この一発で終わらせるつもりだった。寸前まで、本気で打ち抜くつもりだった。腹の中は煮えくり返っていたはずだった。
なのに、俺の拳はリニスさんの顔を逸れ、彼女の背後の壁に打ち据えられている。
俺の八つ当たりのような一撃をぶつけられた壁は放射状に亀裂を伸ばした。
「なぜ……当てなかったんですか?」
「知らないよ。俺も聞きたい。でも理由があるとしたら……リニスさんがそんな顔してるからだ」
壁と俺の間で佇んでいるリニスさんを、目線を下げて観察する。
激しい戦闘によりお互いに服はところどころ破れてしまっているし、埃やなんやで薄汚れてしまってもいる。俺は腕を盾として殴り合っていたこともあり、切り傷や打撲の痕、内出血にもなっていた。リニスさんの色の良い唇の端には、さっきの一撃で内臓器官を傷つけたのか血が滲んでいる。
それだけなら俺の手は止まらなかっただろう。止められなかっただろう。様々な感情に突き動かされていた俺を冷静にさせたのは、彼女の瞳から溢れる透明の雫だ。
戦って勝たなきゃいけない。勝てる絶好のタイミングだった。でも頬を濡らす目の前の女性をこれ以上傷つけたくない。そのアンチノミーの葛藤の末、俺の拳は行きつく先を見失った。軟弱で優柔不断な意志は、折れた。
思わず噴き出しそうになる。自分の意志の弱さが、情けなさが、馬鹿馬鹿しい程間抜けで、一周回って笑えてきてしまう。
覚悟とか、決意とか、意志を貫くとか、そんな耳触りの良い言葉を並べて飾っても、結局俺には『傷つけてでも、大事な人を助ける』なんてことできはしなかった。
自分の不甲斐なさを痛感していると、壁に突き立てたままの右腕に柔らかく温かい感触が伝わる。リニスさんが背中を壁に預けたまま首を傾け、俺の右手に頭を乗せていた。
撫でられた猫のように気持ち良さ気に口元を薄く緩め、目を細めている。瞼を閉じたことで、瞳に溜まっていた雫がまた一つ溢れる。彼女の左目から流れたそれは、俺の右腕にも渡り、一筋の線を描いた。
「なにしてるの」
「さあ、なんでしょうね……」
「なんでそんなことしてるの」
「さあ……? しいて言うなら……あたたかいから、でしょうか」
「そうか」
「ええ、そうです」
リニスさんは俺の腕に頭を乗せてはきているが、それ以上俺に触れることはなく、また俺も彼女に触れようとはしなかった。
数秒か数十秒、一分は経っていない程度の時間黙っていたが、俺は口を開く。
訊かないほうがいい。知らないほうがいい。訊く前から、知る前から後悔するのはわかっているのに、俺は訊かずにはいられなかった。
「なあ、リニスさん」
「はい。なんでしょうか」
「なんで、リニスさんのデバイス……
「あはは……やはり見つけてしまっていましたか。魔法をさも簡単に破壊したり、私が侵入した管理局の電脳に同じように入って手際よく追い出したことから、魔力を特定の対象に送り込むようなことができるのかもしれない、と予想してはいましたけれど。デバイスにまで潜り込ませることができるとは、素直にすごいですし驚きです。そんなことが可能なのですね」
リニスさんはとくに気にした風もなく、誤魔化そうとするそぶりも見せなかった。
非殺傷設定、通称スタンモードと呼ばれるそれは、『魔法を相手の身体に命中させても深刻な傷や障害を残さないための安全装置です』とユーノが以前説明してくれた。その名称通り、相手をスタン――気絶させて身柄を押さえたりするためのもの。外傷すらそうそう負いはしないのだから、生命活動に支障をきたすような攻撃にはならない。
原理や理屈は知らないが、便利な機能だ。どうしても身柄を取り押さえなければならない状況や、勝負で雌雄を決しなければいけない時に、多少の痛みはあるが命を危険に晒すことなく安全に済ませられるのだから。
でも、今ばかりは便利で安全な機能はいらないはずだった。必要ない、はずだった。
リニスさんやプレシアさんがやろうとしていること。彼女たちの行動の裏を、俺は知ってしまった。考えが行き着いてしまった。
最善には決して届かない次善の策。最低限の幸福と、最小限の不幸。一番望んだ結末ではないけれど、現実的に叶えることができる最大限の幸せ。妥協の結果。後ろ向きな願い。歪んだ愛の形。
その話をフェイトや管理局に喋ってしまうと、ここまで丁寧に慎重に積み上げて重ねてきた彼女たちの計画が根底から瓦解する。彼女たちが叶えようとした次善の策が根元から崩壊する。
そうさせないために、プレシアさんの使い魔であるリニスさんは、俺が余計なことを喋らないようにここで黙らせる必要があった。舞台から掃けさせなければならなかった。作戦が頓挫するリスクを減らすために、危険な芽は摘んでおかなければいけなかった。俺という不確定要素を始末するのがリニスさんの役割で、使命で、この場にいる理由だった。
なのに、彼女の放つ魔法は
俺がリニスさんのデバイスに侵入したのは砲撃を浴びる寸前だ。それまでは非殺傷設定をオフにしていて砲撃する直前で設定をオンにした、などと考えるのは無理がある。
すなわち、リニスさんはこの戦闘中、ずっと非殺傷設定で戦っていた。
非殺傷設定を解除するのを忘れていたとか、デバイスの構造上解除できないようになっていたとか、そんな理由じゃない。リニスさん自らの意思で、非殺傷設定にしていたのだ。
それは、つまり。
「俺を殺す気なんて、最初からなかったのか」
「……そう、なりますね」
「なんで……。俺を殺さないといけないって、そうしないと最低限の幸せすら手に入れられなくなるって……」
「そうですよ。絶対に徹を殺さないといけない……殺さないといけなかったんです。あなたを生かしておけば、あなたは自分の信念のまま動いて、私たちの本当の想いを話してしまうのでしょう。みんなで幸せになるという結末を迎えるために。ですが、その『みんなで幸せ』が失敗したら、みんなが不幸になります。そんな危ない橋は渡れないから、ある程度確実性のある『幸せであると断言はできないけれど、明確な不幸ではない』結末を選んだのです」
「それじゃ、なおさらわからない。その結末を選んでいて、しかもまだ諦めてないんなら、なんで本気で俺を殺そうとしないんだ。甘えは捨てる、同情もしない、覚悟を決めたって言ってたのに……」
リニスさんは頭を傾けて俺の腕に頬をつけたまま、目線だけ動かして上目遣いに俺の顔を覗き込んだ。
目線が絡み合う。瞳を通して、俺の心の奥まで見透かされているような感覚を覚えた。
くすり、と彼女は笑みを浮かべる。不自然に大人びた妖艶なものではなく、年相応に幼さを残した微笑みだった。
演技しているわけでもなく、取り繕っているわけでもない。これが彼女本来の表情で、彼女本来の魅力なのだろう。
「人を殺す覚悟なんて……ましてや、あなたを殺す覚悟なんて、できるわけ……ないですよ……」
微笑んだまま困り顔を作ったリニスさんは、俺の反応を眺めながらからかうような口調で続ける。
「どんな魔法を使うよりも簡単な非殺傷設定解除の工程が、なによりも難しかった。やろうと思えば一秒とかからないのに、どうしてもできなかったのです。しかし徹だって、心の底から、私を力づくで倒そうとなんて思えていなかったのではないですか? だからさっき、直前で私を打つのをやめて、今もこうして私と会話している。違いますか?」
リニスさんの言葉を、俺は否定できなかった。
明らかなチャンスがあったのに、リニスさんの顔を見て拳を逸らしてしまった。それは事実であるし、思い返せば思い返すほど言い訳できない材料を掘り出せてしまう。
俺は、率先して人間の弱点である頭部を狙おうとしていなかった。
俺には魔法に関して素質が欠如している。それはアースラで行われた検査の結果からも表れている。砲撃魔法も拘束魔法も発動できるか危ぶまれるほどの惨憺たる数字だったし、射撃魔法は色んなものを切り詰めて戦闘にぎりぎり使えるくらいの水準、防御魔法だって工夫しても簡単に破られているし、飛行魔法に至っては酷過ぎるあまりに術式すら訊いていない。
そんな俺だが魔力付与だけは、平均を上回る数値を出していた。
魔力付与を身体に纏い、しっかりと踏み込んで体重を乗せて頭部に叩き込めば、運が良ければ一発で戦闘の流れを自分のものにできていた。それだけの威力はあると自負している。
なのに無意識に避けていた。
勝たなければいけない、でも傷つけたくない。二律背反する想いで板挟みになって、自覚しないまま行動を制限していたのだ。
覚悟、決意、信念や意志。そんな空っぽの言葉で自分を騙そうとしていたのは、俺もリニスさんも一緒だった。
「そう、だな。そうかもしれない。威勢のいいこと言ってても、やっぱり本心じゃやりたくなかったんだ……」
「ええ。自分に言い聞かせていたのですよ、覚悟などという大層な言葉を借りて。やりたくない、でもやらなければいけない。そんな心の葛藤を使命感で塗りつぶしていたのです」
「…………」
「
「でもどうするんだ。リニスさんは計画を諦めない。俺だって絶対に諦められない。これじゃあなにも変わらない。始まらないし、終わりもしない。宙に浮いた状態だ」
「そうですね。これでは現状は何も変わらない。なので、私は決心しました。踏ん切りがつきませんでしたが、相手が徹なら私も怖くないです。後悔はありません」
「な、にを……言ってるんだ?」
俺の腕から顔を離し、リニスさんは俯いた。
俺は壁に突きつけていた手を離して顔を覗き込もうとするが、影になっていて彼女の表情も真意も窺い知れない。
理解も解釈も追いつかない俺に答えることなく、彼女は続ける。
「それに接近戦では実際押されていましたからね。使わずに勝とうというのは、虫のいい話でした」
「おい、リニスさん! 使うってなんだ、なんの話をしてるんだ!」
淡々と、リニスさんは言葉を紡ぐ。
何もない広い空間に、彼女の凛とした声が満ちた。さっきまでと同じ声のはずなのにとても冷たくて、俺にぎりぎり届く程度の声量なのに腹の底に重く響いた。
薄い氷が張った湖の上を歩くような不安感だけが募っていく。
「フェイトにはアルフがいますから、大丈夫ですよね。プレシアは……少し心配でしょうか。研究に没頭すると時間を忘れるところがありますから。でもフェイトのおかげでプレシアも変わりましたし、問題ないでしょう。かの都でアリシアに再び会うことができれば、多少は落ち着きを取り戻すかもしれません。そんな奇跡、あるかどうかもわかりませんが……」
「リニスさんッ!」
リニスさんの肩を手荒に掴み、揺さぶる。
彼女は、顔を上げない。俺の目を見ようとしない。
「もともと、使い魔として生み出された私の根源としての役割は、フェイトを魔導師として一人前にすることでした。鍛え上げた後は、消える運命でした。ですが純粋で優しいフェイトが、頑なに閉ざされていたプレシアの心を開きました。冷たくあしらわれても、諦めないでずっと語りかけ、ゆっくりとプレシアの凍てついた心を温めたのです。プレシアの心境が変化した時、私の役目も変わりました。家族を守り、助けると」
「リニス……さん……」
きっと彼女は、俺に対して喋っているのではないのだろう。これは独白だ。
思い出が詰まったアルバムを開くように、昔の懐かしい記憶を思い返して確かめているのだ。自分の存在理由や、自分が守りたい場所、一番大切にしたい人を。
「私は稀代の魔導師の使い魔ですから。家族想いで愛情が深く、大切な人のために頑張りすぎて、周りが見えなくなってしまうほど優しい、プレシア・テスタロッサの使い魔ですから……だから……」
ゆっくりと、もどかしいほどゆっくりと、彼女は顔を上げる。
唇は軽く結ばれていて、顔色は青白く、顔貌には生気がない。一切の感情がない、無表情だった。
ただ一点、禍々しい輝きを
俺の頭では理解できない、俺の力では遠く及ばないなにか異常な現象が、彼女の身に起きている。それはわかる。そこまでしかわからない。
動揺し、硬直している俺の目を、リニスさんは壮絶なまでの狂気と苛烈なまでの凄艶さを孕んだ双眸で射抜き、口を開く。至近で見る彼女の歯は、とても鋭利だった。
「私個人の感情も感傷も情調も、この……初めての
リニスさんは、とん、小さく乾いた音を鳴らしながら軽やかにステップして一歩近づくと、俺の頬を両手で挟んで固定する。爪先立ちで背伸びをして、そのまま顔を近づけ、俺の唇に彼女のそれが接触した。
唇に伝わる柔らかい感触と、香水などとは違う女性特有の香り。次々と発生する予測不能・理解不能な出来事に、俺の脳内は処理がまるで追いつかず、思考も身体もフリーズしたままだった。
リニスさんは唇を離すと背伸びもやめて、頬を押さえていた両手を身体の正面に下ろし、俺を、とん、と突き離す。
力は全くと言って差し支えないほど込められていない。だが急に口づけされ、急に押されて、俺は二歩三歩と
リニスさんも俺を突き飛ばした反動で何歩か後ろに下がる。壁に背をつけた。
「『口を塞ぐ』……でしたか。徹の言った通りになりましたね」
刹那――気のせいかもしれないほどの刹那だったが、彼女の表情が普通の少女のように、今にも泣き出してしまいそうな普通の少女のように見えた。
「……権限行使、アクセス。規格、コンフォーム。波長、コントロール。圧力、アジャスト。送力、マキシマム。魔力、サプライ。……
「何を……、うぉあっ?!」
リニスさんが早口で幾つかの単語を呟いた。と同時に、目の前で強烈な爆発が起こる。
爆風に弾き飛ばされて盛大に床を転がり、数カ所ほど身体を削ったところで勢いが収まった。
顔を上げて周囲を見渡せば、ホールの真ん中あたりにいる。かなりの距離を吹き飛ばされていた。何に使われるか全く想像できないが、とにかく広々としたホールのほぼ端から一気に中程まで飛ばされるというのは、いくら構えも何もしていなかったとはいえ、常軌を逸した爆発力だ。
俺を紙か木の葉のように軽々と吹き飛ばした、謎の爆発が発生した
舞い上がっていた砂埃はすぐに取り払われた。建物の外壁部に穴が開いたようで、その穴から外へと排出されたのだ。
煙は晴れ、爆発を引き起こした張本人が姿を現した。
「リニス、さん……あんた、それ……」
思わずこぼれた俺の声は、自分のものと一瞬気づかないほど掠れていた。
心臓が早鐘を打つ。喉は絞られ、呼吸が辛い。視界は狭窄し、彼女以外になにも映さない。手足は小刻みに揺れ、自由が利かない。頭は痺れ、まともに考察することすらできない。
「大丈夫です、徹。何も怖いことなどないですよ。あなたは一人ではありませんから」
さっきのは、爆発などではなかった。急激な魔力の膨張。それに伴う衝撃波。魔法のように型取られていない純粋な魔力の波で、あれほどの威力。
尋常ではないほどに、常識では考えられないほどに、リニスさんの魔力が急激に跳ね上がった。
もとからリニスさんの魔力量は多いほうだったが、今はそれの比ではない。なのはが霞んで見える程だ。とてもじゃないが、人が備えていい魔力の量と圧力ではない。
暴走状態に陥ったエリーや、海上で複数のジュエルシードが融合した九頭龍を前にした時のような、途轍もない圧迫感がある。
その異常さは感覚だけのものではない。外観からでも見て取れだ。
リニスさんの身体の輪郭が陽炎のようにもやもやと揺らめいている。溢れる魔力がその身の中で収まり切らず、体外にまで漏れ出でているのだ。
出鱈目だ。桁が違う。常識の範疇から逸脱している。正気の沙汰とは思えない。人が御し切れる力など、とうに超えている。
直感でそう悟れてしまうほど、人の限界を超越したエネルギーだった。
「たった一人で逝かせるようなことはしません。私が隣に並びます。私が一緒ですから……」
リニスさんは両手を広げ、まっすぐと狂気に煌めく瞳を俺に向ける。声は優しく、口にしている台詞も内容はともかく俺に寄ろうとしたものだ。それがリニスさんの本心なのか、それとも俺を地獄の底まで連れていくための虚言なのかはわからないが、俺には銃とナイフを手にしながら世界平和を唱えているようにしか視えなかった。外見と中身のミスマッチが得体の知れなさを増幅させ、恐怖を助長する。
酸欠で痛んできた頭に空気を送るため、一度二度深く呼吸をする。深呼吸して、ある程度は頭が回り始めてきた。しっかりと現状を認識したことで、さらに現実から目を背けたくなった。
リニスさんはややもすると特に意識していないのかもしれないが、目を合わせられるだけで、ぶつけられるプレッシャーは計り知れないものがある。裸で酷寒の地を歩いているほうがまだ気楽なのではないか、と現実逃避するほど周囲の空気が荒んでいる。空気中に電気でも流れているように、肌にぴりぴりとした刺激が刺さる。
「お、俺は……リニスさんと心中するつもりは、毛頭ないぞ……」
「ふふ、徹はおかしなことを言いますね。あなたにその気があろうとなかろうと、結果は変わりませんよ?」
リニスさんは右手に杖を携え、両腕を広げておもむろに歩みを進める。『飛び込んできてください、抱き締めてあげますよ』と言わんばかりの格好だが、俺の精神状態では力を顕示しているようにしか感じ取ることはできなかった。
オオオォォォ……と、獣の呻き声じみた音が鳴る。精神的に追い詰められて、とうとう幻聴まで聞こえたのかと焦ったが、そこまで俺の心は崩壊してはいないようだ。
音の発生源は、リニスさんの背後。魔力の膨張による衝撃波で、リニスさんが背凭れにしていたホールの内壁に、巨大な穴が穿たれている。その穴から見える光景は一つの光もなく、空間を切り抜いたように漆黒に染まっていた。まるで地獄の門が口を開いているかのようだ。
その真っ暗な地獄の門を背にして、一歩、また一歩と近づいてくる様には、死という概念が形を成して迫ってくるような恐怖と絶望があった。
「どうせ同じなら……痛みや苦しみを感じないほうがいいですよね。抵抗……しないでくださいね?」
そう言って彼女は、俺に杖を向けた。
彼女が手にする杖状のデバイスに魔力が注ぎ込まれ、魔法が起動したのだろう、先端の球体に光が灯る。リニスさんの足元に魔法陣が描かれ、周囲に魔力で構成された弾丸が浮かび上がる。
「は、はっ……ふざけ、んなよ……。こんなところで死ぬつもりなんか……俺にはないんだよッ! 黄泉の国に用はない、付き添い人がいてもお断りだ!」
一時は落ち着いたのに、また戦いは再開される。終わりかと思われた死闘はまだ続く。第二幕が開いてしまう。
落とし所を探したかったが、やはり行き着くところまで行かなければ、終わりはしない。
如何なるロジックで膨大な魔力を手に入れ、制御下に置いているかは全くもって予想できないが、リニスさんが俺を殺す気で来る以上、殺されるわけにいかない俺は戦う他に選択肢はない。
「まともにぶつかったら、砕けるのは俺の方だ……。落ち着け、慌てるな……一発貰えば致命傷なんて、これまでと変わらないだろ」
緊張で急く気持ちを宥めて落ち着かせる。
単純な魔力だけで、この丈夫な建物の壁に風穴を開けたのだ。魔力を圧縮して魔法という型に封じ込めた時、どれほどの威力があるかわからない。射撃魔法といえど、身体に触れれば血肉を撒き散らすことになる。直撃は、なんとしてでも避けたい。
残量の少ない魔力を足に送る。
まずは最高速で疾駆して
「…………あ?」
駆け出すため足を動かそうとするが、とても重い。魔力は限界が近くとも、肉体的なダメージはそれほど大きくない。足にくるような攻撃はまだもらっていないのに、なぜこんなに重いんだ。
疑問に思い、視線を下に向ける。
「な、んだ……これ……」
床から、鎖が生えていた。
床材を食い破って顔を出している鎖は二本。一本ずつ、俺の左足と右足に絡みついていた。
「どこに行こうと言うのですか? 逃がしませんよ……徹」
見覚えのある、身体に馴染むほど見覚えのある鎖。リニスさんの拘束魔法だ。
杖が輝いて、足元に魔法陣が出現した時点で、勘付いて
彼女の魔法展開速度は高速だ。前触れなく始まり、瞬時に終わる。戦闘中射撃魔法は何度も受けたが、魔法陣は出ていなかった。
魔法陣が描かれ、そして描かれ続けているということは射撃魔法以外の魔法が発動したことに他ならない。杖の先端に魔力の球体が現れていないことから、砲撃の線もない。
考えればすぐに答えは出たのに。射撃魔法を当てるために相手の足を止めるなんて、基礎中の基礎だということに。
「こんな、もの……すぐにっ!」
「私が何もせずじっと眺めていると思ってます? 思ってます? ふふっ、そんなわけないじゃないですか。徹はかわいいですね……」
人を圧倒する魔力を放出しながらリニスさんは言う。
暗く静かに語り掛けたり、かと思えば明るく手の動きも交えて声を張り上げたりと、言動が安定していない。なのに俺を殺すという目的は一貫しているのだから始末に負えない。
「言ってろ……この手の魔法の攻略が一番得意なんだよ、俺は」
リニスさんの拘束魔法は、不本意ながら何度も受けた。ハッキングで破壊するまで、さほど時間はかからない。
だがというべきか、さもありなんというべきか、リニスさんは待機状態にあった射撃魔法を射出する。
弾かれるように俺へと殺到する魔力弾は、以前までのものと比較して速度が格段に向上している。数メートル程度の距離からであれば、まず間違いなく以前までの射撃魔法との速度差に対応が追いつかず、貫かれていたことだろう。
しかし今は、身体の各部に擦過傷を負った代償として距離が開いている。冷静にハッキングで拘束魔法に侵入して内部から突き崩し、すぐにこの空間を離れれば回避は間に合う。
経験則から時間を逆算し、どう行動すべきか考える。
これは俺の戦い方の基本の形だ。どんなに可能性が低くてもいくつか案を出し、その中から取捨選択し、一番適したものを選び取る。そうして俺は戦ってきたし、そうしてきたことで格上相手でも善戦できてきた自信はある。
この考え方は、けれども今回ばかりは間違いだった。
「魔力、が……
慣れた手つきでいつも通りに魔力を送り込むが、思うように入らない。厳密に言えば全く入らないわけではないが、愕然とするほど魔力が浸透するのに時間がかかる。
これに似た感覚を、俺は知っていた。九つのジュエルシードが寄り合って生まれた九頭龍。あれにハッキングを仕掛けて封印しようとした時の感覚に著しく酷似している。
しかし、似ているだけで同一ではない。原因も、あの時とはまるっきり異なる。
九頭龍相手の場合は、魔力と魔力の間に水分子が挟まっていて、その不純物が俺の魔力の侵入を阻害していた。今回の場合は魔力の密度がハッキングの侵攻を拒絶している。以前とは比べ物にならないほど圧縮・凝縮された魔力に阻まれ、いくら魔力を潜り込ませても術式に関わる根幹の部分まで届かない。
足に
「くそっ……」
見込みが甘かった。
リニスさんの状態が、魔力の質が、もっと簡単に雰囲気が根本的に変異しているのに今までの経験則を使って計算しても効果などあるわけない。
拘束魔法を破壊できないことで、選択肢の幅はかなり狭まってしまった。
足に絡みつく鎖は解けない。回避することはできない。
俺の誘導弾をリニスさんの魔力弾の射線上に置いて誘爆させようとしても、拘束魔法の変質具合から推察するに意味などないだろう。彼女のものと比べれば、俺の誘導弾など風船と大して変わらない。誘爆もしなければ、緩衝材にもなりはしない。糠に釘、暖簾に腕押し、豆腐に
「後の戦闘にどれだけ影響するか不安だが、仕方ない……っ!」
拘束魔法があれだけ魔改造されていたのだ、射撃魔法も以前の強度とはかけ離れていると見てまず間違いない。
猛スピードで接近する四つの魔力弾へ左腕を突き出し、障壁を展開する。魔力がどれだけ残っているか数える前に、生き残ることが最優先だ。展開するのは俺の持つ最硬の盾、『魚鱗』。
この術式に費やされる魔力が後々自分の首を絞めることになったとしても、安全策に頼りたい。致命傷や重い手傷を受ければ手遅れなのだ。
「あら、徹。ご自慢のハッキングで鎖を壊して抜け出さないのですか? これが得意だとか息巻いていましたが」
拘束魔法が未だ健在で、腕を魔力弾に向けて腕を伸ばしている俺を見て、リニスさんは俺がハッキングを使っての脱出を諦めたことを悟ったのだろう。狂気に輝く瞳に、嬉々とした色が混じった。声も弾んでいる。
「うるさい、俺の勝手だろうが。ちょっと黙っててくれよ」
「拘束を解けなかったから防御に回るのでしょうけど、それが正解とは限りませんよ? 一番の悪手かもしれません。それでもまあ、どんな選択を取ったところで過程が少し変わるというだけで、同じ結末を迎えるのですけれど」
リニスさんは自信満々、余裕綽々といった風に腕を組む。畳み掛けて襲いかかってくるような挙動はない。
捕縛の鎖が二本、魔力の弾丸は四発。いくらなんでも俺を仕留めるには攻撃の数が少なすぎる。なのにリニスさんはさらに魔法を使おうとはしない。
油断か慢心か、それとも他に策があるのかはわからないが、これは俺にとって都合がいい。多重複合障壁で魔力弾をやり過ごし、並行作業で鎖を破壊する。少し予定は狂ったが、そこからは作戦通り足で撹乱し、隙を見て接近戦に持ち込む。
そう頭の中で次にどう動くか組み立て、射撃魔法に対峙する。
四発の魔力弾のうち、先頭の一発が障壁に触れた。直後、見立ての甘さを再度痛感することになる。
「射撃魔法一発の……破壊力じゃ、ない……」
術式を書き換え、防御範囲の代わりに密度を上昇させて耐久性を向上させた密度変更型障壁。それをいくつも展開し、かつ四層に重ねたものが多重複合障壁群『魚鱗』だ。
俺の持つ手札のうちで最も防御力が高く、その性能は至近距離からなのはのディバインバスターを防ぎ切ったほど。リニスさんの砲撃にだって、第二層まで破られはしたが耐えた。
俺が誇るその術式の第一層を、たった一発の射撃魔法が爆ぜ飛ばした。どころか、二層目にも亀裂が入っている。
向こうの弾数は残り三発。対してこちらは無傷で三層目と四層目が残っているといっても、既に二層目までダメージを受けている。
見込みが甘かったことは理解したし、これならば絶対に防げると盲目的に信じ込み、思索することを放棄していたことも反省はしている。
しかしこれは、あまりにも。
「くっ、ぐぅっ……」
二発目、三発目が着弾する。障壁の二層目は剥がれ落ち、三層目は砕け散った。四層目には深々とクラックが走っている。辛うじて魔法の展開を維持しているような状態だ。
最後の防壁、もはや死に体の四層目に、魔力弾が迫る。
「やっぱり……悪手でしたねっ」
障壁が割れ、貫かれた時の甲高い破砕音と、リニスさんの声が重なった。
障壁を貫通した魔力弾は、気持ち失速はしたものの、弾道はほぼ逸れることなく俺に向かってくる。
「規格外すぎるだろ……なにもかも、全部……ッ!」
咄嗟に左腕に魔力付与を集中させて盾にする。みしっ、という不快な音が腕から伝わる。
速度が落ちてもなお、それは重く、腕に食い込んでくるようだった。払い除けるように腕を振り、最後の一発を弾き飛ばす。
数瞬のあと、鎖へのハッキングがようやく完了し、煩わしい枷を外すことができた。
自由を取り戻した両足で床を蹴り、飛び退って距離を取る。
「あら、耐えましたか。強度を見誤りました。思ったよりも頑丈ですね」
「っ……。それは、なんの冗談だ。嫌味か、皮肉か、当て擦りか? たった四発で木っ端微塵になる障壁のなにが頑丈だ」
「いえいえ、心からの言葉ですよ。純粋に感心しているのです。今の私の魔力がたらふく込められている射撃魔法を、徹の素質で防げるなんて思いませんでしたから。素直に褒めているのですから、喜んでいいですよ?」
「皮肉じゃないことはわかった。自己陶酔だ」
「陶酔でも自惚れでもないですよ? もう、失礼しちゃいますね。現状の戦力を正確に見積もっているだけです。私、徹が思っているほど性格悪くないですよ?」
「はっは……そうかい。どうやら俺とリニスさんの間には認識に差があるみたいだな……」
魔力弾が当たった部分を押さえながら、頬を上気させて高揚した様子の彼女に相対する。
左腕は、まだ動く。動くこと自体に問題はないが、じんじんとした痛みが神経を苛む。
ずたぼろの障壁が勢いを緩め、魔力付与で左腕を強化したおかげで左腕はまだくっついているが、どちらかの要因が欠けていれば腕を喰い千切られていてもおかしくはなかった。普通の障壁を張っていたら間違いなく、既に死んでいる。
安全策に逃げたおかげで生き延びれたことになるが、それでも素直に喜べる気分にはなれない。相応の魔力を支払って発動させた最硬の防壁が、たった四つの魔力弾で破壊されるに至ったのだ。この事実は俺の心に重くのしかかり、暗い影を落とす。
加えて、左腕に負った傷。腕自体は動かせるが、それだけだ。おそらく亀裂骨折を起こしている。骨と骨がまだ完全に離断していないので動かすこと自体はできるが、力が入らない。拳を打ち据えることはおろか、手を握り込むことすら満足にできない。ユーノから治癒魔法の術式は教えてもらったが、ユーノでさえ骨折箇所の治療には時間がかかっていた。俺ではどれだけ時間がかかるかわからない。せいぜい痛み止めがいいとこだ。
防御行為自体意味をなくされ、攻撃手段を一つ、潰された。頼みの綱のハッキングすら思うようにできなくなっている。
目に見える速度で、足場を切り崩され追い詰められているのを実感する。
だとしても、突き進むしか俺にはできない。
潤沢な魔力によって、リニスさんの身体能力は相当上がっているはずだ。もう、死角や隙の多い箇所に誘導弾を撃ち込んでも、俺程度の適性値では怯ませることもできはしない。
足に力を込め、神経を研ぎ澄ます。左腕を潰されたとしても、勝つためには近づくしかないのだ。
正面から向かっても反撃されるだろう。ここは『襲歩』を使って回り込んで、反応される前に攻撃するのが一番確率が高い。ごくわずかとはいえ、唯一勝率がある。『襲歩』の連続使用に懸念がないわけではないが、そのくらいの綱渡りを渡り切らなければこの人に勝つなど、みんなで幸せな結末を迎えるなど、夢のまた夢だ。
「そうそう、驚かせてくれたご褒美をあげないといけないですね!」
重心を傾け、筋肉を駆動させる寸前、リニスさんが口にした。
「数秒間、私は動かずにいましょう。あまり甘やかすのもいけないので障壁を一枚張りますが、それ以外は魔法も使いませんよ」
「なんの、つもりだよ……余裕か? 圧倒的な力を手に入れたから、雑魚に等しい俺を見下してんのか?」
「違いますよ、全然違います。言ったじゃないですか、ご褒美だって。ちゃんと私の話聞いてくださいよぉ」
「それでなんだ? 抵抗せずに殴られて負けてくれるってのか?」
「少し違いますね。ご褒美として時間をあげるのです、絶望する時間を。全力全開であらゆる手を尽くし、私を倒すために全身全霊をぶつけてください。私はそれを余すことなくこの身で受け止めます」
「どこまでも上から言ってくれる……。そんなことして、リニスさんになんの得があるっていうんだ」
「得ならありますよ。抵抗されたままでは一緒にイくことができませんからね。ほら、やっぱりできることなら一緒がいいじゃないですか。なので力の差を身体で理解してもらって、生に対する執着をすっぱり断ち切ってもらおうと!」
「何をしても絶対に勝てない、と絶望して膝を折ったところで一緒に死のうってか。身勝手だな……傲慢だ」
「どうとでもどうぞ。すぐに私の言葉の意味がわかるでしょう。それでは、スタートですっ!」
リニスさんは杖を真上に投げた。あの杖が手元に落ちてくるまでが、ご褒美の時間のタイムリミットなのだろう。
「後悔させてやるよ……」
予定変更。『襲歩』にて一直線に彼女まで結ぶ。
右の拳に加速の力も乗せて、彼女へ向かう道の邪魔になっている障壁へぶつける。
「……悔なら……と、してい……」
拳が障壁と接触した。衝撃と音が同心円状に広がり、ホールを満たす。リニスさんの声は衝突の際の爆音に塗り潰されて、俺の耳まで届かなかった。
「処理が……重い」
「速くしないと時間がなくなりますよ」
覚悟はしていたが、やはり拘束魔法同様、魔力を流し込みにくい。
それでも強引に密度の高い魔力を掻き分け、術式の根幹部分に辿り着き、魔法の維持に関する項目を狙って乱していく。
弱体化させたところで手を離し、足を振り上げる。いつもなら左手で触れてハッキング、右手で破ってそのまま攻撃というのが定番だが、左手が使えない今、足しか連携させることができなかった。
「くそっ、硬すぎるだろ……」
「ひびが入るだけでも賞賛物ですが」
ハッキング後の蹴りでも、障壁を破壊するに至らなかった。
力を抜いていたわけではない。蹴破ってそのままダメージを与える心算でさえいた。だというのに、亀裂を与えただけにとどまった。
本来の強度より著しく脆弱化させて、この結果。思わずめげそうになったがすぐに持ち直し、肘を突き出して踏み込む。
三撃目にしてようやく彼女の障壁は砕けた。
飛び散る暗褐色の破片に光が反射する。きらきらと返る輝きに、俺はどこか違和感を感じた。
「やっと障壁突破ですね。ですがご褒美タイムは折り返しですよ? 持てる力の全てをぶつけてくださいね」
「……ご期待に応えてやるよ」
ちらりと視線を頭上に向ければ、投げられた杖はホールの天井すれすれで止まり、重力に押し戻されて高度を下げ始めるところだった。
彼女は折り返しというけれど、まだ時間は半分ある。これだけあれば俺の底力を見せつけるには充分だ。
「これを受けても、その涼しい顔を保てられるか?」
残り僅かな距離を一息で潰す。力強く踏み込み、右の拳をリニスさんの胸のど真ん中に触れるか触れないかくらいまで近づける。
俺が持つ技のレパートリーの中で、破壊力においては最大値を叩き出す『発破』を使う。全身を使って力を生み出し、集約し
今までに感じたことがないほど大きく、濃く集められたエネルギーは滞ることなく、俺の拳を伝ってリニスさんへと送られる。人の身体から発せられる音とは思えない音が発せられた。
「どうだッ! これが俺の、全身全霊の一撃だッ!」
常人であれば、いや決して常人にこんな人体破壊行為などしないが仮に受けたのが常人であるとしたら、上半身の風通しが抜群に良くなるだろう威力だった。それだけの手応えがあったし、身体の中で力を通して増幅させた感覚もこれまで使った中で一番あった。
問答無用の掛け値なしに、最高の仕上がりの一撃だった。
「そうですね、素晴らしい一打でした。次はどんなものを見せてくれるのでしょうか」
だからこそ、彼女のセリフには俺の心を真っ二つにへし折るだけの絶望があった。眉一つ動かさない彼女の姿には、俺の気力を挫くだけの恐怖があった。
紛うことなき俺のフルパワーの一撃は、彼女にダメージを与えるまでに至らなかった。