東方夜行曲 ~料理長の備忘録~   作:北屋

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久しぶりの投稿。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。


備忘録の始まり

曇り空。

血を零したように真っ赤な夕焼けが西の空を染め上げている。

人の時間は終わりを迎え、東からやって来た夜の青が空を刻一刻と覆っていく。

黄昏れ。

その語源は誰ぞ彼。夕闇に撒かれて人の姿かたちが曖昧になる時間。

……なんて、これはパチュリーの受け売りだけど。

人の時間が終わりを迎え、夜を行く者が目を覚ましだす。

ここからは私たちの時間。

だというのに、お姉様ご自慢の庭先にいるのは夜の住人だけじゃなくて。太陽がどれほど傾いても、ここだけはぼんやりとした明かりに照らされてほのかに明るい。

提灯やら蝋燭やら、ともすれば鬼火や魔法の光球まで。

参加者の個性を表すかのような明かりは、もちろん一つ一つは控えめで柔らかいけれど、ここまでたくさん集まってしまっては少し眩しいような気持ちさえする。

そんな風に思いながら、そっと、辺りを見回してみる。

私の家族に、見知った人。見覚えのある妖精に妖怪、話にしか聞いた事のない神様や仙人。

話に聞いた、大宴会はきっとこんな具合なのだろう。それから、隅っこの方にいる一団は人間……なのかな? 見た事もない人たち。

きっと、今までの私の人生の中で出会った人妖を全部合わせても、ここのいる人たちの半分にも満たないんじゃないだろうか。

これもあの人の人柄によるものなのかな。

でも、館の裏庭に集まったみんなは、誰一人笑顔を見せることはない。

 

「それでは、はじめましょうか……」

 

全員の前に立ったお姉様が小さな声でそう呟いた。

全員が姿勢を正し、お姉様の方を……ううん、より正確に言うのならば、お姉様の隣に置かれた黒くて大きな箱に目を向けた。

途端に目を伏せる人たちが何人も現れる。お姉様が厳かな調子で何かを続けるけれど、内容はあまり入っては来なかった。

お姉様の話の途中で、最初に耐え切れなくなったのは魔理沙だった。

トレードマークの帽子を目深にかぶり直し、顔を覆っているけれど、小刻みに震える体は誤魔化しきれていない。少しもしない内に零れ落ちた雨だれが地面に染みを作り始めた。

博麗の巫女は気丈で、人前で涙なんて見せたりはしない。けれど、その顔はいつになく……それこそ、初めてうちにやってきた時とは比べ物にならない程に真剣そのもので、握りしめた拳は真っ白になってしまっている。

いつの間にかお姉様の話が終わっていた。

みんながそれぞれ花を手に、黒い箱の前に一列に並ぶ。

白い花を、箱の中に入れるのが本当なんだって。でも、今日、参加者が手にしているのは色も種類も、何もかもがちぐはぐな花。

赤青黄色、白に紫。バラの花からユリの花、スズランに果てはヒマワリまで。

控えめに一輪、花束に、何をどう勘違いしたのかブーケまで。

黒一色の……あの人らしい色をした箱の上には次々と花が積まれて、瞬く間に殺風景な箱の上は色とりどりに彩られていく。

さながら小さな花畑。

そういえば、送り出し方も随分揉めたっけ。

人里のお寺さんに、ご存じ博麗、それから山の上の神社に……結局はお姉様が強引にまとめたみたいだけど。

しきたりや様式なんて知った事かと言わんばかりの無茶苦茶な様子は、けれど、あの人が望んだ事。

何て我儘な人なんだろう。

しんみりなんてしないで欲しいとか、恥ずかしいから顔は見せたくないだとか。他にもいっぱい。

普段はそんなに口うるさくない癖に、こんな時だけ注文が多い。

これだから人間は。

だけど、出来るだけひっそりと送ってほしいってお願いだけは聞いてあげられなかったな。

残念だけど、それはあなたの日頃の行いが招いた事だよ。反省してね?

なんて。

次は私の順番。

黒い箱の上に一輪のバラをのせてあげる。

鮮やかな紅色の、この館にぴったりのバラの花。

ねぇ、覚えてる? いつだったか、美鈴とあなたと一緒に、花壇の手入れをした時の事。

あれから私も、こっそり美鈴にお花の事とか教えてもらったんだよ。

 

「うっ……」

 

不意に、嗚咽が聞こえてきた。

私の後ろに並んでいた美鈴が、ついにこらえ切れなくなったみたい。

あなたとは苦労人同士? 気が合うみたいだったし、仕方がないよね。

でも美鈴、そんなに泣いたら、せっかくの美人さんが台無しだよ? あの人もしんみりしないでって言ってたよ?

今にもその場に崩れ落ちそうな美鈴を、咲夜がそっと支えた。

さすがはメイド長。いつも通りのすまし顔で、所作はどこまでもそつがなくて、瀟洒そのものだ。でも、そのお目々が真っ赤になってるのは自分でも気づいてないらしい。きっと、お得意の時間停止でも使って、こっそり泣いてるんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

やがて、箱に火が放たれた。

魔法の火はあっというまに箱を覆いつくす。

光が強すぎて燃えている様子を視認することは出来なかった。あまりの眩しさに目を閉じてしまいそうになりながら、それでも堪えて燃え続ける炎を見続ける。

 

 

 

 

ぱちぱち、と。火の爆ぜる音が聞こえる。

そこに、鼻をすする音や、しゃくりあげる声が混じっていた。

パチュリーは私と同じく、眩しそうに燃える炎を見つめている。違うのは眉間に刻まれた深い皺。無表情は相変わらずだけど、やりきれない思いは隠す気もないらしい。

その横では、小悪魔がぼろぼろと大粒の涙を流しながらわんわん泣いていた。悪魔の眷属がそんな調子で本当に大丈夫なのか、ちょっとだけ彼女の将来が心配になってくる。

 

 

そんな中でも、お姉様は、涙一つ、哀しそうな様子一つ見せずに、淡々と式の進行に徹している。

あの人と過ごした時間は、その実、紅魔館で一番多かったはずなのに。

長く生きてる分、人間との別れには慣れちゃったとか?

それとも、人間の事なんてなんとも思ってないとか?

……ううん。そんなことないって、一番知ってるのは私だ。

本当に泣きたいのは誰なのか、私はちゃんと知っている。

お姉様はこの館の主だから、人前で取り乱すわけにはいかないんだ。

それを冷たいって思う?

結局は自分の面子が大事なのかって?

 

そんな事を口にするような奴は、私が八つ裂きにしてやる。

 

お姉様の心の中は、本当の意味ではお姉様にしか分からない。

でも、姉妹だからなのかな。考えている事は何となく分かる。

レミリア・スカーレットは、咲夜や美鈴、そしてあの人の主で、パチュリーの友人で、そして私のお姉様で……どうしようもないくらいに、この館の主だ。

ここで取り乱してしまえば、それは従者や友人、家族の恥になるって、そう考えている。

そんな事を思う人なんて、この場には誰もいないっていうのに。

ううん。きっとお姉様はきっと、一人になったとしても取り乱すことも、所作の中に悲哀をにじませる事もないだろう。

何て頑固で偏屈で、何て誇らしい姉なのだろう。

 

みんなが見守る中で、弱まった炎がひときわ黒い煙を噴き上げた。

あの人がいつも身に着けていた色は、微かな風に吹かれただけで揺らいで、そして夜の闇の中に溶けて消えた。

 

「あ、」

 

火が、消える。

あの人がいなくなる。

そう思った。思って、しまった。

 

「あ、あぁ……あぁ!」

 

ずっと、必死でこらえてきたのに。

自分だけは何でもないようにって。あの人との約束を、ちゃんと守れるようにって。

だから考えない事にして、見えないふりをして、なのに、

 

「あ、あぁぁぁ……」

 

ダメだ。

堪えろ。あの人に約束したじゃないか。

私は、フランドール・スカーレット。誇り高き、レミリア・スカーレットの妹だ。

従者との約束一つ守れないなんて、そんな事はあっちゃならない。

それなのに、私の意思なんて無視して、声にならない声は止まらない。

視界がどんどんぼやけて、足元が覚束なくなってくる。

ダメだ。こんなんじゃ、ダメだ。

振るえる私の体を、不意に柔らかな感触が包んだ。

 

「お、姉様?」

 

私の体を抱きしめていたのはレミリアお姉様だった。

こんな私を見て、だけど、お姉様は何も咎めはしなかった。ただ、薄く微笑んで、

 

「フラン」

 

私の名前を呼んでくれた。

風が、吹いた。

火で炙られた、温かな風だった。

あの人の掌のような、優しいぬくもりに満ちた風だった。

それは彼の最期の挨拶のようで、

 

「う、あああああああああああ!」

 

こらえきれなくなった私はこれまでにないくらいに大きな声で泣いた。

哀しくて、辛くて、でもどうしようもなくて。

どうしていいか分からない私を、初めての感情を受け止めきれない私を、お姉様はただただ黙って抱きしめてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

窓から見える空は赤く染まっていた。

それを映す湖も同じ色で、ひどく幻想的な光景だと、そう思った。

沈み始めた日の寿命は酷く短く、こうしている間にもどんどん地平線に飲み込まれていく。刻一刻と変わり続ける光景は飽きというものを感じさせず、出来る事ならばこのままずっと見続けていたいくらいだった。

 

「いけないいけない」

 

しばし足を止めて窓の外に見とれていた彼は、はっとしたように呟いて、軽く頭を振った。

呆けている場合ではない。今は仕事中なのだ。

自分に言い聞かせて、再びワゴンを押しながら廊下を進む。

昔はそうでもなかったのに、最近はどうにもふとした事に心を動かされる事が多くなったように思う。これが歳をとるという事なのかと、そう思い苦笑した。

窓ガラスに映る自分の姿には若さは感じられない。

白く染まった髪が、ひと際それを物語っていた。よくよく見れば肌も荒れている。目元に浮かんだ隈は恐らくもう二度と取れる事はないのだろう。

ちょっとした事で息が上がるのもしょっちゅうだし、昔ほど機敏に動く事も出来なくなっている。

 

「はぁ……」

 

仕方がない事と、ちゃんと分かってはいるが、どうにもこうにも割り切るのには時間がかかりそうだった。あるいは、割り切れるようになるまでに、自分に残された時間は足りないのかもしれないが。

 

「りょーりちょー!」

 

「のわっ!?」

 

廊下の曲がり角、不意に横から飛び掛かってくる影が一つ。

考え事をしていた所為か、もしくは感覚が鈍くなっている所為か、身構える間もなく彼女のタックルをもろに受けて倒れてしまった。

 

「あたた……お、おはようございます。フランドールお嬢様」

 

「おはよう、料理長!」

 

 

料理長と呼ばれた彼にのしかかるような姿勢で、彼女は満面の笑みを浮かべる。

嬉しそうに覗き込む少女と目が合った。

紅玉を思わせる瞳は、見つめるだけで飲み込まれそうな程に美しかった。

 

「っ……、今晩はお早いお目覚めですね」

 

魂が抜け出るような、あるいは魂が蕩けてしまうような、ある種の酩酊にも似た感覚を寸でのところで振り払う。

恐らく彼女に悪気は一切なく、それどころか何かをしたという気すらもないのだろう。だが、彼女の存在自体が、人間にとっては脅威そのものなのだ。

金の髪に紅玉の瞳。見た目こそは、幼さを残した少女。なれど、この幻想郷においては見た目とその本質は一致しないのが常である。

背にあしらった、宝玉の実る異形の翼。口元に僅かに覗く白い牙。

吸血鬼。

それが彼女の正体であった。

 

「んー、何か目が覚めちゃったんだけど、そしたら美味しそうな匂いがしてきて……」

 

「なるほど、私の所為でしたか。申し訳ございません。レミリア様、フランドール様のお食事はまだ準備中でして……」

 

起き上がりながら、支給品の懐中時計を開いてみる。

針は、主達がいつも目を覚ます時間のきっかり2時間前を指し示していた。

 

「ふーん……じゃあ、これは?」

 

彼女の目が、ワゴンに乗った皿に向く。

それを見て、料理長と呼ばれた彼は苦笑を浮かべて、

 

「あぁ、これは、パチュリー様にお菓子とお茶を。メイド長が手を離せないとの事で、代わりに私がお届けに」

 

「料理長が? そんなの、妖精メイドに任せればいいのに」

 

「そうしたいのも山々なのですが、一度、お届けするはずのお菓子がなくなっていたという事件がございまして……」

 

「あー……」

 

困ったような顔をする料理長を見て、フランドールは納得がいったという風に頷いた。

メイドの仕事をしているとはいえ、妖精は妖精である。美味しいお菓子を目の前にして、我慢がきかなくなるというのは分からない話ではなかった。

 

「そっか。なら、私も一緒に行ったほうがいいね」

 

「え? それは……あぁ、なるほど」

 

料理長は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたかと思えば、すぐに悪戯っぽく笑う彼女の申し出の意味を理解して、芝居がかった動作でその場に跪く。

 

「では、フランドール様。申し訳ありませんが、どうか非力なこの私めを、図書館までお守りしていただけませんでしょうか」

 

「よろしい! 責任をもってパチュリーの所まで無事に送り届けるよ。代わりに、」

 

「はい。フランドール様にもお茶とお菓子をお渡しいたします」

 

 

 

 

 

「失礼いたします」

 

「たのもー!」

 

無事、特に何事もなく図書館に辿り着くと料理長は控えめに声をかけた。しかし間髪いれず、その横でフランドールが場違いな大きな声をあげる。

 

「フランドール様、それでは少し意味合いが違うのでは?」

 

「え? そうなの? パチュリーから借りた本にこういう風にするって載ってたよ?」

 

「何の本を借りたのですか、それは……」

 

「今度読む? 面白かったよ」

 

と、他愛もない会話をしながら図書館を進む二人の前、本棚の影からひょっこりと顔を出す少女が一人。

 

「あれ? 料理長さん……妹様!? 一体どうしたんですか?」

 

「こんばんは、小悪魔さん。パチュリー様にお茶とお菓子をお届けにあがりました」

 

恭しく頭を下げる料理長に、釣られて小悪魔と呼ばれた彼女も頭を下げた。

紅い髪に、蝙蝠か何かの羽を頭から生やした少女である。当然、彼女もまた人間ではない。

 

「そうですか。パチュリー様でしたらこちらに。ご案内しますね」

 

「お願いします」

 

薄暗い図書館の中をふよふよと飛びながら先導する小悪魔に続き、料理長とフランドールが続く。

飛べない料理長の事を考えてか、小悪魔の進むスピードは非常にゆっくりで、フランドールに至っては飛ぶことすらしようとはしなかった。

その心遣いが嬉しい反面、少しだけ寂しいような哀しいような、なんとも言い表しようのない感情が料理長の心の中に湧きあがった。

人間の、自分の時間は彼女たちとは比べ物にならない程に短い。彼女たちにとって一瞬にも等しい間に自分は老いていく。

仕方がない事ではあるが、だからこそやりきれないものがある。

この館の主に拾われ、仕えるようになってからそう長い時間は経っていないにも関わらず、しかして自分は昨日より今日、今日より明日、明日より……どんどん役に立つことが出来なくなっていく。それが不甲斐ない。

従者の身でありながら、仕えるべき方々にいらない気遣いを強いてしまう。それが許せない。

ならば自分はどうすれば良いのか。

随分長らく考えてみたが、凡そ正しいと納得できる答えは出ては来なかった。

 

「パチュリー様。お茶とお菓子をお持ち致しました」

 

鬱々と悩んでいる間にも、時間は進む。

図書館の奥深く、専用の机に陣取った少女は、面倒くさそうに視線を彼の方に向けた。

病的なまでに肌の白い、どこか気だるげそうで、それでいて確かな知見の深さを感じさせる少女。

図書館の魔法使い、パチュリー・ノーレッジ。

 

「あら、料理長。相変わらず酷い顔色ね」

 

「こればかりは、いかんともし難いものでして」

 

苦笑を浮かべて一礼をすると、料理長は机の上にティーカップを置き、手慣れた様子でお茶の準備を進めていく。

温かな紅茶と、それから大きめの平皿に整然と並べられ様々なクッキー。

全て、料理長が材料から選び、自ら仕上げたものである。

 

「うん。紅茶の淹れ方も随分と腕が上がったようね」

 

「恐れ入ります」

 

紅茶を一口飲んで、パチュリーはほっと溜息を一つ。

近くの大きなテーブルについた小悪魔も、紅茶を飲みながら気の抜けたような表情を浮かべていた。

 

「クッキーは相変わらず美味しいよね。何か秘密でもあるの?」

 

クッキーを一つ齧って、フランドールが問いかける。

 

「さぁて……秘密、という程のものはありませんよ。なるべくレシピに従って、あとは状況に応じて若干の調整をしながら作っているだけです」

 

「そうなの?」

 

「えぇ。ですが、そのレシピと調整は料理人によってそれぞれです。同じ料理であれど、十人の料理人がいれば十のレシピが存在します。それが秘密といえば秘密なのかもしれませんが」

 

「ふーん。じゃあ、そのレシピを教えてもらえれば私にも作れるかしら?」

 

「そうですね……もちろん練習は必要になりますが、フランドール様であれば、私の作る物よりももっと美味しい物を作る事も可能かと」

 

「それは言い過ぎじゃないかしら?」

 

今まで黙って話を聞いていたパチュリーが、クッキーを摘まみながら口を挟んだ。

 

「料理の事は分からないけれど。こういうのってセンスが必要なんじゃないのかしら?」

 

「いえ、まぁ、それはそうなんですが。ですが、練習にどれほどの情熱と時間を費やしたかが物を言うのは、どの技能も同じですよ」

 

「あなたが言うと説得力に欠けるわね。元々料理人でもない癖に」

 

「これは手厳しい」

 

睨むようなじっとりとした視線を受けて、料理長はまたしても苦笑を浮かべた。

 

「そこは、まぁ、私の作る料理の味が丁度、紅魔館の皆様方に大変評価いただけたということで。運が良かったんです……と、話を戻しましょう。私の事はともかく、こういった技能には、なるほど、確かにセンスは重要でしょう。ですが、才覚に頼っているだけでは限界というものがありまして」

 

「限界?」

 

「はい。才を奢って研鑽を怠ればそこまでです。才は十、百の研鑽があってこそ輝くもの。その点、私めはしがない人間ですが……」

 

「なるほど。練習にかけられる時間はフランの方が勝る、ってこと?」

 

料理長は恭しく頭を下げて見せた。

 

「むー」

 

「おや、いかがされました、フランドール様?」

 

そんな料理長の様子を、面白くなさそうに見つめる少女が一人。

 

「そんなのつまらない」

 

「はい?」

 

料理長が首を傾げると、フランドールは口を尖らせて、

 

「私がお菓子作り上手くなった時、料理長は私よりもおいしいお菓子を作って見せてよ。そしたら私ももっと勉強して、もっと練習して、もっと美味しいお菓子作るから」

 

「え?」

 

「ずっとずっと、料理長は私を楽しませてくれなきゃ嫌だよ。料理長は、ずっと私たちの料理長なんだから」

 

「フランドール様……」

 

その時、料理長が浮かべた表情が何だったのか。

泣きそうで、笑いそう。悲しみと楽しみが同じくらいに同居した顔の意味は、フランドールにはその時理解できなかった。

ただただ、彼女は忘れていた。

それは知らなかったと言い換えても良い。

だが、気づいていながらも、パチュリーも、料理長もその誤りを指摘することはしなかった。

 

「そんなお言葉を頂けるとは、光栄の極みでございます。不肖、この料理長、精いっぱいに努めを全うさせていただきます」

 

感極まったという風に、彼はいつにもまして丁寧に頭を下げた。

 

「む。りょーりちょー、そんなに畏まらないでよ」

 

「いえ、そういう訳には」

 

九十度、直角に腰を折り曲げたまま料理長は答える。

 

「そんなに畏まられてもくすぐったいってば」

 

「ですが……」

 

そんなやり取りを続ける二人をどこか楽しそうに見ていたパチュリーは、ため息を一つ。

面倒くさそうに、しかしわざとらしく懐中時計を開いてみせた。

 

「そろそろ食事の準備をする時間ではないかしら?」

 

「え? あぁ、もうそんなお時間ですか。では、失礼いたします」

 

「じゃあね、パチュリー。さ、行こう、料理長」

 

フランがふわりと浮かび上がり、料理長の手をとり、図書館の出口に向かって進みだす。

彼女に手を引かれる形で、料理長もそれに続いて歩き出した。

 

「フランドール様?」

 

「料理長。今日のご飯のメニューは何かしら?」

 

「そうですね……」

 

「私も何かお手伝いさせて?」

 

「え? それは、」

 

「ねぇ、いいでしょ?」

 

「そうですねぇ……メイド長とお嬢様にお伺いを立ててからでないと」

 

「えー」

 

「勘弁してください。私が叱られてしまいます」

 

来た時と同様に取り留めのない会話をしながら去っていく二人の後ろ姿を、パチュリーは微笑ましいものを見るような目で見送った。

しかし、彼女の視界から二人が消える寸前、彼女の目から優しさが消え去る。どこか冷めていて、愁いを帯びた瞳だった。

それは一瞬の事。フランドールと料理長の背中が見えなくなった時、彼女の視線は再び読みかけの本へと戻っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、と」

 

羽ペンを置いて、今書き上げたばかりの文章に目を通す。

こういう文章を書くのは初めてだけど、我ながら、なかなか上手く書けたように思う。

さて、自分で書いておいてあれだけど、これは一体何なんだろう?

思い出しながら書いている上に、私の体験だけじゃなくて本人や、人伝に聞いた話が混じっていたりして、その分補正や覚え違いがあって……だから、とても記録なんて言えない。

日を追ってつけているわけでもないから、日記とも違う。

物語というのも少し違う。だって、彼は確かにここにいたのだから。あの人は、おとぎ話の登場人物なんかじゃないんだ。

 

「うーん……」

 

こんなに長く机に向かったのはいつぶりだろう?

もしかしたら初めての事かもしれない、なんて思いながら伸びを一つ。

机の端っこに置いておいた木箱に手を伸ばす。

そっと蓋を開くと、オルゴールの音色が、地下室に響く。一人の夜に相応しい、静かな澄んだ調べ。

夜想曲。彼によく似合う曲だなんて、そう思った。

箱の中に詰め込まれたお菓子の中から一つ、クッキーを取り出して口に放り込むと、バターの香りと、優しい甘さが口の中に広がって、思わず顔がほころんだ。

咲夜に無理逝って拵えて貰ったこの箱の中は、時間の流れがとっても遅い。こっそりため込んだお菓子も、ほとんど出来たてのままでずっと保存が出来る。

あの人の作ったものを、今でもこうして口に出来るなんて、物凄い贅沢なんじゃないだろうか? こればっかりはお姉様にも教えてはあげられない。

 

「ずるいわね」

 

瞬く間に口の中から消えてなくなったクッキーの後味をしっかりと味わいながら、小さく呟く。

人間は、狡い。それに嘘つきだ。

約束一つ守らないで、すぐにいなくなる。

その癖、人の心の奥深くにまで踏み込んでくる。

そして、私達は人間よりも長く生きる。その分、色々な物を見て、聞いて、知って……その分、色々な事を忘れていく。

いつの日か、私もお姉様も、あの人の事を忘れてしまう日がくるのだろうか。

それはきっと、とても悲しいことだ。

覚えている限り悲しみは消えず、忘れてしまっても新しい悲しみを生む。

本当に、人間はなんて身勝手なんだろう。

 

「……そうだ」

 

パチュリーからもらった分厚いノート。今しがたまで文字を書き連ねていたそれの表紙に、新たに文字を書き込んだ。

……うん。これだ。

 

「備忘録」

 

人間は、忘れてはいけない事を記してメモをそう呼ぶらしい。

少し意味合いが違うのかもしれないけれど。これ以上、それらしい言い回しも見つからないし、当面この名前で通すことにしよう。

オルゴール箱のお菓子が無くなるのが先か、それともあの人のエピソードが尽きるのが先か。それとも飽きるのが先かな?

案外、これが最初で最後の執筆だったり?

 

まぁ、ともかく。

気が向いたらこれからもあの人の事を書いていこうと思う。

 

料理長の備忘録

 

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