「ノエルさん、なんかごめんね。使いっ走りみたいなことさせて」
「構いませんよ、徹様。これも私の仕事のうちですので」
「仕事の範囲広いな、執事もメイドもだけど。そういや、ノエルさんは外ではメイド服じゃないんだ? パンツルックも似合ってるよ、オトナな女性って感じ」
「ふふ、ありがとうございます」
「……あんた、ノエルと話すときは人格変わるわね……。このメイド萌え、ノエルにまで粉かける気? やめてよね、うちの優秀なメイドで家族も同然なんだから」
「お前はほんとにいらんことしか言わねぇな。俺の評価を落とそうとするな」
「相変わらず仲が宜しいようで私も嬉しいです」
かわいいものでも見るような、ともすれば慈眼とも取れる眼差しで微笑を湛えるノエルさんに、すこし面映ゆさを覚える。
「まぁ、仲は良いと思うけど」
「私が仲良くして『あげている』とも言えるわね」
「言えねぇよ、言わせねぇよ」
「忍様は徹様や恭也様といる時は、お屋敷では見せない喋り方とお顔をなさりますね」
忍はしばし、ぽかんとした表情を見せた後、仄かに赤面した。
腕を組んで目を逸らし、身体を斜めに向ける。
「や、やめてよ、ノエル。私がこいつに気を許してるみたいじゃない」
「気を許してなくてこれなら、お前の性格相当なもんだぞ」
「うるさいわねっ!」
エクスクラメーションマークと同時に、忍はほぼノーモーションで俺のみぞおちへと掌底を繰り出した。
唐突な腹部への衝撃で俺の頭が下がるのを確認する前に、忍はその場で流麗にターンする。
夕陽に反射して赤紫色に煌めく長髪が、ワンテンポ遅れて忍の頭に追従するように尾を引く。
忍は回転で得た遠心力を乗せて、的確に俺のあごへと手刀を打ち込んだ。
腕が
なんだこれ……油断していたとはいえ、まるで見えなかった……。
俺が返せたことというと――
「す、すぐ……暴力とかっ……ぶっちゃけありえない……」
――地面に手をついて、膝をついて、これくらいしか言えなかった。
なぜノエルさんがアーケード街から一本外れた路地にいるのかというと、荷物を月村家へと運んでもらうためだけに俺たちがご足労願ったからだ。
数十分前、料理の材料は月村家のほうですでに用意してくれているらしいので、俺はデザートで使う果物、ケーキなどに使用する薄力粉やベーキングパウダーなどの粉類、グラニュー糖や上白糖や
買い揃えたはいいが、俺としたことが人数が増えたことを失念しており、量を上方修正した結果、買い物を終えた時には大量の袋を抱えることとなった。
どうやって持って帰ろうかと悩んでいると、ノエルさんが月村家の車を伴ってやってきてくれたのだ。
持ち帰って月村家の冷蔵庫に保管しておいてくれるとの話である。
俺が買い物袋に手をふさがれ、右往左往するだろうことを予期していた忍が、ノエルさんへ連絡をしておいてくれたのだ。
予期していたのなら、一言くらい忠告をしてくれてもよさそうなものではあるが。
ノエルさんには申し訳なさと一緒に心から感謝しているし、忍の配慮にもそれなりにありがたく思っている。
だが忍は、俺が両手いっぱいに袋を抱えて身動きが取れなくなっているところを散々に笑って、挙句に写メまで撮っていたのでいたので素直に『ありがとう』と言える気分にはならない。
ただ、笑い疲れて目元に涙を浮かべながらも、最終的にはちゃんと袋をいくつか持ってくれたところは正当に評価する。
しかも、俺より持った袋の数こそ少ないものの、押し
そして俺と忍は、ノエルさんが乗ってきた車、レクサスLS600hの後部座席に購入した荷物を載せさせてもらった、という顛末だ。
この車は乗り心地、シートの質、静粛性など極めて高品質、というよりも国産車トップクラスなのだが、比例して額もトップクラスとなっている。
月村家ならば、然もありなんといったところではあるが、一般庶民では手の届かない一級品だ。
その寛ぎ感マックスの後部座席に座れるなんて、なんとも贅沢な材料たちである。
俺はてっきり、車に積み込み終えて(恐ろしいことに後部座席は袋で満席となった)、忍はそのまま助手席に乗って、ノエルさんがドライバーを務めるレクサスでそのまま帰るのかと思っていたが、俺の隣に立ったままであった。
「僭越ながら忍様、徹様に厳しすぎるのではありませんか? そのうち徹様が死んでしまいますよ」
膝をついて頭にヒヨコをぴよぴよと回している俺を見て、ノエルさんが労わるような言詞をかけてくれた。
たしかにノエルさんの言う通りである。
俺ですらここまで体力を消耗するのだから、一般人であれば死んでもおかしくはないツッコミだ。
念の為注釈を加えておくが、俺はボケてるわけでもないし、そして死にたいわけでもない。
「その心配なら無用よ、徹は頑丈だからね。外見は人間だけど、きっと中身はゴリラかなにかで組成されてるのよ。だから私は思う存分、力いっぱい徹に向き合って拳を振るっているの。普通の人間にはこんなことしないわよ」
「誰がゴリラだ。その発言はそっくりそのままお前に返すわ」
「私(の全力の攻撃)を受け止めてくれるのは徹だけよ」
身体を斜めに構えて、夕陽に顔の半分をオレンジ色に染めながら、しゃがみこんだままの俺を見下すように笑みを浮かべて忍は言った。
ポージングと相俟って凄絶なほど美人ではあったが、それ以上にSっぽさが強く見て取れた。
「お前のセリフの間に恐ろしい言葉が挟まっていた気がするんだけど、気のせいじゃないよな」
胸の奥のリンカーコアからの魔力循環、それの出力を微量に上昇させて回復しつつ、俺は膝に手をついて立ち上がる。
ズボンについた埃を右手でぱたぱたと払い、貫通するかと恐怖するほどの衝撃を受けたみぞおちを左手でさすりながら、俺は忍に向き直った。
「お前はこのまま帰らねぇの? ノエルさんが来てくれたんだし、ついでに帰った方が手っ取り早くない?」
「なんでそんなに私を帰らせたがるのよ、あんたは。せっかくこっちまで来たんだから、もうちょっと見て回りたいのよね、いろいろと」
「そうか、そんじゃおつかれさん」
右手を挙げてさようならしようとした俺の脇腹に再三のインパクトが走る。
〇・五秒の間に三発の拳が突き刺さった。
この野郎、ぱかすかぱかすかとしばきやがって……ここまできたら我々の業界でも拷問だぞ。
「なに言ってんのよ、あんたも付き合いなさい」
「もうちょっと穏便に引き止めることはできなかったのか……」
身体の芯に響く打撃を受けて弧を描いた俺の服を掴んで、忍が顔を寄せる。
「あら、忍様。デートですか? 恭也様には黙っておいた方が宜しいでしょうか」
ノエルさんが頬に手を添えて首を傾げる。
この人は時々切れ味鋭いブラックジョークを放つことがあるのだ。
「違うわよ、ノエル、全然違うわ。なにとんでもない勘違いをしているの、名誉毀損だわ」
「お前……人殴っておいてさらに名誉毀損とまでのたまうか、傍若無人も甚だしいぞ」
「寄りたいところがあるのよ。一人で行くのは面倒なことが多くなるから徹も連れてくってだけ。ノエル、すずかには帰りが遅くなるって伝えておいてくれる?」
「はい、承りました。ですが、今日はすずか様もご友人とお出かけで、私がお屋敷を出る時はまだお帰りになっていらっしゃいませんでしたが」
「あら、そうなの? 珍しいわね。それじゃあ、すずかが帰ってきた時にでも伝えておいて。もしかしたら私のほうが帰るの早くなるかもしれないけど」
「わかりました。それでは、私はこれで」
「ノエル、ありがとうね」
「わざわざありがとう、ノエルさん。って言ってもまた明日会うけどな」
「ええ、お待ちしております」
そう言うとノエルさんは乗車し、レクサスを滑らかに、そしてほぼ無音で発進させた。
タイヤが路面を噛み、キレのいい加速に乗って車が小さくなって見えなくなるまで俺たちは見送った。
沈み始めた夕日を背に、俺は隣に立つ忍へと視線を送る。
「で、どこに行く予定なんだ?」
「お茶しに行くのよ」
一歩二歩と足を進め、忍は俺へと振り返る。
夕暮れの太陽が視界に入った忍は眩しげに片目を瞑りながら、言う。
「エスコートしてあげるわ。ついてきなさい」
忍が仮に男でも惚れてしまいそうなほどの格好よさで、俺に手を伸ばした。
俺は黙ってその手を取った。
*******
「お茶っつって、本当にお茶とはな」
忍のエスコートのもと俺が連れてこられたのは、アーケード街の一角でどんと居を構える軽食喫茶《What》だった。
見慣れた翠屋の内装とは
木製の家具が全面に押し出されたお洒落な店内、ダークブラウンをベースとしたシックなデザイン、ヒーリング効果でもありそうな癒しの音楽が耳に心地よい。
落ち着けるといえば落ち着けるが、学生にはすこし敷居が高い気もする。
「新しくオープンした喫茶店があるって聞いてたのよ。なかなか評判良かったみたいだから、どんなものかなってね」
アーケードの道行く人たちをガラス越しに見やりながら、忍が言った。
忍が店に入ってからも、いつもと変わらずに堂々とした振る舞いができるのは、こういった雰囲気の店に慣れているからだろうか。
「俺たちには憩いの場である翠屋があるんだから、他の店なんて来る必要ないだろ」
「なに言ってるのよ、ライバル店の情報は知っておくべきでしょ」
「要するに敵情視察ってことか。でも忍はあくまでお手伝いであって、翠屋の店員でもないだろ? わざわざこんなことしなくてもいいんじゃねぇの?」
「翠屋で提供される紅茶の葉や、コーヒーの銘柄の選定については私も加わってるのよ? その分野で、新参の喫茶店に負けるわけにはいかないわ」
「あ、威信と誇りがかかってるわけか」
「なに他人事みたいに言ってるのよ、あんただって同じでしょ。ここ、出される料理とデザートもおいしいらしいわよ。あんたの作るものよりおいしかったら悔しいでしょ?」
「俺今は翠屋のキッチン長期休暇中だし、スイーツ関連は桃子さんの担当なんだけどな。まぁ……負けたらそりゃ悔しいけど」
「それじゃそろそろ注文するわよ。軽い物なら晩御飯前でも大丈夫でしょ」
テーブルの端に立てかけられているメニューを広げながら、忍が言う。
忍はお品書きの一番上から一番下まで目を光らせながら眺める。
「品数は
「うちって……いやいいけどさ。そうだな、飲み物の数がそれほどないからか。ただ食べ物の層が厚い。喫茶店で和洋中をある程度でも揃えてるってすごいな……」
「あんたできないの?」
「できないことはねぇけど、一人で全部同時には無理だ。それぞれ目を離すわけにはいかない工程がある。ここは店内も広いし、ホールだけでも店員は多い。きっとキッチンも人が何人もいるんだろうな、そこは羨ましいかも」
基本、翠屋のキッチンは桃子さんと俺の二人で回していた。
桃子さんがいれば大抵回せるんだが、桃子さんがキッチンを外れて俺一人の時もあったりする。
そういう時に繁忙時間帯が重なるとてんてこ舞いで目を回すことになる。
それを考えると人員に余裕があるのはいいなぁ、などと思うが、コミュ力に乏しい俺では仲間との意思疎通もできなさそうだ。
結局一人のほうがやりやすいかもしれない、俺ってなんてダメ人間。
「翠屋はあのメンバーでやるのがいいんだから、人員補充は期待しないことね。軽い物ならいいかなとも思ったけど、案外がっつりした料理が多いわね」
「今日は飲み物とデザートでいいんじゃないか。メシのほうはまた今度みんなと来た時でいいだろ」
俺の発言に、肘をつきながらぼんやりとテーブルの天板に乗せたメニューを見ていた忍がゆっくりと顔を上げた。
目は大きく見開かれており、色の薄い唇はかすかに震えていた。
忍の反応に訝しげな視線を送っていると、忍は唐突に居住まいを正した。
「あんたも成長してるのね」
親戚かお前は、という俺の言葉は届かなかったようで、忍はなおも驚いた様子で続ける。
「徹さ、ちょっと前なら『みんな』なんて、絶対に言わなかったでしょ。今までなら『また今度恭也も連れて』って言ってたと思う。ふふ、その『みんな』には、いったい何人が含まれてるのかしらね」
妙な居心地の悪さに、俺は閉口して目を背けた。
何気なく使った言葉だったし、特に意識もしていなかった。
でも、『みんな』と言った時に思い浮かんだのは――当然、恭也の顔も浮かんだが――恭也だけじゃなかった。
忍に言われて初めて認識したことだった。
両手の肘をテーブルについて、手を組み、そこに頭を乗せた忍がにこにこ笑いながら、まるで子供の成長を見る親のような目で俺を見てきて、なぜかとても気恥ずかしかった。
「早くオーダー決めろよ、店員さんがちらちらこっち見てる」
「ふふっ、そうねー。早く決めなきゃねー」
「その顔と喋り方やめろ、腹立つ」
忍のにやにや笑いは、注文をした品をウェイトレスさんが持ってくるまで続いた。
*******
「紅茶はほんと可もなく不可もなく、平凡ってところね」
「コーヒーも取り立てて変わった風味はねぇな。俺があんまりコーヒーに詳しくないってのもあるけど」
ウェイトレスさんが紅茶とコーヒー、二つのスイーツをトレイに乗せて持って来て、配膳し終わって俺たちのテーブルを離れてからの、この品評会だ。
紅茶には一家言ある忍の評価は辛かった。
どうやらこの店の紅茶は、舌が肥えている忍の御眼鏡にはかなわなかったようである。
ちなみに、忍推薦の紅茶やコーヒーの銘柄を優先して翠屋は仕入れているので、ケーキだけでなく飲み物についても翠屋は評価が良い。
忍の尽力の賜物と言っても過言ではないだろう。
もちろん、紅茶の葉やコーヒーの豆だけが良くても、お湯の淹れ方や豆の挽き方の知識を持ってしっかりとマスターしていなければ無意味なのだから、桃子さんや士郎さんの技術だって関係している。
「私の一口あげるから、そっちのも一口ちょうだい」
「俺が紅茶飲めねぇの知ってんだろうが。紅茶はいらん」
「コーヒーだってミルクと砂糖がんがん入れるんだから飲めないようなものじゃない」
「ミルクと砂糖入れたら飲めるんだからいいだろ!」
小規模な口論をしながら、俺は手元のコーヒーをソーサーごと、テーブルの上を滑らせて忍に近づける。
同時に忍が物々交換的に紅茶のカップを寄せてきたが、そっちはそっと押し返した。
コーヒーは砂糖とミルクを入れれば飲めるが、紅茶はどうやっても飲めないのだ。
忍に渡したコーヒーにはまだなにも入れていない、ブラックの状態である。
コーヒー本来の味を知るために、あと忍も味見するだろうと思っていた、という理由で俺は無理を押してブラックで飲んでいた。
「んっ……ほんとに普通ね。よかったわね、徹の舌も
「なんでお前はそうやって余計な一言を添えるかな」
カップを傾ける、という同じ動作のはずなのに、なぜか俺と忍では優雅さや上品さに隔絶された差が出る。
これは見た目の差なのか、それとも身体に染みついた所作故か。
「ふふん、ドリンクは勝ちね」
「勝ち負けになると本当に活き活きとするな、忍は」
「次はスイーツいきましょ! こっちはどうかしらね~っ」
「楽しそうでなによりだよ」
忍の目の前にはりんごと桃のタルト、俺の手元にはオレンジのコンポートがそこかしこに散りばめられたロールケーキが置かれている。
合わせたつもりはなかったのだが、俺も忍も同時に食べやすい大きさに切り取り、同時に口に運び、同時に身悶えして呟いた。
「おいしぃ~っ」
「うまいなぁ……」
コーヒーの味はそうでもなかったので期待はしていなかったが、スイーツはうまい。
スポンジは柔らかくしっとりしていて、中のクリームはオレンジの甘さと酸味を邪魔しないようにあっさりとしたものに工夫されていた。
目を閉じて小さく唸りながら噛み締めている忍を見るに、タルトのほうも当たりだったようだ。
「めっちゃうまいぞ、これ。ほれ忍、食ってみろ」
忍の小さな口でも食べやすいよう、俺が食べた時よりも心なし小さくロールケーキを切り分け、フォークに乗せて忍へ差し出す。
忍は思考時間ゼロで、餌を待つ雛鳥のように口を開いた。
「あ~……んむ。……っ!」
口内へと運ばれたそれをぱくり、とすると、すぐに咀嚼せずに舌で転がすように味わい、おそらくおいしかったのだろう、忍はもとから大きな瞳をさらに開いた。
次第に口元は緩み、目は細められる。
忍の表情がこれほど素直になるのは、甘味を食べさせている時か、それでなければすずかを抱っこしている時くらいしかないと断言できる。
とても珍しい状態なのだ。
うまいか? と忍に感想を尋ねようとしたその時、どこかの席で皿にフォークを落とすような、がちゃん、という小さくはない音が鳴った。
「タルトも相当おいしいわよ、ほら」
発信源はどこだろうと確認しようとしたが、忍に呼び止められたので諦める。
忍にフォークを突き出されるというのは、平時であれば身の危険を感じざるを得ない状況であるが、本日の忍はにこにこと頬を緩めてたいそう機嫌がよく、その上フォークにはすでにタルトがライドオンしていたので安心して平和を享受することができた。
歯に
桃のなめらかな甘さとリンゴのさっぱりとした甘さ、方向性の違う二種類の甘みが
カスタードクリームにはヨーグルトが練り込まれているようで、果物の自然な味を強調させながらもくどくならないよう精密に調整されている。
タルト生地はしっとりとしたタイプも多いのに、なぜこの歯触りにしたのか疑問に思っていたが、普通のカスタードクリームと違いヨーグルトクリームのほうがとろみがすくないから、タルトの形が崩れないようにするために生地をぱりっと焼き上げているのか。
そしてこのクリームのおかげで、しつこくない後引く味が完成されていた。
言いたいことは山ほどあるが、最終的にはやはり、この一言に集約される。
「うまい」
「でしょっ! やっぱりスイーツがいいっていうのは店の人気に直結するのね」
「桃子さんに次ぐレベル……強敵だ」
「これは徹よりも上よね」
「悔しいけど……やっぱりプロだな」
紅茶やコーヒーなどの飲み物は断然、料理はわからないものの、スイーツだって僅差ではあるが《翠屋》のほうが上(あとウェイトレスの可愛さも)だが、立地においてはここ《What》のほうが圧倒的だ。
人の通りが多いアーケード街にあるというのは、それだけで有利になる。
「それはそうと、ロールケーキもう一口くれない? すごくおいしいのよ」
「そんじゃそっちのもくれ。
俺が返事をする前から忍は小さな口を開き、
嘆息しつつ、俺はまた小さく切り分けて忍の口へ運ぶ。
もはや食事介助だ、などと考えていたら再び、がしゃん、という音がクラシック音楽を貫いて店内に響く。
今回はさらに、からん、というフォークかスプーンかなにかの落下音に、ばしゃころころん、というコップを転げさせたようなサウンドも続いた。
「
「あ、ごめんごめん」
さっきからやけにうるさいな、と思い店内を見渡すが、シートとシートを隔てるようにそこそこ背の高い仕切りがあるため目視することができず、口を開いたまま喋る忍に急かされたので確認はできなかった。
「あむっ……ん~っ!」
俺のソレ(フォーク)を忍は瑞々しいぷるぷるとした唇で咥え、俺が抜くと、口とソレ(フォーク)を繋ぐように銀糸が一本引かれ、垂れた。
忍は目を瞑って悶えてるので気づいていないのだろうが、なんだかとても色っぽいというか、有り体にいえばやらしい感じになってしまった。
忍は
「はい、もったいないけど徹にもあげる」
「俺もあげたんだから、お前もくれるのは当然だろ」
俺は忍の失礼な言い振りに口答えしながら、『あ』と発話してタルトを待つ。
すると忍は俺の口の寸前まで伸ばしたフォークを急にUターンさせ、自分の口へと放り込んだ。
その光景を唖然として見つめていた俺は、我に返り俄かに猛抗議する。
「おま……それはズルいだろ!」
「あんたが貰えて当たり前みたいな顔するからじゃない。ちょうだいって言いなさい、ちょうだいって」
忍の暴論に絶句するが、言わなければ本当にくれないことを今までの人生で学んでいる俺は
「……ください」
「ちょうだいじゃないし誠意を感じないけど、まあ特別に許してあげるわ。恵んであげる」
「自分が今めちゃくちゃなことを言ってる、という自覚はあるか」
次はちゃんと俺の口へと運んでくれた。
生地の食感を楽しみ、フルーツの果汁を堪能する。
いつか自分の手で再現したいものである。
こつこつ、こつこつ、とユーズドブラックの床を叩く音が背後で聞こえた。
俺たちがいる席は出入り口とレジにほど近いので、お客さんがお帰りになるのだろうと判断した。
夕陽が沈んでしばらく経つ、俺たちもそろそろ帰らなければ。
俺も忍も残りをぺろりと完食すると、用は済んだとばかりに席を立つ。
そして俺も忍も脇にのけておいた飲み物には口をつけなかった。
ケーキの後味を残念なコーヒーや紅茶で濁したくはなかったのだ。
「お会計どうする? 私は気を遣ったほうがいいのかしら?」
「ぜひそうしてくれ、俺が出す」
会計しようとレジに向かう途中に忍が声をかけてきた。
ご馳走するだけの甲斐性は持っているつもりなので、忍の心遣いは断っておいた。
ホールで配膳していたウェイトレスさんが、茶色のポニーテイルを揺らしながらぱたぱたと走ってレジまでやってきた。
「お会計は……あ、カップル様でございますですか?」
きらきらと星が瞬くような笑顔を振りまきながら、奇妙な敬語で彼女は言った。
店員さんの勘違いに俺と忍はお互い顔を見合わせて、はっ、と鼻で笑うような息を漏らしてから、店員さんへと向き直り、異口同音で同じ言葉を吐こうとした。
「「いえ、まったく違いま……
「今キャンペーン中でございますでして、カップル様には割引があらっしゃいますのですが」
だが、裏を感じるほどの百パーセントの笑顔を向ける店員さんが、相変わらず奇々怪々な似非丁寧語で俺たちのセリフを遮った。
そこからの俺たちの動きは早かった。
俺は背筋を伸ばしてかすかに左腕を広げ、忍は俺に身体を寄せて俺の左腕に自身の右腕を通した。
「はい、そうなんです~」
「こんなところでやめろよな、恥ずかしいだろ」
電光石火でカップルのフリをした。
俺は家計簿をつける主夫として日々節約しているし、忍は使えるものはなんでも使う主義だ。
切羽詰まるほどには困ってはいなくとも、抑えられるところは抑える、切るところは切る、出費を減らせるのなら一時の恥など気にも留めなかった。
店員さんは俺たちを見遣り、にこっ、と笑みを浮かべ、レジに設置されているカウンターを、かかかち、と押した。
なんかすごい勢いでカウンターを押して――確実に一回以上押して――店員さんはレジの下にあったのだろうカメラを取り出す。
「おめでとうございますでした! 記念すべき百組目のカップル様でございらっしゃいます!」
いや君さっき一回分以上カウンター回したよね? と首を傾げる俺たちを置き去りに、なにやら熱の入った店員さんは怒涛の勢いで捲し立てるように説明しだした。
掻い摘むと、キャンペーン中の百組目のカップルなのでさらに割引しやす、お食事代は頂きませんのだ、その代わりにお二人のお写真を撮影させていただきたく存じます、とのこと。
なにやら困ったことになったなぁ、まぁ写真くらいならいっか、と会話も交わさずに意志疎通して楽観視していた俺たちだったが、店員さんはとんでもないことを最後にぶっ込んできた。
「ちゅうしているところをお願いしますです」
即刻断ろうとした、目線も合わせずに俺と忍は息を合わせて協力し、断固拒否しようとした。
「カップル様なのでしたらできますですよね? 先ほど仰っていましたですよね?」
だが、この奇天烈な店員さんは先回りして俺たちの退路を塞ぎに来た。
忍は明言してしまっていたのだ、『カップル様ですか?』と問われて『はい、そうです』と答えてしまっていたのだ。
逃げ道は断たれていた、今さら違いますなどとは言えようはずもなかった。
すでに俺たちは蜘蛛の巣に囚われた蝶も同じであった。
隣へ視線を送ると、忍はいつもの揺るぎないポーカーフェイスを崩してしまっていた。
唇を噛み、目線は下へ向けられ、顔は仄かに紅潮している。
俺の左腕に組んだ右腕は悔しさから震えていた。
こんな頭の悪そうな女にいいようにしてやられたのは気に入らないが、自分が放った言葉なので自業自得だとも思っている。
その怒りの矛先をどこに向けたらいいかわからないから、とりあえず手近な俺の腕へとぶつけているのだろう。
俺の左腕は肘から先が紫に変色しており、感覚は
この笑顔の仮面をつけているウェイトレスさんは、バカみたいな言葉使いなのにとてもずる賢い。
きっと俺たちを逃がそうとはしないだろう。
デートコースの定番にでもする心積もりなのか、我々はカップル様に真摯に対応しています、ということをアピールしたいのか、忍のような美少女であれば一つの作品として映えるからなのか、いろいろ理由は思い当たるが、逃げ場だけは見当たらなかった。
無傷で脱出することができないのなら、被害を最小限にして撤退するほかない。
あとでシバかれるかもなぁ、と悲惨な結末を想像するが、俺は覚悟を決めた。
俺は店員さんに、一発で撮れ、と指で合図すると店員さんは、任せてください、と言わんばかりにウィンクして見せる。
無事なほうの右手で忍の肩を掴み、俺の目を見るように誘導し、アイコンタクトを送った。
――逃げるなよ?――、と。
右手を忍の腰に移動させ、ぐいっ、っと俺の身体に引き寄せ、
店員さんはベストタイミングでシャッターを切り、『おっけーですっ!』と、底抜けに明るく、かくも陽気に任務完了の合図を告げた。
俺はぽかんとしたまま微動だにしない忍の手を引き、店員さんにごちそうさまでしたと口早に言い捨てて喫茶店を出る。
しばらく歩き続けて喫茶店から距離を取ると足を止め、忍の手を離した。
「びっくりするでしょ、なにか言ってから
「あの頭の悪い狡猾な店員にあれ以上情報を与えたくなかったんだ、悪い」
はあぁぁ、と忍は深い深いため息をついた。
「『タダより高い物はない』って本当だったのね」
友達が少ない主人公の、ちょっとした成長です。
主人公と忍は(超絶仲の良い)親友です、念のため。
忍は恭也の嫁、あしからず。
伏線を張るつもりではあったんですけど、こんなに長くなるとは思わなかったです。
まさか一話で一万文字超えるとは。
ちょっと興が乗りすぎてやってしまった感はある。