かたかたと、窓ガラスが音を立てる。
季節は秋。つい先日までの暑さは鳴りを潜め、日が落ちれば思いのほかに冷え切った夜気に驚かされる時分。
少し前までならば、風の心地良さに目を細めたものだが、今の自分の老いさらばえた肉体には堪えるものがある。
そんな事を考えながら、彼は自室の窓辺に置かれた椅子に腰かけた。
窓枠が十字に切り取った空には,煌々と輝く月が浮かんでいる。月齢9前後だろうか。上弦よりもぷっくりと膨れたそれは、手を伸ばせば届きそうな程に大きく見えた。
椅子とワンセットになった小さな机の上には、開いた状態の懐中時計とホットワインの注がれたカップ。
銀時計の盤上では、長針と短針が間もなく天辺で一つに交わろうとしている。
普段ならば、もう既にベッドにもぐりこんでいる時間ではあるが、今晩ばかりはあんまり月が綺麗すぎて、珍しく少しだけ夜更かしをしたい気分になったのだ。
「ふわぁ……」
思わず欠伸が漏れた。
ひと昔前ならば、このくらいの夜更かし、なんてことはなかったというのに。近頃では一挙手一投足に体の衰えを感じる。
残された時間はどれほどのものなのか。そんな考えが、ふとした拍子に頭をちらつく始末だ。
「ダメですね……」
苦笑を一つ、そんなつぶやきを零す。
そんなネガティブな事を考えていては、ましてや少しでもそんな事を主の前で口にしようものなら何を言われるか分かったものではない。
主を怒らせるなど、従者の風上にも置けぬこと。
それに、こればかりは、悩んでも仕方がないことでもある。
人間がどれだけ頭をひねったところで、ましてやじぶんのようなちっぽけな人間が考えたところで、この漠然とした不安が拭い去られる事はない。その時が来るとすれば、それはこの心臓が止まる時だけだろう。
あるいは――人間でなくなるか。
かちり、と。
秒針の進む音が静まり返った室内に響いて、我に返った。
無意識に懐中時計の蓋を閉じて、表面を指なぞる。時計に描かれた複雑な紋様は、この持ち主が何者であるのかを、変わらずにきっちりと示していた。
すなわち、この身は血の一滴にいたるまで主の持ち物である、と。
ならば、残された時間がいかほどであろうとも、その使い道は決まっている。
「さて、と」
そこまで考えて、彼は思考を放棄した。
小難しい事を考えるのは昔から苦手な性質だ。それよりも今は、この見事な月を相手に晩酌を楽しむ方が遥かに建設的である。
そっとカップに触れると、じんわりとした熱が掌に伝わってきて心地いい。立ち昇る香りを十分に楽しんでから一口。赤ワインと、それからシナモンの香りが、熱と共に体中にしみ込んでいく。
理屈ではなく、生きているとはこういう事だと、そう思った。
綺麗なものを見ながら、美味しいものを味わい、それからゆっくりと眠る。これに勝る幸せなどあろうものか。
もちろん、主や上司、同僚といった紅魔館の面々と過ごす時間とて楽しいと感じてはいる。お客様が来てくれた時も(暴力事には辟易するが)騒がしくなるのは嫌いじゃない。
だが、たまにはこうして一人きりの時間が欲しくなる。
幻想郷に来る前からの習慣によるものなのか、もともと持って生まれた習性なのかは分からないが、ともかく自分はそういう人間なのだ。
耳を澄ませば遠くから聞こえてくる秋の虫の大合唱を聞きながら、月を見上げ、ワインをもう一口。
こん、こん、と。
扉が叩かれる音が聞こえた。
「はい?」
こんな時間に誰だろうか。
反射的に返事をするが、扉は開かない。
首を傾げながら腰を浮かせかけると、
「こんばんは、料理長。夜分にごめんなさい」
「わっ」
目の前に、メイド服姿の少女が現れた。
そう、現れた、としか形容が出来ない。何せ彼女のそれは瞬間移動のようなもので、神出鬼没もいいところ。
下手をすればこの館にプライベートなどなくなりそうなものだが、その辺は彼女もきちんと考えてくれている。
毎回こうして驚かされるのは少し心臓に悪いが、きちんとノックをして返事を聞いてから入ってきてくれる。
普通に入ればいいのではとも考えないでもないが、瀟洒な彼女のちょっとしたいたずら心、彼女なりのコミュニケーションだと思えば、別に実害があるわけでもなし、別段構う事でもない。
「あぁ、メイド長。どうしました?」
来訪者はこの館に自分よりも前から使えるメイド長。
所属部署こそ違うが先輩であり、上司にあたる人物、彼女を前にして背筋が自然と伸びるのを感じた。
「お嬢様がお呼びよ」
「は。すぐに」
反射的に立ち上がり、緩めていたシャツの襟もとを正す。
僅かなりとはいえ、お酒が入ってしまっているが、こればかりはいまさら如何ともしがたい。
それよりも今は一刻も早くお嬢様のもとに向かうことを優先すべきだろう。
我が主は誇り高く、自由闊達。とはいえ、用もなく、ましてや時を選ばずに配下を呼びつける暴君では決してない。
何か自分の仕事に不備があったのか。あるいは夜食をご希望なのだろうか。
様々な憶測を巡らせる内に、自然と顔が引き締まる。
「どうでもいいのだけど、誇り高く自由闊達って、見栄っ張りで気紛れってことかしら?」
「え? いや、決してそんな……って、メイド長、読心術もお使いに?」
「読心? さぁ、私はどうでもいい話をしただけだけど?」
メイド長に先導されて主の部屋に向かう道中、そんな会話を交わした。
「お嬢様。料理長をお連れ致しました」
「咲夜、ご苦労様」
メイド長が扉を開けた先、置かれた玉座に腰かけ不敵な笑みを浮かべる主がいた。
銀と蒼の境目のような淡い色の髪。白磁の如く透き通る美しい肌。怪しく輝く紅玉の瞳は、比べてしまえばいかなる宝石も色醒めて見えることだろう。
まだ幼さを残す顔立ちをしながらも、彼女はどこまでも美しかった。
纏いし存在感は少女のそれに非ず。
その在り様はまさに夜を統べる王。
吸血鬼、レミリアスカーレット。
料理長がこの世で唯一忠誠を捧げる相手であった。
「こんばんは、料理長。今夜は良い月の夜ね」
「は。お嬢様」
料理長が跪き、頭を下げようとする、が彼女はそれをやめるように身振りで示した。
「そんなに畏まらないで頂戴。あなたの性分なのは知っているけれど、顔を合わせる度に跪かれていては。自分の館なのに気が休まらないわ」
「申し訳ございません、お嬢様」
「別に謝る必要もないの。まったく、あなたという人間は本当に面倒くさいわ……」
呆れて苦言を呈しながらも口元が緩んでいるのは、料理長の向ける混じりけなしの敬意に満足してのものだろう。
こそばゆく思いながらも、それはそれで嬉しいらしかった。
「さて。まずはこんな時間にあなたを呼び出した訳なんだけど」
「はい。いかがいたしましたか? あ、まさかお夕食の件でしょうか。隠し味にお嬢様の嫌いなお野菜をいれてしまったことでしたら、申し訳ありません、より美味しい料理をお作りすべく夢中になってしまい……」
「え、そうだったの?気がつかなか……じゃなくて!私に嫌いな野菜などある訳がないでしょう! 咲夜!こっそり笑うのをやめなさい!……いいえ、別にそんな話ではないわ」
「それでしたら、お夜食でしょうか? 少しお時間いただければすぐにでもご用意いたします。先日ご好評を頂きました、ラムレーズンのパウンドケーキなどいかがでしょうか?」
「そうね、あのケーキは美味しかったわ。濃い目の紅茶と合わせて……こほん。そうじゃないわ。別の用事よ……でもケーキは明日また作って頂戴」
「別の用件、ですか?」
料理長は首を捻るが、それ以上、思いつく限りでの用件は出てこなかった。
「えぇ」
頷いてから、レミリアは窓の方に視線を向ける。
釣られて料理長もそちらに顔を向けると、窓の外には先ほどまで彼が見ていたのと同じ、綺麗な月が浮かんでいた。
「もうすぐ満月の夜が来るわ」
「はい」
今宵の月は膨らみ、丸みを帯びてはいるがまだ満ちてはいない。
完全な円を描くのは三日後のはずだ。
「次の満月の晩は月を見ながらの宴会をすることになったの」
「宴会、ですか。場所は、」
「あぁ、今回は紅魔館ではなくいつも通り博麗神社よ。霊夢に魔理沙、七色の人形遣い。それから月の連中や鬼……結構な人数が来るそうよ」
「なるほど、ではそれに合った料理をお作り致します」
主の言わんとしている事をくみ取って、料理長は首肯する。
彼の頭の中には既に何通りもの宴会料理のレシピが浮かんでいた。
「理解が早くて助かるわ。でも、今回は少し違うの」
「違う、とおっしゃられますと?」
「今回の料理には季節感が欲しいの。よって、秋の食材をふんだんに使っていて、お酒によく合う料理をお願いするわ。そう、それから、ありきたりな料理じゃなくて、インパクトがあるとなお良いわ」
「秋の味覚ですか、それにインパクト……」
料理長は顎に手をやって、考え込む。
見れば彼の眉間にはうっすらと皺さえよっていた。
当然である。何せ、今考えていたレシピが悉く使用不可になったのだ。加えて、期限は三日、宴会当日の事を考えられるのは正味二日しかない。
中々に難しい案件である。
「頼んだわよ、料理長」
料理長の心境を知ってか知らずか、レミリア・スカーレットは薄く笑みを浮かべて見せる。
頼み、と口では言っているが、それはお願いではなく命令に等しい。
しかし同時に、彼女が浮かべる表情が、配下への信頼の笑みだと、料理長には分かっていた。
だからこそ、彼の持つ答えは一つきり。
「畏まりました、お嬢様」
†
愛用の羽ペンを置く。
思ったよりも筆が進んだ……つもりだったけれど、まだ話は続きそう。あの人の話はまだまだ一杯あるのに、よりにもよって何でこんな長い話を選んでしまったのだろう。
まぁ、上手くまとまりそうな話で一番最初に思いついたのがあの宴会の事だったのだから仕方がない。
全く、お姉様の無茶ぶりも困ったものだけど、それにハイハイ頷いちゃう料理長もどうかと思う。
あの人は本当にお姉様のカリスマ?に傾倒していたみたいだけど、割とポンコツなところを知らなかったのかな?
知っててあそこまで真面目な尊敬を向けていたのなら、それこそ凄い事だと思うのは私だけ?
そんな事を思いながら、冷めてしまった紅茶を一口、それからオルゴール箱の中から取り出したお菓子を口にする。
ラムレーズンをはじめにクランベリーやオレンジピール、それからクルミが入ったパウンドケーキ。
しっとりとした生地にどっしりした食べ応え。なのに、上品な香りと甘さで、いくらでも食べられそうな気になってくる。
流石はお姉様もお気に入りだった逸品だ。
ちゃんとレシピは教わってるし、この後作ってみようかな。
それで、うん。
続きはその後、また気が向いたら書こうかな。