そんな結末認めない。   作:にいるあらと

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嘘でも外連味でも、建前でも意地でもなく、正真正銘に紛れもなく、俺の本心だった

 なんの犠牲もなく、力を得ようなどとは思わない。

 

俺の身体なら切り売りしてやる、俺の魂なら燃やしてやる。

 

 その代わり、俺の大事なものは返してもらう。

 

「そいつは……俺のものだアアァァッ!」

 

 絶叫と同時に血も吹き出るが、そんな瑣末なことはどうだっていい。

 

ただ、奪い返す。

 

その一点こそが重要で、それ以外は一つ残らず取るに足らない事象だ。

 

取るに足らないのなら、切り捨ててしまえばいい。

 

 外れた左の肩を力技で骨接ぎする。

 

痛みもあったが、それ以上の熱量を持つ感情がそれすら上書きした。

 

 憤怒の焔が身を焦がし、激情に思考が支配される。

 

眼に映るものすべてが赤く染まり、目的の達成と敵性対象の排除のみに神経が注がれる。

 

 いつの間にか俺を縛り上げていた鎖は解け、魔力の粒子へと変換され、大気へと還っていった。

 

 標的へと目をやれば眉間にしわを寄せ、胸を押さえてこちらを睨みつけている。

 

エリーを苦しめていた薄茶色の魔力も、今は影も形もない。

 

 向こうの事情なぞ知らないし、興味もないが、動いてこないというのなら好機と捉えていいだろう。

 

 好機だろうとタイミングが悪かろうと、どちらにせよ打って出ることに変わりないのだ。

 

まっすぐ殴りかかるか、回り込んで殴りかかるかの違いでしかない。

 

 赤熱する思考のまま、(ほとばし)る信念のまま、俺は()える。

 

「そいつをッ……がァえせェェッ!」

 

「っ! いきなり、一体何が……っ」

 

 接近して拳を振るうが、なにか軽いものに触れた感触はあっても手応えはまるでない。

 

 狭窄する視野で捕捉する。

 

標的は目を大きく見開きながら距離を取っていた。

 

後ろへ飛び退くことで避けられたのだろう。

 

今も飛行魔法を使用し後退し続けている。

 

 軽い感触は標的の衣服に拳が掠めたからであるようだ。

 

ひし形に開いていた胸元、その左胸の上部あたりが大きくはだけていた。

 

 脳内の片隅で『リニスさんが回避行動を取ったのはこれが初めてだ』などという考察が浮上するが、なんの価値もないことに思考を割く意味はない。

 

無駄な考えを唾棄(だき)する。

 

今は標的を打ち砕き、エリーを奪還することが最優先なのだ。

 

「逃げんなァッ!」

 

 足場を生み出し、踏み込んで再度肉薄する。

 

後退し続けていたかと思われたが、案外近くにいたようで一歩で目の前まで近づくことができた。

 

 標的は首を絞められたかのようにか細く、短い悲鳴のような声を上げた。

 

しかし実際に首を絞められたのは俺だし、悲鳴を上げたかったのはエリーだ。

 

同情の余地などないし、斟酌(しんしゃく)する道理もない。

 

 身体全体に回していた魔力付与の割り振りを切り替え、右手指先のみに一極化させる。

 

過剰に送られた魔力は鉤爪(かぎづめ)のような形態を成し、俺はただ、それを振るう。

 

「ひっ、く……っ。重いっ……」

 

 標的は携えていたステッキの黒い棒状の部分で防御した。

 

接触した部分から派手に火花を散らしたが、それ以上食い込むことはない。

 

 攻撃に失敗したのなら、すぐに次へ移るのみだ。

 

 右手に集中させた魔力は腕を通って反対側、左手へと送られる。

 

左手に凝縮された魔力は周囲との密度の差から、シュリーレン現象のように、ともすれば陽炎のようにもやもやと揺れる。

 

 目に入った変化などすぐに思考から打ち棄て、左の拳撃を標的へと放つ。

 

 がぎぃぃっ、という爆音が空気を震わせた。

 

 重たい手応えはあったが、今度は重たすぎるし硬すぎる。

 

障壁により阻まれた。

 

「たかが打撃一発で……罅をっ……」

 

 またしても攻撃は失敗に終わるが、今回は魔法を展開して――すなわち足を止めている。

 

この状態であれば、次打によりチャンスは広がる。

 

追撃の手を緩める理由はない。

 

 障壁に触れている左手から術式内へと潜り込む。

 

ハッキングでプログラムを穿ち、破壊して回りながらさらに奥深くへと潜行する。

 

 魔法の術式を跳び越え、違う光景が頭に流れ込んだ。

 

薄茶色に輝く小さな光の塊。

 

 言い知れぬ怒りを覚え、得体の知れないそれを食い千切ろうとしたところで、意識が倉庫内へと引き戻される。

 

 障壁は消失していた。

 

そのせいで魔力の繋がりを断ち切られたのだろう。

 

「また……っ、なにをしたのですかっ、私にっ!」

 

 息を荒げながら胸を押さえる標的の額には、うっすらと汗が滲んでいる。

 

 理屈はわからないが――特に知りたいとも思わないが――相手に負担を与えているのなら重畳というものだ。

 

エリーが味わった苦しみの一部だけでも返すことができたのだから。

 

「てめえが知る権利なんて欠片もねぇし、俺が教える義務なんてもっとねぇよ」

 

 標的の顔が悲しげに歪み、ややもすれば今にも泣き出しそうな表情になるが、そんなこと意に介さない。

 

悲しかったのも、泣きたかったのもお前ではないのだ。

 

「近くにいては、危険すぎるっ……」

 

 標的は全力の飛行魔法で後退を始めた。

 

「逃すと思ってんのがァッ!」

 

 それに追蹤(ついしょう)するため、足元に移動用の障壁を張り、跳躍しつつ移動する。

 

 あと一歩、あと一回の跳躍で手が届くという距離まで近づいた時、周囲から魔力弾が飛来した。

 

標的が放ったものでまず相違ない。

 

 忍者などが追っ手を振り払う為に使う撒菱《まきびし》みたいな役割なのだろう。

 

小癪で小賢しい真似だ。

 

 迂回するとなると数歩分遅れを取ることになる。

 

エリーは今も俺の助けを待っているのだ、わずかだとしても時間を浪費するわけにはいかない。

 

 よって俺が取るべき手段は、最速を保ったまま最短ルートを『中央突破』。

 

「気が触れています……。常軌を、逸している……」

 

 速度を落とすわけにはいかないため、足へ供給する魔力は七割。

 

残りの三割を腕の前面に回し、頭という人間の核となる部位のみを守る。

 

 そこさえ無事であれば、身体の末端部が多少(こそ)げようと継戦自体に問題は発生しない。

 

左足大腿部に被弾して足が痺れを訴えようがそんなもの気合で動かせばいいし、右外腹部が爆ぜて出血しようが圧迫していればいつかは止まる。

 

食道を逆流して口から絶えず溢れる血は唇の端から顎へと血の河を描いているが、すぐにポテンシャルに悪影響を及ぼすものでもない。

 

大切なものを取り戻すための動きになんら支障はない。

 

 動ければいい、あいつがこの手に戻ればそれで俺の目的は達成されるのだから、身体が動けばそれでいい。

 

「捕、まえたァッ!」

 

「ひぅっ……」

 

 俺は力任せに左腕を振るう。

 

 標的は反射のように、手に持つ杖を咄嗟に掲げて身を守った。

 

防御しようとして防御したのではなく、浴びせかけられる異常なまでの狂気を遮りたくて、自分と俺の腕の間に杖を差し込んだといったところだろう。

 

防衛本能と言ってもいい。

 

 飛行魔法では踏ん張りが利かず、標的は勢いに押されるまま地に落ちたが、落下中に猫の如く身を(ひるがえ)して足から着地する。

 

だが凄まじい勢いを足だけで殺すことはできず、すこしふらつき手をついた。

 

 追撃に移るため俺も地上に降りる。

 

 戦闘の流れは俺にきている。

 

攻撃は肝心な部分で防がれているが、手応えは悪くない。

 

このまま攻めればいずれは()とせる。

 

 もう少しで、あと数手で、わずかな踏み込みでエリーが俺の手に戻る。

 

日常が俺の元に帰ってくるのだ。

 

 取り返せ、奪い返せ……俺の『全身全霊』をもって。

 

「飛行魔法なしで、なんて速さなのですか……。……まずはその動きを止めます」

 

 床に着地し接近すると、俺を一度捕縛した拘束の鎖が周囲から伸びる。

 

視界を埋め尽くすような鎖の数で、俺をどれほど警戒しているのかが見て取れた。

 

「邪魔……邪魔だ、邪魔だッ、邪魔だァッ!」

 

 だが、それだけではまだ甘い。

 

使われる拘束魔法の内部構造がどれも共通しているのならば、俺の足を止める枷にはならない。

 

 標的が使う拘束魔法を、俺は数えきれないほどいくつも掛けられた。

 

それだけ多くのサンプルに触れることができたということだ。

 

 俺を捕らえた拘束魔法の術式は記憶している。

 

その仕組みも、どの部分が脆弱かもすでに掌握しているのだ。

 

同じ術式をハッキングしていれば、回数が増えるごとに演算にも慣れてくる。

 

ちょうど数学の問題を解くのに、数をこなせば簡単に思えてくるのと同じものだ。

 

 今さら使い古された拘束魔法を俺に差し向けてきたところで、時間稼ぎにもなりはしない。

 

「無茶苦茶……フェイトやアルフが言っていた以上に、無茶苦茶です……」

 

 腕に纏わりついた鎖は振り払い、足に絡みついた鎖は引き千切り、胴体に巻きついた鎖は身体ごと前へ突き進むことで破壊する。

 

 凧糸よりも容易く切断されていく拘束魔法を見やり、標的は呆然と呟いた。

 

 短時間のうちにハッキングを連続で使い続けたため、脳がオーバーヒートを起こし焼き切れそうになるが、だからといって手を休めることはしない。

 

この程度で焼き切れるような細い神経ならばいらない、切り捨ててやる。

 

 鎖の壁を突破し、踏み込んで拳を叩きつけるが、また障壁に阻まれた。

 

障壁を張るなら張るで、俺は一向に構いはしない。

 

内部へと魔力を浸透させ、内側から切り崩すのみだ。

 

「迫る形相は恐ろしいですし、力も跳ね上がっています……。ですが、攻撃だけに意識が偏向している分、読みやすくもなっていますよっ!」

 

 プログラムをぐちゃぐちゃに掻き混ぜ、いざぶち壊してやろうと手を障壁に密着させた時、障壁が消滅した。

 

 俺はまだハッキング作業を開始していない。

 

となれば原因は標的しかいない。

 

標的が自ら防御魔法の展開維持を取り止め、消し去ったのだ。

 

 ハッキングに傾注させていた為、目的のものが突如霧散したことで俺は前のめりにつんのめった。

 

 たたらを踏む俺の目の前に、標的が持っていた杖の先端、金色の球体が突き出された。

 

「今回は障壁を張る暇すら与えません。二度目の零距離、防げるものなら防いでください」

 

 標的の強気な発言は砲撃魔法の轟音に掻き消された。

 

暴れ狂う魔力が一つの塊となって襲い来る。

 

 俺は無心の境地で、砲撃が放たれる杖へと左腕を伸ばした。

 

直後左の手のひらへ計り知れないまでの熱量と、尋常の沙汰ではないほどの()し潰されてしまいそうな圧力が到来した。

 

 膨大な水が岩にぶつかり波飛沫を散らすように、俺の左手に直進する勢いを妨げられた砲撃魔法の魔力は上下左右に飛び散る。

 

 奔流に抗いながらなおも左腕を突き出し進め、杖に左手の一部が触れた。

 

そこを起点に、砲撃の演算を代理で担っているデバイスへハッキングを使って侵入し、持ち主の命令をインターセプトしてコマンドを書き換える。

 

今行っている動作、砲撃を即刻停止せよ、と。

 

 かくして俺の進撃を阻んでいた砲撃は出力を弱めていき、ついには鳴りを潜め、俺が送ったコマンドの誤認識により動きを止めた。

 

 標的は息を呑み、眉を顰めて頬に冷や汗を一筋刻みながら、口を開く。

 

「目を煌々と血走らせて牙を剥き、雄叫びを上げて襲いかかるその様はまるで獣……いえ、もはや化け物です。人へ恐怖を与えるに足る迫力と能力がありますが、人間性を失っています……」

 

 障壁も張らず、魔力付与による身体強化の効果のみに頼った結果、左手はずたぼろとなった。

 

 ()けついているような感覚と、途轍もない痛みが走る左手で杖の先端を掴みながら、標的の問いに答える。

 

「人間性なんてなんの意味もねぇんだよ! 常識を保ったままで、奪われたもんを取り返すことができねぇッてんなら、そんな常識切り捨ててやるッ!」

 

 左手で杖の動きを阻害しつつ、エリーを握る標的の手目掛けて右腕を伸ばす。

 

 すぐ近くにあるんだ、手を伸ばせば届くところに。

 

ならば、この手を伸ばさない理由はない。

 

「ここまでするつもりはありませんでしたが……潰します。あなたは危険すぎます」

 

 伸ばした右腕は、標的が合わせた膝蹴りで標準が逸れて宙を泳ぐ。

 

 右手がびりびりと痺れるが、どこかその感覚すら遠く感じる。

 

狭窄して眼に映るのは、囚われたエリーだけだ。

 

 『リニスさんは近接格闘をも万全にこなす。腕を掴もうとしても無駄だ』

 

 沸騰したように熱くなった頭の中で、冷静な部分がそう提案するがすぐさま一蹴する。

 

この手で掴めばそれで終わるのに、なぜ遠回りしなければいけないのだ。

 

「しつ、こいですね……っ!」

 

 身体の中心にまで響く鋭い蹴りが、ロー、ミドル、ハイと一息で三発も突き刺さった。

 

 びぎっ、という骨がひび割れるような音と、膝を折りたくなるほどの激痛が全身に伝わる。

 

肋骨に衝撃を受けたことにより肺が圧迫され、一時絶息状態に陥る。

 

戦闘中に並行して使っていた治癒魔法で、なんとか出血を抑えていた程度だった傷口が開き、また血が溢れてきた。

 

内臓にまでダメージが及び、食道から一塊になった赤黒い液体が込み上げて唇から零れる。

 

口内に血の匂いと味が充満した。

 

「なぜ……なぜ手がっ、離れないのですかっ! ここまでやっているというのにっ!」

 

「……諦めたら全部失う。……もう俺は何も、奪われないッ! 奪わせないッ!」

 

 頭に酸素が送られず、寸時視界が真っ暗になり意識も途切れそうになったが、それでも、肉が裂け血が滴る左手で掴む杖は離さなかった。

 

杖を離してまた距離を取られれば魔力も体力も削れる上に、なにより時間が失われる。

 

不安と恐怖で震えるエリーを、これ以上待たせるわけにはいかない。

 

 だが、このままでは有効打に欠けるのも事実だ。

 

どうすれば一番早く取り戻すことができるか、それだけを考えろ。

 

残された時間は僅かなのだ。

 

 常時高速で行われる魔法の演算、度重なるハッキングにより、頭はまるで燃えているかのように熱い。

 

当初赤かっただけの視界が、今では黒ずみがかってきている。

 

あまりの熱で眼球からも水分が失われているのか、目が乾く。

 

だからといって瞑目(めいもく)することはできない、一度瞼を閉じればもう開けそうにはないからだ。

 

 気力だけでついていくのは限界、いや、すでに限界のラインは跳び越えていた。

 

決着をつける一撃が必要だ。

 

 攻撃し、かつ、標的から反撃を受けない方法。

 

躱されることなく、防がれることもない手段。

 

彼我の距離は目と鼻の先、間合いさえ加味した逆転の一手を。

 

 もはや神(がか)ってすらいる思考速度により、条件を満たす答えが刹那で弾き出された。

 

 シンプルで単純な手であった。

 

シンプルだからこそ防ぐのは困難で、単純だからこそ想定するのは至難な、そんな攻撃。

 

 左手で握り潰さんばかりに掴んでいる杖を、俺は力一杯に引き寄せる。

 

俺の左手は身体よりも後ろへ、腕を引ける限りに。

 

「今度は何をっ……」

 

 杖の柄を握っている標的は必然、引かれる力に従い一歩二歩と俺へと近寄った。

 

目論見通りに密着するほど引き寄せることはできたが、標的は猪口才(ちょこざい)にも肉薄すると同時に再び、肘による打突を繰り出す。

 

 歯を食い縛り、痛みに耐え、俺は標的の案外細く、小さな身体を、残った力であらん限りに目一杯――

 

 

 

「ひゃあっ! と、徹、いきなりなにをっ!」

 

 

 

 ――抱き締めた。

 

 胴体へベアハッグを仕掛けることができれば御の字であったが、標的が肘打の体勢であったため、腕から背中へ回すような形となった。

 

 魔力付与で覆われた俺の身体に多大なダメージを与えるのだから、標的も身体強化に似た魔法を使っているのだと考察できる。

 

であるのならば、鯖折りやベアハッグでは致命傷足り得ない。

 

 しかし一つ、行動不能にさせうるだけの可能性を秘めた武器を、俺は見つけ出していた。

 

 拘束魔法へ深くハッキングを使った時に視えた薄茶色に光り輝く球体。

 

その物体がなんなのか確証はないが、本能で理解できた……魔導師にとっての心臓であると。

 

「もう、離さねぇよ……ッ!」

 

「た、たた、戦いの最中ですよっ! いったい何を考えっ……んっ、またっ……ぁっ」

 

 俺の腕の中で、標的の身体が敏感な所を撫でられたかのようにぴくんっ、と跳ねる。

 

頭の上の耳はふるふる、と小刻みに震え、標的の尾てい骨から伸びる尻尾は自らの足に巻かれていた。

 

 標的の容体は明らかにおかしいが、抵抗しないというのなら俺にとって好都合だ。

 

俺に残された時間は残り僅かだ。

 

 体力は空、魔力は底、思考回路は断線寸前。

 

眼に映る景色はもう、ほぼ黒一色。

 

ここで再び身体が離れればもう俺には打つ手立てはない……ここで決めなければエリーを取り戻すことはできない。

 

 もう一働きだ、もう少し耐えればいい、もう少しだけ、もう一踏ん張りだ。

 

「なに、ですか……入ってくるっ。……あっ……私の、ナカに……っ」

 

 身体に接している箇所から標的の内部へと、俺の魔力を潜り込ませる。

 

 ハッキング時特有の、対象物の中へと侵入していくイメージが俺の脳内に浮かび上がった。

 

全身に張り巡らされている魔力の管を伝って奥深くへ、中心へと辿り着く。

 

 その最奥で発見した、俺が視た薄茶色の光を放つ綺麗な球体を。

 

「ひぁっ……ぁっ……。……やめてっ……っ、やめてください、徹っ! この感覚、とても怖いんです……っ」

 

「俺がやめてくれと懇願した時に、お前はやめてくれたのか? 自分がしなかったことを、他人に求めんなよ」

 

 燃え(たぎ)る憤怒に従い、球体へと手を掛ける。球体が孕んでいる膨大な情報量とエネルギーに脳が悲鳴を上げるが、ここが胸突き八丁だ。

 

最後の仕上げで心を折られるわけにいかない。

 

 ――ぐちゃぐちゃに掻き回せ、破壊と蹂躙の限りを尽くしてやれ――

 

 自分の内から湧き出ているとは思えないほど黒く、汚く、暴力的な感情に突き動かされるがまま実行に移そうとした時、腕の中で強張り震える標的の声が、耳に届いた。

 

「はっ、ぁ……っ。お願い……っ、します……。やめ、てっ……くだ、さい……っ。返します、徹のジュエルシードは……返します、から……っ」

 

「俺はッ……。俺、は……」

 

 自分の中に入り込まれる違和感に喘ぎ、苦悶の声音を発しながら弱々しく、少女のように哀願する『リニスさん(・・・・・)』を見て、轟々と吹き荒ぶ精神状態が徐々に鎮静化していく。

 

 石にでもなったのかと思うほど硬く、重くなった腕を広げ、リニスさんを解放する。

 

 リニスさんは杖を取り落とし、しかしそれすら気にも留めず胸を押さえながら後退りし、床にへたり込んだ。

 

闇に染まった視界では彼女の様子を知ることはできないが、まだ生きている聴覚が、荒くなった息を整えようとしているリニスさんの存在を捉えた。

 

 虚ろな夢からの覚醒じみた感覚が、俺へと押し寄せた。

 

熱暴走でも起こしているかのように熱く苛む頭や、腹部や大腿部の傷の痛みがありありと感じられる。

 

麻酔が解けたみたいに、次々と痛みが俺を責めたてる。

 

 立ち続けることすらままならず、リニスさん同様、俺も床へと膝をつく。

 

 腹や足から流れ出た血液が倉庫の床に溜まり、全身を走り回る激痛とは裏腹にとても温かく感じる。

 

底無しの沼に沈みゆくような、気を抜けば意識をすら飲み込まれそうな、そんな陶酔感すらあった。

 

「なに……やってんだよ、俺……」

 

 言語として発声されているのかさえ、俺にはわからなかった。

 

 胃から上がってくる血が言葉に絡みつき不明瞭な発音になっているし、肺が損傷しているのか呼吸もままならない。

 

 満身創痍。

 

それが今の俺の状態だった。

 

 疲労困憊の身体に引き摺られて心まで疲弊していく。

 

つらつらと考える事柄まで、暗く(よど)んだものになっていく。

 

 俺はどす黒い怒りの感情に突き動かされて、リニスさんに取り返しのつかないことをするところだった。

 

 直感でしかないが、俺がハッキングで視た薄茶色に輝く球体はおそらく魔力を生成する魔導師の核、リンカーコアだったのだろう。

 

それに安易に手を出して(あまつさ)え傷つけでもすれば、リニスさんの魔導師としての才覚を踏み潰すだけでは済まない。

 

身体に常時巡る魔力の供給すら滞り、命に関わることになる。

 

俺がしようとしたことは、リニスさんの生命を危険に晒すような、罪深い行為だった。

 

 最後の最後でリニスさんの声が心奥に届き、冷静さを取り戻せたおかげで最悪とまではならなかったが、リニスさんを解放したことでまた、エリーを救い出すこともできなくなった。

 

 いつだって俺はどっちつかずだ。

 

大切なものをなんとしてでも守りたいのなら、敵対する人間なんて切り捨てればいいのに、そこまで徹底する勇気もない。

 

自分の身が可愛いのならエリーを見捨てて、なにもかもを投げ捨ててリニスさんたちの勢力に鞍替えすればいいのに、妙な正義感やプライドが邪魔をする。

 

 決心がつかず、踏ん切りがつかない。

 

あちらとこちらの境界線を彷徨(さまよ)うことしか、俺にはできないのだ。

 

 もういっそのこと、足を止めれば楽になるのか。

 

 ぼろぼろの傷だらけになった左手を床についても、痛覚は俺の脳髄まで伝わってこなかった。

 

 熱く重たくなった頭を下げれば、顔を滴る液体が床へと落ちる。

 

それが血なのか、もしくは汗なのかも俺には判別できない。

 

身体が重い。鉄の塊を(くく)りつけられたかのように、心まで重い。

 

 身体から流れ出る血液は(とど)まることを知らず、さらにその量を増していく。

 

足が自分の血で作られた沼に浸かっているため、刻一刻と身体が体温を失っていくのがよくわかる。

 

 寒い……寒い。この温かな血の沼に沈めば、凍えるような寒さも少しは緩和されるのだろうか。

 

 目が開いているのか閉じているのかもわからない暗闇の中、すぐそこまで(にじ)り寄ってきていた死神を薙ぎ払うような、青く白い光が視界に映る。

 

どこまでも柔らかく、なによりも暖かく、この上なく優しい光が、俺を縛りつけていた闇を消し去った。

 

「エリー……なのか?」

 

 青い輝きへ右手を伸ばし、この手に収める。

 

ほんの数十分しか離れていなかったはずなのに、ひどく懐かしい気がした。

 

 なぜ、なぜエリーが俺の手の中に戻っているのだ。

 

エリーはリニスさんに捕らわれていたはずなのに。

 

「約束しましたから。あなたに返すと……あなたの元に帰すと。徹の恨みを買うと恐ろしい目に遭うということは学習しました。これだけで許していただけるとはもちろん思いませんが……」

 

 リニスさんの声には凛とした響きが戻っていたが、どこか水気も帯びていた。

 

かすかに鼻をすするような音も聞こえるのだが、これはおそらく俺の気のせいか、それでなければ聴覚までおかしくなったに違いない。

 

 過程はどうであれ、結果としてリニスさんは魔力も余りあり、大した怪我も負っていない。

 

比べて俺は身体も満足に動かせないほどにずたぼろ、勝敗は決していた。

 

窮地で咄嗟に交わした口約束など反故にして、奪ったまま逃亡しても良かったはずだ。

 

 それでも俺にエリーを返してくれたのは、リニスさんが律儀な性格だということもあるが、俺の熱意と健闘が実り、彼女の心を動かしたとも言えるだろう。

 

 いや、そんなことはもうこの際どうだっていい。

 

エリーが俺の元に帰ってきた。その事実があればもうなんだっていい。

 

 エリーを右手で握り、血塗(ちまみ)れの左手でさらに包む。

 

胸元に寄せれば、とくん、とくん、とほのかに魔力が脈動していた。

 

魔力の流れから、エリーが損傷していないことがわかる。

 

 無事だった、エリーが無事だった。

 

死力を尽くしてもなお手が届かぬ相手に挑み、全身に浅くない傷を創り、血と土にまみれて無様を晒し、自身の精神状態さえ操作できずに暴走して道化まで演じたが、それでも……命を賭した甲斐はあった。

 

胸に伝わるエリーの律動を感じるだけで、味わった苦労や苦痛は溶けて消える。

 

 俺はもう、自分の近くにいる人を失いたくはない。

 

あんな思いをするのは、もう……嫌なんだ。

 

 死闘を繰り広げ、負傷した俺を癒すような、エリーの労いの光が身体を覆う。

 

 かつん、かつん、と床を叩く音。

 

リニスさんが歩き近づいてくるのが床の振動と足音で察せた。

 

「徹、忠告しておきます。そんな無茶な戦い方をしていては、いつか大事なものを失いますよ」

 

 いくつか深呼吸を挟んでから、リニスさんが俺に言う。

 

「俺は『いつか』失うものより……『今』失われようとしている、大事なものを、守るよ。そんなの……考えるまでも、ない……だろう……」

 

 途切れ途切れになりながら、それでも言葉を紡ぎ、俺はリニスさんへ返答する。

 

これだけは、嘘でも外連味でも、建前でも意地でもなく、正真正銘に紛れもなく、俺の本心だった。

 

 ちゃんと彼女に届いているかの確認もできぬまま、必死に繋ぎ止めていた意識は薄れていく。

 

水底に沈むような、漠然とした不安を駆り立てる感覚ではなく、母親に優しく抱き留められるような安心できる心地よさが、俺の全身を包み込んだ。


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