですか?」

 

「っ?!」

 

鮫島さんが、すでにいた。なぜか足音も気配もなく、すぐ近くにいた。

 

「っ、はあ……声かけてよ……」

 

「今戻ってきたばかりですよ」

 

「そのわりには物音一つしなかったなっ。……あのさ、悪いんだけど、もう送ってもらわなくてよくなっちゃって……」

 

「はい。寝間着、お持ちしました」

 

「……ん?あれ、なんで……え?」

 

「これは失礼しました。徹くんは就寝時は服をお召しにならないタイプでしたか」

 

「いや、いや、違う。なんで服を持ってきたかじゃなくて、なんで服を持ってこれたかってとこが……なんで俺が家に帰るのやめるってわかったかっていう……」

 

「執事ですので」

 

「執事だからかー……執事ってすっごいなー……」

 

「身に余るお言葉です。では、こちらを」

 

寝間着を受け取る。軽く、手触りのいい生地で、少々息を呑む。これでいくらするのだろうか。

 

「あ、うん。ありがとう……」

 

「徹くんの朝食、制服は用意しておきます。真守様への連絡、食事も手配させて頂きますので、ごゆっくりお休みください」

 

「な、なにからなにまで……それじゃお願いするよ」

 

「ええ、お任せください。それでは、おやすみなさいませ」

 

姿を現した時と同じく、去る時もまた異様に静かに、鮫島さんは暗い廊下に溶けるように消えていった。

 

「鮫島さん、いつ休んでるんだろ……」

 

降って湧いた疑問に答えは出なかった。

 

もやもやしつつ、アリサの寝室に戻る。

 

「あ、はやかった」

 

「鮫島さんがこっちにきてくれてたおかげだ」

 

部屋の隅に移動し、服を脱ぐ。

 

鮫島さんが用意したのだ。どうせこの着替えも俺にぴったりなのだろう。

 

シャツを床に置いた時、硬い声でアリサが口走った。

 

「わた、わたしは……脱いでるほうがいいの?それとも……男の人は、自分で脱がしたいものなの?あ、でもわたしバスローブだけど……」

 

「……へぁ?」

 

あまりに突拍子のない問いかけに、変な声が出た。

 

「と、徹……服脱いでるし、そういう、あれを……するんじゃ、ないの?」

 

「ち、違う違う!鮫島さんに寝間着を用意してもらったから着替えてるだけだ!」

 

「そう、なの。まあいいわ。わたしも心の準備とか、できてないし……」

 

「も、もういいから、うん。寝よう」

 

わりと大人っぽい雰囲気になってから、いきなり服を脱ぎ出した俺も悪かったのだろう。

 

ただ、これから一つのベッドで眠りにつくというのにそういう話に舵を切ろうとするアリサもアリサで問題がある。絶対、以前話していた女性誌の悪い影響だ。考えるまでもなく、あの手の雑誌は小学生には早すぎる。

 

着心地の良いパジャマに着替えてアリサの元へ。

 

手をついてベッドの上に乗る。

 

かすかに、ベッドが軋んだ。

 

「っ……」

 

「…………」

 

なんてことないはずなのに、昨日だってここで一緒に寝たはずなのに、なぜかいやに緊張する。

 

アリサはぴくっと身体を震わせ、薄手の掛け布団を頭からかぶってしまった。

 

「……って、して」

 

「え?」

 

布越しで声がくぐもっていることもあるが、そもそもが蚊の鳴くような声だ。聞き取れなかった。

 

耳を(そばだ)てる。

 

「ぎゅって、して……」

 

集中していたことが裏目に出た。脳みそがとろけて耳からこぼれ出てくるかと思った。

 

「ああ、ほら」

 

「ん……」

 

なるべく落ち着き払ったように努めて、布団にくるまったアリサを、苦しくも熱くもならないよう加減して抱き締める。

 

アリサが腕の中でもぞもぞと動いた。

 

「はぁ……ん……」

 

熱のこもった吐息が胸元あたりに触れた。声もはっきりしたし、どうやら顔だけ出したようだ。

 

「目を、つむるとね……あの男の顔が浮かんでくるの。あの男の、いやしい口元と、ごつごつした大きい手が……わたしに近づいてくる……」

 

顔をくっつけるようにして、ぽそりぽそりとアリサが心中を語る。言いづらいだろうに、語ってくれる。

 

「目をつむらなくても……部屋の暗いところからあの男が出てくるんじゃないかって……」

 

「もうあいつは……」

 

「うん、わかってる。わかってるわ。徹がやっつけてくれたって、わかってるんだけど……」

 

『やっつけた』とは、えらくソフトな表現だ。倉庫の中が暗かったせいで、どうやら俺が連中にやったことはほとんど見えていなかったようだ。

 

でなければ、連中より、連中を滅多打ちにする俺の方を怖がってしまってもおかしくない。

 

「……思い出すのか」

 

「……うん。身体がびくってするの。すごく胸がばくばくして、眠れなくなる……」

 

アリサを抱く力を少し強める。

 

アリサを(さいな)んでいるそれは、心的外傷(トラウマ)だ。倉庫という暗い場所で、男に襲われたという強い恐怖を味わった。暗闇と恐怖が紐づけられているのだ。

 

心的外傷というのは、とても厄介だ。恐ろしいと思った記憶を望んでもないのに振り返り、想像して、連想して、更に心の傷を深く広げていく。深く広げた心の傷を苗床に、トラウマは根を張り、いつまでも居座り続けるのだ。いつまでも、蝕み続けるのだ。

 

「……大丈夫、もう大丈夫だから……」

 

心の傷が深刻化する前に、原因を根本から取り除かなければならない。

 

「怖いの、暗いところが……」

 

「約束しただろ。アリサになにかあったらすぐ助ける。約束、守っただろ?」

 

心的外傷を治す方法はいくつかある。

 

恐怖の原因や対象に、強い意志でもって向き合って、乗り越えるという方法が一つ。

 

「うん……きて、くれた……」

 

「そうだろ?安心していいよ」

 

だが、恐怖を乗り越えるという方法は、時間をかけて勇気を蓄えて立ち向かわなければいけない。恐怖の原因が大したものではないとゆっくり自分の心の底に落とし込んで、克服することになる。それにはえてして、痛みと苦しみを伴う。

 

「うん、徹……とお、る……」

 

だが、記憶の定着が行われる前ならば。

 

暗闇と恐怖の紐付けが強固になる前ならば、結ばれた紐を(ほど)き、違う思い出を結い付けることができるかもしれない。

 

「忘れろ。忘れて、ゆっくり眠れ」

 

「うん……忘れ、させて……」

 

くるまっていた布団から手を出して身体を密着させる。俺も迎えるように抱き締める。

 

アリサの胸の鼓動が、俺にも聞こえた。

 

喘ぐように息を吸って吐くアリサが、震える唇で、潤む瞳で、懇願するように。

 

「この、どきどきの意味を……っ、かえて……」

 

今にも壊れてしまいそうな小さな身体を、()(いだ)いた。




この後一緒に眠っただけです。
まかり間違った勘違いをされる方がいらしたら大変なので、念の為。
拙作はR18ではないので(必死)

次の冒頭で軽く触れてから、アリサ編はお終いです。やりたいことはやれたので、とりあえず僕は満足です。
ここからも、またよろしくお願いします。

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